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おかあさんのミカターー変わる子育て、変わらないこころ

「子育ては楽しい」のワナ

 「子育ては楽しいですか?」

 乳幼児健診や子育て中の親への意識調査で、必ずこの質問がきかれるようになったのはいつ頃からでしょうか。あなたが小さなお子さんを育てている方なら、どう答え、そのときどんな気持ちがこころの中で動くのを感じるでしょうか。

 私は1990年代に二人の娘の子育てをし、あとはそれぞれの背中を見送ればよい地点にさしかかりました。今なら二十年前を振り返って、「あの時は楽しかったなぁ」と思い出せる場面はいくつも浮かびます。でも、子育てが楽しかったかと問われると、二択や三択で答えられるような単純な営みではないと言いたくなります。子育て中の当時はなおさら、このありふれた質問に出会うたびに、むくむくと、違和感と反発がこころの奥から湧き起こるのを感じたものでした。

 1990年代といえば、まだインターネットもスマートフォンも一般には普及していない時代です。必要な情報は人づてか出版物から得るのが主な方法で、書店には天使のように微笑む赤ちゃんを表紙にしたカラフルな雑誌が並んでいました。ちょうど1990年に「一・五七ショック」という言葉がメディアを賑わしたことを覚えていらっしゃる方もいるかもしれません。出生率低下を食い止めたい政府は、国民に危機感を抱かせ、若い女性に「子どもはかわいい」「子育ては楽しい」というイメージを浸透させて、子どもを産みたい気持ちになってもらおうという作戦を開始した頃だった・・・と後から合点がいくのですが、もちろん当時そんなことは想像のはるか彼方です。「子育ては楽しい」と答えるのが当然という暗黙の前提は、多くのお母さんのこころを縛りつけていたように思います。

 私自身の例に戻ると、母親になって最初に感じた言いようのない居心地の悪さのようなものは、今でもありありと思い出せます。出産した病院から自宅に戻ってまもなく、親戚はもちろん、近所の年長の女性が次々と訪れて、「今が最高の時ね!」「幸せでしょう!」と祝福してくれたのですが、それらの言葉のシャワーは、どうしても私のこころにすっと入ってきませんでした。無事わが子と出会えたことへの感謝の気持ちは人一倍もっているつもりでも、「母という幸せ」は絶対的な価値であり、その価値を傷つけるような言葉は一切発するなと言われている気がして、何か違うと感じながら、ただ黙って笑顔でいるしかなかったのです。

 私の抱いた違和感や息苦しさ、封じ込められたさまざまな感情は、おそらく現代を生きる多くの女性が母親になったときに遭遇する普遍的なものの一部であろうと思います。母親であるということは、自分の人生の一部であってすべてではありません。母子保健の領域では、母親と乳児の関係をハネムーン期の恋人同士にたとえた「母子カップル」という言葉がありますが、一日のほとんどを言葉の通じない乳児と二人きりで過ごす生活は、大人のカップルの幸せな蜜月とはほど遠い経験です。喜びもあるでしょうけれども、この時期の女性にとって、母親になる前の自分を喪失した寂しさや戸惑いもきっとあるはずなのです。

 思い返すと、私は幼い頃から、人が見ている世界ではなく見えていない世界に関心をもち、人が語る言葉よりも語られない反面に耳を澄ますようなところのある子どもでした。小学校の頃、人がいつか「死ぬ」ことに気づいて、毎夜、自分の人生のさまざまな終わりを空想することに夢中になっていた時期があります。もし、当時の私のこころの中で展開している物語を大人が覗き見たとしたら、変わった子どもだと思うか、心配されたことでしょう。でも、死の側から自分の人生を眺めるのは、私にとって尽きない魅力を感じる内的世界の冒険でした。

 その後、私は大学で臨床心理学という学問に出会い、人の意識は無意識という広大で深遠な海に浮かぶ氷山の一角に過ぎず、意識と無意識、自我と自己、といった二極の相克を通して、人は一生をかけて「個」としての自分になっていくのだという人間観に触れ、そのようなプロセスに寄り添う仕事をしたいと考えるようになったのです。臨床心理学の「臨床」とは、死の床に臨む(付き添う)という意味です。まさに死の側から、病の側から、闇の側から、一般的にはネガティブとされる価値の側から、人間をまなざし、理解しようとする視座(見方)を意味しています。私は大学院に進み、実践家になる訓練を何年か受けたのち、子どもの療育教室、精神科病院、大学付属の相談室や現在の職場である大学の学生相談室などで三十年以上にわたって心理士(カウンセラー)として働き、今に至ります。

 そのような、人のこころに寄り添う仕事に携わる者の責務の一つとして、私は、自分自身の子育てや、多くの女性の語りに耳を傾けてきた経験のなかから、母親になるという主観的体験のありのままを、もっと言葉にして伝えていきたいと考えるようになりました。

 この連載を始めるにあたって、私はクローゼットの箱の中で眠っていた娘たちの育児日誌を掘り出し、読み直してみました。育児日誌といっても、おそらく一般に想像されるような、かわいい赤ちゃんの写真やイラストが散りばめられたロマンティックな日記とはほど遠いものです。二人とも産休明けから赤ちゃんホームと保育所に預けてフルタイムで働いたので、重要なのは、預け先の先生方にわかるように、いつ眠り、何cc母乳やミルクを飲み、どんなウンチがどれくらい出たか、体温は、といった健康上の細かい情報の記載でした。月齢が進むと、どんな姿勢が取れたか、どんな言葉が出たか、家族やお友達とどんなやり取りがあったかを知らせる交換日記のような内容になっていきます。とくに長女の場合は、阪神・淡路大震災で避難先の保育所にお世話になった半年を含め、ほぼ二歳まで、一日ももらさず成長の様子が記されていました。

 何よりも驚いたのは、健康優良児と言われた娘たちが、なんてしょっちゅう感染症で熱を出し、湿疹が出、病院へ行き、ぐずって泣いていたかという事実です。毎日外出し、他の子どもと接触するので無理もないのですが、「そんなに小さいうちから預けるからだ」という誰かの言葉が脳裏に響いていたことをぼんやり思い出します。さらに、かかりつけの小児科の先生には「やせすぎ、もっとミルクを」と叱られ、助産師さんには「体重が増えなくても母乳だけを」と指導され、私にとって子育ての最初の数年間は、楽しいどころか、小さないのちを育てる重圧に押しつぶされないよう右往左往しながら、必死に取り組む日々の連続でした。

 「子育ては楽しい」というイメージは、一度はまると抜け出せないワナのようなものだと改めて思います。もちろん、子どもが大好きで、子育てを心底楽しんでいる人がいることを否定したいわけではありません。もし子育ては「楽しくない(こともある)」と答えたら、いずれ子どもを虐待すると思われるのではないかと不安になったり、子育てを楽しめない自分は母親失格だという罪悪感を抱かされたりしてしまうような、社会からの暗黙のプレッシャーに気づかず支配されることが恐ろしいのです。

 2020年を迎えようとする今日、子育てをめぐる政府の施策や子育てに用いられるツールもずいぶん変わりました。最も大きな変化は、インターネットが生活の隅々に浸透し、人々がモバイル端末を肌身離さず持ち歩くようになったことでしょう。最近は、レストランで談笑する大人たちの傍らで、幼児や小学校低学年ぐらいの子どもが膝の上に置いたタブレットに見入っている光景をよく目にします。電車の中で、ベビーカーに乗せられた赤ちゃんがスマートフォンで動画を見ている光景も同様です。公共の場でしばしの間わが子に静かに遊んでいてもらうのに、新しいツールの効力は絶大のようです。また、モバイル端末があれば、親はどこにいても必要な情報にすぐアクセスできます。旅行先でわが子が急に熱を出しても、近くの小児科が瞬時に検索でき、評判まで読むことができます。

 一方、スマホやタブレットを子どもに与える「母親」に対して人々が向けるまなざしは、一世代、二世代前と何も変わらないのではないでしょうか。絵本を読み聞かせる代わりに電子絵本を与えて画面をスワイプさせるなんて、と。そして多くの母親も、周囲に迷惑をかけて厳しいまなざしに遭うことを避けるためにそのようなツールを子育てに使う自分に後ろめたさを感じ、罪悪感と密かに闘っているのです。

 無意識に「母親とはこう感じるもの、こうあるもの」という美化された幻想に縛られているほど、子育ては息苦しいものになっていきます。子育て支援の現場で若いおかあさんたちと話していると、その状況は今もあまり変わらないように感じます。例えば、「女性には母性本能があるから、男性よりも子育てに向いている」「お腹を痛めて産んだ子なら、可愛いはずだ」「三歳までは、母親の手で育てるのが一番である」といった、いわゆる子育ての「常識」を信じている母親は想像以上に多く、また私が挙げた常識リスト(科学的な根拠のない世間の通念)のうち多くを信じているおかあさんほど、子育ては「つらい」と吐露します。

 未来を生きる子どもたちが健やかに育っていくためには、何よりも、育てる側の大人のこころが自由で、豊かで、生き生きとしていなくてはなりません。そのためには、まず私たちが「おかあさん」に対して無意識のうちにもっているミカタ(見方)を問い直し、それがどこから来るのかを理解することが必要です。またそういったまなざしに囚われて、一人ひとりの母親が自分自身に対してもってしまうミカタについても、もっと別の視点から見直すことが必要でしょう。

 子育ての方法はどんどん変わっても、人が母親というものに対して抱く思い込みや、母親自身が体験するこころの世界はそう簡単に変わりません。それらをできるだけ丁寧に言葉にしていくことを通して、おかあさんのミカタを問い直したいというこの連載の試みが、子育て中のおかあさんやおかあさんを取り巻く少しでも多くの人々のミカタ(味方)となり、ふっとこころが自由になる瞬間を共有してもらえたらと願います。

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著者略歴

  1. 高石 恭子

    甲南大学文学部教授、学生相談室専任カウンセラー。専門は臨床心理学。乳幼児期から青年期の親子関係の研究や、子育て支援の研究を行う。著書に『臨床心理士の子育て相談』(人文書院、2010年)、『自我体験とは何か』(創元社、2020年)、編著に『子別れのための子育て』(平凡社、2012年)、『学生相談と発達障害』(学苑社、2012年)、『働くママと子どもの〈ほどよい距離〉のとり方』(柘植書房新社、2016年)などがある。

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