世界思想社のwebマガジン

MENU

おかあさんのミカターー変わる子育て、変わらないこころ

おっぱいのしもべ?―近づきすぎるとそれしか見えない

 いくらテクノロジーが発展し、子育てを楽にする機器や情報が周りに溢れるようになっても、授乳(おっぱいをあげること)だけは母親が昔と変わらず生身で行わなければいけません。出産という一大事を終えたと安堵するのも束の間、生まれたての赤ちゃんが小さな口をあけて「ほぇぇ」とぐずりはじめると、奥の方から衝き上げてくる乳汁の勢いに乳房がツンと疼き、女性は自分のからだの一部が自分のコントロールの及ばないリズムを刻み始めたことを実感します。そして、ここから、母親になった日本の女性の多くは、巷に溢れる「至福の母子像」の実現を目指して、「おっぱい」をめぐるさまざまな努力を始めることになります。一時期よりも少し緩やかになったとはいえ、社会から母親への「できるだけ母乳で育てるように」という期待は、絶大な力をもっています。

 一方、パートナーとの大人の時間を重視する欧米の国では、胸の形が崩れるのを防ぎ、ベビーシッターに赤ちゃんを預けてカップルで出かけやすくする意図から、授乳は産後の短い期間で終わらせ、人工乳に切り替えるのが一般的です。最もラディカルな個人主義のライフスタイルをとるフランスでは、無痛分娩で出産し、新生児の時期から粉ミルクを与え、別室に寝かせるのが普通です。母乳にこだわっているとお姑さんに叱られるなど、国際結婚してフランスでお産と子育てをする日本人女性は、大きなカルチャーショックに遭遇することが多いようです。

 20年ほど前、海外で子育てする日本人女性のブログがインターネットを介してリアルタイムで読めるようになったころ、書物では知っていた異文化の子育てが「本当だったんだ!」と、妙に納得したのを覚えています。海外生活経験をもつグラフィックデザイナーの女性が、各国で子育てした日本人女性を取材してまとめた『母乳を捨てるフランス人、ヘソの緒に無関心なアメリカ人』(江藤亜由美著、雷鳥社、2017年)などを読むと、受け継がれた信念や習慣の部分は、世代を経てもなかなか変わらないことがわかります。

 さて、この「おっぱい」問題に関して私自身はどうだったかというと、最初は“出ない、痛い、泣かれる、泣ける”という格闘の連続でした。

 自然分娩で、産後は母子2人の病室で1週間過ごしたのですが、入れ替わり立ち代わり、助産師さんや看護師さんが訪れて熱心に授乳指導をされました。全く出ないわけではありませんでしたが、わが子のお腹を満たすには足りず、長く吸い付かれているうちに乳首は擦り切れ、授乳は私にとって至福の時間どころか、激痛に耐え、情けなさに泣けてくる、修業のようなものだったのです。

 退院して自宅に戻ってからも、産休が明けて職場に復帰するまで私の困惑は続きました。おっぱいが足りないと知ると、心配したお義母さんが「鯉こく」(鯉を輪切りにして味噌で煮込んだ地方料理で、母乳の出がよくなると言い伝えられている)を作ってやって来て、栄養価の高い食事をたくさん摂るようにと勧めます。一方、病院の検診では、医師から「増えすぎた体重をもっと減らしなさい」と、食餌制限を言い渡されるという具合です。そこで「痩せないといけない」と周囲に嘆くと、「おっぱいを出せば痩せるはず」と返されるのです。

 ともかく「なんとかして母乳をもっと出さないと」という思いで、先輩ママに紹介された桶谷式の母乳育児相談室に通うことにしました。仰向けの状態で受ける手技(しゅぎ)による施術はとても気持ちよく、助産師さんが熱い蒸しタオルで温めた私の乳房をもみほぐすと、天井に向けて凄い勢いで乳汁が噴出するのは驚きでした。しかし、指導はとても厳しいものでした。粉ミルクはもちろん、ほ乳瓶もダメ、母乳が足りないなら白湯をスプーンで飲ませなさい(哺乳瓶の柔らかい乳首に慣れると、母親の乳首から飲む努力を赤ちゃんがしなくなるという理由です)、と徹底しています。私は昼夜を問わず、授乳のたびに、その前後でわが子の体重を赤ちゃん専用の体重計で量り、何グラム分飲めたか(換算して数十ccです)を記録していました。家族が寝静まった深夜、暗い部屋の隅の電気スタンドの灯りの下で、新生児をあやしながら量りに載せたり下ろしたりしている当時の自分を今の私が見たとしたら、きっとその大真面目な様子に苦笑することでしょう。

 何度か通って、あまり進展がなかったからか、相談室の助産師さんは私に桶谷そとみ先生の治療院へ行くことを勧め、予約を取ってくれました。桶谷そとみさんは、第二次世界大戦中、母乳が足りず栄養状態が悪いために亡くなる赤ちゃんを一人でも多く救おうと、独自の乳房マッサージ法を確立し、戦後はその技術者養成と母乳育児支援に生涯を捧げた助産師です。夫も私も好奇心は旺盛なほうだったので、2時間ほどかかる少し遠方でしたが、一緒に車で出かけることにしました。たとえて言えば、フロイト派の精神分析治療を受け始めたクライエントが、創始者のフロイト先生の家に行くような気分だったかもしれません。

 着いたところは、立派な門構えの和風の家屋でした。忘れられないのは、通された畳敷きの狭い部屋で、痩せ細った赤ちゃんと必死の表情をした女性がひしめいていた光景です。おかあさんたちが、母乳だけで育てたい一心で、治療を待っているのです。

 ようやく私の順番が来て施術台に横になり、手技を始めた桶谷先生(当時80歳)が発した言葉は、「何? この膿みたいなおっぱいは!」でした。もちろん言いっぱなしではなく、その後に指導と励ましが続くのですが、要点は、母親たるもの、食事をはじめ生活のすべては「よいおっぱい」のために統制しなくてはならないということで、今のあなたは落第だと宣告されたような気がしました。数週間後に職場復帰を予定していた私にそんな生活は不可能だとわかっていたので、打ちのめされることはありませんでしたが、治療院の待合所の光景は、何か宗教性を帯びた非日常の世界のように私の心に焼き付けられました。

 誤解のないように補足すると、私は桶谷式の指導が問題だと言いたいわけではありません。それよりも、指導を100パーセント遂行しようと必死になる受け手のほうの思い込みがどこから来るのかが疑問で、もっと考えてみたいのです。なぜ、赤ちゃんを痩せ細らせてまで、母親は努力を続けようとするのでしょうか。私の知り合いには、赤ちゃんが脱水症状を起こして救急搬送された人もいます。

 私は復帰した職場で子育て支援の共同研究に加わる機会があり、そこでいろいろとわかったことがありました。長女が生まれた1990年代初めは、ちょうど「完全母乳育児」という言葉がわが国の母子保健の領域で最高潮に飛び交った時期だったのです。

 その背景には、1989年にWHO(世界保健機構)とユニセフ(国連児童基金)が「『母乳育児の保護、促進、そして支援』をするために、産科施設は特別な役割を持っている」という共同声明を発表し、「母乳育児を成功させるための10か条」を制定したということがありました。これは、衛生環境や食糧事情が厳しい地域で生まれ育つ赤ちゃんと母親の健康を守るために、全世界の産科医療と新生児医療に携わる人々に母乳育児の推進を呼びかけたものです。そこには、「医学的な必要がないのに母乳以外のもの(水分、糖水、人工乳)を与えない」「赤ちゃんと母親が1日中24時間、一緒にいられるようにする」「ゴムの乳首やおしゃぶりを与えない」といった条文が明記されていて、それらの条件を満たす施設を「赤ちゃんにやさしい病院」と認定する活動が始められたのです。

 清潔な水が入手できず粉ミルクを安全に使用できない、粉ミルクを買い続ける経済的余裕がない、といった貧しい地域や国では、母乳は赤ちゃんの命を守る最大の資源です。また、母乳育児をすれば次の妊娠が抑制され、母体の回復と妊産婦死亡率の低下が期待できるなどの効果も見込めます。桶谷式の指導と同様、ユニセフの活動は、もともとは生命の保護(生きられるかどうか)という切実な次元で発想され、具体化されたものと言ってよいでしょう。

 ところで、乳児の死亡率が世界でも最も低いうちに入るわが国では、この活動はユニセフの本来の意図とは少し違う、母乳育児の再評価という意味合いを強くもって受け入れられました。国のレベルでは、第二次世界大戦後に導入された欧米式育児への反発があったでしょう。また、「おっぱい」への憧憬が強い伝統的な日本文化と、学業や仕事で努力して達成することを学んだ現代女性のメンタリティが結びついて、「完全母乳育児」は母子保健に携わる人々や母親に熱く受け入れられたのだと私は理解するようになりました。

 しかしながら、核家族で子育てするのが一般的な今の日本において、この方法には土台無理があります。母親になった女性すべてにちょうどよい分量の母乳が出るなんていうことはありえず、昔は、足りなければ近所の授乳中の女性から「もらい乳」をしていたのです。私自身もそうやって育ったと聞いています。昭和30年代(西岸良平の『三丁目の夕日』の世界)、よその赤ちゃんにおっぱいをあげるおかあさんの姿は珍しくありませんでした。

 コップの回し飲みさえ衛生上の問題として忌避される近年では、もらい乳のような母親同士の助け合いは復活しようがありません。そんな中で「母乳だけ」にこだわると、母子の距離がうまくとれず、おかあさんは「おっぱいのしもべ」になってしまいます。赤ちゃんが欲しがるタイミングで、欲しがるだけ母乳を与えようとすれば、常に母親はわが子のそばに仕え、気配を感じ取れるよう努めなくてはなりません。そうして距離が近づきすぎると、「おっぱい」しか見えず、子育ての全体が見渡せなくなるのではないでしょうか。

 何事にもプラスとマイナスがあるものですが、母乳育児も同様です。母乳育児の負の側面などと言うと、医学的には「ない!」と断言されそうですが、こころの面からは、多様な見方が可能です。いずれも、「母親にしかできない」ということから派生する、「私にしかできない」「私だけができる」という心理と関係しています。

 一つは、おっぱいのしもべになるあまりに、結果的に夫を子育てから遠ざけ、男性が父親になっていく成長の機会を奪ってしまうということがあります。また、もともと夫婦関係に潜在的な亀裂がある場合、夫との距離を置く合理的な理由として母乳育児が使われ、さらに亀裂を広げてしまうということも考えられます。

 もう一つは、なかなか離乳や卒乳ができず、結果として子どもの成長を阻害するということがあります。1歳半ばを過ぎ、自我が芽生えてくると、子どもはお腹がすいているからではなく母親に甘えたいとき、わがままを通したいときに「おっぱい」を要求することを覚えます。このとき、母親にとって授乳が自分の存在意義を確認する方法として大きな意味をもちすぎていると、わが子の自立を促し、一人でいられることを励ます代わりに、要求を受け入れ、依存を助長する可能性が生じます。「おっぱい!」と言えば母親が来てくれることを知っていて、子どもが母親をコントロールする関係ができてしまうのです。

 もし、このエッセイを読んでくださっているあなたが、「おっぱい」という子育ての大問題と格闘しているようなら、いったん距離を置いて眺め直してみることをお勧めします。大木の幹にとまっているセミには、木の全体像は理解できません。多文化に視野を広げて、あるいは過去や未来に視点を飛ばしてみると、何が大切かは全く違って見えてくるのではないでしょうか。

 私は、最初こそたいへんでしたが、世代や文化の違う先輩ママに教えられたことをいろいろ試してみる経験を通して、自分とわが子に合うおっぱいとの付き合い方をほどなく見つけることができました。

 一番の手がかりは、産休明けから娘を預かってくれた保育ママ(市から委託を受け、自宅で乳児を保育してくれる子育て経験者)の「どんな方法でも栄養が摂れるようにしておきましょう」という助言でした。母親が働き続けるためには、赤ちゃんの環境適応力を伸ばすことは必須です。どこでも、誰からでも、どんな乳首や哺乳瓶からでも、スプーンでも、また微妙に違う味のものでも、飲めるに越したことはありません。助産師さんや小児科医の指導も参考に、粉ミルクを足すときは、母乳のほうがおいしく感じられるよう標準より薄めにしたり、ミルクのがぶ飲みを防ぐために、しっかり吸わないと出てこない特殊な形状をした固めの乳首や、穴の小さい乳首などを取り混ぜて使ったりしました。一度にたくさん出てくれない母乳は職場で絞って持ち帰って活用し、疲れている夜は添い寝の状態で授乳して“寝落ち”することもありました(子育ての教科書にはダメだと書かれています)が、それはそれで心地よい時間だったと思い出します。そうこうするうちに、9か月ほどして自然に母乳も出なくなり、おっぱいは卒業となりました。

 余談ですが、ドイツから帰国した友人に「日本では味噌汁(や鯉こく)だけど、あっちではビールだよ」と聞いて、さっそく喜んで実行してみたけれど、わが子のテンションがちょっと上がってはしゃぐだけで母乳は増えずがっかり…なんていうこともありました。これは、子育てに特効薬を期待してはいけない、という教訓かもしれませんね。

バックナンバー

著者略歴

  1. 高石 恭子

    甲南大学文学部教授、学生相談室専任カウンセラー。専門は臨床心理学。乳幼児期から青年期の親子関係の研究や、子育て支援の研究を行う。著書に『臨床心理士の子育て相談』(人文書院、2010年)、『自我体験とは何か』(創元社、2020年)、編著に『子別れのための子育て』(平凡社、2012年)、『学生相談と発達障害』(学苑社、2012年)、『働くママと子どもの〈ほどよい距離〉のとり方』(柘植書房新社、2016年)などがある。

閉じる