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おかあさんのミカターー変わる子育て、変わらないこころ

距離という劇薬―ほどよい母親でいるために

 前回の原稿を書いてからのこの1ヶ月ほどのあいだに、世界はさらに大きく変わってしまいました。新型コロナウイルスの感染拡大が止まらず、政府はまず七都府県に、次に全国に緊急事態宣言を出し、社会的距離を取って家にいることが至上命令となっています。人から人へ伝染する目に見えない敵を制圧するためには、社会的な場(物理的に人が集まり交流する場)から撤退し、人との「距離」を取ること (social distancing)が最大の武器だというわけで、学校はもちろん、図書館も、動物園も、遊園地も閉鎖されています。せめて公園で遊ばせようと子どもを連れて行っても、遊具が使えないようにロープで縛られていたり、近隣の人の冷たい視線にさらされたりします。新緑のまぶしいこの季節に、自然とじかに触れる体験をわが子にさせてあげたいと思っても、今年は叶いません。

 母親にとっては、家の中にずっと子どもがいる傍らで在宅ワークに追われるのも、子どもを置いて仕事に出かけるのも、罪悪感や不安との戦いなしにはすまない事態です。専業で子育てしている母親であっても、生活用品を買いに外出することは避けられませんから、幼いわが子に気づかず感染させたらどうしよう、手洗いや玩具の消毒はちゃんとできているだろうか、自分が発症して隔離されたらこの子の世話は誰がみるのだろう……考え出すと不安は際限なくふくらみます。

 いつもなら、子どもが泣いてぐずっても、ほおずりしてギューッと抱きしめれば何とかなることも多かったはずです。赤ちゃんならおっぱい。皮膚を密着させて「距離」をゼロにすることは、使いすぎると依存の助長という副作用はあるにせよ、不安に対して劇的効果をもつ特効薬(良い意味での劇薬)でした。もっとも今は、「距離」を近づけることは人の生命を危機にさらすことだと繰り返し報道され、不安をかきたてられています。イタリアやスペインなどラテン系民族の国々で、あんなに感染症が爆発的拡大をみせたのも、濃密なスキンシップのせい(これも科学的根拠のない言説の一つかもしれませんが)だと言われます。乳幼児を育てている母親は、わが子とさえ、あえて「距離」をとらなければならないことの罪悪感や葛藤とも戦わなければなりません。

 では、どこまで距離をとれば大丈夫なのかというと、WHO(世界保健機関)が提唱した感染防止に必要な距離は約1メートル(3フィート)でした。今のわが国では2メートルを保つように言われています。

 2メートルとは、心理的にはどれほどの距離でしょうか。試しに、親しい相手と2メートル以上離れて向き合って座ってみて下さい。そこに、いつもの親密さと安心は感じられないだろうと思います。私はカウンセラーとして人と個室で対面して話を伺うことが本業ですが、適度な距離はカウンセリングの重要な要素です。2メートルでは、「共にいる」という感覚は薄れ、少なくとも私にとって安心よりも不安が勝ります。

 また、今年の大型連休は「オンライン帰省」が推奨されました。確かに、遠隔(distance)で技術的には簡単にビデオ通話ができる時代ですから、スマホやタブレットがあれば祖父母の顔を見ながら会話することは可能です。しかし、それはあくまでも代替手段に過ぎず、日々成長していく「今」のわが子を抱きしめてもらえない喪失感は、母親にとって周囲が想像するよりもずっと深いものかもしれません。

 

 今回の感染症拡大防止対策でクローズアップされた「距離」の問題から子育てと家族を考えてみると、ほかにもさまざまな連鎖が見えてきます。

 政府の緊急事態宣言から10日後、4月17日に日本弁護士連合会は「新型コロナウイルス感染拡大に伴う家庭内被害―DV・虐待―の増加・悪化防止に関する会長声明」を出しました。感染が拡大している各国で、夫から妻への暴力、親から子への虐待が増えており、わが国でもその深刻化を防ぐため、電話やオンラインでの相談対応を開始することが公告されています。

 私は、25年前の阪神・淡路大震災後にも同様の現象が起きたことを思い出します。平常時には男女平等の意識や少数派への寛容さを維持していた社会が、ひとたび非常事態に陥ると、弱い立場の者を攻撃し、排除する社会に逆戻りしてしまうのです。当時、すでに男女共同参画の時代が到来していたにもかかわらず、避難所から職場へ通うことを期待されたのはもっぱら男性でした。震災直前までキャリアをもって働いていた女性たちの多くは、当然のようにそれを断念して避難所で家族の世話をすることを暗黙のうちに要請されたのです。やがて仮設住宅や復興住宅に家族単位で引っ越した後には、DVや虐待が深刻な問題の一つになりました。

 今回も、感染症対策の影響で、本意ではなく自宅待機を余儀なくされた夫が、その不満と怒りを妻に向ける事態が生じていることは容易に想像できます。また、母親は、夫からもわが子からも逃げ場のない状況で、持って行き場のない感情を子どもへの虐待という形で暴発させてしまう可能性があることも十分考えられるでしょう。これらは、社会的な距離を取るために生じた、家庭内での距離の縮まり(近すぎること)に由来する困難だと言えます。

 これまでの連載でも書いてきたように、とりわけ母親と子どもの間には、ほどよい「距離」が必要です。成長の過程で振れ幅の大きな時期もありますが、月単位、年単位の大きなスパンでみれば、いつもわが子のそばにいて細やかにその欲求を汲み取り、十分に応えてあげようと万全を尽くす努力をするよりも、適度な距離があって、ときにはわが子の欲求を汲み取り損ない、幻滅させることのある母親でいた方が、健全な母子関係が育めるのです。

 イギリスの著名な小児科医で、治療場面での観察から親と子の関係の発達について多くの知見を残したウィニコットという人は、子どもの健やかな成長にとって必要なのは、「ほどよい母親(good-enough mother)」であると言っています。完璧な母親(もしそういう人がいるとすればですが)は、かえって子どもの成長を阻害する、一番良いのは、最初はわが子と一体になり子育てに没入するけれども、子どもの発達に応じて、少しずつ子どもの欲求を捉え損ね、応え損ねるようになっていく、ほどよい母親だというのです。母親も一人の主体性をもった個人ですから、別の主体性をもったわが子と衝突したり、食い違ったりするのは当たり前です。

 いずれ子どもは自立し、母親のもとから巣立っていく時期が訪れます。社会では、誰も母親のように自分の欲求を汲み取り、応えてくれることはありません。それならば、応えてくれない母親に幻滅し、少しずつ失望していくことを繰り返しながら、子どもは欲求を我慢したり、言葉で伝える努力をしたり、もっと広い世界に自らの欲求を満たせるよう働きかけていくプロセスを生きることが大切と言えるのではないでしょうか。そして、そのプロセスを可能にするのが母と子のほどよい「距離」なのです。

 さて、私自身の子育てを振り返って、果たして自分自身はどんなふうにわが子との距離をやりくりしてきたのだろうと考えると、あまり立派なことは言えそうにありません。娘2人とも産休明けから預けてフルタイムで仕事をしてきたので、物理的に間違いなく離れていましたし、その反動で心理的に近づきすぎるということもなく、どちらかといえば比較的一定した距離を保っていたような気がします。

 一つだけ鮮明に思い出せるのは、次女が小学校低学年頃のエピソードです。ある夜、例によって、「ママ、あのね」で始まる娘の報告話を半分の耳で聴きながら何かの作業をしていると、ふいと背後に消え、戻ってきて、「5円払うから、私の話を聴いて!」と訴えたのです。

 私はその瞬間、自分の心がわが子から離れすぎていた、距離を置きすぎていたことを、ショックとともに悟りました。多くの場合、「あのね」語りは、母親がそこに自分と共にいてくれることに意味があって、正面から問いの一つひとつに応えてくれることが要求されているわけではありません。ただ、その日は何か違ったはずの語りのトーンを、私が気づき損なっていたのです。私は申し訳ない気持ちに襲われました。と同時に、「5円」という選択が微笑ましく(初詣で投げる硬貨だと覚えていたからか、単に自分のお小遣いが減るのがイヤだったからなのかは謎のままですが)、娘への愛おしさが湧き上がってくるのを感じました。カウンセラーを両親にもつ娘たちは、きょうだいで電話相談ごっこに興じるほど耳学問で知識をもっていて、子ども心に、大事な話を聴いてもらうにはお金を払えばよいと閃いたのでしょう。

 そういった日常の幻滅を多々積み重ねながら成長したであろう今の元気な娘たちを見ていると、とりあえずgood-enough(ほどよい=そこそこ許容範囲)な距離をお互いに取り合ってきたのではないかと思えます。自己弁護が多分に入っているかもしれませんが……。

 

 最後に、現在の問題に戻ります。

 この非常事態下にあって、社会的距離を取ることの徹底と同時に多くの家の中で起きているのは、家族間の距離の喪失です。「距離」は取りようによって、世界中の人々の生命を脅かすウイルスを制圧する劇薬にもなるし、親と子の関係に決定的な影響を与える劇薬にもなります。一人ひとりのおかあさんたちにぜひ伝えたいのは、そのような今の状況に対して少しでも自覚的になり、「自分さえ努力すれば」と距離を見失ったまま頑張り続けないでほしいということです。

 目の前のわが子にカッとなって手を上げるくらいなら、自分が一人で公園のベンチに座って木々を眺めてみることです。思い切って、いつもの保育所に子どもを送り出してもよいでしょう。これは不要不急ではなく、必要至急の「距離」の取り方です。繰り返しになりますが、緊急事態下にある社会は、弱い立場の者やマイノリティに非難の目を向けやすいのです。子どもを連れた母親も、弱者でありマイノリティです。冷ややかな目を向けてくる人に対しては、あなたに問題があるのではなく、その人自身が自分の不安と戦っているのだと思ってみてください。

 そして、緊急事態を何とか乗り切ったとしても、その先には震災後と同様、長い復興の時間が必要になることでしょう。復興とは、元通りになることではなく、新たな価値や世界を創造していくことです。この経験から私たちは子どもに何を伝えられるか、時間をかけてしっかりと考え続けていきたいと思います。

註:新型コロナウイルス感染症の拡大防止のため、「社会的距離の確保」(social distancing)という公衆衛生学の言葉がよく用いられる一方で、WHOは最近、「物理的距離」あるいは「身体的距離」の確保(physical distancing)という表現に置き換えるようになっています。それは、「社会的距離」(social distance)という社会学の用語が意味する個人と個人、個人と集団、集団と集団間での親近感という「心理的な距離」との混同を避けるためです。今、私たちは、人との物理的な距離を最大に保ちつつ、かつ心理的な距離をできるだけ遠ざけないようにするという難問を解くことを求められていると言えるでしょう。

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著者略歴

  1. 高石 恭子

    甲南大学文学部教授、学生相談室専任カウンセラー。専門は臨床心理学。乳幼児期から青年期の親子関係の研究や、子育て支援の研究を行う。著書に『臨床心理士の子育て相談』(人文書院、2010年)、『自我体験とは何か』(創元社、2020年)、編著に『子別れのための子育て』(平凡社、2012年)、『学生相談と発達障害』(学苑社、2012年)、『働くママと子どもの〈ほどよい距離〉のとり方』(柘植書房新社、2016年)などがある。

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