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子どもが言葉にであうとき

はじめに

 「とうもころし」「おすくり」「どぼろう」「うらまやしい」。少し前まで、娘が言っていた言葉です。どうして「ろ」と「こ」、「く」と「す」がひっくり返るのか、聞きながら可笑しくなってしまいますが、専門的には音位転換と呼ぶらしいこの現象は、子どもに独特で楽しいもの。がんばっておしゃべりしている感じが、なんともかわいいのです。音位転換は音の並びが発音しやすいように入れ替わることで、子どもを見ていると、他にも「おするばん(お留守番)」「水玉よもう(水玉模様)」など、同じ母音の音同士が隣り合ったときに入れ替わることが多いようです。「秋(あき)葉原(はばら)」「山茶花(さざんか)」などは、本来「あきばはら」「さんざか」だったものが、入れ替わったまま定着したものだそうです。

 娘の真似をして、私もわざと「エベレーター」などと言って面白がっているうちに、職場でもつい言ってしまいそうになり、あれ?「ベレ」「レベ」どっちが正しかったっけ?と一瞬困ったりしますが、私も子どものころ、保育園の「栗林先生」がどうしても「くりやばしせんせい」になってしまったものでした。

 2013年の夏に生まれた娘は、保育園の年長組、六歳になりました。このごろはふつうに正しく「とうもろこし」「お薬」「泥棒」「羨ましい」と言っています。お姉さんになったなあと思って聞きながら、少しさびしくもあります。それは、もう戻らない時間というものを、不意に感じさせられるからです。「とうもころし」と言っていた娘はもういない。少し前までは、自分の言いたいことを表す言葉をさがして、途中で「んー、んー」と考えながらゆっくりとおしゃべりをしていたのに、気がつけば、「んー」と言うことはなくなり、すらすらと滑らかに話している子どもがいます。話せてしまうと、話せなかったころには戻れない。子どもの言葉の発達、心身の発育は、日々めざましいものです。それはもちろん喜ばしいことであるのですが、子育てというものは、こんなにも時間の一方向性を折々に感じさせられるものであるのだなと、このごろしみじみ実感し始めているところです。

 娘が生まれたころ、ぜひ育児日記をおつけなさいね、メモ程度でもいいから書き残してくださいね、と勧めてくださった年上の女性がありました。アドバイスにしたがって、娘が一歳を過ぎるころまでは、ハードカバーの育児日記に、日々の気づきや心配事をしっかりと細かく手書きしていたのですが、私が職場に復帰してからは、どうしても記述がおろそかになってゆきました。保育園との連絡ノートには、気になる体調などの連絡事項を書くのみになってしまい、こんなことがあった、出来るようになった、言えるようになった、という日々の細々とした喜びの部分は、案外記録に残らないのでした。記述をしないと、「現時点」だけが当たり前になり、過ぎてしまった時間はひとかたまりになって、遠くへ流され、あいまいにかすんでしまうようでした。それに気づいてからは、なるべくスケジュール手帳の余白に、娘のちょっとしたことをメモするようにしています。

 娘が一歳を過ぎたころ、はいはいをしながら、床の上の糸くずをつまみ上げて見せてくれたことがありました。その様子を見て、『枕草子』の「うつくしきもの」のくだりを思い出しました。

二つ三つばかりなるちごの、いそぎてはひくる道に、いとちひさき塵のありけるを目ざとに見つけて、いとをかしげなる指(および)にとらへて、大人ごとに見せたる、いとうつくし。

 小さな塵を見つけ、かわいい指でつまんで「こんなのあった」と大人に見せる幼子が、「うつくしきもの(かわいらしいもの)」のひとつに挙げられています。千年以上昔の子も、現代の子も、まったく同じなのです。子どもから他者への働きかけ。まだ言葉にはならなくとも、「こんなのあったよ」と伝えたい、そして反応して欲しい、という自然なコミュニケーションの欲求。それがしだいに言葉へとつながってゆきます。ものを渡すときにも、「どうぞ」と言葉を添えるようになりますが、娘は一歳八か月のとき、自分の鼻くそをとって「はいどーじょ」と手渡してくれました。「ありがとう」と受け取っていましたが、エレベーターの中で、見知らぬ人に「どーじょ」と差し出したときには、さすがに焦りました。

 泣くことでしか要求、状況を伝えることができなかった赤ちゃんの時代から、だんだんと言葉を使って意志の疎通をはかるようになります。どこでこんな言葉を覚えたのだろう、と大きな変化に気づくこともあれば、日常のなかで、いつの間にか話せるようになっていることも多いものです。

 この世に生まれ出て、たかだか数年で日々の生活に困らないくらいに言葉を操ることができるようになるなんて、本当にすごいこと。娘が三歳のころ、私もこれくらい早く外国語を習得することが出来ればなあと羨ましく思い、「どうしてそんなに言葉がわかるの?」と彼女に訊ねてみたことがありました。どうして?と聞かれても、子どもは困るでしょうね。ただ自然に分かるようになってゆくのですから。持っているレパートリーの中から言葉を選び、組み合わせて使ってみる。その場にふさわしい言葉かどうか、トライ・アンド・エラーの繰り返し。子どもが言葉を習得してゆく過程は、劇的でありながら、なめらかです。

 ジブリ映画『となりのトトロ』の中で、四歳のメイは、「とうもころし」と言うときと、正しく「とうもろこし」と言うときがあります。この混ざり具合にリアリティがあって、まさに言葉を習得してゆく現場だという気がします。子どもが言葉に出会うそのときどきの状況を、丁寧に感じていたいものだと思います。

 言葉に出会うことは、世界と出会うこと。子どもは言葉によってものごとを認識し、自他を区別し、時間の概念を知り、感情を表すことを覚えます。そんな「子どもが言葉にであうとき」に、これからお付き合いいただけましたら幸いです。

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著者略歴

  1. 永田 紅

    歌人、京都大学特任助教(細胞生物学)。十二歳から短歌を作り始める。歌集に『日輪』(砂子屋書房)、『北部キャンパスの日々』(本阿弥書店)、『ぼんやりしているうちに』(角川書店)、『春の顕微鏡』(青磁社)、エッセイ集に共著『家族の歌』(文藝春秋)。歌壇賞、現代歌人協会賞、京都府文化賞奨励賞受賞。

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