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子どもが言葉にであうとき

「わんわん」― オノマトペからはじまる

 わが家には、たくさんのぬいぐるみがいます。そのほとんどは、娘が生まれてからやってきたもの。六年の間に増え続け、大小とりまぜて、もはや何匹いるのか、把握しきれていません。一度、住民基本台帳を作ろうということになり、大判のスケッチブックを買ってきて、娘と一緒にぬいぐるみの似顔絵、名前、由来、誕生日(うちにやってきた大まかな年月)を記しはじめたのですが、書いても書いてもおもちゃ箱の中の動物たちの登録は終わらない。絵を描くところに時間がかかるから、写真で済まそうか、コピーして貼り付けようかなどと思案しながら、結局頓挫したまま、今もぬいぐるみ人口は増え続けています。

 巨大なトトロやアヒルから、親指サイズのモグラまで。トトロは娘が二歳のときにやってきましたが、当時、娘の身長よりも高く、あこがれの「トトロのお腹で寝る」ができました。アヒルも背中に十分乗れる大きさで、椅子にも、一人乗りボートのようにもして遊べます。どちらも私の父からのプレゼント。動物種で分けると、ウサギとクマがもっとも数の多いグループを構成し、珍しいところでは、アメリカバイソン、チンアナゴ、オーストラリア固有の有袋類ビルビーなど。ステゴサウルスが三匹いるのも特筆しておきたいです。

 そんな中で、出産祝いでいただいたGUND社製の犬のぬいぐるみは、お腹のボタンを押すと、三度鳴くものでした。外国製なので、日本ふうに「ワンワン」という音ではなく、リアルな感じの犬の鳴き声。うすいピンク色と白で、手触りも柔らかく、垂れた耳がかわいい。赤ちゃんのころに、「わんわんだよー」とお腹を押して聞かせていたのですが、よだれがついて汚れてきたので、洗うことにしました。電池の入っているものを水に浸けるのは心配ではありますが、えいやっと洗面台の水に沈めてみると、「わんわ…」とさいごに小さな声をあげたきり、案の定、鳴かなくなってしまいました。

 この鳴かなくなった犬は、娘のもっとも初期からの相棒のひとりであり、娘はものごころついたときから、「わんわん」と呼んでいました。名前が、わんわん。

 「わんわん」は、子どもがもっとも初期に口にする言葉のひとつでしょう。大人が、犬を見せて「わんわん」と教える。子どもは、ある生き物を見て、それを指す言葉があることを知り、散歩中の犬を見かけると、ベビーカーの中から「わんわん!」と指差すようになる。大人が「わんわんだね、かわいいね」と応じ、コミュニケーションが成立します。

 「わんわん」は、小さな子どもでもほぼ正確に発音できる、言いやすい言葉なのでしょう。一歳七か月のころ、娘が初めて発した二語文が、「わんわんいた」でした。目の前の犬を見て、その存在を伝えるために「いた」をつけ、立派に文になっていることに、今更ながら感心します。

 娘にとって、はじめ動物は何でもひとくくりで「わんわん」でした。犬も猫も鳥もイルカも、動物園のさまざまな動物たちも。そのうち、まずアヒルが区別できるようになり、「あいる」と言うように。お風呂のおもちゃで馴染みがあったからでしょう(この時期、なぜかハ行音が抜けるようで、朝も「おあよ」と言っていました)。そのうち、猫が「にゃんにゃん」になり、動物にもそれぞれ違う呼び名があることを覚えてゆきます。

 とくに、ヤマト運輸のクロネコマークに反応したのが面白かったです。お母さん猫が子猫をくわえている、あのトレードマーク。街中を走るトラックを見ては「にゃんにゃん!」、玄関先のダンボール箱に貼られた伝票の隅を見ては「にゃんにゃん!」。大きなものから小さなものまで、子どもの目ざとさに驚かされたものですが、新しく呼び方を覚えたものが、周囲の景色から際立って、どんどん目に飛び込んでくる状態だったのでしょう。

 さて、「わんわん」も「にゃんにゃん」も、犬や猫を指す名詞としても使われますが、もとは擬音語や擬態語、いわゆるオノマトペの類です。日本語は殊にオノマトペの多い言語であるらしく、一説には英語や中国語の三~五倍の数があるとのこと。笑い方ひとつとっても、「あはは」「うふふ」「おほほ」「くすくす」「にこにこ」「にっこり」「にんまり」「にやにや」「にたにた」「へらへら」「けらけら」「げらげら」「がはは」などなど、それらのニュアンスの多様さに驚かされますし、お腹が痛いときにも、「きりきり」か「しくしく」か「じんじん」かによって、表現される症状が異なります。

 二十年ほど前、歌人の母河野裕子の短歌を翻訳するため、オーストラリアの翻訳家、詩人のアメリア・フィールデンさんが、わが家に何度か来訪されたことがありました。日本語の詩、それも短歌という省略と飛躍と韻律の極まった詩型を英語に変換することの難しさを思いますが、一首一首確認しながら進める作業の中で、オノマトペを訳することの難しさについて触れられたのが印象的でした。たしかに、日本語で何気なく使っているオノマトペのニュアンスを伝えるだけでも気を遣うでしょうに、詩歌におけるオノマトペはまた特殊な使われ方をすることもあるのです。

たとへば君 ガサッと落葉すくふやうに私をさらつて行つてはくれぬか

                    河野裕子『森のやうに獣のやうに』

 

for instance, sweetheart-

won’t you sweep me off

as if

you are scooping up

an armful of fallen leaves

      Kawano Yuko from Like a Forest, Like a Wild Beast (Amelia Fielden訳)

 

 青春期の歌です。この場合の「ガサッと」は、「an armful(腕いっぱい、ひと抱え)」あたりに含まれて、直接の訳語があるわけではありません。

 

君を打ち子を打ち灼けるごとき掌よざんざんばらんと髪とき眠る

                         河野裕子『桜森』

 

hitting you

hitting the kids-oh,

my hand’s on fire…

frantically loosening my hair

I go off to bed

        Kawano Yuko from The Cherry Blossom Forest (Amelia Fielden訳)

 

 こちらは、子育ての大変な時期の歌。君(夫)とも、子どもたちとも、体当たりの毎日です。夫を引っ叩き、子どもを引っ叩きながら、一日一日を乗り切ってゆく。今なら、幼児虐待と問題にされそうでもありますが、もちろんそんなことではありません。「体力、気力を総動員して、子どもたちのエネルギーと張りあって暮らす」(河野裕子『みどりの家の窓から』より)という子育ての現場にあって、ようやく一日の終わりには、結んだ髪をばっとほどいて眠る、というものです。「ざんざんばらん」は作者独自のオノマトペであり、これはどう考えても英語に訳すのが難しい。音の面白さをそのままに活かすことはできず、「frantically(半狂乱で、必死に、気も狂わんばかりに、夢中になって、躍起になって)」という副詞のなかに、意味として納められている形になっています。

 

 子どもがオノマトペの感覚を習得してゆく過程を、身近で見るのは面白いものです。一歳半のときには、自分で「ふんふん」と言いながら花に鼻を近づけて匂いを楽しんでいましたし、かがくいひろし著『だるまさん』シリーズの絵本では、「だるまさんが…」と読むと、待ち構えていたように「どてっ」と言って転がりました。オノマトペのリズムに、自分の動きを乗せてゆける心地よさがあるのかもしれません。

 まだよく話のできないころ、お風呂上りにパジャマのズボンをはかせていると、「かいかい」と言って脱ぎたがったことがありました。見てみると、たしかにズボンの裾に、何か植物の種子、ひっつき虫が引っかかってチクチクしています。「ほんとだね、かいかいついてるね」と言いながら、「か・い」という、たった二字の組み合わせのオノマトペを使って不快感を訴えることができるようになってきたことに感心しました。

 娘が二歳過ぎのとき、私はこんな歌を作りました。

「おしりぷんぷん!」謎の言葉を発したりおしりは怒っているにあらずや

                                 永田 紅

 保育園から帰った娘が放った言葉、おしりぷんぷん。おしりはぷんぷん怒っているのか。ぷんぷん臭っているのか。ナゾです。保育園でどのようなインプットがあったのかわかりませんが、小さな子がうれしそうに「ぷんぷん!」とお尻を振っているのは、何だか笑えてくる光景でした。

 ごっこ遊びの中で、相手に泣きまねをしてほしいとき、「エンエンして」と頼むこともありました。「泣く」という動詞ではなく、「エンエンする」が、その行動を表す言葉としてまず理解しやすかったのでしょう。

 お絵描きや製作や片付けが上手くいかないとき、「ぐちゃぐちゃ」という表現も便利だったようです。「もう、ぐちゃぐちゃになった」と言って、怒ったり、泣いたり、他人のせいにしたりしていました。「ぐちゃぐちゃ」のニュアンスはどうやって身につけたのだろうかと思うのですが、ごく自然に使いこなすようになっていました。平らな、柔らかい、あるいは整った状態のものを、かき混ぜたり、両手で握ったりして秩序を乱すような音と様子。オノマトペは、意味だけでは伝えきれないニュアンスを含んでいて、幼児期の体感と学習に根ざしています。日本語話者でない人たちには、どこまで通ずる感覚なのでしょう。

 私は大学で細胞生物学の研究をしていますが、フィリピンからの留学生が来たとき、細胞培養の手順を教えたことがあります。接着細胞は培養皿で育てるとき、ぎゅうぎゅうになるまで放置してはならず、適当なタイミングで植え継ぐ必要があります。張り付いた細胞がすきまなく培養皿の全面を覆っているとき、「100%コンフルエントである」と表現したりしますが、英語で「ぎゅうぎゅう」を伝える言葉選びに困りました。「細胞が多くなり過ぎないように、密着しないように」とは言えるのですが、「ぎゅうぎゅう」の窮屈な感じは、やはりオノマトペならではの表現効果だと思います。結局、「Gyu-gyu」と言いながら、窮屈そうなジェスチャーをしたところ、笑って理解してくれました。

 子どもを病院へ連れてゆくと、聴診器を持った小児科の先生が、「おなか、もしもしさせてね」とおっしゃいます。お腹のなかにいる誰かの様子を聞こうとしているようで、はじめて聞いたときは、なるほど、こういう誘導の仕方があるのかと新鮮に思いました。

 わが家では、私が「朝ごはん、何がいい?」と聞くと、娘が「からから!」と答えます。この場合の「からから」は、コーンフレークやグラノーラのこと。器にカラカラと振り入れて、牛乳をかける。誰が言い出したのだったか、いまや家族の了解事項です。「からから」が、ドライタイプのキャットフードを指す家庭もあることでしょう。

 オノマトペは単純で口にしやすく、それぞれの家で独特の使われ方をすることも多いのではないでしょうか。私の実家では猫を飼っていましたが、猫はときどき前足を口にもってゆき、爪を噛んで引っぱる動作をすることがあります。グルーミングのひとつとして、はがれてくる古い爪を引き抜く行為ですが、わが家ではその様子を「いーぴー」と呼んでいました。「あ、トムがいーぴーしてる」という具合。床の上に、抜け殻のようなとがった爪が落ちているのを見つけると、「いーぴーが落ちてた」と拾い上げます。「いーぴー」は動詞としても名詞としても使える、便利な言葉なのです。

 なぜ、「いーぴー」か。母が、猫が爪を噛んで引っぱる様子を「イーッ、ピッ」というオノマトペで表現したことがはじまり。力を込めて引っぱっている「イーッ」と、抜けた瞬間の「ピッ」が面白くて、そのまま使い続けているのですが、他人にはまったく通じないオノマトペでしょう。うちで猫を飼うことになれば、娘にもいーぴーが受け継がれるはずです。

 さて、ピンク色の「わんわん」はその後、名前があまりにもそのままで芸がないので、「コロン」と改名されました。大きくなった娘は、コロンには失われてしまった鳴き声があったことを知り、それが聞きたいと泣きました。そこで、インターネットで探し出し、色違いの「ロコロコ」がやってきました。ロコロコはうすいブルーで、お腹のボタンを押すと、健気に三回鳴きます。

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著者略歴

  1. 永田 紅

    歌人、京都大学特任助教(細胞生物学)。十二歳から短歌を作り始める。歌集に『日輪』(砂子屋書房)、『北部キャンパスの日々』(本阿弥書店)、『ぼんやりしているうちに』(角川書店)、『春の顕微鏡』(青磁社)、エッセイ集に共著『家族の歌』(文藝春秋)。歌壇賞、現代歌人協会賞、京都府文化賞奨励賞受賞。

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