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松岡亮二「『凡庸な教育格差社会』で」

「教育格差」という言葉

 『教育格差』(ちくま新書)2020年新書大賞第3位を獲得された、龍谷大学社会学部准教授の松岡亮二さん。大規模データを分析して、日本が「凡庸な教育格差社会」であることを明らかにした松岡さんを小社にお招きし、編集部のスタッフを中心に勉強会を行いました。
 目に見えにくい「格差」を、どのように捉え、語るのか。社会に生きる多様な人々のことを考えて議論をするためにはどうしたらよいのか。冷静にデータと向き合って、教育格差がより小さい社会のあり方を考えることが、今とは違う未来のための糸口となります。
 松岡さんのお話を、前編・中編・後編の3回にわたってお届けします。今回は前編を公開。よく耳にする言葉となった「教育格差」は、いったいどういう問題なのでしょうか。

社会が「実際にどうなっているのか」を議論の出発点にする

 まず、なぜ私が「教育社会学」という分野に興味を持ったのかについてお話します。教育〇〇学や〇〇教育学といったように教育に関する領域は多くありますが、あまり興味を持てませんでした。当時私が手に取った書籍がそうだっただけかもしれませんが、多くが「べき論」だったからです。「教育はこうあるべきだ」という規範的な議論やケースだと、熱心な先生と高い学習意欲のある児童生徒が揃わないと成り立たないのではないか、という違和感を持っていました。そんな折、教育社会学に出会いました。私が心を打たれた研究は、「どうあるべきか」という規範よりも、「実際にどうなっているのか」というデータが描く現実を議論の出発点にしていました。

 私は米国に10年ほどいたのですが、そのときの経験も実証主義的な研究志向の基盤になりました。米国でも規範論はたくさん語られますが、「現実はどうなっているのか」という実証的な話がついてまわるんです。「教育のあるべき姿」とか「望ましい教育政策」という議題であれば、それは自分や自分の子ども「だけ」ではなく社会全体の話なわけで、自分の経験や目に入る限りのエピソードに基づいた議論に無理があることは、社会が複雑である以上、自明のことでした。

 米国では特に人種の違いという形で社会の複雑さが可視化されているので、ある程度は、「データを取らないとアメリカ全体のことは議論できないよね」という共通認識があるように思います。一方で、日本だと、「自分の育った経験に基づいて話しても、世代や地域の違いぐらいは多少あるかもしれないけど、概ね社会のどこでも当てはまる話になるはず」といった前提の議論を見かけることが多いように感じます。

「教育格差」は何の「格差」なのか?

 さて、本題の「教育格差」についてですが、誤解されやすい言葉なので、定義から始めます。

 子ども本人に変更できない初期条件である「生まれ」によって結果に差がある傾向を「教育格差」と呼びます。主な「生まれ」は3つあり、そのうちの一つは出身家庭の社会経済的地位(Socioeconomic status、以下SESと略)です。保護者(以下、親)の学歴とか世帯収入、それに、親が専門職かどうかといった複合的な社会経済的な特性を意味します。また、どこで育ったのかという「出身地域」、それに「性別」も重要です。近年では、教育の結果の差を説明するためには、「国籍」や「母語が日本語かどうか」なども初期条件として含む必要性が高まってきています。

 「教育格差」と聞いたとき多くの人は「教育『機会』格差」を想起するかと思いますが、教育を受ける機会がそのまま結果に変換されるわけではないので、私は別の概念として扱っています。もっとも、最初に機会の格差があって、それが結果の格差の一部にはなっているとは考えられます。

「学歴」はどういう役割を持つのか

 「教育格差」と「学歴格差」は混同されることが多いですが、2つはまったく別の概念です。出身家庭のSES、出身地域、性別といった「生まれ」によって結果に差がある傾向が「教育格差」。最終学歴によって得られる便益に差があり、就業状態、収入、結婚などを含む社会経済的な達成に差がある傾向が「学歴格差」です。たとえば、親が大卒だと子も大卒になるという傾向があります。これは教育格差。一方、最終学歴が大卒だと、非大卒者よりも正規雇用に就きやすい。こっちが学歴格差です。

 学歴格差を快く思わない人は少なくないようですが、学歴をなくす場合は代案が必要です。古代中国は世襲の代わりに能力を測る科挙という選抜制度をはじめました。この選抜に通れば、貧農家庭出身でも役人になれる。試験準備ができる余裕があるかといった現代にも通じる差はありましたが、選抜によって「生まれ変わり」が可能になったわけです。

 現在の日本社会も、「生まれ」ではなく、本人の「能力と努力」で得たと(一応は)見做すことができる学歴で誰がどのような仕事を得るのかを決めています。ただ、出身家庭のSES、出身地域、性別といった「生まれ」によって最終学歴に差があるので、「生まれ」は本人の学歴を介して成人後の人生の機会と結果を左右し得る。ここが課題となります。

 「いつ選抜するか」も重要な論点です。たとえば、早期であればあるほど出身家庭のSESの役割が大きくなり得ます。多くの人にとっては高校受験が人生で最初の大きな選抜ですが、都市部では私立中学受験を受ける人も少なくありません。選抜の時期が低年齢化すると、出身家庭のSESによって準備できるかどうかの差がより明確になるので、学歴の「生まれ変わり」機能が弱くなってしまうといえます。 

人生80年時代の学歴

 他国と比べて大学院への進学率があまり伸びていない日本では、未だに多くの人の最終学歴は18歳や19歳ぐらいの進路や受験結果で決まっています。「能力と努力」の代理指標としての学歴が20歳より前に実質的に決まってしまい、それが社会的な「身分」になってしまって、それから残りの60年の人生が続いている状態です。これでは「生まれ代わり」というより、学歴によって身分が固定しまうわけで、多くの人が「学歴差別」といった言葉に表されるような嫌悪感を持つことは自然な反応といえます。

 学歴に可変性があればそういった閉塞感は幾分和らぐかと思います。30歳や40歳になっても「能力と努力」の証明として学歴が現実的に更新できて、労働市場がその価値を認めればよいはずです。残念ながら今の日本では、30歳になってから、「今まで高卒だったけれど、大学を卒業して正規職に就く」というキャリアはなかなか実現が難しいですよね。

 労働市場がかなり流動的であれば可能ですが、それもよいことだけとはいえません。何歳になっても個人の責任で学習して、その成果を学歴や職歴を更新する形で証明し続けることが求められる社会になります。日本でも今以上に転職が前提になってくると、企業内研修や現任訓練だけでは不十分になり得ます。すべて自己責任になるので、学歴・初職・職歴といった繋がりが予測可能で明確だった過去のほうがよかったという声も強まるかもしれません。

中編へ続きます。

参考文献
松岡亮二(2019)『教育格差:階層・地域・学歴(ちくま新書)』筑摩書房
松岡亮二(編著)(2021)『教育論の新常識:格差・学力・政策・未来(中公新書ラクレ)』中央公論新社
中村高康・松岡亮二(編著)(2021)『現場で使える教育社会学:教職のための「教育格差」入門』ミネルヴァ書房
松岡亮二・髙橋史子・中村高康(編著)(2023)『東大生、教育格差を学ぶ(光文社新書)』光文社

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著者略歴

  1. 松岡 亮二

    龍谷大学社会学部准教授。ハワイ州立大学マノア校教育学部博士課程教育政策学専攻修了。博士(教育学)。東北大学大学院COEフェロー(研究員)、統計数理研究所特任研究員、早稲田大学助教・専任講師・准教授を経て、2022年度より現職。日本教育社会学会・国際活動奨励賞(2015年度)、早稲田大学ティーチングアワード(2015年度春学期、2018年度秋学期)、東京大学社会科学研究所附属社会調査データアーカイブ研究センター・優秀論文賞(2018年度)、早稲田大学リサーチアワード「国際研究発信力」(2020年度)などを受賞。著書『教育格差(ちくま新書)』は、1年間に刊行された1500点以上の新書の中から中央公論新社主催「新書大賞2020」で3位に選出。2024年5月時点で16刷、電子版と合わせて6万8000部突破。

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