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松岡亮二「『凡庸な教育格差社会』で」

教育「改革」はなぜうまくいかないのか

 『教育格差』(ちくま新書)2020年新書大賞第3位を獲得された、龍谷大学社会学部准教授の松岡亮二さん。大規模データを分析して、日本が「凡庸な教育格差社会」であることを明らかにした松岡さんを小社にお招きし、編集部のスタッフを中心に勉強会を行いました。
 目に見えにくい「格差」を、どのように捉え、語るのか。社会に生きる多様な人々のことを考えて議論をするためにはどうしたらよいのか。冷静にデータと向き合って、教育格差がより小さい社会のあり方を考えることが、今とは違う未来のための糸口となります。
 松岡さんのお話を、前編・中編・後編の3回にわたってお届けします。今回はいよいよ後編。現状を変えるための教育「改革」がなぜうまくいかないのか、松岡さんの鋭い分析をご覧ください。

個人の環境と周辺の環境

 子ども本人に変えることができない初期条件(「生まれ」)によって最終学歴を含む教育の結果に差がある傾向を「教育格差」と呼びます(※前編を参照)。日本社会における主な初期条件は、保護者(以下、親)の職業、学歴、世帯収入などを統合した概念である社会経済的地位(Socioeconomic status、以下SESと略)、出身地域、それに性別です。

 これらの「生まれ」は個人の特性ですが、教育格差に対する解像度を上げるためには、個人水準と集団水準の観点も重要です。個人水準の特性は、たとえば、SESの構成要素である親の学歴や世帯収入、習い事や通塾の有無といった家庭単位のものです。一方、集団水準には、近隣の住民や同級生の出身家庭のSESといった集合的な特性があります。単位は近隣(近所)、学校、市町村、都道府県など様々です。

 個人水準と集団水準の特性は重なり合っています。小中学校の頃の同級生がどんなSESの家庭出身で、学習意欲があったのかとか、どの程度の学力だったのか、というのは各自の出身家庭のSESと無縁ではありません。高SES層は都市部に集住する傾向があるので、98%の児童が通う公立小学校であっても、親が大卒ばかりの地域もあれば、両親共に非大卒が大半といった学校もあります。

 社会経済的に恵まれた家庭が集まっている高SES地域だと、進学塾や私立校の選択肢もあり、大学進学が前提となっています。このように家庭のSESと地域のSESが重なって教育機会が存在しているので、どちらの水準がどれだけ自分に影響を与えたのかを正確に分離するのは難しいはずです。

 たとえば、公立中学校の同級生と切磋琢磨して気づいたらお互い進学高校に入って、そこから当たり前のように4年制大学に進学した、というケースがあったとしましょう。そもそも親が特定の地域に住居を構える時点で年収、勤務先との距離、子どもの教育にとってよいかどうかといった様々な要素が考慮されていますので、同級生がどんな子たちなのかは偶然ではありません。中学校2年生の夏期講習から塾に通うのが「ふつう」みたいな規範であるとか、この中学校から地域の進学高校に何人ぐらい合格するといった進学状況も、地域の社会経済的状況とは切り離せません。こうやって一つずつ振り返っていくと、自分が「ふつう」だと思っていた選択肢や周囲の環境が必ずしも日本社会の平均とは一致しないことも珍しくありません。

 生まれてから家庭と学校で育つ過程があり、主に高校と大学の受験という大きな選抜があります。長く複雑な過程と「生まれ変わり」が可能な選抜があることで、最終学歴は個人の「能力と努力」の結果だ、という見做しが成立しているといえます。このような認識の中で、出身家庭のSES、出身地域、性別が不利な条件だった子が、それらによって自分の選択が制約されていた、と言語化することはなかなかできないはずです。結果として、学歴によって正規雇用を得られないといった状況を本人が自己責任として受け入れてしまっても不思議ではありません。

 出身家庭のSES、出身地域、性別のどれか一つでも違ったら、同じ人生になっていない人も多いはずです。同様に、教育制度や選抜制度が違ったら、違う進路を選んでいたと考えることもできます。たとえば、都道府県によって高校生の普通科在籍率は大きく違います(詳細は執筆記事参照)。育った都道府県によって、大学進学に繋がりやすい選択肢の数に差があるわけです。本人が「自由」に選んだ進路だと思っていたとしても、それは「生まれ」や制度による制約がなかったことを必ずしも意味しません。

「変わっていない」教育

 教育は様々な意見が飛び交う分野ですが、建設的な議論をするためにはデータに基づく必要があります。個人の経験や視界に入る範囲はどうしても限られるので、国はもちろん市町村の教育政策や各学校の意思決定であってもデータによる実態把握によって議論の出発点を整理すべきだと思います。

 一つ具体例を挙げましょう。教育に関する議論の中で「変化の激しい時代」のような表現を見聞きしたことがないでしょうか。もちろん、学校教育でも情報通信技術の活用といった変化はあります。ただ、社会の様々な事象が変わったように見えても、たとえば、SESによる教育格差はあまり変わっていません。戦後に育ったすべての世代について見られる現象です。世代によって多少の変動はありますが、大まかな構造は変わっていません。

 学力も同様です。国際比較が可能なデータが公開される度に、学力が上がった下がったと報じられていますが、大きな変化ではありません。具体的には、小学4年生と中学2年生を対象にした国際数学・理科教育動向調査(TIMSS)は4年毎に行われていて経年比較が可能なのですが、それらの結果を見る限り、毎回、僅かな変動で、どの時点を比較するかによりますが、長期的には概ね横ばい、あるいは、多少の向上です。たとえば、1995年と結果が公表されている最新の2019年の2時点だけで比べると算数・数学と理科の学力は上がっていますが、その程度の大きさは平均50の学力偏差値に換算すると1~3です。

 3年毎に読解力・数学的リテラシー・科学的リテラシーの習熟度を計測するOECD(経済協力開発機構)による学習到達度調査(PISA)の結果も広く報道されてきました。日本では高校1年生の前半に行われるので、PISAの結果は高校教育への評価というより、義務教育の通信簿といえます。日本についての結果を経年比較すると、3分野の学力は僅かな上下を繰り返していて、基本、横ばいです。たとえば、コロナ禍で1年延期されて行われた2022年調査と初回の2000年調査の読解力も同程度です。2000年3月の中学校卒業者数は146万人で、2022年だと108万人。だいぶ減っているわけですが、PISAが定義する読解力という観点では変わっていません。なお、近年生徒数が増えている通信制高校は対象に含まれていないので、厳密には同じ対象を比較できていない点には留意が必要です。概して、大きく向上も低下もしていないという解釈が妥当だと思います。

 これらの経年比較可能なデータが存在する過去20年ほどの間に、「変化の激しい時代」への対応を称した様々な教育「改革」が行われてきましたが、2つの調査が定義する学力の観点では目覚ましい結果が出たとは言い難いのです。子どもの人口規模が縮小した同期間、SESによる教育格差も明確な縮小傾向は確認できません。「変化の激しい時代」の約20年間、学力と格差の観点では明確な変化はなかったのです。これらは意図した結果でしょうか。教育「改革」は成功したのでしょうか。

 なぜ、結果が出ないのでしょうか。それは教育実践と政策の効果が分かっていないまま、「やりっ放し」をしているからだと私は考えています。まっとうな効果検証が行われている実践と政策は少ないので、何をすればどんな効果があるのか不明なまま、何となくよさそうなことを繰り返しています。これでは「何かをやっている感」の演出にはなっても結果は改善しません。何となくダイエットや筋トレをしても結果が出ないようなものです。高校や大学の受験制度「改革」はその典型で、議論の出発点は雑な思い込みばかりですし、制度変更前から効果検証を前提にしていないので、どのような生徒に利益・不利益があったのかもわからないままです。

人口減少を見据えて

 拙編著『教育論の新常識』(中公新書ラクレ)で詳述した通り、文科省の調査の設計改善や予算の増額といった実態把握を強化しなければ、いつまで経っても、「変化の激しい時代」への対応を称した雑な思いつきの「改革」で「やりっ放し」を繰り返し、「何かをやっている感」の演出が繰り返されることになります。そして、効果があるかどうかわからない政策が新たな「改革」として提案され実行される。このままでは、過去と同じように、経年比較可能な国際比較調査が計測する学力は横ばいのままの可能性が高いです。少子化で各学年あたりの人口は減っているので、平均学力が変わっていなくても、高学力層は絶対数としてますます減っていきます。

 出身家庭のSES、出身地域、性別といった「生まれ」が有利な子たちが高学力を得て、大学進学意欲を持ち、その中から入試で選抜する。これが今までのやり方ですが、少子化が進むと同じ制度は維持できなくなります。たとえば、少子化の速度が速い地方では、入学定員が同じで、平均学力が変わっていないのであれば、地域の進学校への入学難易度は下がることになります。そのような地方の進学校での学習では、都市部の進学校の生徒と受験学力で競うのはますます難しくなりそうです。出身地域による教育の機会と結果の差が拡大する可能性があるわけです。

 このような実態と向き合って、どのような出身家庭、出身地域、性別でも、一人ひとりが自身の可能性を最大限に追求できる教育制度を整備したいところです。効果的な教育実践や政策も模索して、試行錯誤を重ねながら実際に少しでも結果を改善することにこだわる。このような「やりっ放し教育行政」から「結果を出すことにこだわる教育行政」に変えるためには、みなさんを含め一人でも多くの人の支持が必要です。自分には関係がないと思わず、データを通して社会全体の実態を踏まえた上で教育政策の議論に参加して頂きたいと願います。

参考文献
松岡亮二(2019)『教育格差:階層・地域・学歴』ちくま新書
松岡亮二(編著)(2021)『教育論の新常識:格差・学力・政策・未来』中公新書ラクレ
中村高康・松岡亮二(編著)(2021)『現場で使える教育社会学:教職のための「教育格差」入門』ミネルヴァ書房
松岡亮二・髙橋史子・中村高康(編著)(2023)『東大生、教育格差を学ぶ』光文社新書

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著者略歴

  1. 松岡 亮二

    龍谷大学社会学部准教授。ハワイ州立大学マノア校教育学部博士課程教育政策学専攻修了。博士(教育学)。東北大学大学院COEフェロー(研究員)、統計数理研究所特任研究員、早稲田大学助教・専任講師・准教授を経て、2022年度より現職。日本教育社会学会・国際活動奨励賞(2015年度)、早稲田大学ティーチングアワード(2015年度春学期、2018年度秋学期)、東京大学社会科学研究所附属社会調査データアーカイブ研究センター・優秀論文賞(2018年度)、早稲田大学リサーチアワード「国際研究発信力」(2020年度)などを受賞。著書『教育格差(ちくま新書)』は、1年間に刊行された1500点以上の新書の中から中央公論新社主催「新書大賞2020」で3位に選出。2024年5月時点で16刷、電子版と合わせて6万8000部突破。

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