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スペシャルトーク「男性特権、男性性、フェミニズム――日韓のジェンダー事情を語りつくす」@東京・Readin’ Writin’ BOOK STORE

【前編】母の経験からはじまる本

2022年4月9日、Readin’ Writin’ BOOK STOREで『私は男でフェミニストです』(チェ・スンボム 著/金みんじょん 訳)の刊行記念イベントを行いました。著者が考え実践したフェミニズムについて、本書の翻訳者でエッセイストの金みんじょんさんと、恋バナ収集やご自身の経験、「一般男性」の話などから男性性について考え続ける清田隆之さんが、熱く語り合いました!
対談の一部を、3回にわたってお届けします。

著者からのメッセージ

清田 ご紹介にあずかりました清田です。今日はなんとなく司会っぽい役割もさせてもらえたらと思います。『私は男でフェミニストです』が出たとき、担当編集さんから「ぜひ、この本を読んでみてください」と連絡をいただいて、たまたまそのあとに『図書新聞』から書評の依頼があって、すごく縁をいただいてこの本に出会いました。

読んでみたら、韓国で高校の先生をしている著者のチェ・スンボムさんが、男性としてフェミニズムの問題をどう考え、どう自分事として受け止め、どう発信していくか、そして、男子生徒たちとの関りの中でジェンダーの問題をどのように伝えていくか、あるいは、バッシングというか批判みたいなもの、「男性なのにフェミニストなの?」とか「男のくせに」みたいな視線とどのように対峙していくのかを、いろいろな体験や考えから実践、行動し、それを言語化していくという本です。

今回、翻訳を担当された金みんじょんさんとご一緒できるということで、僕もこの本の一読者として聞きたいことがたくさんありますが、まず、著者からのメッセージもあるので、ご紹介いただいてもよろしいですか。

 『私は男でフェミニストです』の翻訳を務めました金みんじょんと申します。よろしくお願いいたします。お読みになった方も、お読みでない方もいるかもしれませんが、この本は、お母さんの話を起点に、自分がどのようにフェミニズムに目覚めたのか、そして、実際に韓国で起きたいくつかの事件を取り上げて、自分はどのように考えたのか、実際に女性はどのような立場に立たされているのかなどを書いたエッセーです。

著者のチェ・スンボムさんから、今日参加してくださったみなさんへメッセージをいただきましたので、まず、そのメッセージをご紹介したいと思います。

日本の読者のみなさま、こんにちは。直接お会いすることができず、書面でお伝えすることになり申し訳ない気持ちでいます。日本と韓国はアジアの中でも珍しい経済的、文化的な先進国だと思っています。韓国は長い間、日本に憧れ、日本に追いつくことが主要な成長戦略でした。しかし、めざましい経済的発展に比べて、人権問題を含め政治的、社会的な成熟度は日本も韓国も両方とも足りないところがあると考えています。女性は歴史上最も長い間、最も多くの数を占めているマイノリティーです。性差別問題を解決しなくては平等も平和もないと考えています。白人や資本家、異性愛者、非障害者が問題意識を持たない限り、人種問題や労働問題、性的マイノリティー問題、障害者問題の解決が難しいように、男性の問題意識なしに女性の人権問題を解決することも難しいと考えています。私の本が日本の男性たちのジェンダー意識に少しでも訴えかけることができれば、うれしく思います。

ここまでが著者からのメッセージでした。

清田 とてもありがたいですね。チェ・スンボムさんもここで一緒にお話できたら最高でしたが、こうして直接メッセージをいただいたりして、東京の下町でこのイベントが行われていることを知ってくれているのはうれしいなと思います。

母の経験と息子の語り

清田 金さんは、なぜ本書の翻訳を引き受けようと思ったのか、お聞きしてよろしいでしょうか。

 最初に翻訳の話を聞いたのは、翻訳者のすんみさんからです。すんみさんからこの本を紹介していただいて、第1章を読みました。お読みになった方はわかると思うのですが、お母さんがものすごく有能な人なんです。保険の外交員だけれども、とても営業成績が良くて、いい給料をもらっている。でも、家に帰ってきたら、家族からそれほど大切にされず、ときどきお父さんに暴力を振るわれているということが書かれています。衝撃でもあるんですけれども、ある程度、想像のつく話でした。うちはどうだったんだろう、ほかのうちはどうだったんだろう、うちのおばさんたちはどうだったんだろうと考えたときに、これは何も珍しいことではないと思いました。

女性たちは、暴力的な中にあってもそれを当たり前だと思ってしまうと、どういう行動をとったらいいかがよくわからないということがあります。離婚して一人で暮らしてもいいような経済力があるのに、そういったことはほぼ考えられない。いまの家庭を維持していくことに必死になっている。同じようなことをたぶんうちの母もしてきましたし、うちのおばさんたちもしてきたので、そういうのを見ると、誰でも共感できるところがあり、ぜひ翻訳をさせていただきたいと思いました。

清田 僕の実家は下町で電気屋さんをやっていて、両親ともにお店で働いていて、父親は生まれて一度も怒ったことがないくらい穏やかな人でしたが、母親は逆にカリカリしている感じで、著者と同じような景色の家庭ではなかったと思うんです。けれども、息子として家事を手伝うとかしたこともなかったし、いつもイライラ、カリカリしていた母親の背景を想像したこともなかったし、自分の着ている洋服とかがどのようなプロセスを経て、脱いだあとタンスに戻ってくるのかも考えることなく生きてきてしまったんですね。

そういう幼少期を生きてきたということは間違いなくあるので、自分が母親のことを語るのは結構恥ずかしいというか……。

社会学者の平山亮さんは、著書『介護する息子たち』(勁草書房)の中で「男性が息子としての自分に向き合うこと、そして、息子としての自分をオープンにすることは、男性としての経験のなかでも、ハードルの高い経験なのではないか」と述べています。ケアされていた弱い自分、無能な自分を直視することになるし、それは社会的に存在する男らしさのイメージとも合わない。だから、息子としての経験を語らずに、さも最初から成熟した大人であったかのように自分を語るという傾向を指摘していて、それはすごくわかるなと思いました。お母さんと自分の関係、自分が母親に対して抱いている感情を言葉にするのは恥ずかしいし、苦しいことです。母親のことを悪く言いたくないという気持ちと、でも、母親との間に抱えていたいろいろな葛藤があります。

うちのお母さんは教育ママみたいな感じで、「勉強しろ、勉強しろ」という圧力がすごくて、逆に僕が主体的に選び取った趣味、たとえばサッカーや友人たちとの遊びにはあまり興味を示さない。「私立の中学へ行け」「ラルフローレンの服を着なさい」とか、そういう感じで抑圧的だった部分もあって、すごく嫌だなと思っていました。でも一方で、身の回りの世話を依存していたわけで、母親に対する複雑な気持ちはいまでも言語化するのがなかなか難しい。

チェ・スンボムさんも、自分たちの快適な生活が母の苦労によって支えられているということは考えてみれば一目瞭然なのに、その不均衡さやバランスの悪さにはなかなか目を向けられない。結果、母親が体をこわしてしまったり、精神のバランスを崩してしまったりという光景を目の当たりにします。原因や背景を考え始めると、自分が加害者側というか自分が恩恵を受けている側だから、直視するのがものすごく苦しいことになってしまうじゃないですか。だから、ほとんどの男性は目を背けてしまうのではないかと。

僕は『図書新聞』の書評で、母親の話は「著者のアキレス腱」という書き方をしました。これは上野千鶴子さんの表現をお借りしたものですが、母親の話から始めている点がとにかく衝撃でした。

1回で折り紙が折れなくて怒られる

 私が思うにお母さんの苦労というのは、本来であれば、子どもではなく夫が考えなければいけないことではないでしょうか。息子が母を思う以前に、夫が妻を思う。息子は加害者かもしれない。でもそれ以前に、夫たちが妻たちを顧みない、考えようとしない、向き合おうとしない。だから、お父さんたちの罪を、ある種、息子が被ってしまっているという現象がいま起きているわけです。それを著者はものすごく素直に書いているのでスッと入ってくる。

一方で、娘たちもある種加害者かもしれないですよね。実際に恩恵を受けながら、特にいまのように晩婚化が進んでくると、30歳になっても、家に帰れば、お母さんが用意したご飯があって、服があってみたいな快適さがあったりしますよね、男女関係なく。ただ、母親の苦労に自覚的なのは、息子より娘の方が多いのではないかと思います。

清田 金さんはいかがでしたか? 本書の内容には既視感があると仰っていましたが、ご自身が育った家庭、たとえばお母さんとお父さん、あるいは、おじいちゃん、おばあちゃん、おじさん、おばさんなどの様子を見たときに、本書で描かれているような「男の人は何もしないで女の人ばかりが動く」という光景が実際に繰り広げられていたのでしょうか。

 私は韓国の田舎で育っているのですが、お正月とかに法事を家でやります。ご飯をつくるのは女性ですが、法事の場であいさつをして、先祖を祀る儀式をするのは男性のみです。女性はその部屋に入ることすらできない家もあります。

清田 そういう状況って、娘である金さんの目にはどんなふうに映っていたのでしょうか。たとえば子どもながらに「おかしいな」と違和感を抱いたり、友だちと「息子と娘の扱いが違うよね」なんて話をしていたり、そんなことがあったのかなと。

 小さいころはあまり気付きませんでした。私には弟がいますが、私は女の子でした。

おばあちゃんは息子が生まれなくて非常に苦労したのですが、そうであれば、女の子にやさしくしてもいいはずなのに、やはり弟と私とではものすごく差がありました。たまたま私は飲み込みが早くて、1回教えれば大抵のことはできるような子でした。祖母は私たちに折り紙を教えてくれていたのですが、そのときたまたま祖母が教えてくれた折り紙が1回で折れなくてものすごく怒られました。でも、弟が100回間違えても100回やさしく教えてあげるんです。間違いなくその差を感じながら育ったと思います。

清田 少し状況は違いますが、この本にも、女性は一つのミスをすれば怒られるけれども、男性は100回失敗しても1回成功すれば「よくやった」と言われるみたいな描写がありましたよね。

妹に指摘された肉詰めピーマン事件

清田 僕には6歳違いの妹がいるのですが、年が離れていたこともあり、きょうだいで比べられるということはあまり感じたことがありませんでした。でも、それは兄の側だからそう感じていただけで、最近、妹と話すと、「お兄ちゃんはいつも特別扱いされていた」とか「怖かった」「偉そうだった」とか言われるんです。言われてみれば思い当たる節はあって、6歳下の妹に「お茶!」とか命令していたなって……中学生のとき、まだ小学生だった幼い妹に。

さらに、肉詰めピーマンがよく食卓に出ていたんですけれども、この間、妹に「お兄ちゃんは私のおかずの肉を取って、自分のピーマンを私の皿にのせて、私にピーマンばかり食べさせていた」と言われたりしました。思い出すのも恥ずかしいことで、都合よく記憶の端に追いやっていました。

小さな家庭の中で6歳下の妹に自分の権力を堂々と振るうというみみっちさに向き合うのはつらいですが、でも、妹は結構鮮明に覚えているんです。僕は6歳上の兄で、年も離れているし、男で、特権にまみれたポジションにどかっと座っていたから、いろいろなものに無自覚で、自分が享受している恩恵について考えようともしない。だから記憶にも残らない。「うちはお母さんが強かったし、ジェンダー的な偏りはあまりない家だったな」くらいに以前は考えていましたが、僕が受験生の時に毎日イライラしていて、「お兄ちゃんよく壁殴ってたよね」とか、妹から細々としたエピソードを聞くにつれ、「本当に申し訳ありません」という気持ちになっていき……。

いま、妹からよくLINEでアマゾンのリンクが送られてくるんですね。甥っ子や姪っ子、あるいは妹自身が欲しがっているものだったりするんですが、自分は喜んでそれらをポチり、登録されている妹宅の住所に届けています。モノで姪や甥の歓心を買いたいという浅はかな気持ちもありますが、個人的には、それ以上に妹に対する罪滅ぼしみたいな思いが強くあって。

つくづく特権的なポジションだったと思います。長男で、6歳離れたお兄ちゃんで。だから、あらためてそうやって指摘されないと、都合よく記憶が改ざんされてしまっている部分が大いにあるわけですが、チェ・スンボムさんはそういうところに慎重というか、これを書くのは本当につらかっただろうなということも書かれていますよね。そこがすごいなと正直に思いました。

 男としてつらいこと。たぶん男性が受け入れるにはつらい現実みたいなものがありますよね。それを意外とすんなり受け入れて書いてらっしゃる。

清田 著者のフェミニズムへの目覚めというか、本書で言う「フェミニズム思考」ですね。それはお母さんとの関係もそうだし、男性として抱えているジェンダーの問題をちゃんと考えないといけないという意識が芽生えたきっかけみたいなものも、いろいろ書かれています。

 韓国に上野千鶴子先生のような、チョン・ヒジンさんというフェミニズム研究の先駆者がいて、チェ・スンボムさんはチョン・ヒジンさんが教授を務めている大学に通っていました。その大学は、全体的にフェミニズムがものすごく盛り上がっている大学で、ゼミもたくさんあって、学会の発表もたくさんあって、そういったところに参加することがとても多かったとおっしゃっていました。

清田 日本でいったら上野千鶴子ゼミの学生さんみたいな。

 そうです。ゼミに入ってはいないけれども、聴講したり、学校内の運動に参加したりということを常にやっていたとおっしゃっていました。

【中編】に続く


 

目次

プロローグ
 男がフェミニストだって?

1章 母と息子 
 我が家がおかしい 
 貧しい家の娘の人生 
 フェミニズム思考のはじまり 
 中年女性の居場所 
 ほかの家もこうなのか? 
 母のうつ病 

2章 フェミニズムを学ぶ男 
 善意と良心にだけ依存するのは不安だ 
 性暴力事件はどのようにして起こるのか 
 いい女は天国に行くが、悪い女はどこにだって行ける 
 厳格に見える家父長制の卑劣な陰 
 男だからよくわからないんです、学ばないと 
 生徒と教師で出会ったが、いまでは同志 

3章 先生、もしかして週末に江南駅に行ってきたんですか? 
 私が沈黙しなかったら 
 なぜ女性嫌悪犯罪と言わない? 
 同志はいずこへ、イルベの旗だけが空を舞う 
 大韓民国で女性として生きるということ 
 男には寛大に、女には厳格に 
 被害者に詰め寄る韓国社会 
 統計で見る韓国女性の一生 
 男もフェミニストになれるだろうか 

4章 八〇〇人の男子生徒とともに
 生きるためのフェミニズム授業 
 「そばの花咲く頃」――性暴力を美化しているのではないか 
 「春香伝」――いまも昔も女性はなぐさみもの 
 李陸史は男性的語調、金素月は女性的語調? 
 『謝氏南征記』――真犯人は誰だ? 
 『未来を花束にして』――現在に生きず、歴史に生きよう 
 [人間]-[男性]-[成熟]が「少女」だとは 

5章 ヘイトと戦う方法 
 男ばかりの集団で発言すべき理由 
 間違って定めた的、そしてヘイトがつくりだした左右の統合 
 差別の歴史的淵源 
 男子高校でフェミニズムを伝えます 
 生徒たちの非難に対処する方法 
 同志とはどのように結集するか 
 有利な側より有意義な側に立つこと 

エピローグ
 共に地獄を生き抜くために 

読書案内――男フェミのためのカリキュラム

解説 『82年生まれ、キム・ジヨン』の夫、それとも息子?――上野千鶴子

訳者あとがき

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著者略歴

  1. 清田 隆之

    文筆業、恋バナ収集ユニット「桃山商事」代表。早稲田大学第一文学部卒業。これまで1200人以上の恋バナを聞き集め、「恋愛とジェンダー」をテーマにコラムやラジオなどで発信している。朝日新聞be「悩みのるつぼ」では回答者を務める。単著に『自慢話でも武勇伝でもない「一般男性」の話から見えた生きづらさと男らしさのこと』(扶桑社)、『さよなら俺たち』(スタンド・ブックス)などがある。

  2. 金 みんじょん

    翻訳者、エッセイスト、韓国語講師。慶應義塾大学総合政策学部卒業。東京外国語大学大学院総合国際学研究科博士課程単位取得退学。韓国語の著書に『母の東京―a little about my mother』『トッポッキごときで』、韓国語への訳書に『那覇の市場で古本屋』『渋谷のすみっこでベジ食堂』『太陽と乙女』『海を抱いて月に眠る』などがある。『私は男でフェミニストです』は、はじめて韓国語から日本語に訳した本。

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