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過去につながり、今を問え!

突然の過去(1)――骨が語るアイルランド大飢饉

 新聞やネット記事に目を通していると、ふとした瞬間に「突然の過去」が押し寄せてくることがある。歴史研究者としてよく知る過去の出来事が、かたちを変えて突然近くに姿を現した、とでも言おうか。見逃していた記事に目が留まり、その内容が妙に心をざわつかせるのである。そんなときは、意識するとしないとにかかわらず、わたしたちの「今」がうごめいている。

 たとえば、これを書いている2022年5月末、10年ほど前の「発見」とそれが伝える「突然の過去」が私の心を揺さぶっている。それはおそらく、現在くりかえし目にし、耳にする3つの出来事のせいだろう。ひとつは、ロシアの激しい攻撃で唐突に日常を奪われ、戦士となった父や夫、兄弟を祖国に残して、住みなれた故郷を脱出するウクライナの女性や子どもたちの姿。二つ目に、2022年4月下旬、知床半島西海岸沖、カシュニの滝近くで消息を絶ち、後日沈没が確認された遊覧船事故。連日の捜索にもかかわらず、26人の乗船客のうち12人の行方が依然として不明である(2022年6月10日現在)。そしてもうひとつは、2022年5月、山梨県内の山中で見つかった肩甲骨が、DNA鑑定の結果、近くのキャンプ場で3年前に行方不明となっていた小学生のものと同定されたことである。

 私を揺さぶった「突然の過去」とこれら3つの出来事は、いずれも痛ましいという点で共通するものの、直接交わることはない。だが、この3つの事件報道が響きあって、2022年5月末、私の目は10年余り前のその記事――当時は気づかなかったその出来事に吸い寄せられた。

2011年、ケベックの浜辺の骨

 カナダ、ケベック州東部、セントローレンス湾と同名の川とをつなぐ河口近くに位置するガスペ半島(ガスペジー)。16世紀前半、フランス王室の命を受けた探検家ジャック・カルティエ(1491-1557)がこの半島に到達したことで、ケベックがフランスの植民地となるきっかけが生まれた。殉教聖人である聖ローランにちなむ「セントローレンス」という入江や川の命名も、先住民の言葉で集落を意味する「カナダ」という呼称も、カルティエによるものだ。半島の北東端にあるフォリヨン国立公園は、深い森、砂丘、断崖絶壁などの多彩な風景で、世界中のトレッキング・ファンを魅了している。


フォリヨン国立公園
Cap Bon-Ami, on the North side of the Forillon peninsula. Photo taken in July 2005 by Danielle Langlois at the Forillon National Park in Quebec, Canada.

 2011年、激しい春の嵐が去ったあと、フォリヨン国立公園が管轄するカップ・デ・ロジエの浜辺で複数の人骨が発見された。カナダ公園局事務所からモントリオールの法医学研究所に送られた骨の鑑定は、モントリオール大学の生物考古学教室に託された。

 見つかった骨は、25個余りの椎骨(いわゆる背骨)、12本の長骨(上腕骨や大腿骨など)、あご骨のかけらなどで、いずれも古く、断片でしかないうえに、触れただけで崩れるほど脆く、鑑定関係者の言葉を借りれば、「溶けるといった方が近い」状態であったという。この状態自体が、骨の来歴の一端を物語っている。

 骨の状態は身元を特定するDNA鑑定とも関わるが、そもそも、骨のDNA鑑定は、血液や皮膚などとは異なり、極めて困難である。それは、2022年5月、山梨県のキャンプ場近くで発見された骨の身元をめぐって、日本じゅうの関心を集めた事実でもあった。各メディアは、視聴者・読者に耳慣れない骨の鑑定方法について、専門的な説明を交えながら、詳細に報じている。身元の特定に必要なDNAが入手できるかどうかは骨の状態によること。山梨の発見現場のように、沢のような水分の多い場所に長期間置かれた骨は、分解が進んでしまい、鑑定が難しいこと――。それでも、科学技術の進歩もあって、右肩甲骨から鑑定に足るDNAが発見されたと聞く。

 残念ながら、カップ・デ・ロジエの浜辺で見つかった骨からは、現代科学をもってしても、DNAの抽出はできなかった。だが、現代科学は、この「溶けるように脆い」骨から死者の声を聴きたいと願う科学者に、骨の来歴と関わる重要な手がかりを与えることはできた。骨格には私たちの食生活が反映されるからだ。骨から生前のたんぱく質や野菜といった栄養摂取の実態がわかるし、栄養失調のような慢性的な健康障害も骨に現れる。

 鑑定に当たったモントリオール大学の生物考古学者らは、大きなテーブルの上に発見された骨を丁寧に並べて思案した。歯(とおぼしき骨)のエナメル質を少しだけ削り取り、化学組成を調べたり、骨のカーブの検証を行ったりした。その結果、骨は3人のヨーロッパ人の子どものものであることがわかった。推定年齢は約7歳(2体)と12歳くらい。3人とも植物中心の食事、とりわけジャガイモを主食とする農村地域に暮らす人びとに典型的に認められる骨の特徴を示すとともに、いずれもたんぱく質不足、栄養失調状態に陥っていた。ある骨のカーブからは、長期のビタミンD欠乏によるくる病(骨軟化症)の兆候が認められた。

 ヨーロッパの子ども、主食はジャガイモ、栄養失調――これらのキーワードを総合して、鑑定にあたった生物考古学者は、発見から3年後の2014年12月、公式記者会見で、これらの骨は1840年代半ばのジャガイモ飢饉を逃れ、カナダに移民しようとしていたアイルランドの子どもたちのものではないか、との仮説を示した。

アイルランドのジャガイモ飢饉

 1840年代半ばから1850年代初頭にかけての数年間、アイルランド全土で猛威をふるったジャガイモ飢饉については、すでに多くのことが書かれ、語られ、知られている。その直接的な原因は、1843年にアメリカからヨーロッパ諸国に伝わったジャガイモの病気、胴枯れ病であり、アイルランドのみならず、ベルギーやオランダ、スコットランドなどでも大きな被害が出た。だが、ジャガイモを主食としていたアイルランドで、数年にわたって続いたジャガイモの極度の不作は、他に例を見ない犠牲者をもたらした。「大飢饉」と言われる由縁である。

 ちなみに、アイルランド史の専門家である齋藤英里氏によれば、アイルランドでジャガイモのみを主食とする傾向は19世紀初頭から強まり、1841年の国勢調査で示されたアイルランド人口約850万人のうち、4割強がジャガイモだけに食を依存してきたという。加熱してもビタミンCが壊れにくく、カリウムが豊富で栄養価も高いジャガイモの普及は、19世紀前半、アイルランドの順調な人口増加を支えてきた。だが、飢饉となると、それが裏目に出て、他のヨーロッパ地域にはない悲劇を生んだのである。

 正確な死者数、移民数の記録はないものの、よく伝えられるのは、「1845〜50年に100万人以上が亡くなり、100万人を超える人がアメリカやカナダ、オーストラリアなどに移民した」という語りだろう。死因は餓死だけではなく、栄養失調や不衛生な環境がもたらすチフスやコレラなどによる病死も多かった。体力、抵抗力の弱い老人、そして乳幼児に犠牲者が多いことも想像に難くない。また、救貧院など人が密になる環境で感染症が拡大して犠牲者を増やしたことも、コロナ禍を経験したわれわれには容易に理解できる。

 この出来事で、アイルランドの人口は激減した(表1)。それ以前から大西洋を渡ってアメリカをめざすアイルランド移民は多かったが、大飢饉が収まったのちも、この島を離れる移民の波は止まらなかった。現在もなお、飢饉直前、アイルランド人口がピークに達した1841年の人口を回復していない。

表1 アイルランドの人口推移(齋藤英里「第6章 大飢饉と移民」上野格・森ありさ・勝田俊輔編『アイルランド史』山川出版社、2018年、216頁より引用)

 死か移民か――。いや、大西洋を渡る移民たちの航海は、常に死の危険と隣り合わせであったはずだ。彼らの体は飢饉でかなり衰弱していたうえに、着の身着のままで船に乗り込んだ彼らに、身体を温める毛布や衣服も十分ではなかっただろう。アイルランド諸港からカナダ、ケベックまでの航海は40日余り。その間、一人一日上限2パイント(約1.1リットル)の水は提供されたというが、それ以外の食事はすべて自前で準備せねばならなかった。トイレを含め移民船内部の衛生環境は極めて悪く、満足な食事がとれない状況とあいまって、チフスやコレラといった感染症はあっという間に船内に広がったであろう。海難事故ならずとも、航行中に、あるいは上陸直後にも、亡くなる人があとを絶たなかった。大飢饉脱出の移民船が「棺桶船」と呼ばれるのはそのためである。

 わけても、1846年11月から47年にかけての冬の寒さは例年以上に厳しく、餓死者も病死者も多かった。1847年は、のちに「暗黒の47年」と呼ばれる。イギリス政府(1800年の合同法でアイルランドは連合王国に組み込まれていた)は、それまでの飢饉同様、この飢饉もすぐに収束するだろうとの甘い予測を捨て切れなかった。アイルランド人になじみのない、しかも尋常ならぬその硬さから「フリント(火打石)・コーン」と呼ばれたトウモロコシの輸入をはじめ、いくつか手を打ってはみたものの、いっこうに飢饉は収束しない。そこでイギリス政府は、1847年春から、大英帝国の植民地であるカナダやオーストラリアへの移民を奨励する政策を打ち出す。

 2011年に見つかった骨は、まさにこの1847年の政府補助で、カナダ、ケベックに向かった移民船の乗客のものではないか――骨の発見から3か月ほどのち、すなわち骨の鑑定結果が出るずっと以前に、カナダの全国紙『グローブ・アンド・メイル』(2011年7月19日)は、地元カップ・デ・ロジエに伝わる伝承に基づき、早くもそんな推測を披露した。

1847年、スライゴからの脱出

 当時イギリスやアイルランドの港からカナダへ向かう移民船のメインルートは、セントローレンス湾からガスペ半島を左手に見つつ、セントローレンス川へと入り、川を遡ってケベック港をめざす、というものであった。移民たちはケベック到着後、さらにモントリオールやトロントへ、そして多くはアメリカに向かって、旅をつづけたとされる。それまで多くのアイルランド移民を受け入れてきたのはアメリカであり、ペンシルヴェニアやカロライナはじめ、いくつかのコミュニティが形成されていた。大飢饉に際して移民希望者の多くが望んだ移民先もアメリカであった。だが、アメリカは、最低運賃を値上げするなどして、貧しいアイルランド人の大量流入を抑制しようとした。勢い、カナダへの貧しい移民が急増した。

 大飢饉の10年余り前、1832年から、ケベック港の手前50キロほどのところに浮かぶグローセ島(グロス・イル)には、ヨーロッパからの病気流入を警戒したカナダ側が検疫所を設けており、移民たちはここで発熱や病気の有無をチェックされた。アイルランド大飢饉期の移民の詳細がつかめるのは、脱出地であるアイルランドの港以上に、受け入れ地に設けられたこの検疫所の記録によるところが大きい。

 統計によれば、「暗黒の47年」には、航海中、および検疫所到着後にこの島で死亡したアイルランド移民は18,000人近くにのぼり、この年のカナダ移民全体(約106,000人)の17%近くにものぼった。特にアイルランド北西部スライゴ発の移民船では14人に1人、南部コーク発の船では9人に1人と、死者の割合が高かった。『グローブ・アンド・メイル』が早々に言及したその船――「ホワイトヘイヴンのキャリックス号」(以下キャリックス号)も、スライゴから上記通常ルートを通ってケベックをめざした「棺桶船」のひとつであった。地元ガスペ半島の伝承と文書史料をつき合わせると、以下のような話になる。

アイルランドの港、スライゴとコーク

 1847年4月5日、キャリックス号は、187人(180人、173人との記録もある)の乗員・乗客を乗せて、スライゴの港を出航した。船は前後2本のマストに数本の横帆がある「ブリッグ」と呼ばれる帆船で、当時の軍船や商船によくある型式で、200トン余り。乗り込んだ人びとの大半は、ヘンリー・ジョン・テンプル(1784-1865)が所有する土地で働いていた小作人たちだった。

 テンプル家はアイルランド貴族として「パーマストン子爵」を継承する家柄で、典型的な不在地主である。1802年に第3代子爵を継いだヘンリー・ジョンは、ヴィクトリア女王の時代、「政界の長老」と呼ばれた名うての政治家であり、大飢饉の期間はずっと、三度目の外務大臣(1846-1851)の要職に在った。その後、1855年から亡くなる1865年の10年間には、二度も首相を務めることになる。


フランシス・クルクシャンクによる第3代パーマストンの肖像画(1855年頃)には、老獪な政治家の面影が漂っている。政治評論家のウォルター・バジョットは、古典的名著『イギリス国制史』の第2版(1872年、初版は1867年)の序文に、1830年代から60年代にかけて権勢をふるったパーマストンのことをこう書いている。
「彼[パーマストン]はいくつかの点で常に若々しかったが、若い世代にはまるで共感示さなかった。若い世代を引き立てることもなく、彼らの望むことすべてを妨害した」。

 先にも述べたように、1846年から47年にかけての冬は、例年以上に寒さが厳しかっただけではない。小作料が払えない農民に対する地主の強制立ち退き要請も厳しく、激しくなった。明日が見通せない小作人に対して、イギリス政府がカナダやオーストラリアなど大英帝国領土への移民に本腰をいれはじめたのが、先述したように、1847年春のことであった。キャリックス号はパーマストンに「チャーターされていた」とも言われるが、それは定かではない。キャリックス号は、パーマストンがアイルランドの自領からの追放者をカナダに送り込もうとした、きわめて初期の政府援助移民の事例だということはできるだろう。

 飢饉当時、パーマストンを含む第一次ラッセル内閣(1846-1852)は、さまざまな対策を講じている。前政権がすでに可決していた穀物法廃止の施行に先立ち、穀物輸入税を一時停止して、アメリカからの安価な穀物の確保に動いた。スープキッチンを開設し、救貧法の拡大適用も試みた。だが、いずれも実施や終了のタイミングを逸してしまったことで、十分機能したとは言いがたい。たとえば、アメリカ産穀物の価格が下がり始めるのは1847年春以降でしかなく、スープキッチンは早くも1847年10月初旬に終了となり、飢饉収束に対する政府の見通しの甘さを露呈した。

 「当時のロンドン政府は国民を見捨てた」――「暗黒の47年」から150周年となる1997年6月1日、5月の総選挙で地滑り的勝利を収めたばかりのブレア首相は、イギリス政府の非を認める上記メッセージをアイルランドに向けて発信した。このとき突然、ブレア首相が150年前の過去につながろうとした背景に、政治的思惑があったことは想像に難くない。それはのちに考えることにして、1847年4月、スライゴを出航したキャリックス号に話を戻そう。

キャリックス号沈没の記憶

 1847年4月下旬、キャリックス号は順調に大西洋の航行を終えて、ニューファンドランド島を右手に見ながら、カナダ、ガスペ半島に接近し、セントローレンス湾に入ろうとしていたはずだ。船内の人びとに旅の終わりが見えつつあったその夜、ガスペ半島周辺は雪嵐に見舞われ、キャリックス号は、船を動かす装具(リッグ)が凍結して操舵不能となった。引き潮で岩礁に乗り上げた船は、潮が満ちると岩から離れ、浸水して沈没した。遭難の日付については、早いものでは4月28日、あるいは5月19日、さらに遅いものだと5月23日と、諸説ある。日付の混乱は、同時期、他にも「棺桶船」で多くの遭難事故が起こっていたことが一因であろう。たとえば、キャリックス号と同じ嵐で、キャリックス号沈没の少しのち、リヴァプール発のブリッグ船「ミラクル号」が、ノヴァ・スコシア沖合、現在は地球温暖化で消滅が危惧されるマグダレン諸島(マドレーヌ諸島ともいう)近くで遭難、沈没している。

 4月28日にせよ、5月19日にせよ、1847年のガスペ半島近辺の海は、2022年4月下旬の知床の海と同じくらい(あるいはそれ以上に)冷たく、飢えと疲労、病で衰弱した移民たちの身体にはかなり堪えたに違いない。

 乗船者数や犠牲者数には諸説あるが、キャリックス号の生存者数が48人という点では、いずれの記録も一致している。行方不明となった140人ほどのうち、地元民も加わった捜索の結果、87(80という説もある)の遺体が確認され、遭難場所に近いカップ・デ・ロジエの地に集団埋葬された、と伝えられる。

 セントローレンス湾に突き出たガスペ半島の最先端、この地に群生する野ばらにちなむカップ・デ・ロジエ(薔薇岬)は、タラ漁で知られる漁村だ。1847年当時、地元の人たちは、行方不明者の捜索のみならず、生存者のその後の生活再建に力を貸すとともに、その後もキャリックス号遭難の記憶を伝えつづけた。このあたりの話は、1890年(明治23)9月、和歌山県串本町沖で台風のために遭難、座礁したトルコのエルトゥールル号、並びにその生存者救助のために奔走した紀伊大島島民の方々を想起させるかもしれない。

 さて、ヨーロッパからの移民の受け皿となったケベックへの入口、ガスペ半島には、船の航行を助ける灯台がいくつか設けられており、現在はそれらをめぐるツアーが人気だと聞く。だが、キャリックス号の遭難当時、カップ・デ・ロジエに灯台はなかった。遭難現場近くに灯台が作られたのは、キャリックス号沈没の記憶がまだ新しい1858年のことであった。1973年にカナダの歴史的遺跡に指定されたこの灯台は、高さ34m余りとカナダ最長を誇る。

カップ・デ・ロジエ灯台
Cap-des-Rosiers Lighthouse, Quebec. Photo by Dennis Jarvis.

 87の遺体を埋葬した浜辺近くの集団墓地には、埋葬当時、何の目印もなかった。1900年、モントリオールのセント・パトリック教区――アイルランドの守護神を冠した教区と大飢饉を逃れたアイルランド移民との関係は推して知るべしだろう――の神父の募金活動により、カップ・デ・ロジエに追悼碑が設置された(追悼碑の外観は以下のサイトから見ることができる。“Introduction to Cap des Rosiers Irish Memorial”)。

 カナダには、大飢饉期のアイルランド移民に関する悲しい記憶とそれを伝える碑がいくつか存在する。1937年まで検疫所が設置されていたグローセ島の墓地はその典型例だ。

1909年にグローセ島に建立されたアイルランド飢饉犠牲者追悼碑
Memorial erected in 1909 in commemoration of the death of Irish immigrants of 1849. Grosse-Île, Québec, Canada. Photo by Jules-Ernest Livernois.

 キャリックス号遭難の話をその神父がどのようにして知ったかは定かではないが、19世紀最後の年、1900年8月10日、ケベック州政府やケベック市長、灯台関係者らを集めて行われたキャリックス号追悼碑の除幕式典には、800人余りの人びとが参加したと記録されている。赤いグラナイト(花崗岩)製の追悼碑のデザインにも、関心が集まったようである。2011年に3体の骨が発見された海岸は、この追悼碑から40ヤード(約36.5m)ほどしか離れていない。地元の伝承によれば、追悼碑の近くにキャリックス号犠牲者の集団墓地があったとされる。伝承は本当なのか。

2016年、カップ・デ・ロジエの18体

 21世紀に入り、ガスペ半島付近は、地球温暖化の影響を受けて海岸線を守ってきた氷が少なくなり、カップ・デ・ロジエ付近でも海岸線の浸食が問題化していた。2016年、海岸線復元のためにカナダ公園局が行った予備調査中に、さらに18体の遺骨が発見された。遺骨の年齢はさまざまで、成人9人、若者3人、子ども6人。骨の化学組成の分析結果は、2011年の骨と同じく、ジャガイモを主食とする特徴を示しており、その多くにやはり栄養失調の痕跡が認められた。成人の骨のうち、5人は女性と確認された。

 2019年秋、カナダ公園局は、骨の鑑定結果を地元の伝承や記録と照合して、2011年の3体を含めた21体の遺骨すべてが、1847年にカップ・デ・ロジエ沖で沈没したキャリックス号の犠牲者であり、発見現場近くに彼らを埋葬した集団墓地がある可能性が高いと、記者会見で発表した。2011年に発見された3人の子どもの骨は、折からの海岸線の浸食、そして激しい嵐で、埋められていた場所から掻き出されるようにして海面に押しあげられ、浜辺に打ち上げられたのであろうとの推測も示された。

 科学技術が歴史研究とタグを組めば、つなげなかった過去を今につなぐことができる。問題は、つながった過去が今に何を教えてくれるのかである。

 2011年、カップ・デ・ロジエの浜辺で骨が発見された直後から、骨の鑑定結果を、歴史記録の再検証を、固唾をのんで見守る人たちがいた。キャリックス号事故の生存者の子孫たちである。次回は過去につながった彼らの「今」に寄り添ってみたい。

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著者略歴

  1. 井野瀬 久美惠

    1958年愛知県生まれ。甲南大学文学部教授。京都大学大学院文学研究科西洋史学専攻単位取得退学。博士(文学)。第23期(2014-2017)日本学術会議副会長。大英帝国を中心に、(日本を含む)「帝国だった過去」とわれわれが生きる今という時空間との関係を多方向から問う研究をつづけている。主な著書に『大英帝国はミュージック・ホールから』(朝日新聞社、1990)、『子どもたちの大英帝国』(中公新書、1992)、『女たちの大英帝国』(講談社現代新書、1998)、『黒人王、白人王に謁見す』(山川出版社、2002)、『植民地経験のゆくえ』(人文書院、2004、女性史青山なを賞受賞)、『大英帝国という経験』(講談社、2007;講談社学術文庫、2017)、『イギリス文化史』(編著、昭和堂、2010)、『「近代」とは何か』(かもがわ出版、2023)など。

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