第3回 一人読むアリストテレス
教育は朗読でおこなわれ、本の内容は音読で伝わるなど、社会の根底に口承の文化があった古代ギリシャの世界。そんな古代ギリシャの一角で、本を黙って読み始めた一人の男が、知の歴史を形作ることとなりました。第3回は、彼、アリストテレスのお話から始まります。
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「本読み係」アリストテレス?
それでは、現在の我々が身につけているようなliteracyというのはどう重視されるようになったかというと、ひとつのターニングポイントになったのがアリストテレスです。ここで、アリストテレスの伝記に出てくる逸話をちょっと紹介しておきたいと思います。
「アリストテレスは熱心にプラトンの下で励んだため、彼の家は本読み係(anagnostos)の家と呼ばれたほどであった。」
anagnostosという言葉は、これまで多くの日本語訳では「読書家」と訳されてきました。「万学の祖」たるアリストテレスはやっぱり読書家で一生懸命勉強していたんだな、とすんなり理解できる話になります。しかし、私は以前「本読み係」と訳してみました。anagnostosという言葉は「本を読み上げる」という動詞から作られたもので、そうしたことを務めとする従者に使われていたからです。
これは逸話で真偽のほどは不明なのですが、ちょっと皮肉めいたニュアンスも含んでいる話としても読めます。1人で黙読するという現代の読書のような形が必ずしも一般的ではない状況において、家のなかで自分自身で本を読む、というアリストテレスの風変わりな研究態度を表わしているかもしれないのです。
じっさい、アリストテレスは著作のなかで自分の研究の方法について発言していますが、そこでは「文字資料も重視すべきだ」とはっきり主張しています。対話問答についてのいろいろなルールや論点の整理の仕方等について論じた『トポス論』という本では、こういうことを言っています。
「(何かを調べて探究していくときに)書き記された議論からも意見を採集して、それぞれの類について別々に項目を分けながら、一覧表を作る必要がある。たとえば、善について、あるいは動物について、そしてあらゆる善について、『それが何であるか』からはじめて一覧にするというように。そしてそれぞれの人の見解も、たとえば『エンペドクレスは物体の構成要素を四つと主張した』というように、その名とともに欄外に併記する必要がある」
これは実践的と言ってよい研究の方法についての示唆ですが、同時に明確にliteracyを重視する点で、「新たな研究スタイル」の主張とも言えます。
「哲学史」の始祖、アリストテレス
アリストテレスがこのような研究の方法を採ることができた背景には、書物が広く普及しつつあったという当時の環境があります。ただしアリストテレスが文字情報を重視したことの背景には、彼の哲学のいわば基本姿勢というべきものが働いています。
アリストテレスは何かを探究するうえで、先に触れた研究スタイルに従ってまず先行哲学者たちの見解を整理し、それを吟味批判しつつ、真理を探究しています。そのなかの最も大きな達成は、史上最初で最も影響力の大きい「哲学史」というものをつくったことでしょう。哲学を始めたのはタレスであり、タレスは水が始原(アルケー)であると言った。それからいろんな自然哲学があって、デモクリトスなどが出てきて……といったものですね。
これは高校の「倫理」で習うような「哲学史」ですが、実はアリストテレスが『形而上学』という本の最初の巻で書いたものです。タレスが最初の哲学者であるということも、アリストテレスがはじめて言い出した。またアナクシマンドロスやアナクシメネスなんていうのは、アリストテレスが言及するまでは少なくとも現存する文献には一切名前がない人たちです。そもそも、哲学史がこのように体系的な形で編まれることはそれまでありませんでした。
こういう試みをアリストテレスができたのは、「声」ではなく「書かれた記録」が多く存在し手に入れられるという環境が存在したからですが、同時に先行見解を尊重しその吟味を通じて考察しようとする、アリストテレスに特徴的な研究態度もはたらいていました。つまりliteracyの重視ということは、アリストテレス自身の哲学、とりわけ知の理解ということに深く関係していたのです。
アリストテレスの哲学については時間の関係上ここでお話しすることはできませんけれども、彼は「人間の知的能力」というものを基本的に信頼していました。いま触れた、哲学史が語られる『形而上学』という本の最初に掲げられているのは、「人間は自然本性的に知を求めるのだ」という言葉です。
人間の知への信頼
この言葉は、これまで「すべての人間は生まれながらにして知ることを欲する」と訳されて、一般的にも知られています。ずいぶん昔に「トリビアの泉」というテレビ番組があったときに、最初に出てきている言葉でしたね。そして、また別の著作では、アリストテレスは、「人間はほとんどの場合真理を手に入れている」(『弁論術』)ということも述べています。これらは、当時のギリシャの有力な知的伝統に歯向かうような発言で、アリストテレスもそのことを自覚しています。
当時の有力な知的伝統というのは、「人間というのは有限な存在で、本来的な意味で知者というのは神である」といった考え方です。ソクラテスは、裁判にかけられたときにも、自分に他者より知があることを認めつつ、その知は「人間並みの知恵でしかない」という言い方で、神の知にはとうてい及ばないと語りました。しかしアリストテレスはその「人間並みの知恵」が神的な知でもありうるということを、やはり『形而上学』という本で述べています。
このような人間の知的能力への信頼は、他者の見解、さらにはより一般的な考え方に対する着目や尊重へと結びつきます。仮にそれが全面的にただしいものではないとしても、そこにはある真理や参照すべき重要な考え方が含まれていると考えられるからです。
哲学史の作成に結びつくような探究は、書物の流通という文化的条件とともに、それに呼応しうる思想的なスタンス、つまりいま触れたような人間の知的能力への思想的なスタンスがあって初めて可能となったと言えるでしょう。
「伝える人」、プラトン
さて、これまでは、文化的な環境がどのような影響を与えるのか、あるいはそれをどのように受容したり利用したりするのか、ということを話してきました。つぎにはそうした環境のなかで自身の思考をどのように伝えるのか、ということについて、やはり古代の哲学者を例に考えてみたいと思います。プラトンの著作がとても興味深い例なので、彼を具体例として取り上げましょう。
プラトンについて、私は今年『はじめてのプラトン』(講談社現代新書)という本を出しました。プラトンはほとんどの著作を「対話篇」という形式で書いているんですが、それにはどういう意味があるのかということをこの本でちょっと書いています。これからお話することは、そこに書いてあることのまとめでもあります。
プラトンは自分の作品の「受容者」、簡単に言うと「読者」を強く意識していました。対話篇、つまり、登場人物が少なくとも2人以上いて、彼らが対話することで本が進行していく形式も、そしてそれに付随するさまざまな工夫もそのためです。そしてそれは、「人々に問い、考えさせ、動かす」ことを目指していました。
「対話篇」のしかけ
まず、対話には必ず具体的な時と場所が設定されます。全くの同時代じゃなくて、30年とか40年ぐらい前の舞台設定を取ることが多いです。例えば、プラトンが2021年の今対話篇を書いたと考えてみると、だいたいバブル景気の頃になりますね。いわゆるポストモダンな建築としてのつくばセンタービルに、当時の政治家あるいは経営者、ポストモダンの思想家とかコピーライターとか、このあたりの時代を象徴する人たちが集まって、実名で登場するんです。僕の本のなかでは森喜朗・小泉純一郎・西部邁・麻原彰晃を例として挙げてみました。さらに、ここには本当はもう一人ソクラテスが来なければいけないんですが、現代では誰なのかというと……難しいですね。
話題も濃密な意味を持つもの、つまり実際の生き方とか生活に関わる話題を取り上げています。『ラケス』という対話篇では、「子どもの教育をどうするか」という話をしています。アテナイはポリスの防衛を自前でやっていたので、市民はある種の軍事教育を受ける必要があるんですが、現実的な「どういう教育をすべきか」という話が、「そもそも勇敢というのは一体どういうことなのか?」という話題へと結び付いていきます。
また、作品の連続性というポイントもあります。プラトンの著作のなかには、「それ以前の自分の書を読者が読んでいる」ということを前提にして著者が書いていることを示す道標のようなものが出てくることがあります。つまりプラトンは「自分は読まれている」という自覚をもって書いていて、そのことを踏まえて、彼は以前に書いたことをさらに深めたり、別の角度から論じてみたり、ということをしています。古代ギリシャにおいて、ひとつひとつの作品が必ずしも独立ではなくて、読み継いでいる読者がいることも考えて書いていくということをやったのは、たぶんプラトンが最初期の人だろうと思います。
本のなかにプラトンはいない?
対話篇はこうした工夫を凝らした作品なのですが、もう一つの特徴に、プラトンが「ここにはいない」ということがあります。つまり具体的にいえば、自分を主語とした一人称では書いていないのです。「私はこう思う」ということは一切出てこない。
プラトンの名前は3回出てきますが、2回はソクラテスの裁判での法廷内の聴衆の1人として、もう1回はソクラテスが死ぬ最後の場面を描いた『パイドン』という対話篇で、獄中で親しい人が集まるにもかかわらず、「ソクラテスが死ぬ直前に集まった人のなかにプラトンはいなかった」という報告だけが書かれています。意識的に自分の姿を消すような形で書かれているのです。
これは一つには、権威づけを回避する工夫です。「プラトンが書いた」ということで、読者が無条件に受容したり、場合によっては無条件に反発したりすることを回避しているのです。プラトンの狙いというのは、こういった形式をとることを通じて、読者に「自分自身の問題として考えさせる」ことにありました。具体的で、生々しくて、濃密な意味を持つ、そういう話題をより原理的な形で「読者自身に考えさせる」ということです。
これはプラトンだけではなくて、古代の哲学のあり方とも結び付いています。当時の哲学というのは、より後世の言葉を使えば、ars vivendiと呼びうるような営みでした。arsというのは現在のarts(技術)です。vivendiというのは生きること。「生の技法」と訳されています。
ミシェル・フーコーなども晩年には古代の哲学のこうした傾向についてしばしば口にしていたわけですが、哲学というのは、抽象的な理論体系をもつ一つのdisciplineではなく、実際の生き方というものに深く関与するものでした。プラトンも、哲学はそういうものであると考えていた。そうした哲学の理解からすれば、彼が心血を注いだ著作も、読む人の生き方に関わるものです。先ほどの言い方で言うと、「人々に問い、考えさせ、動かす」ものだと。それにふさわしい表現形式というのは対話篇だった、というふうに考えられます。
そして、その新書には書かなかったことですが、これまでの話題から考えてみると、プラトンはこのような実在の場所と時間と人物による対話という形式によって、oralな文化の要素を巧みに取り入れているということもできるでしょう。詩が唱われ、劇が演じられるときと似かよった、いわばパフォーマンスの現場にいる感覚を読者に与えているのではないか。そのことによって、より読者に訴求力のある書き方をしていると言えそうです。
プラトンの著作は、このような意味で、読まれること、読者の存在を強く意識したものでした。実際にプラトンがこれまでずっと読み継がれてきたこと、よかれあしかれ、読者に影響を与え、じっさいに動かしてきたことは、プラトンの工夫がもっていたことの有効性を示すとともに、その意味を考えさせるものだと思います。
第4回へつづく