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鷲田清一×藤原辰史「人生案内の流儀」

人生相談と資本主義

6月に発売した『二枚腰のすすめ』の刊行を記念して、著者の鷲田清一さんと藤原辰史さんに対談を行っていただきました。

身のまわりの悩みに鷲田さんが答える『二枚腰のすすめ』は、軽い読み物としても楽しめますが、今回は、なんと「資本主義」の話に! コロナ禍のなかの「ステイ・ホーム」についても、二人が語ります

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パーセプションの歴史学

藤原 歴史研究者なので、どうしても、鷲田さんが最初に言われた「背景」にこだわってしまうんです。ここで書かれている悩みのかなりの部分は、社会的に強制された制度や、社会的につくられた制度が原因です。家族にがんじがらめになっている場合も多いですが、これもある種の制度だと思うんです。システムの中で苦しめられている人が多いので、この本自体が、2013年から2019年の社会史の歴史資料になり得ますよね。

鷲田 読売新聞の「人生案内」自体が大正時代に始まっているので、相談内容を歴史的に調べる方が出てきたら、一つの社会史を書けるんやないかな。ただし、それはフィルターを通した社会史ですけど。相談者の観念体系みたいなものをフィルターとして通しているから、直接の社会史になるか社会意識史になるか。そこはちょっと微妙なところです。

藤原 微妙なところですね。単なる社会史や日常史じゃなくて、起こったことをどう意識して、どういう型で捉えて、当時の鷲田さんという哲学者がそれに対して、どのように自分なりに受け止めたか、という歴史ですよね。むしろ、「パーセプションの歴史学」。たぶん100年後にこの本を開いた人はそういう読み方をします。

鷲田 ……

藤原 この本の最初のほうは見栄えの話がけっこう出てきますよね。もてないとか。私もそうですけれども、出っ歯だとか。いろいろな見栄えに多くの人がものすごい苦しんでいる。そんな中で、「自分は孤独だった」というストーリーを立てられる中で、鷲田さんは、その型を、がんじがらめになっているストーリーを、崩してくれています。

これを読んでいて思い出した本があります。磯野真穂さんの『なぜふつうに食べられないのか』(春秋社)です。拒食症、いわゆる「摂食障害」と診断を受けている人たちの聞き取りをして、お書きになった本です。磯野さん自身が、摂食障害になった人の話を聞きながら、自分なりにその人に対してかかわりながら、その背景にある「女性とはこうあるべきだ」的なプレッシャーを暴いていくんです。その手つきとも似ているな、と。ただし、鷲田さんはあんまり社会のせいにしないですよね。

鷲田 そうですか。

藤原 そこがすごく面白かったです。つまり、私だったら、「これは社会が悪いんだから、抵抗しようぜ」「もっと異議申し立てしようぜ」と言いそうになるところがありました。

14歳の中学生

藤原 14歳の中学生が、「大人たち、何してんねん」という質問、ありましたよね。「14歳、男子中学生です。日本は先進国と言われているのに、いろいろな面で遅れている。首相は交代して恥ずかしいし、政党もたくさんあってわからない。国の借金の赤字国債が増え続け、未来に借金ばかり残さないでほしい。暗い気持ちになって、今の状況下で、僕のできることは何かありますか」という質問が出てきました。これを見て私が考えたのは、「そうだね。私も同じ気持ちになっているところは多いんだよ」と。鷲田さんも最初の1行目は一緒で、「私たち大人もいま共有しているものです」と書いてある。ここで、14歳の男子中学生は一瞬、ほっとすると思うんです。私は「じゃあ、どういうふうにこの国を変えていこうか。あなたの言っているように、この赤字国債が増え続けているのであれば、赤字国債を減らす方法を一緒に考えようか」と、ソーシャルムーブメントみたいな発言をしてしまいそうだったんです。

ところが、鷲田さんが何をお書きになったかというと、「あなたが書いているこの書き方は、他人のふんどしで相撲をとっているところがあって、そこを崩さない限り、未来を変えたいというのが本気で変えられるところにつながらない」と。私も、給食の運動とか、いろんな市民運動に関わっていて、一番、自己反省を迫られ、一番もやもやしているところなんです。  なにか変えようとして運動をする時に、決まり文句というのが出てきます。その決まり文句の中で心地よくなってしまって、それを打破しようという気持ちがだんだん薄れて、膠着こうちゃく状態に陥るんです。その時に、「あなたが使っていることばはあなたの腹の底から出たんですか」という質問をすると、何かに対して異議申し立てをしようとしている人にとって、すごくクリエイティブな作業だと思ったんです。

鷲田さんは、社会のせいにせずに、「自分で考えなさい」と言う。すごく突き放したところがあるように、一見、見えるけれども、実は、ほかの人との本当の共同作業を誘う面もあると思いました。本当に人と議論をするためには流通していることばをいったん崩してみようよ、というか、そうしなければ人とつながれないよ、と、私の強引な読み方かもしれませんが。

鷲田 この子、すごく意識の鋭敏な子だし、こういう問題が14歳の子にとって、不安の種になっているのはうれしいな、という気もあるんです。14歳でこういう子もちゃんといるんや、と。と同時に、怖さを感じたんです。つまり、はっきり言ってクリシェ(決まり文句)です。今でも、安倍政権のことを批判する時に、みんなほとんど同じことば遣いで言っているの、僕、すごい違和感があるんです。たとえば、戦前、日の丸を掲げて軍国教育をしていた先生方が、戦後は急に教科書に墨を入れて民主教育に変わった。ああいう、どこか簡単に中身が入れ替わってしまうというところを感じるんです。

社会に問題があっても、それによって抱え込まざるを得なくなった、あるいは追い詰められた痛みというのは一人一人違う。そのコアを外してしまったら、単なるクリシェの合唱になってしまって、それ自体が熱を帯びてしまう。痛みのほうじゃなしに。そういうやばいところにこの子は立っているんじゃないかな、という思いがあって。

こういう社会的な問題で相談がある時にいつも念頭にあったのは、加藤典洋さんの『言語表現法講義』(岩波書店)っていう、学生の作文の添削をする本。僕、これ、ものすごく好きなんです。その中に、こんなことを書いた学生がいたんです。「私の存在そのものが社会問題です」と。

つまり、「社会のこれが問題だ」じゃなしに、そんな中でもみくちゃになって、ふさいで、何とも先も見えなくて、ふてくされているしかない自分。これこそ、社会問題じゃないですか、と書いていて。それを読んで僕は、「それなんだ!そこから出発しないと、社会への怒りは本当の意味で表現できないんじゃないか」と思って。

藤原 個人の相談なんだけれども、かなりのものは――介護の問題もそうだし、ケアの問題や家族の問題も――社会にも開いていきそうな問いです。悩みを抱えた人自身が、ぜんぶ自分の物語に押し込めていたものを、概念の根源にまでさかのぼって解きほぐすと、もう悩んでいること自体がわあっと崩れて、新しいパースペクティブが広がる、そういう場面が何回もありました。

家族の悩みは社会の悩み

鷲田 僕のところにやってくる質問の圧倒的多数が、家族の問題と恋人の問題。7年ほどの間ずっとそう。

藤原 恋人、家族ですか。これは何なんですかね。

鷲田 社会の構造的なきしみとか軋轢あつれきというものを、最終的には家族が、あるいは個人の〈わたし〉が、引き受けさせられている。そこで何とか処理しないと、にっちもさっちもいかない。介護の問題でもそうだし、就職の問題でもそう。そういう今の社会の状況がもろに出ているんだと思います。

藤原 これは、鷲田さんが選んだわけじゃなくて、そもそもの絶対量が多いんですね、家族の。

鷲田 突出して多いです。

藤原 人生案内の多くの人が家族の問題で悩んでいるということが一体どういうことかと考えたんです。新型コロナ肺炎の中で、「ステイホーム」ということばができて、「ホームの中で、この災禍を乗り越えてくれ」というメッセージが世界中にこだまをしましたよね。おそらく、そういう中で、たとえばこの本に出てきている、自分の夫がダメダメな人とか、自分のお父さんお母さんが自分に対して無関心である人とか、こういう方たちって、さらにしんどい思いをしていると思うんです。

そんな時に、鷲田さんはある意味、逃げの一手というか、いったん家族という物語を置いておいて、たとえば、「夫が全然、家で何もしてくれないんだったら、ストライキを起こして、友達と一緒に出掛ければいい」というコメントもありましたよね。足し算じゃなくて引き算のような回答を、鷲田さんが家族のところでけっこうされていたんです。今回のステイホームという世界中の問題の中で、家族というのがある意味で牢獄になって、本当に文字どおり、逃れる場所がない状況になっている。その辺、どう思われますか?

鷲田 「ステイホーム」ということばで、その人の耳に届いていたとしてですけれども、一番最初にかちんと来るのはホームのない人だと思うんです。

藤原 本当にそうです。

鷲田 「だって、おれ、ずっと、ホームってないもんな」と言う人です。その人たちは、藤原さんも書いていらしたけど(「パンデミックを生きる指針」)、コロナ前からずっとコロナと同じ脅威にさらされてきた人なんです。そういう意味で、僕は「ステイセーフ」ということばのほうが好きです。

藤原 それはどういう意味ですか。

鷲田 「みんな、それぞれの場所で、なんとか乗り越えてね、しのいでね」ということです。それは必ずしも家族とは限らない。それぞれ、セーフでいられる場所というのを探して、そこでセーフでいてね、というメッセージ。

さっき言ったように、人生相談が始まった大正時代から、親子とか、夫婦関係の問題。そして、恋愛の問題――昔だったら道を外した不倫や浮気の問題――が突出して多い。

藤原 大正時代からですか。

鷲田 これは資本主義と関係あるんじゃないかと思っていて。

藤原 ですよね。この辺、ちょっと論じましょうよ。資本主義と人生相談の関係について。

資本主義と人生相談

鷲田 社会の構造的な問題のしわ寄せが、最終的には全部、夫婦や親子など家族に集中するような社会がずーっと続いてきたような感じが僕はします。徴兵だって、そうじゃないですか。家族の誰かを引き抜く。だから、僕はステイホームという形で、ホームというのがキーワードになるんじゃなくて、むしろ、ホームなしにみんながセーフでいられるような関係って、どういう関係なんだというほうにこれからの社会をシフトせよというのが、この災いの中で、われわれが学ぶべきことなんじゃないかと思います。これはコロナ以前から感じていましたけど。

藤原 僕もそれを感じていて。資本主義の矛盾で、コロナ以前からあまりにもホームにしわ寄せが生じていた。たとえば、労働。とにかく働いてくれという社会の要請の中で、ものすごい疲れて帰ってきて、その疲れを家で1日で何とか解消してくれ、というのが今の社会の決まりになっていると思うんです。でも、そんなこと家族じゃ解消できない。それが、暴力の問題とか、家族への不信とか、あるいは子供に対する、自分の果たせなかったことの転移などにつながる。

鷲田 僕は、夫婦元気で留守がいいというのが一番いい関係やと思っていて、そういう奥さんが一番迷惑するのが「濡れ落ち葉」でしょう。どこ行くのも引っ付いてきて。このお父さんが資本主義だと思うんです。会社では、別に役員になったわけでもないし、若い者にはコンピューターのことでばかにされるしとか、いろいろ惨めな思いをしてきたお父さんでも、家に帰ったら、専制君主になることで、自分の心のバランスを取っている。『チャタレイ夫人』を書いた作家D・H・ローレンスがアポカリプス論(福田恆存訳『黙示録論』ちくま学芸文庫)っていう、終末論を書いているんやけど、その中に資本主義の工場下で、奴隷のように働かされているお父さんが家に帰ってきて、急に専制君主になる話が出てくるんです。専制君主にはなれないけれども、濡れ落ち葉にはなって。

藤原 鷲田さんの人生案内は、人生相談でもあるとともに、社会相談であり、歴史の相談でもあると思うんです。資本主義さんという人が歩いてきて、鷲田さんのクリニックに来て相談している。そこで鷲田さんが答えたのは、「あなたが今、そういうふうに思いこんでいるストーリー自体を一回、相対化してご覧なさいよ」と。資本主義が歩いてきた歴史に対して、そういうふうに言っているわけです。社会そのものの相談を受けて、それに乗った、鷲田さんなりのエッセーとも読めるんです。

ワーク・ライフ・バランス?

鷲田 家族という問題を考える時に今回のコロナのことで思い出したのは、「ワーク・ライフ・バランス」。僕はずっと、このことばが嫌いで、至る所でこの標語はやめてくれ言うて、メッセージを出してきた。ワーク・ライフ・バランスって間違っているんです。ワークとライフをパブリックとプライベートの二項対立に重ねている。外での、会社での、あるいは社会の中での公的ないろんな役割と、それから、家族生活、パーソナルライフのプライベートな領域のバランスをとりましょう、という提案に読める。多くの人はそう受け止めているんです。

ところが、会社の仕事って、プライベートじゃないですか。

藤原 そうですよ。本当にそう。

鷲田 会社の仲間と利潤を追求して。

藤原 まったく賛成です。

鷲田 プライベートですよ。このごろは政治までプライベートになっていて。

藤原 本当にそうです。

鷲田 逆に、家庭生活って、本当にプライベートなの?つまり、家族のメンバーは地域の一員でもあるし、地域の行事をお手伝いをしたり、介護だって、よその人たちをほうっておけないじゃないですか。あるいは、隣の家が、お父さんお母さんが働いていたら、夕方学校から帰ってきた子どもを預かってやるとか。僕らが子供の時には、帰って親がいなかったら、隣の家でご飯を食わしてもらったの。だから、家族にも家庭にも公的な役目って、あるんです。つまり、仕事も生活も家でやっている時にはその家庭という場所が地域の公的存在の一つであると同時にまったくプライベートなもの。

ところが、ほとんどの人が通勤するようになって、外で働くのがパブリックで、家に帰ったら休息することと消費することだけ。その分割自体が問題で。僕は企業もプライベートだし、家庭ももっともっとパブリックな役割というのを取り戻さないかんと思っていて。そういう構図の中で、ホームがプライベートな場所として言われることにすごく違和感をおぼえるのです。だから、今回のステイホームでもホームがそういうイメージで捉えられるんだったら、これは絶対に間違いだなと思うんです。

今、パブリック(公)とプライベート(私)が二極分解して、ワークとライフは別個だというふうになってしまって、コモンズ(共)の一人としてのわれわれの行動という回路がほとんどなくなっていること自体が問題。そんな時にステイホームという言い方はものすごい危うい、と僕は思います。

藤原 私も、自分の関心があるところから、今の鷲田さんのご意見に近づきたいと思います。『ナチスのキッチン』(共和国)で書きましたが、キッチンは今の感覚だとプライベートなものとして見られがちだけれども、歴史をひも解くと、むしろ、パブリック・キッチンの歴史とか、コレクティブ・キッチンの歴史とか、キッチンを開いていた。鷲田さんの幼少のころの思い出のように、近所の人のところで食べさせてもらって、寝転がって、みたいな開かれたキッチンというのは、ずっと考えられていた。でも、1920年代。まさに大正時代、人生相談が読売新聞で始まった頃から徐々に「キッチンは家族の中に閉じ込められるべきものであって、主婦、もしくは奥さんがキッチンを城として守っていくべきだ」みたいに、世界的になってきたと思うんです。

しかし、そこで失われたけれど、まさに鷲田さんのおっしゃられたように、家庭にあるキッチンという場所こそが本当はプライベートじゃなくて、ポリティカルに開いていったり、パブリックに開いていったりする中心だったのではないか、というのも僕もずっと問題意識としてあります。 『釜ヶ崎合唱団』(ブレーンセンター)という本も思い出しました。

「釜ヶ崎炊き出しの会」という、1日2回、釜ヶ崎で日雇い労働の方たちにご飯を出している団体が『絆通信』という手書き雑誌をずっと出していらっしゃる。その中に、それぞれの人が、どうして釜ヶ崎に流れてきたかという人生の経路をひたすら聞いて紹介しているコーナーがあって、それをまとめた本です。炊き出しという食べる場所に集まってくる人に声をかけて、聞き取りをして、それをみんなに読んでもらって、その人の生きてきた歴史を共有する。歴史を共有するって、鷲田さんの言い方を借りればパブリックなものです。ご飯を食べるという、すごくプライベートに見えることが、実は社会に開いていくというのは、食の歴史からしても納得のいくことです。

鷲田 でも、地域社会に開かれた、個人の家庭に閉じないような食のあり方が、権力によって簒奪さんだつされる例も前に話してくださったじゃないですか。アイントップフでしたっけ。

藤原 アイントップフです。10月~3月の第一日曜日は、全国民が街頭でアイントップフという安い煮込み料理を食べた後に、「飢えて苦しむ民族同胞」のためにレストランに払うくらいの額を募金する。それを国家が回収して飢える人びとに配分する、というナチスの政策です。同じものをみんなで食べて一体となって人びとを救うという運動になって福祉費を補いました。浮いた福祉費をナチスは軍事費にまわしていったのです。「民族同胞」もくせ者で、スラブ人やユダヤ人は飢えていても対象外。

鷲田 まさに、簒奪されてしまっているという感じがして仕方がないです。だから、もう一回、炊き出しの本来のパブリックな役割を。

藤原 本来のパブリックな役割を考えていったら、ワーク・ライフ・バランスという言葉に含まれる硬直性みたいなものを破ることにもつながると思います。「プライベートなことはポリティカルだ」というフェミニズムの標語ともつながっている。『二枚腰のすすめ』に書いてあるのは全部プライベートな話ですが、プライベートなことはポリティカルであり、ソーシャルである。そういう感じがしました。

次回へ続きます。

二枚腰のすすめー鷲田清一の人生案内

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著者略歴

  1. 鷲田 清一

    1949年京都生まれ。お寺と花街の近くに生まれ、丸刈りの修行僧たちと、艶やかな身なりをした舞妓さんたちとに身近に接し、華麗と質素が反転する様を感じながら育つ。大学に入り、哲学の《二重性》や《両義性》に引き込まれ、哲学の道へ。医療や介護、教育の現場に哲学の思考をつなぐ「臨床哲学」を提唱・探求する、二枚腰で考える哲学者。2007~2011年大阪大学総長。2015~2019年京都市立芸術大学理事長・学長を歴任。せんだいメディアテーク館長、サントリー文化財団副理事長。朝日新聞「折々のことば」執筆者。 おもな著書に、『モードの迷宮』(ちくま学芸文庫、サントリー学芸賞)、『「聴く」ことの力』(ちくま学芸文庫、桑原武夫学芸賞)、『「ぐずぐず」の理由』(角川選書、読売文学賞)、『くじけそうな時の臨床哲学クリニック』(ちくま学芸文庫)、『岐路の前にいる君たちに』(朝日出版社)。

  2. 藤原 辰史

    1976年、北海道旭川市生まれ。島根県奥出雲町で育つ。2002年、京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程中途退学。博士(人間・環境学)。京都大学人文科学研究所准教授。専門は農と食の現代史。著書に、『ナチス・ドイツの有機農業』(柏書房、2005年/新装版2012年/第1回日本ドイツ学会奨励賞)、『カブラの冬』(人文書院、2011年)、『ナチスのキッチン』(水声社、2012年/決定版:共和国、2016年/第1回河合隼雄学芸賞)、『稲の大東亜共栄圏』(吉川弘文館、2012年)、『食べること考えること』(共和国、2014年)、『トラクターの世界史』(中公新書、2017年)、『戦争と農業』(集英社インターナショナル新書、2017年)、『給食の歴史』(岩波新書、2018年/第10回辻静雄食文化賞)、『食べるとはどういうことか』(農山漁村文化協会、2019年)、『分解の哲学』(青土社、2019年/第41回サントリー学芸賞)、『縁食論』(ミシマ社、2020年)、『農の原理の史的研究』(創元社、2021年)、『植物考』(生きのびるブックス、2022年)などがある。

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