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鷲田清一×藤原辰史「人生案内の流儀」

スタイルを見極める

6月に発売した『二枚腰のすすめ』の刊行を記念して、著者の鷲田清一さんと藤原辰史さんに対談を行っていただきました。

今回は、藤原さんが回答文を鋭く分析するのを受け、鷲田さんが「文体(スタイル)」について語ります。「折々のことば」など、味わいぶかい文章の引用のうまい鷲田さん。引用に必要なたくさんの本は、公費を使わず自腹で買ってきた、と衝撃の告白。在野研究者も、そうでない研究者も、組織のリーダーも、ぜひ読んでもらいたい回です。

第1回はこちら

語り口を分析する臨床内科医

藤原 答え方に鷲田さんの特徴がいくつかあると思うんです。僕ならどう答えるかな、といったん考えてから鷲田さんの回答を読むようにしたんです。

鷲田 すごく時間かかったんじゃない?

藤原 やってみて思ったのは、当然ながら、僕のほうが優しいなと(笑)。でも、優しいことは必ずしも相手に対して生産的になるとは限らない、とわかったんです。鷲田さんの文章、かなり具体的な提案が出てきますよね。職業も「こういう仕事をやってみたら」とか。孤独な人には「図書館や美術館や公園に行ってみたら」とか。いろいろ具体案を出されている。これって、お医者さんのふるまいにもちょっと似ているかなと思うんです。「この病気はちょっとわからないけれど、とりあえず、この薬とこの薬をお出しします」という時の薬に当たるものをとりあえず言い切ってみると。

鷲田 内科ですね(笑)。

藤原 内科ですね。外科は切りますから、ちょっとまずいですね。

私がとても感動したのは、相手の文章の書き方から類推して、相手の悩みの深いところに入っていくというパターンです。これたぶん、鷲田さんだからできるんだろうな。

鷲田 そうですか。

藤原 ある女性の方の相談で、字がすごくきれいな方がおられましたよね。ちゃんと整理できているよ、という。

鷲田 ありましたね。

藤原 これは、私、びっくりしたんです。私も鷲田さんとよく似ていて、相談を持ち掛けるタイプではなくて、持ち掛けられるタイプで。でも私の場合、相談のメールを見て、メールの文章で対象化できている/できていないなんて考えないで、そのままズバッと言っちゃっていたんです。鷲田さんは、相手が書くということによって、整理されているか整理されていないかをわりと見ていらっしゃる。

先ほど、人生相談は、いのちの電話と違って、いったん文章で整理してある、というのを、ある意味でアドバンテージだというお話をされていましたね。一回書くことによって、ちゃんと自分なりの整理をつけていらっしゃる方には、その整理に乗っかって話を展開できる、とか。

あと、「自分語りが多いですね」というコメントはすごく多かった。たとえば恋愛の相談に対しても、心が奪われているわけじゃなくて、自分の投影としてしか考えていないですね、ということをズバッとおっしゃっている。おそらく、臨床内科医の鷲田さんは、「ちょっとお腹が痛いんです。この辺が」という、相手の語り口からすでに分析を始めていると思いました。

鷲田 それは、あるかもしれないです。分析がうまくできているかどうかはさておき。相談された方の語り口にすごく反発することも、正直ありました。逆に、立派だな、すごいなって、何だかこっちが教わっているような気分になる時もあって。

文体スタイルは人なり」じゃないですけれども、次の一歩をどう踏み出そうかという時には中身よりもその人のスタイルをつかむことのほうが大事かな、と思うところがあります。

スタイリストが語る、型と檻

鷲田 僕は元々、スタイリストなんです。スタイリストいうのは、ファッションのことではなく、知覚、パーセプションのこと。

藤原 パーセプション?

鷲田 知覚とか、感覚とか、認識というのは、僕は一つのスタイルだって思っているんです。つまり、知覚というのは、モノを見たり聞いたりするけど、モノとの関係に一つの様式を得ないことには意味をなさない。たとえば目なら、どう使ったら何が見えるかというふうに、見る内容ではなく、どういう目の使い方をするかが、その人が何を見るかを決めるところがあるんです。思考、考えるということも、もちろんそうなんです。同じモノを見ても、こんなふうなスタイルで考えるの、と。

僕、知覚や思考にどんなスタイルを持っているのかが、その人のパーソナリティーだと思っていて、それが信頼できる時は答えていてもどこか安心感があるんです。だから、「そのスタイルをこういうふうに使ったら、次に行けるんじゃないですか」という答え方ができる。難しいのは、そのスタイルにすごい違和感を。

藤原 もった時ですよね。

鷲田 この人に正面から、ババンと爆弾を落とすように言うのがいいのか、その人の気持ちをくすぐって、ちょっと気分よくなってもらってからいくかとか、そういうのがあって。今おっしゃってくださって初めて気づいたけれども、相談の内容と同じか、ひょっとしたらそれ以上に相談の持っていき方に反応したというのはかなりあるかもしれませんね。

藤原 僕もそういうスタイルとか、型というのは大事だと思っていて。古典芸能でも、型を破ろうとしても、型がない人が型を崩しても「形無し」だ、ってよく言われるけれども。型が持つパワーというものはありますよね。

だから、鷲田さんが最初におっしゃった「乗る」という動詞。相談に「乗る」には乗り物がないと駄目。私は歩兵部隊なので、乗り物に乗らないで、わあっと足軽帽子でやるんですけど、鷲田さんは、相手が乗ってきた乗り物を見極めて、その乗り物に「よいしょ」と乗って、「じゃあ」という感じ。もしくは、もし相手がわからなかったら、鷲田さんがいちおう乗り物を用意して、「ちょっとこの乗り物に座りなさい」と言う。そんなイメージが湧きました。

鷲田 人には、型がないと身を支えられないというところがあるんです。でも、型というのは同時に枠でもあるんです。自由に身動きできない枠でもある。そこの見極めみたいなものを相談文でする。この人の持っている型で、これからも支え続けられるか、それとも、この型がこの人にとってはものすごい強固な枠になって、場合によってはおりになってしまっているんじゃないか。

そういえば昔、「自分らしくなくなろう」というエッセーを新聞に書いたことがあるんです。自分らしさが実はみんなの檻になっていませんか、と。バブルの最後の段階、1990年ぐらいだったと思うんですけれども。その時に、「自分らしくなろう」という見出しを付けられて。新聞見て、びっくりして。

藤原 まったく逆や。

鷲田 校閲の方が最初からそう思い込んでいたらしくて。「自分らしく」ということが、世間では、「あなたにはこういう個性があるから、それを大事にしろ」という意味で使われて、「自分らしく」というスタイルだけが金科玉条のようになって、中身がないままになった時にはそれが檻になってしまう。そこの見極めですよね。この船に乗り続けたほうがいいのか、もう船を乗り換えたほうがいいのか、そこは本当に字数が少ないから見極めが難しかったです。

藤原 だけど、鷲田さんは船を造ることから絶対に逃げていないですよ。無理やりにでも全部造ってみせている。

鷲田 直したらいいもんね、浸水したら。

藤原 浸水したら、また違う人に相談すればいい。

マンガ家の夢を捨てきれない

藤原 マンガ家の夢を捨て切れない人の相談がありましたよね。あれは、ほかの人と比べると、悩みとして軽いものに僕には思えました。「そんなの、退職してマンガを描けばいいじゃん」って思って読んでいたんです。でも鷲田さんが用意した型は、「マンガ家になることと、マンガを描くことは同じではありません。マンガを描いて人を喜ばせることは、町内の回覧板でもできますよ」というものでした。

つまり、ある意味、その人が考えていた「マンガ家」像という、ものすごい堅い乗り物を壊して、「マンガが好きな人」という、もう少しゆるい乗り物に乗って見たら、風景が変わりますよねと言う。もしかしたら、この人、反発するかもしれないですよね。「いや、僕はやっぱり、本当に手塚治虫になりたかったんだ」と気づくこともあると思うんです。でも、それで本当にプロのマンガ家をめざすことになったとしても、鷲田さんが提示してくれたおかげで、覚悟が決まったと思うんです。とりあえず、いったん示すことによって始まる何かみたいなものを、鷲田さんの実践的な文章から学ぶというか、そこが面白かったです。

鷲田 ありがとうございます。今のマンガ家になりたいという人の話、僕、学者や研究者になりたいのにうまくなれていない人にも同じふうに言いたいなと思って。これ、わかってくれないと思うけれども、僕、去年(2019年)で大学生活、辞めたでしょう。実は2004年に副学長になった時から、制度的には研究籍がなくなったので、科研(文部科学省科学研究費助成事業)とか出していないし、大学が用意する個人研究費というのもなかったんです。

藤原 そうなんですか!

鷲田 2004年から。僕、21世紀 COE(文部科学省の研究拠点形成等補助金事業)の拠点リーダーとか、科研(科学研究費補助金)の代表とか、いろいろやってきたけれども、配分する責任者が先に自分の分を確保してはいけないと思い、自分ではいっさい、お金使ってこなかったの。その方針でやってきたの。だから、研究者の人がみんな、科研とか、個人研究費で本を買うのがうらやましいなと思って。全部自前でやってきたんです。

大学も辞めて、今はもう、調べもんするにも公立の図書館に行くほかない。特に「折々のことば」を始めてから、ふだん読まないような、いろんな本まで必要になったから、書店に行ったりして全部自分で買っているんです。ずっと、若い時から在野でやってきた人、あるいはうまく就職に恵まれてこなかった人の気持ちが、遅ればせながら70歳になってしみじみわかった。逆に、研究者って、うまく就職できた人だけですけれども、知るということについてはめちゃくちゃ恵まれたポジションにいる人たちなんだな、と思って。

藤原 すごい! 鷲田さん、そうなのか。

鷲田 そうですよ。もう16年間、私学に勤めさせてもらった3年半をのぞいて、公費では本を買っていないです。大学を代表してみんなのお金は取りに行ってるんですが。

藤原 お金は取りに行っているのに鷲田さんのところまでは入っていないんだ。

鷲田 コンピューター1台、買っていないです。

藤原 コンピューターも買っていないんですか!すごいな。

鷲田 だから、さっきのマンガの質問にも、今となっては違う答えを書くかもしれない(笑)。「かわいそうに、かわいそうやって。ひどいやないか、プロは」とか言っているかもしれない。

藤原 そうですね。逆に今なら言うかもしれないですよね。「それはひどいじゃない」と。

これを質問した人みたいに、みんなが物語をすごく強固に信じている。でも、「二枚腰」ということばを使われていますけれども、2枚の名刺でもいいし、2枚の顔でもいいし、船を2~3個もって人生を歩んでみると、少し相対化できるよ、と鷲田さんはおっしゃる。私は自分も強固な物語に取り憑かれやすい傾向があるので、自分が相談を受けているような気持ちになって読んでいました。

次回へ続きます。

二枚腰のすすめー鷲田清一の人生案内

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著者略歴

  1. 鷲田 清一

    1949年京都生まれ。お寺と花街の近くに生まれ、丸刈りの修行僧たちと、艶やかな身なりをした舞妓さんたちとに身近に接し、華麗と質素が反転する様を感じながら育つ。大学に入り、哲学の《二重性》や《両義性》に引き込まれ、哲学の道へ。医療や介護、教育の現場に哲学の思考をつなぐ「臨床哲学」を提唱・探求する、二枚腰で考える哲学者。2007~2011年大阪大学総長。2015~2019年京都市立芸術大学理事長・学長を歴任。せんだいメディアテーク館長、サントリー文化財団副理事長。朝日新聞「折々のことば」執筆者。 おもな著書に、『モードの迷宮』(ちくま学芸文庫、サントリー学芸賞)、『「聴く」ことの力』(ちくま学芸文庫、桑原武夫学芸賞)、『「ぐずぐず」の理由』(角川選書、読売文学賞)、『くじけそうな時の臨床哲学クリニック』(ちくま学芸文庫)、『岐路の前にいる君たちに』(朝日出版社)。

  2. 藤原 辰史

    1976年、北海道旭川市生まれ。島根県奥出雲町で育つ。2002年、京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程中途退学。博士(人間・環境学)。京都大学人文科学研究所准教授。専門は農と食の現代史。著書に、『ナチス・ドイツの有機農業』(柏書房、2005年/新装版2012年/第1回日本ドイツ学会奨励賞)、『カブラの冬』(人文書院、2011年)、『ナチスのキッチン』(水声社、2012年/決定版:共和国、2016年/第1回河合隼雄学芸賞)、『稲の大東亜共栄圏』(吉川弘文館、2012年)、『食べること考えること』(共和国、2014年)、『トラクターの世界史』(中公新書、2017年)、『戦争と農業』(集英社インターナショナル新書、2017年)、『給食の歴史』(岩波新書、2018年/第10回辻静雄食文化賞)、『食べるとはどういうことか』(農山漁村文化協会、2019年)、『分解の哲学』(青土社、2019年/第41回サントリー学芸賞)、『縁食論』(ミシマ社、2020年)、『農の原理の史的研究』(創元社、2021年)、『植物考』(生きのびるブックス、2022年)などがある。

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