佐川光晴さん講演会「おいしい育児――家でも輝け、おとうさん」中編
作家兼主夫の佐川光晴さんによる講演会の続きをお届けします。
起きているときはずっと息子のそばにくっついて、食事や入浴の世話をし、一緒に夢中で遊んだという佐川さん。買い物をし、料理をし、洗濯をし、掃除をする日々の暮らしのなかから、『おれのおばさん』や『大きくなる日』などの小説が生まれました。
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保育園の先生はすごい
三四郎は1歳5か月で保育園に通い始めました。ぼくは年代的に幼稚園で育ったから、正直に言うと、1歳半に満たない三四郎を保育園に入れるのは少し抵抗がありました。
保育園の最初の印象は「賢い方たちが先生をしているんだなぁ」というものです。保育園では、1歳児ですと、先生1人当たり2、3人見ますから、子ども8、9人を3人、4人の先生で見るということになりますよね。そのときの先生たちの素早い動きと、アイコンタクトが実に見事だと思いました。危ないことをしそうな子がいると、一番近い先生がすっと立ってそばに行く。すると、その先生が見ていた子どもたちを別の先生が引き受けるという連携プレー。また、悲しそうにしている子がいると、やっぱり先生がすぐに気づいてそばに行く。その絶えざる気配り、目配りの妙に感心しました。
三四郎が4つぐらいのときのことです。ある朝突然、「ぼくの名前は都営地下鉄三田線くんなの。ちゃんちくんじゃありません。今日から都営地下鉄三田線くんと呼んでください」と言ったんです。面白いでしょ。うちでは「三四郎くん」を赤ちゃん読みにして、「ちゃんちくん」と呼んでいたのだけれど、それが気に食わなくなったんですね。
保育園でも先生たちに同じ要求をしたらしい。でも、「三田線くん」というと長いから、「三田くん」と縮めて言う先生もいたなかで、三四郎が一番頼りにしていた先生だけは、必ず「三田線くん」と呼ぶ。そうすると、三四郎はすごくうれしそうにするわけです。
2016年に『大きくなる日』(集英社/集英社文庫)という小説を上梓しました。保育園の卒園式から始まって、中学校の卒業式で終わる連作短編集です。横山太二くんという男の子が主人公で、第1章のタイトルは、「ぼくのなまえ」です。「ぼくのなまえは都営地下鉄三田線くんなの」と三四郎が言いだしたエピソードをそのまま使いました。
こんな愉快なことは小説家がいくら頭をひねっても思い浮かびません。子どもが勝手にしでかすのです。こちらも飽きずに付き合っているから、そうした出来事に出くわせるわけです。
家にいる者が母である
待望の第一子だったこともあって、ぼくは三四郎が起きている間はずっとそばにくっついていました。食事も、お風呂も一緒。三四郎が5歳の2月に作家専業になった後は、保育園の送り迎えもぼくがするようになりました。
三四郎は電車や自動車が大好きで、3歳頃からプラレールやトミカで遊ぶようになりました。子どもを甘やかしてはいけない。我慢を覚えさせなくてはいけないと、親なら誰しも考えるものです。でも、ぼくは逆に、子どもが欲しがるおもちゃをどんどん買ってやろう。しかも、親がそのおもちゃで一緒に遊んであげたら、どんな子に育っていくのか。それはそれで面白いからやってみよう、と思いました。おもちゃを買い与えて、これで遊んでいなさいとほったらかすのではなく、父親であるぼくも一緒にそのおもちゃで遊ぶわけです。Y字型のレールやUターンレールを組み合わせて、30分くらいかけて複雑な構造の路線をつくってやると三四郎が喜んでね。もちろん野球やドッチボールや鬼ごっこもたっぷりしました。
三四郎は大学進学後は都内のアパートで暮らしています。週末になると志木に飯を食いに帰ってくるんですが、この前こんなことを言っていました。「俺さ、小さい頃、トミカをいっぱい買ってもらったじゃん。だからさ、本物の自動車が一つも欲しくないんだよね」。そういう結論か、って面白かったです(会場爆笑!)。
テレビも一緒に見ていました。ただし見ていいのは三四郎の好きなものだけです。こっちは野球やサッカーを見たくても、「野球もサッカーもまだルールがわからないから、おとうさんも見ちゃいけない」と言うのです。だから三四郎が生まれてから4、5年間は「おかあさんといっしょ」と電車のビデオしか見ていません。絵本も好きなだけ読んでやって、とにかく三四郎が起きている間はずっと一緒でした。
そうした生活をおくりながらぼくが編み出したテーゼが、「家にいる者が母である」です。父親として子どもと関わろうと思うから、やることなすこと理屈っぽくなってしまう。家にいて、子どもと関わる者は、性別や年齢に関わりなく母なんです。子どものそばを離れず、子どもの変化に敏感で、子どもの具合が悪くなったときには世話をする人、それが母です。夫婦でうまく分担できれば理想的ですが、うちは妻が教員で休みにくいものですから、ぼくが「母」として子どもにくっついていました。
そうするとどうなるか。今日のように講演会があってぼくが家を空けると、十葉が泣くんです。乃里子さんしか家にいないと心配で、「おとうさん、早く帰ってきて。いつ帰ってくるの?」と、電話の向こうで泣いているんです」(会場笑い)。
おれのおばさん
さて、やがて三四郎は保育園を卒園して小学生になりました。同級生にはやんちゃな子が多くて、毎日おかしなことをする。そこで、帰宅後の三四郎に、「今日は学校であんぽんたんなことはありましたか」と聞くのが日課になりました。「ありました、ありました」と言って、三四郎が宿題を済ませた後にクラスの様子を話してくれます。あんぽんたんたちは、三四郎のことを「三ちゃん」と呼び、わが家にもよく遊びにきて、ぼくのことは「三ちゃんパパ」とか「三四郎のとうさん」と呼び、さらにそれを縮めて「三パパ」とか「三とう」と呼んでくれました。
中学生になってもそんな感じで、授業参観や近所で会うと、無邪気にあいさつをしてくれる。ところが三四郎たちが中学2年生になって授業参観に行ったところ、みんなの顔つきがこれまでとまるで違うんです。とくに4、5人の男子が完全にふて腐れている。野球部の練習を終えて帰ってきた三四郎に、「どうした? 何があった」と聞くと、その子たちが先生と揉めて、先生も「おまえたちは学校に来なくていい」みたいなことを言ってしまった。先生と保護者との関係もこじれてしまい、たまにガラスも割れていると言うんです。でも、小学生の頃とは違うから、家に呼んで庭でドッチボールの相手をしてやるわけにもいきません。そもそも、ぼくはふて腐れるという態度が好きではない。そこで考えた小説が、『おれのおばさん』(集英社、2011年/集英社文庫、2013年)です。
ぼくの父は、ぼくが10、11歳ぐらいのときからうつ病になって、治療のために入院していたことがあります。金銭的にも苦しくなったのですが、ぼくはむしろ発奮して、中学校に入るとサッカー部の厳しい練習で体力がつき、授業に集中して学力も伸びた。高校から育英会の奨学金をもらい、寮のある国公立大学しか行けないと腹をくくって勉強に励んだかいあって、現役で北大に合格しました。
『おれのおばさん』の主人公・陽介は14歳のときに父親が不祥事を起こしてしまい、都内の名門私立中学を退学して、母の姉・後藤恵子が運営する札幌の児童養護施設、魴鮄舎(ほうぼうしゃ)に入ることになります。この恵子おばさんがつわもので、おばさんと個性豊かな仲間に囲まれて、陽介はたくましく成長していきます。つまり陽介と魴鮄舎の仲間たちは、14歳のぼくであり、三四郎であり、三四郎の同級生たちです。三四郎にべったりくっついていたからこそ、生まれた小説です。
フランスのジャック・タチが作った『ぼくの伯父さん』という有名な映画があります。ちょっと変わり者で、貧乏だけどセンスが良くて、社会的な成功とは無縁に生きている独身男性の話で、『男はつらいよ』にも影響を与えたと言われています。漫画の『聖☆おにいさん』もこの系統といっていいでしょう。
でも、ぼくは飄々とした独り者ではないし、家庭を築くことを大切に思っています。毎日買い物をしてご飯を作り、子どもと一緒にお風呂に入って、晴れた日はたっぷり洗濯をして、布団も干してという暮らしです。ですから、ジャック・タチとは違い、子どもたちの衣食住を懸命に支える「おばさん」の姿を通して陽介たちが何かを学んでいくという話を書くことで、ふて腐れている三四郎の同級生たちに、「おまえたちが敵わないすごい大人はいるよ」ということを教えてやろうと考えたわけです。『おれのおばさん』はヒット作となり、坪田譲治文学賞を受賞してシリーズ化されました。
選ぶのは子ども
ぼくは小学校の時は軟式野球、中学、高校はサッカー部だったものですから、三四郎にはサッカーと野球と両方教えました。でも、三四郎はサッカーは全然好きにならなかった。野球をやりたいと言って、高校では硬式野球を3年間やり通しました。
ぼくは阪神ファンです。そこで三四郎が5歳になったときに、満を持して、「一緒に阪神ファンになろうぜ」と言ったんです。そうしたら三四郎に「嫌だ」と一蹴されました。「えっ、どうして?」と聞いたら、「ぼくは鳥が好きだからヤクルトファンになる」というのです。これには心底驚きました。たしかに庭のノウゼンカズラの棚にキジバトが巣をつくり、ヒナが孵るということはありましたが、ぼくとしては親子で阪神を応援するのが密かな夢だったのです。しかし三四郎が一度決めたことを変えないのもわかっています。それ以来ずっと、三四郎はヤクルトファンです。
何が言いたいかというと、親は子どもにたくさんのものごとを教えるわけですが、そこから何を好きになるのかというのは子どもの自由ですよね。ぼくは、牛の仕事に就くときに、この仕事をしていくことで自分はどういう人間になっていくのだろうと考えました。しかし、それは本気で仕事をしてみなければわからないわけです。三四郎が生まれたときも、ぼくは子育てをするなかで自分がどうなっていくのだろうと考えました。それは賭け事とは違い、一瞬で白黒が着くものではない。それこそ一生をかけて、わが身でわかっていかなければいけないことです。周りの者は見守ることしかできない。ぼくの両親も妻も、ぼくのことをよく黙って見てくれていたなと思います。そして、これまでも、これからも、ぼくは三四郎と十葉のことをできるだけ口出しをせずに見守ってやろうと思っています。
後編へ続きます。
主夫として二人の息子を育ててきた佐川光晴さんが綴る、豊かな育児生活。
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