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佐川光晴さん講演会「おいしい育児――家でも輝け、おとうさん」

佐川光晴さん講演会「おいしい育児――家でも輝け、おとうさん」前編

 作家兼主夫の佐川光晴さんに、新米おとうさんを応援するエッセイ『おいしい育児――家でも輝け、おとうさん』を書いていただきました。その縁が広がって、2019年10月31日に豊橋市公会堂で「おいしい育児」と題する講演会が開催されました(豊橋市幼稚園協会・豊橋市私立幼稚園PTA連合協議会主催)。約260人の子育て真っ最中のおかあさん、おとうさんが、佐川さんの楽しいお話に耳を傾けました。夫婦で協力して営む生活を養分として、こどもたちが育っていくことほど充実感のある出来事はない、と断言する佐川さん。自らの子育て生活をふりかえり、家族みんなが幸せになる生活を提案します。
 講演の内容を前編・中編・後編の3回にわたってお届けします。

 こんにちは。佐川光晴と申します。

 児童書で有名な福音館書店が『ちいさなかがくのとも』という3~5歳くらいの子ども向けの科学絵本を出しています。その付録の冊子『おりこみふろく』に「ちいさなふしぎのまど」というインタビュー記事のコーナーがありまして、2019年の4月号と5月号にぼくが載りました。この講演のタイトルにもなっている『おいしい育児――家でも輝け、おとうさん』(世界思想社、2018年)を踏まえてのインタビューで、主夫として子育てをしてきた経験を話し、編集者がまとめてくれました。それを豊橋旭こども園園長の富川修子先生が読んでくださって、今日この場に立っております。よろしくお願いいたします。

 ぼくは1965年の2月生まれで、54歳です。妻の乃里子は3つ年上で58歳。我々は埼玉県志木市に住んでいて、妻は市内の公立小学校で特別支援学級の教員をしています。息子が2人おりまして、長男は三四郎。妻が34歳のときに産んだので三四郎と名付けました。8つ離れた次男は、十の葉っぱと書いて十葉(とわ)といいます。わが家の姓は妻方の「鈴木」でして、「鈴木十葉」は鈴木という木に葉っぱがたくさんというイメージですね。「佐川光晴」はぼくの旧姓であり、筆名です。三四郎は大学進学後に家を出て、今は大学院に通っています。十葉は高校1年生。2人とも、ぼくが作ったごはんを食べて大きくなりました。乃里子さんも、ぼくが作ったおいしいごはんを食べて、毎日元気に働いています。ここは笑っていただくところです(会場笑い)。

生活の設計

 ぼくは、2000年の秋に文芸誌の新人賞を受賞してデビューしました。小説家の看板をあげて約20年になるわけですが、もともと作家志望ではなく、初めて書き上げた小説がデビュー作となったせいか、今でも子育てと家事が第一で、創作は手が空いた時間でするという感覚で毎日をすごしています。決して片手間に執筆しているわけではないけれど、何もかもを投げうち、一心不乱に書いているというのとも違います。

 そもそも小説というのは、ガリガリ書いてもしようがないものなんです。音楽、絵画、演劇、映画と芸術はいろいろありますが、その中で小説は、人生自体に一番似た芸術だと言われています。つまり長い月日を扱える。恋愛はたしかに一大事ですが、人生全体からすればごく一時期の出来事ですし、人間はたいていのことに慣れて、すぐに飽きる。すなわち誰しもが変わり映えのしない生活をたんたんとおくっていくしかない。ただし、そのたんたんとした生活を成り立たせていくためには大変な労力と的確な知恵、それに瞬時の機転が必要であることは、日々子育てにいそしんでいる皆さんには言わずもがなだと思います。ですから、子どもが熱を出して泣いている時に小説を書いていられるわけがない。

 ところが日本には小説家=無頼という奇妙な伝統がありまして、家庭の営みには目もくれず、女房、子どもをないがしろにして夜の街を徘徊するのをよしとする風潮もかつてあったわけです。ぼくはそうした生き方、書き方はできないし、したくもないと思っています。

 今日、豊橋は見事な秋晴れです。気象情報によると関東も晴天だそうで、自宅にいたら布団が干せたのになあと思いながら、皆さんの前に立っています(会場爆笑!)。

 もっとも、ぼくも安全第一で生きてきたわけではありません。北大法学部を卒業し、都内の小さな出版社に勤めたのですが、社長と編集長を相手にけんかをやらかして、わずか1年で辞めてしまいました。人生を一からやり直そうと思い、当時暮らしていた浦和の職業安定所で、「屠畜の仕事はありますか?」と聞いたところ、「あります」と即答されました。このあたりのいきさつを詳しく知りたい方は『牛を屠る』(解放出版社、2009年/双葉文庫、2014年)を読んでください。ともかく、そうした次第で、25歳から36歳までの10年半、毎朝ナイフを研いで、牛や豚の足をとり、皮を剥く仕事をしていました。ぼくは主に牛で、多いときは1日150頭を20人ほどで解体していくのですが、牛というのは大きくて重たいですから、それを押したり、ひっくり返したりするので、30分も働くと、夏は長靴の中に汗の池ができる。心底へとへとになる、ザ・肉体労働です。いくら気を張っていてもナイフがはねて指や手を切るし、晩ごはんのときに疲れから手が震えて箸が持てなかったりします。おかげで全身に筋肉がつき、体重60キロでMサイズを着ていたのが、5、6年後には体重80キロ、XLサイズがきついという体格になりました。

 危険、きつい、汚いの、いわゆる3Kの仕事だけれど、その日に搬入された牛と豚をやってしまえば、あとは作業場の掃除をして終わりです。朝の8時半から始めて、夏場は午後1時半には帰れました。冬でも、午後3時半には退社できるので、帰宅後はひたすら本を読み、街で映画を観ました。あの頃くらい必死に本を読んだことはありません。自分はどうして屠畜場で働くことになったのか。この生活を続けていくことで、どんな人間になっていくのか。

 まだ子どもがいなかったので、筋肉が熱を帯びたからだで布団に寝転がり、ありとあらゆる本を読んでは、「これはこれで悪くない生き方なのだ」と自分に言い聞かせていました。

 そんな生活をそのまま描いたのが『生活の設計』です。「わたしは汗かきな人間だ。」という一文で始まるのですが、ぼくは汗かきで、牛の仕事は本当に滝のように汗をかきます。そしてそれがこのうえなく爽快である。内勤のサラリーマンだと、ワイシャツを着て、ネクタイをして、革靴をはき、エアコンの利いた室内で働くわけですが、ぼくにはそれがとてもつらかった。汗かきにとっては屠畜場のほうがずっと気分がいいんだというふうな饒舌な語りがずっと続いていきます。今は電子書籍(『虹を追いかける男』双葉文庫)だけになっていますが、興味のある方は読んでみてください。

不妊症という困難

 話は変わりますが、結婚したとき、ぼくは24歳、妻は27歳でした。

 いつ子どもができてもいいと思っていたのですが、丸4年が過ぎても妻が妊娠しません。そこで産科婦人科医院で検査を受けたところ、ぼくのほうに原因がある不妊症であることが判明しました。精子減少症、もしくは乏精子症と呼ばれる症状で、精子の密度が足りないため、普通に性交をしていたのでは妊娠しない。ただし精子の機能には問題がないので、採取した精子を排卵日に合わせて子宮内に人工的に送りこめばいい。人工授精と呼ぶのもはばかられる簡単な操作ですが、当人たちにとっては大きな負担でした。

 ご存じのように、女性は目盛りの細かい基礎体温表を毎朝つけていくわけです。そこから推測される排卵日に合わせて病院に行き、処置を受ける。そして妻に生理が来ることで、今回もうまくいかなかったとわかるわけです。ぼくに責任があるわけではないけれど、毎月妻が悲しむ姿を見るのはつらかった。

 そして、ぼくが小説を書こうと思ったきっかけは不妊症でした。妻と楽しく暮らしていても、子どもができないしんどさは解消しない。ぼくは諦めが早いものだから、養子をもらったらいいんじゃないかとも考えました。でも、向こうは一人娘さんです。

 いま、我々夫婦は子どもができない状態に耐えている。もしかして子どもはできないままかもしれない。けれども夫婦の関係は大丈夫である。そういうことを、実生活とは別のところ、つまり小説=フィクションによって証明し、その小説によって妻を励ましたいと思った。養子をもらうときには、妻のお父さん、お母さんにも状況を説明しなければいけないから、その小説を読んでもらえばいいと考えたわけです。

 結果的に、並行して書いていた『生活の設計』が先にできて作家デビューを果たしましたが、ぼくが生まれて初めて取り組んだのは不妊症をテーマにした『ジャムの空壜』です。

 それで、種明かしをしますと、人工授精を始めて丸2年目が過ぎた頃、2か月ほど人工授精を休んでいる間に妻が妊娠しました。まさかそんな展開になるとは夢にも思っていなかったので、久しぶりに訪れた産科婦人科医院で妊娠がわかったときは、あまりにうれしくて妻と抱き合ったのを覚えています。

激しい夜泣き

 ぼくは5人きょうだいの長男で、妹が3人に12歳違いの弟がいます。

 子どもの頃から、父と母に、「とにかく君は夜泣きがひどかった。のどが張り裂けるんじゃないかと思うような声でぎゃーっと泣く。それで、いくらあやしても寝ないから、本当に大変だったんだ」という話を聞かされていました(会場、失笑)。

 あまり泣くので困った父が、1歳ぐらいのぼくを抱っこして、冬の寒い夜に、工事現場を見せに行ったそうです。新宿区上落合のアパートで、近くで環状6号線の突貫工事をしていた。それでロードローラーとか、ミキサー車とかが動いているところを見られたぼくはニコニコ、きゃきゃきゃと喜んだ。帰宅したら、疲れてくっと寝たそうです。これはやったと、両親は思ったけれど、次の日の夜、ぼくが「ちっち」と、ドアのほうを指して、今晩も連れて行けと言ったのですって。父が「ダメだよ」と言ったら、ぼくはタッタッタと歩いて昨日くるんでもらったおくるみの毛布を持ってきて、それを広げて、自分でごろっと転がって、また連れて行けと要求した。しようがないから、父はまた連れて行ったそうです。

 ぐるっと工事現場を見て、家に帰ろうとするでしょう。でも、Uターンをしようとすると、「ちっ」と言って、もっと行けと言うんですって。「何であの頃の君に方角がわかったのか、いまだにわからない」と父は言っています。

 ぼくは2月生まれで、翌年の4月に年子の妹が生まれるのですが、あまりにも子育てが大変そうだからと、母の姉が「はるちゃんを1週間ぐらい預かるから」と家に連れていった。ところが両親がいても夜泣きをする子どもだから、知らない家に行ったら、もうとにかく火がついたようにぎゃーっと泣いた。これはダメだというので、すぐ返してきたという話を聞いています。

 三四郎は生後3か月の終わり頃から夜泣きをするようになりました。両親が言っていたとおり「ぎゃー」と声をあげて泣いて、「これか。なるほどひどいな」と思いましたね。さんざん武勇伝を聞かされてきたので、覚悟はできていました。

 妻とぼくの2人ともがいちいち起きていたのではからだがもたないから、午前1時までは妻が面倒をみて、その後はぼくが起きることにしました。

 三四郎は5分、10分と抱っこをしないと寝ない子でした。ひとしきり抱っこをして、ようやく寝たなと思うと、コアラちゃんみたいに胸に抱いて、仰向けに布団に寝る。そこから、頃合いを見て、腕枕にして一緒に眠る。でも、こっちがトイレに行きたいときもあります。

 そーっと腕を抜いて、階段を静かに降りる。ところが新しい家なものだから、ドアの滑りがよくて、ちょっと力を入れただけなのに「バンッ!」と音を立てて、すると「ぎゃー」と2階から三四郎の泣き声が聞こえてくる。慌てて駆け上がって抱っこをして、また一からやり直しです。3歳になるくらいまで、夜中は何度となく起こされました。

 保育園へ行くようになってから、「頭の形がいいですね」とよく褒められました。「そんなの当たり前だよ、夜通し抱っこか腕枕で、頭をついて寝たことなんかほとんどないんだから」と口には出さずに思いましたね。

次回へ続きます。

主夫として二人の息子を育ててきた佐川光晴さんが綴る、豊かな育児生活。
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著者略歴

  1. 佐川 光晴

    作家
    1965年東京都生まれ、茅ヶ崎育ち。北海道大学法学部卒業。
    出版社勤務ののち、1990年から2001年まで大宮の屠畜場で働く。2000年「生活の設計」で第32回新潮新人賞受賞。2002年『縮んだ愛』で第24回野間文芸新人賞受賞。2011年『おれのおばさん』で第26回坪田譲治文学賞受賞。他の著書に『あたらしい家族』『銀色の翼』『牛を屠る』『大きくなる日』など。芥川賞に5回ノミネート。小学校教員の妻と二人の息子との四人家族。主夫として家事を引き受けながら執筆に励む。

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