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佐川光晴さん講演会「おいしい育児――家でも輝け、おとうさん」後編

 作家兼主夫の佐川光晴さんによる講演会の続きをお届けします。

 八つ違いで生まれた次男は、性格も好みも長男とは異なり、スポーツより将棋に夢中になっています。思春期のゆれる心に寄り添いながら、息子を見守り続ける父親の温かいまなざし。ずっと一緒にいたからこそ、子どもが羽ばたく瞬間に立ち会うことができるのです。

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きょうだいはそれぞれ

 8年ぶりに妻が懐妊し、次も男の子だとわかったときに、われわれ夫婦がもっとも恐れたのは夜泣きでした。38歳と41歳では、とてもあの夜泣きには耐えられない。ところが十葉は抱っこをしないでもすやすや寝てくれる子でした。寝かそうと思って、三四郎のときのように揺らしてやると、身をよじるのです。「あれれ、どうなってるんだ?」とふしぎに思いながら布団に置いてみたら、すーっと寝ついてくれて、「この子は天才だ!」と思いました(会場笑い)。

 十葉にもサッカーと野球の両方を教えました。ところが、身のこなしはいいけれど、からだにパワーがない。三四郎と同じく小学3年生の4月に少年野球チームに入ったものの、メンタルも明らかに体育会系ではないわけです。ノックでエラーをして、「ヘイヘイ、どうした」とチームメイトに言われると、十葉はぽろぽろ泣いてしまう。試合のときに、相手がエラーをしても、「やった、やった!」と喜ぶのは相手がかわいそうだから、嫌だと言う。

 試合ではコーチャーズボックスが定位置でした。

 小学校5年生の秋、雨で練習が休みになった日曜日に、十葉と2人で浦和に行き、行きつけのだんご屋さんに入りました。寒い日で、おしるこを一緒に食べていたら、「おとうさん、ぼくもう野球をやめたい」と十葉が言って、ぽろぽろ泣きました。「そうか。これまでよくがんばった」と応えると、「かっこ悪い? ぼくはダメな人間?」と聞くから、「そんなことはない。誰にでも向き不向きはあるんだから」と慰めました。

 ぼくも妻も三四郎も勉強は人並み以上にできて、スポーツもかなり得意なので、十葉はこれから何をしていくんだろうと本当に心配でした。それでも、とにかく一つ区切りがついてよかったと思うことにしました。

 年が明けた1月の終わり、「将棋を覚えたい」と十葉が言い出しました。お正月に再放送していた将棋の特集番組を見ているうちにやってみたいと思ったそうです。ぼくが小学生だった昭和40年代は、男の子はたいてい将棋を指せたと思います。3、4年生のときにクラスで流行って、ぼくも一時夢中になりました。でも、からだを動かすほうが楽しくて、その後は指していません。三四郎が小3のときに将棋盤と駒、初心者向けの本を買って教えようとしたのですが、見向きもされませんでした。

 そのときの本を出してきて、歩の動きから教えていったところ、十葉はするするっと強くなり、1年でアマ初段、1年半ぐらいでアマ二段になりました。五段のプロ棋士が志木で子ども教室をやっていて、そこに通って強くなったのです。小学校の終わりぐらいに、プロを目指したいと言うようになりました。 

 藤井聡太くんは愛知県出身ですから、豊橋の皆さんはご存知かと思いますが、プロ棋士になるためには奨励会に入ってひたすら戦い、最後は三段リーグを勝ち抜かなくてはなりません。奨励会の手前には研修会という組織があって、ほとんどの子はまず研修会に入り、そこで揉まれて奨励会試験に挑みます。

 十葉は小学6年生の2月に研修会に入りました。ところが、やはり将棋を覚えてから日が浅いこともあり、研修会ではなかなか勝てません。将棋や囲碁は一対一で戦いますよね。そこがチームで戦う野球やサッカーとは根本的に違う。ぼくは中学高校とサッカー部のレギュラーで、中心選手だったこともあり、普段の練習でチームメイトに腹を立ててばかりいました。練習でできないことは絶対に試合ではできません。もっと走り込んで走力をつけろ。パスやトラップといった基礎練習をもっと集中してやれと怒っていた。だから試合で負けても、ちっとも悔しくない。ろくに練習していないくせに、試合に負けて涙を流すチームメイトを冷めた目で見ていました。それに対して将棋は一対一で戦うのだから、誰のせいにもできず、負けると本当に落ち込むのだそうです。

 携帯電話をまだ持たしていなかったので、土曜日の午前中に2局指した後に公衆電話からかけてくるのですが、たいてい2連敗で、「わーっ」と泣く。将棋会館の前には鳩森八幡神社があって、そこの角に電話ボックスがあるんです。「頑張れ、頑張れ」とぼくが励まして、お昼を食べて午後にまた2局指す。たまに3勝1敗だったりしたけれど、1勝3敗か、よくても2勝2敗で、奨励会試験を受けるレベルまでクラスを上がることはできませんでした。

いっしょにいてもわからない

 十葉は小学校のときは普通の成績だったのですが、中学校になってからは理数系がまるでわからなくなっていました。しかも、それを黙っていたのです。問題集も、答えをそのまま写していたと、しばらくたってから白状しました。三四郎があんまりいい大学にストレートで合格して、ぼくも少しは本が売れるようになってきた。十葉は、自分もみんなからすごいと言われるようになりたいと思って将棋に打ち込んだものの、やはりプロにはなれそうにない。そうしたストレスで精神状態が不安定になっていることには気づいていましたが、将棋をやめろとも言えません。ヒヤヒヤしながら、どうにか乗り越えてほしいと願っていました。

 そうしたとき、十葉が中学2年の秋でしたが、学校から電話がかかってきました。担任の先生との連絡ノートに「消えたい。自分はダメな人間だ」といったことを書いていたというのです。ずっとそばにいて、相談に乗ってきたつもりだったけれど、十葉がそこまで追い込まれているとはわからなかった。結局年末で研修会を退会しましたが、その後も精神状態は不安定でした。

 十葉が落ち着いたのは高校に合格してからです。部活で将棋をやろうということにして、強い将棋部がある私立の高校に進みました。元奨励会員や元研修会員の先輩たちがいて、みんなプロを目ざし、挫折を経験しているわけです。そうした先輩たちにかわいがられて、十葉はすごくうれしそうでした。やはり親の励ましや支えだけでは、子どもは困難を乗り越えられないわけで、いい出会いに恵まれたことにただただ感謝しています。

 あの、ここで懺悔まじりの告白をしますと、ぼくはど素人にもかかわらず将棋を題材にした小説『駒音高く』(実業之日本社、版元品切・電子書籍有)を半年ほど前に上梓しました。将棋を始めた十葉につきそうなかでの見聞をもとにした連作短編集で、ぼくにとっては初の書き下ろしになります。

 将棋を始めたばかりの男の子、天才のある女の子の母親、将棋会館で清掃員をしている初老の女性、それに将棋の観戦記者といった、様々な立場で将棋に関わる人たちが各話の主人公をつとめています。

 それで、どうしても、十葉がした経験がエピソードとしては強いので、あちこちに使うことになりました。先ほど話した、出来のいい兄を意識するあまり勉強が手につかなくなってしまう男の子も出てきます。これが本になって、十葉が読んでショックを受けたらどうしようと心配しながらも、思い切って書きました。

 将棋がテーマの小説を書いていることは、十葉に話していました。用語や言葉遣いについて教えてもらっていたからです。ただし、詳しい内容については隠していました。ですから、できあがってきた本を渡したときはひやひやでした。

 高校合格が決まったあとだったので、ものの3時間ほどで読み終わった十葉が、「半分は、おれのことじゃないか」と笑って言ってくれたときは、本当に助かったと思いました。

 『駒音高く』は7月に「将棋ペンクラブ大賞」の文芸部門優秀賞に輝きました。授賞式では、本のなりたちを話し、十葉をみなさんに紹介しました。そのあとの懇親会では、ぼくよりも十葉のほうが人気を集めていて、みなさんの温かさに胸が熱くなりました。

かわいい子には旅をさせよ

 ぼくは大学時代、中南米に1年間遊学しました。往復のチケット代と月々米ドルで400ドルずつ出すから好きにしろという夢のような奨学金があって、2名のうちの1人に選ばれました。

 空路でリオ・デ・ジャネイロに着いて、手始めに2か月ほどかけてブラジルを一周し、アンデス山中に半年ほどいました。携帯電話のない時代だし、国際電話をかけられるところも限られている。ちょうど左翼ゲリラが暴れて車爆弾がバンバン爆発していたときだったものですから、帰国したら母親の頭がかっぱみたいに禿げていました。ぼくの顔を見たら安心したのか、3か月ほどで生えそろいました。悪いことをしたなあと今でも思っていますが、そんなチャンスを与えられて、行かないわけにはいかないですよね。

 そんなこともあって、2016年の3月に大学1年生の三四郎をフランスに行かせました。前年11月に1回目のテロがあった後でしたが、厳重に警戒しているはずだから、むしろ安全だろうと踏んだんです。ただ旅客機が撃墜されたりもしていたので、午後に成田から乗った飛行機が翌朝パリに着くまでは一睡もできませんでした。一番早い報道はテレビのテロップだと思ったので、居間のテーブルでパソコンに向かいながら、夜通しテレビの画面を見ていました。「着いたよ」と電話が来たときは、本当に助かったと思いました。実家の母に電話をして、「三四郎、無事に着いたよ」と報告したら、「一睡もできなかったでしょう」と母が言いました。

 と言ったしだいで心配の種は尽きませんが、自分がそうだったように、子どもは荒波に揉まれなければ一人前にはなれないわけで、皆さんも本当にご苦労様です。

結果を期待せずに与える

 あの、気がついたら予定の時間をオーバーしていました。しかし、ここでぶつりと終わるわけにはいかないので、手短にまとめのようなことを言います。小説でもエッセイでも、何か文章を読んだことで自分の中のキーがポンとたたかれて、記憶の底に眠っていた経験がばーっとよみがえることがあります。ぼくは小説を一生懸命に書いていますが、それは読者を自分の世界に引き込むためではありません。そうではなく、こちらが過不足のない言葉で物語を紡いでいくと、それぞれの人生を送っている読者の中でさまざまな反応が引き起こされる。それが書く/読むということであるとだんだんわかってきました。

 私のインタビュー記事が、富川先生のご経験と響き合う瞬間があって、そうして私を今日ここに呼んでくださった。

 「ちいさなかがくのとも」の冊子に載っていることですが、子どもはのんびり育てましょう。アウトプットを期待しないでインプットしましょう。子どもは親に同じ絵本を同じように読んでほしいと何度も要求します。親のほうは退屈かもしれません。でも、子どもが安心して「もう1回」と言えることがどれほど大切なことか。親に嫌な顔をされないで、「もう1回」と言える安心感が、子どもの心身を伸びやかにするはずです。

 もう飽き飽きと思う気持ちを抑えて、子どもの求めに繰り返し応じていると、子どもがぱっと成長する瞬間を目撃できます。そのうれしさ、感激は、ずっと子どものそばにいたからこそ得られるものです。それ以上の幸せはないのではないかと思います。

 今日、この場で、子育て真っ最中の皆さんの前で話すことができまして、大変幸せに思っております。どうもありがとうございました。

主夫として二人の息子を育ててきた佐川光晴さんが綴る、豊かな育児生活。
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著者略歴

  1. 佐川 光晴

    作家
    1965年東京都生まれ、茅ヶ崎育ち。北海道大学法学部卒業。
    出版社勤務ののち、1990年から2001年まで大宮の屠畜場で働く。2000年「生活の設計」で第32回新潮新人賞受賞。2002年『縮んだ愛』で第24回野間文芸新人賞受賞。2011年『おれのおばさん』で第26回坪田譲治文学賞受賞。他の著書に『あたらしい家族』『銀色の翼』『牛を屠る』『大きくなる日』など。芥川賞に5回ノミネート。小学校教員の妻と二人の息子との四人家族。主夫として家事を引き受けながら執筆に励む。

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