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特別企画 藤原辰史「切なさの歴史学」

特別企画 藤原辰史「切なさの歴史学」後編

 京都大学人文科学研究所准教授・藤原辰史さんによる講演の続きをお届けします。
 出来事を子どもの位置から眺めるとき、現代史の過酷さが立ち現れます。それに対して、私たちは何ができるのでしょうか?

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『カブラの冬』
 私は、『カブラの冬』(人文書院、2011年)という本を書いて以来、現代史というものにおける子どもの位置というものがずっと気になっていました。第一次世界大戦でも、第二次世界大戦でも、戦争をリードする人は白髪の生えたおじさんたちで、その人たちに命令されて死んでいく人たちはその孫の世代です。戦場では若い男性たちが、銃後では女性と子どもたちが大量に死にました。小さな子どもたちがどうしてこうも当たり前のように死んでいくんだろうかと、小学校のときからずっと思っていました。だって、小学校では、いつもあなたたち、命を大切にしなさい、って教わるではないですか。今も実はその疑問は解けていないんですけれども。やっぱり子どもたちから現代史をちゃんと読み直していくということが、歴史を知るためには、重要だと思っているわけです。 

このあいだ、小さな男の子が、不在の家族のパンのストックを食べつくし、そのあと罪の意識から逃れるために首を吊った。

 テオドール・ボルフという人の文章の一節です。この人は『ベルリナー・ターゲブラット』という大変有名なベルリンの一流紙のジャーナリスト。彼が、1917年ぐらいに、新聞記事で書いた本当に短い一節です。第一次世界大戦期のドイツでは76万人の餓死者が出て、その半数は子どもでした。『カブラの冬』を書いた私のモチベーションは、もうこの一文にすべてが入っています。

 第一次大戦は、実は「フードウォー」ともいわれていて、食糧が戦争の勝ち負けを決めた面が多かったというふうにいわれています。ドイツは当時70~80%のカロリーベースの自給率を持っていましたが、ロシアからの大麦、ライ麦などの輸入が戦争をすることになって途絶え、フランスからはおいしい小麦が途絶えました。ドイツは、アルゼンチンやブラジルや、アメリカやカナダからも食糧物資を輸入して、ハンブルクやブレーメンに運んでいました。

 さらに、チリからは鉱山から採掘した硝石を、ペルーからはグアノという海鳥のふんが化石化したものを、つまり肥料を輸入していました。

 イギリスは、運ばれてくる小麦、飼料、肥料といったものを積んだ船を拿捕(だほ)してしまう、これによってドイツ民衆を飢えさせるという、まさに兵糧攻めの作戦を取りました。その結果、ドイツはそこまで自給率が高いわけではなかったうえに、輸入量が減って、飢えに飢えました。しかも、男たちは戦場に行きましたから、農業生産率も落ちる。

 小さな男の子は、家族がお腹がぺこぺこだということを知っていて、でも自分もぺこぺこだからパンを食べ尽くしてしまうんですが、食べ尽くした後に、初めて罪の意識が湧いてくる。「これを食べてはいけなかったんだ」。これを食べたことで、お腹をぺこぺこにして帰ってくる家族が今晩なにも食べられなくなる。生きるために食べたのに、食べたことによって、自分の罪に苦しんで、死を選んでしまったのです。

 戦争の最終的な責任というものが、本来それを引き受けるべき大人が権力と金を使って保身に走ったとき、権力も金もないところ、脆弱なところに流れていっている。子どもがパンを食べて、罪の意識が芽生えてしまうというところで回収されてしまっているわけです。これは日本も変わりません。大人がきちんと責任を取らなかった戦争は、未完のまま、次世代の子どもたちに引き継がれていきます。次世代には未来があるからです。子どもたちの未来はしかし、不都合な過去が先送りされるゴミ捨て場になっています。ちょうど、核のゴミを地中に埋めるように。

『チェルノブイリの祈り』
 スベトラーナ・アレクシエービッチの『チェルノブイリの祈り――未来の物語』(岩波書店、2011年)も子どもが重要な役割を果たしてきます。アレクシエービッチはベラルーシの作家で、2015年にノーベル賞を取っています。以下は、チェルノブイリが爆発した後の近くの村の話です。

 まっ黒い雲。ひどい雨でした。水たまりが黄色になった、緑のもあった。絵の具をこぼしたようでした。おばあちゃんがひざまずいてお祈りを唱えていた。「お祈りをするんだよ! この世の終わりなんだからね。私らの罪に対して、神さまが罰をくだされたんだよ」。兄は八歳で、私は六歳でした。私たちは、自分たちの罪を思い出してみた。兄は、キイチゴのジャムのびんを割ったこと。私は、母にないしょにしてたことがあったの。新しい洋服を塀にひっかけて破っちゃったこと。タンスにかくしていたんです。
(松本妙子訳、259頁)

 この文章に、私は本当にびっくりしました。つまり、8歳と6歳のお兄ちゃんと妹さんが、チェルノブイリという、まったく誰も、大人さえも説明できない事故の罪を、自分の等身大の世界の中で背負おうとしているわけですよね。

 チェルノブイリの事故が起こったとき、ソ連の政府は徹底的に隠すことを考えました。隠すために何をしたかというと、周辺の若い男子たちをそこに動員して、爆発を抑えようとしました。彼らは次々に亡くなっていきました。事後のケアも極めて不十分でした。『チェルノブイリの祈り』で大事なのは、その記憶というものが、第二次世界大戦のときの、動員された若者たちの記憶とだぶってくるところなんです。そして、結局、この原発事故の最終的な悲劇というものを引き取るのはこの層なのか、というところが『チェルノブイリの祈り』の大変重要なところではないかと思います。

 もうひとつ『チェルノブイリの祈り』から引きます。ある少年の語りです。

ともだちがいました。アンドレイ。彼は二回手術をして家に帰された。半年後には三回目の手術が待っていた。アンドレイは自分のベルトで首を吊って死んだ。だれもいない教室で。みんなが体育の授業に行っているすきに。走ったり、跳んだりすることは医者に禁じられていたんです。
(松本妙子訳、268頁)

 チェルノブイリの事故によって真っ先に体をむしばまれたのは子どもたちでした。このアンドレイは白血病になってしまった。お医者さんが「もう体育はやめなさい」と言うわけです。大人にとっては「体育なんて、どうでもいいじゃない」という話かもしれません。ですが、アンドレイにとっては、体育でみんなと一緒に走ったり、転げたり、跳んだりすることが当然の権利としてあって。それができないということは、楽しい人生を生きていることではないということを彼は分かっていました。3回目の手術がいったい何を意味しているのかも気付いていたわけです。

 私はこのシーンで泣くことができませんでした。ただただ、驚愕しました。お分かりいただけるでしょうか。泣いてすっきりすることができない。この子の行動と言葉に吸い込まれるように入っていくのですが、吸い込み口に近づけば近づくほど、逆噴射の風が私を遠ざけるのです。なかなかこういう言葉を拾い上げるのは難しいんですけれども、おそらくこういう話は、現代史にいっぱい転がっているはずです。子どもの世界を大人は小さいと考えます。そんなことは全くありません、大人になっていけばいくほど人間は世界を狭めていくんです。切ない感情も、子どもの世界では本当に大きな部位を占めています。子どもたちの感じる切なさの海に浸ることで、感動させるとか、涙をもたらすということとはまったく違ったレベルで、歴史の深いところに入っていくんじゃないかと思います。

『ふるさとは貧民窟なりき』
 小板橋二郎さんという人が書かれた『ふるさとは貧民窟なりき』(筑摩書房、1993年)という本も、私にとって座右の書になっています。彼は、板橋区のスラムの出身で、後にジャーナリストとして活躍する方です。

 戦争が終わった直後、小板橋家によくやってくる戦災孤児がいました。知的障害を持っている子どもでした。顔は色艶がわるく汚れている上に、栄養失調でむくんでいました。ガラス戸を開けて、「立ったまま何をいうでもなく、彼は家の内側に向けて手をのばすのだ。無言でただゆっくりと右手をのばす。その手の先には空拳があり、手をのばしおわると彼はその空拳を手の平を上に向けた形で広げる」。

 しかし、ヌカの団子や芋の粉のパンなどで食いつないでいた小板橋の家には少年に恵むものはありません。一度「一箸分のたべもの」を手のひらに載せた著者の母親は、何度もやってくるこの少年に、とうとう「ダメ、帰っておくれ。あげられない。もう、お行き!」と言って、内側からピシャリと戸を締めたそうです。

 翌日、身震いするような寒さのなか、小板橋は、中山道に面したガソリンスタンドでその少年を見つけます。

 近づいて彼の顔をのぞきこんだ私は思わず息を飲んだ。
 死体の顔はついきのうまで生きていたときとおなじようにむくんで、ふくれあがっていた。
 しかし、彼にはもう、ものをたべている人々の方角に向けて右手をのばす力はない。
 きのうまでのあの無表情な顔がいつもとひとつだけちがっていたのは、焦点のさだまらないまま遠くを見つめている両眼の目尻から、それぞれ外側に向けて両方の耳の穴にいたるまで涙のあとが続いていたことであった。
 栄養失調、飢え、凍死……。そんなふうにして死んでいった子の涙はこんなふうに干からびるかと思うほど、その涙の跡は、氷雨の中にさらした顔だというのに、白く乾いた軌跡となって左右の耳の穴にまでナメクジが這ったように残されていた。

 行き場のないというんでしょうか、いる場所というか、ホームというものがなくなってしまう、あるいは自分が生きる場所がなくなってしまった後に、最終的にたどり着くその過程というものを、現代史は描くことがなかなかできなかったわけです。しかしながら、いろいろな資料を、食べ物という視点から見ていきますと、つまり、食べようと手を伸ばす人を見ていくと、いろんな人と出会うことができます。

現代史の過酷さ
 私は京都大学の全学共通科目で「現代史概論」という授業を持っております。学生たちは、現代史に関する知識は非常にあります。ですが、第一次世界大戦で二千万人の人が死んだということについて、彼らはどういうふうに死んでいったのか、死んでいくということはそもそもどういうことなのか、自分の大切な人が耳や鼻を失って帰ってくるとはどういうことか、ということに対する想像力がまだ足りません。一通り「悲惨なことです」とコメントを書いてくれるんですが、心の奥底のところでは何か冷めていて、すごく遠い過去として見ているように感じることもあります。

 だから、私は第一次世界大戦を論じるときは、必ずどういう死に方をした、あなたたちと同じ年齢の方たちがどういう死に方をしたのかということを話します。当たり前過ぎて、高校の世界史では教えないこと。命を失うとはどういうプロセスを辿る現象なのか。死に方にも種類と性質と特徴があることを伝えるのです。それから、彼らには、「 戦争というものは、生き残ることも重要だよ」ということも言うんです。つまり、第一次大戦はすごく多くの人を殺したけれども、多くの人を生き残らせた、と説明します。それはどういうことか。

 第一次大戦では機関銃が使われましたから、鼻だけが取れた人、片目だけが取れた人、口だけが取れた人、唇だけが取れた人、顎だけが抜けた人、耳だけがない人もいました。毒ガスでこう丸をやられて、子どもがつくれない体になっている人もいました。それから、精神を病んで帰ってくる人もいました。そういう人であふれていたんだよという話をします。

 一方で、私が彼らに伝えているのは、イラク戦争や、あるいはアフガニスタンの戦争なんかであったゲーム感覚の殺人です。『戦争と農業』(集英社インターナショナル、2017年)でも書きましたが、「これを狙おうぜ」「民間人がいるかもしれんぜ」「いいや、押してしまえ」「爆発した。爆発したぜ。わっはっは」という兵士たちの画像がYou Tubeに載っています。民間人が死んでいくことを誤差と考えるシステム、ゲーム感覚として殺すことと実際に殺されてしまうこと、つまり、爆風に吹き飛ばされ、体がもげて、血が流れるだけではなく、残された家族がいること、その家族がバラバラになった死体と対面しなければならないこと、画像の上で殺した人は、その行為を褒められることはあっても、咎められることはなく、キャンプに帰って音楽を聞いたり、お風呂に入ったり、ご飯を食べたりできること。それらのあまりにも大きなギャップについて、彼らに考えてほしいと思っています。なぜなら、私たちの国はどちらの戦争でも、イラクやアフガニスタンの民間人ではなく、アメリカの側にいたからです。 

湧き起こってくるものを待つ
 先にお話しした写真家の新井卓さんは、福島原発の事故以降、そこで生きている高校生たちやお母さんたちのダゲレオタイプをいっぱい撮っておられます。被写体と新井さんのあいだにある、信頼関係だけではなく、緊張関係も、どちらも隠すことなく浮き上がっています。

 新井さんによると、3.11以降、ものすごく幽霊の話が出ているんですと。「海に流されていったおばあちゃんとあそこで会ったよ」とか、「あのトイレの向こうに、夜に行ったら、会えるんだよ」とか、そういうふうな語りがものすごく出てきたんです。まさに民話が復活するというか。

 これに対してはいろんな説明ができると思いますが、やっぱり亡くなった人は亡くなっていないんだと思いたいという、現実と絶対合わないぞという思いの中で出てくる世界ですよね。妖怪の世界とか、怪談の世界というものは、自分のかけがえのない人が亡くなったときに出てくる、ぽこぽこと湧き起こってくるものだと思うんです。

 教科書を使うよりも、そういう話をしたほうが、現代史の本質的な部分――受け入れられなさ、と言いましょうか――というものが学生たちに伝わるような気がするんです。

 学問の世界でも、結論の部分で 「アウシュヴィッツは悲惨であった」というお決まりの一節で、お茶を濁すことが少なからずあるわけですが、やっぱり何が悲惨だったかということを書かないと、表現のトートロジーになってしまうんです。今の言葉の抵抗力のなさ、言論状況における言葉の力の弱さというものは、こういうところからも来ているような気もします。

 子どもたちの資料を集めても、子どもを描いていてはやっぱり駄目で、子どもに描かされいるという感じで書いていくことが大事で。「私が書いているんだ」という上から目線になると駄目で、何かに「書かされている」ことが必要だと思います。

 数年前に発酵学者の小泉武夫さんと『現代思想』という雑誌で対談したことがあります。「発酵(fermentation)」は「湧く(ferment)」という動詞の名詞形で、何かぷくぷくと湧いてくるもの、環境からやってくる微生物が有機物を分解してアルコールや何かを出していくというイメージなんだそうです。チーズやお酒というものは、作るというよりは、自然との交流関係の中で湧いてくるものだと考えたほうがいいと。

 文章を書くことも、発酵だなと思います。先ほどの聞き書きもそうです。日本でいえば、森崎和江さんや石牟礼道子さん、先ほどのアレクシエービッチさんの聞き書きは、語り手と聞き手の間に何かが湧いてくるのを待つという共同作業になっているといえます。最近ようやく私も、作ること、書くことの傲慢さみたいなものがいまさらですが少し分かってきたような気もしているなかで、「湧く」「待つ」といった動詞をもう少し大切にしていきたいと思っています。

どのような立場に立つかによって、これほどまでに歴史の見え方は異なるのかと、目を開かせられるお話でした。
藤原さん、ありがとうございました。

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著者略歴

  1. 藤原 辰史

    1976年北海道旭川市生まれ。歴史学者。京都大学人文科学研究所准教授。専門は農業史、食と農の思想、ドイツ現代史。おもな著書に『決定版 ナチスのキッチン』(共和国)、『戦争と農業』(集英社インターナショナル新書)、『トラクターの歴史』(中公新書)、『給食の歴史』(岩波新書)、『食べるとはどういうことか』(農文協)、『分解の哲学』(青土社)がある。

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