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特別企画 藤原辰史「切なさの歴史学」

特別企画 藤原辰史「切なさの歴史学」中編

 京都大学人文科学研究所准教授・藤原辰史先生による講演の続きをお届けします。
 アパシーに抗する歴史書には、フィールドワークと「私」語り、徹底した調査とインタビューという特徴にくわえて、「切なさ」という共通点が浮かび上がります。

前編はこちら 

フィールドワークと「私」語り
 この3冊に共通しているのは、史料分析に加え、筆者が現場に足を運んでいるということです。無駄かもしれないとわかっていても、現場に足を運ぶ。フィールドワークですね。世界思想社さんはフィールドワークの本をたくさん出されていますよね。私が好きなものは、松嶋健さんの『プシコ ナウティカ――イタリア精神医療の人類学』(2014年)とか、松村圭一郎さんの『所有と分配の人類学』(2008年、電子書籍版のみ)などです。中空萌さんの『知的所有権の人類学』(2019年)も、いま読んでいるところですが、自分の関心と近くて面白いですね。私はこのような能力の高いフィールドワーカーたちの足元にも及びませんが、現場を歩くことは好きで、学んだことはメモして、エッセイや書籍などで引用することも少なくありません。

 もうひとつの共通点は、自分語りをするということです。「私」という主語がいっぱい出てくる。これは社会科学としては禁断だと、私は教えられてきました。「私」というものは、登場させてはいけない。科学の客観性がゆがむから、と。でも、これらの歴史書には「私」というものがよく出てくる。

 『月下の犯罪』(前編にて紹介、講談社、2019年)の場合、歴史を探っているうちに、自分と父との確執の過去まで、だんだん明らかになってくる。つまり自分の家族の物語もここに絡んでくるわけです。客観的な過去の事実を探っていた探偵が、自分に隠された秘密にたどり着く、という感じでしょうか。どれもが読み終わった後に、立ち直れなくなる。というか、「自分はいったい今まで何をしてきたんだろうか」と思ってしまう、そういう類いの本です。

 これらすべてに、キーワードとして、心のどうしようもない揺らぎというものがあるんです。『月下の犯罪』だと、著者は自分でどんどん資料を集めていくんですが、集めれば集めるほど、自分というものは何て弱いんだということに気付いて、知れば知るほど、自分の無知さに気付いていって、だんだんと歴史の重さに耐えられなくなってくるということを淡々と描いていくんです。この語り手の「弱さ」が魅力だと思います。

徹底した調査とインタビュー 
 もうひとつ本を紹介します。ジャーナリストのエリック・シュローサーが書いた『核は暴走する――アメリカ核開発と安全性をめぐる闘い(上・下)』(河出書房新社、2018年)という本です。これも完璧に打ちのめされました。調査の徹底、情報提供者への敬意が上部の隠蔽体質を砕いていく。そして、超大国アメリカの核戦略の「超」のつく杜撰さを明らかにし、それに追随する日本の能天気さに震え上がらざるを得ない、そんな本です。私も物理的に胸が震えている感覚を抱きながら、このルポルタージュを読みました。
 1980年9月18日に、米国アーカンソー州ダマスカスの地下にあるミサイル発射複合施設で火災が起きるという事件がありました。この事件はどうして起こったかというと、たまたま点検していた男の人が、大きなソケットを、核兵器を積んだ核弾頭のミサイルを点検中に、高いところから落としてしまったんです。地面に落ちて跳ね返って、燃料タンクのところにぐさっと刺さってしまい、燃料がタンクからぷしゅっと漏れ始めてしまうんです。

 そこに消防隊がどんどん駆け付けていくんですが、結局止められなくなって。どうなったかというと、責任者からどんどん逃げていくんです。まさに満洲国の最後の関東軍と一緒ですね。そんな中で、現場でぎりぎりまで何とかしようと思って、耐え抜いた人たちほぼ全員にインタビューをしています。

 でも結局は止められなくて、核弾頭が飛んだんです。もし、それが落ちたら、広島の原爆レベルの大惨事になっていたんだけれども、たまたま安全装置が働いて、爆発しなかった核弾頭が側溝にはまっていたそうです。そういう事件をひたすら丹念な調査とインタビューで明らかにした驚愕の本です。

 『核は暴走する』で明らかになったことはそれだけではなくて、例えば1980年代、まさにソ連とアメリカとの核戦争の時代に、核兵器を扱う部署の人たちで、アル中、ドラッグがはやっていたということなんです。核兵器という、人類を、地球を左右するようなものを扱っていると、精神的にも通常でいられないそうなんです。

 つまり、核兵器が抑止力であるというのは、大きな嘘であって、すでにあるだけで、いつ暴走するか分からない危険なものとして考えるべきだということが、詳細な調査で明らかになってしまったという本でした。他の3冊と同じく、徹底した現場で出てくるやり切れなさというか、自分が受け入れられない事実の重みから描かれた大作だと思います。

野添憲治『開拓農民の記録』 
 今年の7月に、ものすごく長い時間をかけて、各執筆者と編集者にもかなりの労力を投資いただいて、ナカニシヤ出版から『歴史書の愉悦』(2019年)という編著を出しました。これは、仲間の研究者たちに、座右の書として大事にしている古今東西の歴史本について書いてもらった本です。市場にはなかなか出回らないけど、俗流にこびない、読んで歯応えのある本を扱ったガイドブックです。どの本もハイレベルですが、繰り返し読むことで、スルメのように味わうことができます。

 私が取り上げた座右の書は、野添憲治さんという、秋田の高卒のジャーナリストが書いた『開拓農民の記録』(日本放送出版協会、1976年/社会思想社、1996年、絶版)という本です。論考のタイトルを「近代の切なさに届く調査と表現」としまして、このときに、私は「切なさ」という言葉を確かに書いています。

 みなさんご存知のように、満洲に移民した人たちが、1945年8月9日にソ連が攻めてきた後に、この世のものとは思えない残酷で、死と隣り合わせの逃避行を体験されました。その途中で、かなりの人が集団自決や病気や栄養失調で亡くなるんですが、なんとか逃げ帰ってきた人たちのその後のルポルタージュや自伝も、結構書かれています。最近では、長野の開拓団で、母親に頼まれて逃避行の邪魔になる子どもたちを殺した男性が告白をしました。黒川開拓団で、女性がソ連兵への性接待として差し出されていたことを、女性たちが明らかにしました。性病で苦しみながら亡くなった女性たちもいます。ずっといえなかった過去を、私たちは、自分の全神経を集中させて再現し、次世代に語り継いでいかなければなりません。

 野添さんが捉えたのは再入植制度です。満洲、外地から戻ってきたけれども、すでに日本にその人たちの土地はないんです。なぜかというと、「満洲に渡る人は、土地を全部現地の人に残しなさい。現地の人は土地が2倍になって、その分稼げるから、そのお金によって今の経済不況を乗り越えなさい。満洲に渡った人は、日本とは比べものにならないほどの土地がもらえるから、もっと素晴らしい生活が待っていますよ」――そういう風に誘惑して、日本の満洲移民政策は行われたもんですから、帰ってきても場所がないんです。

 じゃあ、どうするかというと、その当時政府がやっていた再入植制度に応募して、さらに違った場所へと飛ばされるわけです。下北半島の六ヶ所村、のちに成田空港が建設される三里塚、オウム真理教がサティアンを築いていた上九一色村、それらはすべて再入植先です。

 これだけで分かりますよね。日本の近代というものはいったい何なのか。つまり、野添さんの言い方をすると常に「棄民をしてきた」、民を捨ててきた。そして、捨てていく場所すべてが、日本近代の病理が凝縮しているようなところになっている。

 この前、土壌学者の藤井一至さん(著書『土 地球最後のナゾ 100億人を養う土壌を求めて』〔光文社、2018年〕で第7回河合隼雄学芸賞受賞)と岩波書店の『科学』で対談したんです。あの本でたびたび使われる親父ギャグが結構好きでして、しかも、人文学的センスもお持ちの方なので、お話ししていても全然飽きませんでした。藤井さんによれば、それらの場所はすべて土壌の質が悪いそうです。藤井さんの話から、土壌の質をきちんとわかった上で歴史を書くと、また違った歴史的風景が見えてきそう、そんな感覚を抱きました。

 それはさておき、話を戻すと、そういう再入植先に、野添さんは一升瓶を抱えて行って、とにかく話をしていくわけです。再入植先として最も悲劇だったのは北海道でした。十勝のある地域は石ころだらけで、火山灰土は全然土壌としては豊かではない。家も自分で造らないといけないんですけれども、もうとにかくあばら家で。北海道なので、朝起きたら、雪が布団に積もっているんです。屋根が抜けているので。そういう状況下で食べて、何とか暮らしていく人たちが描かれています。

 その中に大変印象的な話があります。お皿がないので、彼らはホタテ貝を使うんです。ホタテ貝の殻にご飯とか、麦とかを置いて食べるので、子どもたちがいつも口角から血を流しているんです。ホタテ貝の先端が、ただでさえ皮膚の薄い子どもたちの口の両脇を切る。そのシーンに、なぜか私は一番心を動かされるんです。自分も痛いと感じる。具体性というのでしょうか。まさに現場を歩き回った人しか書けない本です。

 野添さん自身もずっと出稼ぎで東北中を回ってこられた方なので、出稼ぎの歴史をちゃんと本にしていますし、秋田であった、強制労働に連れてこられた中国人たちの反乱事件、花岡事件の聞き取り調査もしております。彼の『聞き書き 花岡事件 増補版』(御茶の水書房、1992年、絶版)も名著です。

 私が、このように日本の負の歴史に関心を持つのは、負の歴史のリストを並べ立てて、歴史反省国家を演出し、満足するためではありません。全身全霊をかけて負の歴史に向き合うと、いま大学や企業が宣伝で垂れ流す「明るい未来」がものすごく陳腐なものに見えてきます。逆にいえば、今はたとえ実現しなくとも、理想の社会とは何かを考えておくと、どんな勉強でも楽しくなります。歴史学もそうです。なぜなら、過去には「選んではならないこと」と「選んだらよかったかもしれないこと」があふれているからです。

「切ない」という言葉
 辞書を引くと、「切ない」という言葉には2つ意味があります。「圧迫されて、苦しい」というのが元の意味なんですが、ひとつは恋い焦がれる思い。思いが向こうに流れていかずに跳ね返ってくるような、そういう思い。それから、胸をかきむしるような、かわいそう過ぎて、もうとにかくどうしようもない、行き場のない悲しさを感じるとき、そういうものがやっぱりあると思います。

 「切ない」というのは、要は切迫しているというイメージですから、到着はしていないんです。ぴたっとくっついていなくて、いつまでたっても磁石のS極とS極をくっつけようとしたときのように反発し合って届かないという諦念と、そしてあがきというものが、やっぱりこの言葉には合っていると思います。

 これだけでは、私の感情になってしまうので、困ったときは大野晋さんです(笑)。大野さんの『古典基礎語辞典』によると、「切(せち)」という言葉は、漢字の「切」という字の日本語なまりの「せち」という言葉で、感情や郷愁というものが胸に迫る様だそうです。事例として『源氏物語』から「もののせちにいぶせきをりをりは、(伝授された琴を)掻き鳴らしはべりしを」が引かれています。何かどうしようもない、やり場のない気持ちにうつうつとしているときは、ある頂いた琴を掻き鳴らして、心を慰めている、というような意味です。この「せち」が、いわゆる「切ない」の原形になっていくわけです。

 こうしてみると、切ないという感情は、計算してできるようなものではなくて、偶然性の中でぽこぽこと湧き起こってくるようなものだというふうに思います。掻き鳴らされる琴は、おそらく、それを受け止める装置なのでしょう。

 それと対照的なのが、ナチスのプロパガンダです。ご存じのとおり、ヒトラーとゲッベルスというのは計算づくなんです。徹底して計算して、感動をつくっています。ヒトラーにはハインリッヒ・ホフマンという専属のカメラマンがいまして、演説するポーズを彼に撮らせて、一体どういうポーズが人々の心をつかむのかということを訓練していたそうです。「『感動しろ』と言われているから、感動しようかな」という共犯関係が多分にナチズムにはあったのではないかと思うんです。写真家の新井卓さんがおっしゃっていた、「感動せよ」という暴力ですね。

 そう考えると、受け手の心を動かすために計算してものを書く、話を伝えることではナチスを越えられません。そうではなく、湧き起こるものを書き留めるという書き方・話し方こそ、大事だと思うのです。

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著者略歴

  1. 藤原 辰史

    1976年、北海道旭川市生まれ。島根県奥出雲町で育つ。2002年、京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程中途退学。博士(人間・環境学)。京都大学人文科学研究所准教授。専門は農と食の現代史。著書に、『ナチス・ドイツの有機農業』(柏書房、2005年/新装版2012年/第1回日本ドイツ学会奨励賞)、『カブラの冬』(人文書院、2011年)、『ナチスのキッチン』(水声社、2012年/決定版:共和国、2016年/第1回河合隼雄学芸賞)、『稲の大東亜共栄圏』(吉川弘文館、2012年)、『食べること考えること』(共和国、2014年)、『トラクターの世界史』(中公新書、2017年)、『戦争と農業』(集英社インターナショナル新書、2017年)、『給食の歴史』(岩波新書、2018年/第10回辻静雄食文化賞)、『食べるとはどういうことか』(農山漁村文化協会、2019年)、『分解の哲学』(青土社、2019年/第41回サントリー学芸賞)、『縁食論』(ミシマ社、2020年)、『農の原理の史的研究』(創元社、2021年)、『植物考』(生きのびるブックス、2022年)などがある。

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