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『ケアを学ぶ人のために』はじめに

〈さわる〉と〈ふれる〉はどう違う? 場が生み出すケアってどんなもの? ケアする人へのケアはなぜ必要?
ケアされる当事者の視点を重視し、主要な論点を網羅した、ケアを学ぶすべての人の基本書。
2026年4月発売の西村ユミ・熊谷晋一郎編『ケアを学ぶ人のために』より、「はじめに」を公開します。


 ケアという言葉を聞くと、どんなことを思い浮かべるだろうか。
 編者の一人である西村は、最近、登校する小学生たちが、待ち合わせ場所で集まって列をなしていく様子をみて、ふと自分の子どもの頃のことを思い出した。
 毎朝、近くに住んでいる数人と集まるとき、私の妹は同級生(だったと思う)の男の子を誘いに行っていた。その子はうまく話すことができず、いつも落ち着かない様子だった。妹が声をかけながら、時には手をつないで歩くことで一緒に登校できていた。それは、特別なことではなく、私たちにとっての日課だった。ときどきその男の子のお母さんが出てきて、誘ってくれてありがとう、と言っていたのを記憶している。
 何年生のときだっただろうか、その男の子は養護学校に行くことになった。一九七九年の養護学校の義務化のタイミングだったかもしれない。その後、一緒に登校することもなくなった。が、あるとき、妹に養護学校の友達ができて、家族ぐるみの付き合いに発展した。この友達がきっかけを作ってくれたのだと思うが、詳しくは思い出せない。母だったか妹だったかが養護学校に行ったとき、一緒に登校をしていた男の子に再会したのだ。そして、そのことを私に教えてくれたとき、「お世話」という言葉が使われていたように記憶している。
 この出来事は、私に強い印象を残した。妹がいつも迎えに行き一緒に登校すること、ここには当初、お世話という意味はなかった。他方で、迎えに行ったり手をつないだりしていないと、集合場所に集まることや安全に登校することが難しかったのも事実だ。だから、妹だけでなく一緒に登校する皆が、どこかでその男の子を気にかけていた。
 あたりまえにしていたそのことは、「お世話」という言葉によって、私にその意味を自覚させたのかもしれない。また、妹があたりまえに行っていたことに、後付けで意味を与えることの押し付けがましさを覚えたからでもあろう。いずれにせよそれは、男の子を妹の同級生としてではなくお世話の対象にしてしまうことに、気づかされる出来事だったのだ。
 この、あたりまえの関心や行為からお世話までの幅が、ケアにはある。登校時に集まる場所や養護学校という場や制度、状況によっても、その行為に与えられる意味が変わる。行為のみではない。組織や環境、法や規範も、ケアの意味や価値に関わる。

 近年、ケアは、さまざまな学問分野で、また当事者の間で多角的に議論されている。その背景には、少子高齢化の進行のために、ケアを担う人が減る一方でケアを必要とする人が増え、制度・人材・地域社会においてその対応を迫られるという問題意識がある。しかし、そうした問題の捉え方は、ケアというテーマをある一面から捉えているにすぎない。ケアを担う人とケアを必要とする人は、それほどはっきり区別できるだろうか?
 子どもや高齢者、障害者など、一部の人々だけがケアを必要としているとみなされがちだが、実際は、すべての人々が膨大な人やモノからケアを受け取っている。ケアなしに生きていくことはできないのだ。そこから、ケアは相互に依存しあうことで成り立っているこの社会の前提条件であることが見えてくる。したがってケアは、万人が等しくそれを担う責任とそれを受け取る権利を分けもつべきものである。
 しかし現実には、一部の人にケアの責任が集中したり、一部の人が十分なケアを受け取れていなかったりする状況がある。介護や育児などのケアを誰が担うかという課題や、生きづらい思いをしている人たち、病いや障害をもった人々、多様な状態にある人々との共生という課題が顕在化するのはそれゆえである。
 ケアが万人に等しく担われ、また受け取られる権利となる基盤をつくるには、ケアの偏在やケアする者/される者という二元論にもとづいたケア観を、別様に転換する必要がある。いわばケアのパラダイムチェンジである。それには、ケアを根本から問いなおす議論が必要になるだろう。近年、ケアを基盤とした新たな政治や連携、あるいは個のケアからケアとしての公共的な場やスペース、コミュニティへと視点を変えた提案がなされている。これらは、ケアによって社会を問いなおしつつ、ケアの考え方自体を変え、同時に社会のあり方をも転換させていこうとする運動であるに違いない。
 本書は、こうしたケアの問いなおしや運動を引き受け、ケアとして何がどのように議論されているのか、ケアが社会的課題といかに関連しているのかをわかりやすく紹介するとともに、ケアを切り口とした新たな議論の展開や実践を示すための試みとして編まれた。

 本書は四部で構成される。Ⅰ部とⅡ部では「ケアの基本」を、つまりケアについてこれだけは知ってほしいという一〇の論点を、各章で解説している。
 先に紹介した経験にも認められた、弱さ、依存、自立、身体性などの概念を切り口として、ケアを原理的な側面から考察したのがⅠ部である。1章では、まず「ケアとは何か」をテーマに、ケアの対象に共通する弱さと依存という状況について論じた。この弱さを、「植物状態患者」との交流や、新生児に応答する場面として具体的に考察したのが2章である。3章では、トータル・ケアを実現するには、医学的に特定される「疾患」だけでなく、患者の「病い」を理解すべく、人間を心身統合的な存在としてトータルに見ることが重要であると説いている。また4章では、脳性まひという障害を生きる経験にもとづき、ケア供給の独占がもたらす支配の問題を指摘する。
 Ⅱ部では、編者(西村)の妹の手をつなぐ行為にも関わる接触、養護学校のような施設にも関わる場や制度、あるいは誰がどのように関わるべきかという倫理などに注目し、ケアを社会的側面から捉える。まず、介護などの「他者の身体にふれる」行為がもつ、安らぎにも暴力にもなりうる二面性を掘り下げるべく、日本語の「さわる」と「ふれる」の違いに着目したのは5章である。6章では、高齢者介護の現場や知的障害者の地域生活支援の現場における「場の力」に注目し、それを敷衍して、「共生ケア」や多様な「居場所」づくりについて論じている。これに対し、場における孤立を論じたのは7章である。社会や支援現場における孤立は、さまざまな人の中で生じ「かすかなSOS」として表れる。8章では、キャロル・ギリガンからジョアン・トロントへの議論の展開を追い、ケアの責任を分配し、関心、配慮、ケア提供、受容、共にケアすることという五つの局面からなるケアリング・デモクラシーという概念に注目する。「共にケアすること」において、ケアの支え手はケアの受け手にもなる。9章では、ケアする人の「バーンアウト」と「共感疲労」に注目し、ケアラーへのケアの必要性を説く。難病当事者の視点から、患者としての経験と患者会での活動にもとづき、当事者の連帯とピアサポートの重要性を論じたのは10章である。
 Ⅲ部では、多様な人々がケアにどう関わるかを論じている。まず、子どもに注目したのは次の二章である。11章では、子どもの学校への不適応や乱暴なふるまいをSOSと捉え、生きづらさを抱える子どもへのケアについて論じる。12章では、人工呼吸器等が必要な医療的ケア児が地域で暮らす上での課題と、誰も排除されない「インクルーシブ保育」の実践を報告している。ケアをコミュニティという視点から議論した章もある。13章では、地域共生社会の実現に向け、ケアは専門施設だけでなくコミュニティに遍在すべきとし、環境を介したケアの重要性を論じた。「患者の選択」が、自己責任論やネグレクトにつながるという限界を指摘し、個人と集団、意図と行為が絡み合うケアの世界を描き、人類学の視点から「ケアのロジック」を提案したのは14章である。15章では、サクセスフル・エイジングと、老いへの抵抗であるアンチ・エイジングとの関係性を考察している。
 日常の活動から文学、法、自然という幅広い分野の議論を紹介したのは、Ⅳ部である。
16章は、献立作りの難しさや、料理技術が身についたことのありがたみという筆者自身の経験を起点に、「ケア」と食事の関係を論じる。17章では、キャロル・ギリガンの「ケアの倫理」、その源流にあるヴァージニア・ウルフの弱さの思想、ハン・ガンの『別れを告げない』などを導きの糸としつつ、傷やトラウマを物語化することで痛みに耐える弱者の姿を描き出している。自治や自律を理想とする「一人前の市民」の背後に、ケアの仕事を担ってくれる他者存在を前提とする「ケアレス・マン」モデルがあることを問題視したのは18章のケア論である。最後の19章では、ケアのテーマを、1対1の関係から、その基盤であるコミュニティ、そしてさらに根底にある自然へとつなぎ広げる視点を論じている。
 Ⅱ部とⅢ部の間にあるTALK BACKについても触れておきたい。ここでは、「ケア」という言葉への違和感が表明され、障害者の自立生活運動における「介助」の考え方が対比的に述べられている。各章では基本的に、ケアについて積み上げられてきた議論をアカデミックな語法で解説している。しかしながら、ときとしてそれは、ケアを受ける当事者の言葉を抽象化し、ケアする者が安心できる形に均されてしまう。草の根運動としての自立生活運動の立場、当事者の立場からの発信であることを明示すべく、あえて、当事者の経験した言葉で、「言い返す」という意味の「TALK BACK」として提示した。
 ここまで本書の構成を紹介したが、必ずしも章の順に読むのではなく、読者の関心にもとづいて読んでもらえたら幸いである。そのための手がかりとして、ケアを学ぶ人の目的別マップ(一四頁)も用意している。離れたところにある章どうしも、共通の論点をもち有機的につながっていること、どの章も複数の論点を包含していることがわかっていただけると思う。

  本書の読者としてまず想定したのは、これからケアについて学んだり議論したり、研究したり実践したりする大学生や専門学校生、大学院生の皆さんである。「ケア」を専門分野の中で議論する手前で、多様なケア論、そして課題があることを知っていただけたら嬉しく思う。
 もちろん、学生さんだけを対象としているわけではない。とりわけ、さまざまな立場で日々ケアに関わっている皆様が、日頃、課題だと思っていることや取り組んでみたいと思っていることを、一層明確にし、さまざまな示唆をもたらすことを願っている。あるいは、ケアを通じて社会を捉え直してみたい人にとっても、確かな指針が得られるものになっていると自負している。
 多様な読者の皆さんとともにケアを考えること、ケアに学ぶこと、そして、ケアに関する実践・研究の足場として本書が位置づけられることを願っている。


 

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【目次】

はじめに

Ⅰ部 人間の根源としてのケア──ケアの基本1
1章 ケアとは何か(宮坂道夫)
2章 弱さへの応答(西村ユミ)
3章 トータル・ケア(榊原哲也)
4章 自己決定と自立(熊谷晋一郎)

Ⅱ部 共存の場としてのケア──ケアの基本2
5章 身体との接触(伊藤亜紗)
6章 日常と場(三井さよ)
7章 孤立と気づき(村上靖彦) 
8章 ケアの倫理とケアリング・デモクラシー(冨岡薫・相馬直子)
9章 共感の代償(武井麻子)
10章 当事者の連帯とピアサポート(永森志織)

TALK BACK 私は「ケア」が苦手です
 ──介助を使って生きる重度身体障害者の立場から(油田優衣)

Ⅲ部 多様な人々と創造するケア──ケアの実践・研究1
11章 子どもの生きづらさからケアを考える(大塚類)
12章 インクルーシブ保育を実践する(東村知子)
13章 共に在る場所をつくる(山田あすか)
14章 患者の選択から距離をとる(田口陽子)
15章 高齢者の未来をひらく(井口高志)

Ⅳ部 社会を変革するケア──ケアの実践・研究2
16章 料理から社会を問う(阿古真理)
17章 弱者の物語をひも解く(小川公代)
18章 ケアから市民像を再考する(池田弘乃)
19章 ケアと自然・コミュニティをつなぐ(広井良典)

参照文献/索引

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著者略歴

  1. 西村 ユミ

    東京都立大学健康福祉学部/人間健康科学研究科教授。 専門は看護学、現象学的研究。 著書に『語りかける身体──看護ケアの現象学』(講談社学術文庫、2018年)、『交流する身体──〈病い〉と〈ケア〉の現象学』(講談社学術文庫、2025年)、『看護実践の語り──言葉にならない営みを言葉にする』(新曜社、2016年)など。

  2. 熊谷 晋一郎

    東京大学先端科学技術研究センター教授。 専門は当事者研究、小児科学。 著書に『当事者研究──等身大の〈わたし〉の発見と回復』(岩波書店、2020年)、『リハビリの夜』(医学書院、2009年)、『発達障害当事者研究──ゆっくりていねいにつながりたい』(共著、医学書院、2008年)など。

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