【後編】アネクドタを通じた関係
『愛と孤独のフォルクローレ』の刊行を記念し、京都の誠光社にて、著者の相田豊さんと文化人類学者の石井美保さんによるトークイベント「聴くこと・書くこと・共にすること――フォルクローレと文化人類学の饗宴」を行いました。つながりの裏にある複層的な孤独、そしてアネクドタ(噂話、小話)を通じた人と人との関係性など、本書の論点を深める充実の対談、前編・後編に分けてお届けします。
感動から遠く離れて
相田 音楽を聞くとなんか伝わってくる。それでつながるとか、村の一員としてみんなで作り上げている感じとかって感動するんです。一方で、音が人をつなげるって、そう単純にのほほんと言えるような話じゃなくて。ある意味では侵食して、他の人を自分にしちゃうっていうことでもある。逆に音を出すことによって、他のものから距離を置いて、自分の音響空間、自分のプライベートな響きの中に自分を置くみたいなことに使われたり。やっぱりつながりと孤独って、片方ではちょっと言い切れない裏表の関係はある。
石井 そうですね。「音楽は人と人をつなぐ、あるいは一体感を生み出すものだ」ということ自体がちょっと危険な考え方で、それによって何が起こっているのかということを、もうちょっと引いて考える必要があるかもしれないですね。音楽学者の岡田暁生さんは、近代的なクラシック音楽というのがどう作られていったか、それがどうやって市民社会、あるいはナショナリズムと結びついていったかということを書かれていますが、それでいくと、『第九』とか、すごく危険な音楽で、気をつけたほうがいいみたいですね。
相田 なんか引き込んでしまう恐ろしさっていうのも。
石井 そうそう。「我々!」みたいな感じになっちゃうわけですね。
相田 自分の話に引きつけると、そういうところも含めて、彼らにとっては、時には人の心を操ったりとかするための、時にはうまく一人になるための技術として捉えていて、だから近代化しなきゃいけないし、より良いものを手に入れたい。単純に、鑑賞するとか、美しいからっていうのとは、またちょっと違うところがある。
石井 そうですね。マエストロたちだけでなく、楽器を作っている人とか木を伐っている人も本の中に出てきますけれど、みんな割り切っているんですよね。すばらしい音楽を作り出すっていうよりは、売れるためにはこうしたほうがいいとか。楽器をその手段としてみなしている。
相田 やっぱり近代の表現者としての孤独がありつつも、必ずしもそこだけじゃないっていうのは、まさに生き物として生活を組み立てていく上での技術とか技として音楽を使っているというのはあります。
フォルクローレのアネクドタと民話
石井 この本の中で相田さんが着眼しているのが、アネクドタといわれる経験談なんですが、すごくおもしろいのが、練習に行っても、全然練習に入らなくておしゃべりだけで終わっちゃう。それ自体はいろんなところで、私がみてきたような宗教儀礼でも、いつまで経っても儀礼が始まらなくてずっと人がしゃべっているみたいなことがあるんです。そういう情景を思い出しました。単にこれが、いつまでも本題に入らない雑談かと思いきや、ここで相田さんの気づきがすばらしいと思ったんです。これこそが演奏を支えるといいますか、演奏の間合いを作り出しているものなんじゃないかという洞察がなされていて、この本の一つの白眉かなと思います。該当箇所を読みますと、
音楽実践が「アネクドタ的」であるというのは、実践というものが、ままならない現実を抱えているのだということであり、その実践のままならなさこそが、見えないところで実践の動機を作っていくのだということなのである。
つまり音楽実践というのは、予定調和的なものではなくて、すごく思いがけない出来事(ハプニング、イベント)として起こるわけなんですけれど、ここで瞬発的に相手に合わせたりとか、相手がどういう思いでこれをやっているのかを慮る。その根底にアネクドタがあるという洞察ではないかと思います。
フォルクローレ音楽家には、音楽をしているだけでは見えない個々人の音楽家の思いが存在していて、それが潜在的に音楽イベントの不可視な部分を決定しているという感覚があるからこそ、それを動かそうとするし、それを語ろうとするのではないだろうか。
なので、ここではかり知れない他者の思いを慮る、そのヒントとしてアネクドタがある。だからといって、なにもかもがわかるというわけじゃなくて、その成り行きを共に作り出していく。まさに出来事として音楽が作り出される。アネクドタも同様に、語り、語られる出来事として共有されるということが、ここで描かれていると思います。
私がそれで連想したのが民話なんですけど、民話もやっぱり、そのときそのときで、作られて生まれていく。人がなんとなく集まる中で、語り合う中で共有されていって、あぶくのように消えていくものなんです。今日の場もそうかもしれませんけれども、その「共有される」ということ、それが永続性を持ったものじゃなくて、まさに出来事として私たちがそれを共に目の当たりにしていることが、すごく大事なんじゃないかなと思いました。
アネクドタの虚構性
石井 それで相田さんにお伺いしたいのが、この中でフォルクローレの人たちが語ることは、基本的に彼らの経験として書かれているんですけれど、けっこうフィクショナルなものなのではないかなと思うんですね。民話ってフォークロアと言いますけれど、それにすごく近いものがあるのかなと。そこで、アネクドタの虚構性みたいなものが持っている力についてお伺いできたらなと思います。
相田 アネクドタってオチがついた、顛末のはっきりした話で、例えば、ちょうど自分が浮気相手とこの道を歩いてたら、あっちから向こうも浮気相手連れてきて現れたのよ、みたいな。典型的なものとしては、そういう一つの笑い話として自分の体験談を語る。人が集まって輪になったりすると、今度は俺の番、今度は俺の番って、順番に話をしていったりします。ウソか本当かわからない話も多いですね。少なくとも「盛ってる」話は、けっこうあるんだと思います。
この本の中で一つのアネクドタとして、フェルナンドさんが初めてフランスに行った時の話を書いていて。初めての海外渡航でフランスに行ったときに、父親に向かって、「今フランスにいて今日はもう帰れないから、じゃあね」って言って電話切ってやったんだという親への反抗のエピソードです。ところが、ある音楽家にこの間、あの話はウソだって言われて。「えっ、本当はどうだったの?」って訊いたら、「フェルナンドが初めて行った外国は、フランスじゃなくてチリなんだ。それに当時、ボリビアで国際電話かかってくるってなったら、事前に必ず、国際電話を受け取ることができる電話に家族みんなで集まっていたはずで、電話に出るまで、『お前、どこにいるんだ』『フランスにいるよ』『えっ?』みたいな、そういうドラマチックなことは起こるはずがない」って言われて。ああ、なるほど出来事全体がなかったわけではないけど、ちょっと話をおもしろくしちゃったんだな、と思いました。こういうことはけっこうあると思います。
彼ら自身も、相手が言ってることが100%本当か100%ウソかはわかんないし、どっちの可能性もあるよなと思いながら、この現実みたいなものを生きているのが、自分が行ったボリビアの人たちの暮らしなのかなと思います。
石井 なるほど。そのアネクドタは、演奏の底流にあることで、演奏の間合いみたいなものが生まれてるっていう。
相田 そうですね。あとだいたい一回曲を演奏したら、実はこの曲は、自分がこういうふうにして、そうしたらこんなおもしろいことがあって、そのときに練習した曲なんですよみたいな小話の一つもしてから演奏する。曲間のしゃべりっていうのは日本でもあると思うんですけど、そういうものもおもしろくないと観客に受けないので、そういう意味では、直接的にも間接的にも音楽を支えているものだなと。
石井 共に演奏している人だけじゃなくて、観客もアネクドタを聞くことで、よりそれに乗っていくみたいな。
相田 はい。それをまたリアルに感じるしってことはあるんじゃないかな。
石井 なるほど。じゃあ話術も必要ですね。
相田 そうなんです。話術に優れた人が多いのも事実だとは思います。たまに、すごい口下手な人もいて、それはそれで味はあるんですけれど。
「わからなさ」を描く人類学
石井 人類学の枕詞で、「他者理解」ってよく言われるんですけど。そもそも他者って理解できるものでしょうか。
パートナーであっても、子どもであってもわからない。でも、わからないなりにどうにかやっている。そこにアネクドタみたいなものがあって、コミュニケーションができたりとか、でも実はすごく孤独だったりとか。「みんなそうだよね」って言うのではない、独自の在り方をしているのがわかります。
私自身は、ガーナの村で調査していたときに感じたことなんですが、みんなすごい、人と人との関係性が近いんですね。すぐに手をつないじゃったりとか、身体的な接触も多いですし、常にしゃべっている。けれど一方で、人のことは結局わからないという、深い諦念みたいなものもあるんじゃないかなと思うんです。それが一番ビビッドに出てくるのが妖術です。
妖術というのは、身辺によくないことが続いたりして、「いや、なんか、このごろ変だ」っていうときに、誰かが自分に妖術をかけているんじゃないかと疑って、精霊の社で占ってもらったりするんです。私がいた地域では、近い母系親族の間でだけ、その妖術が効くって言われてたんですね。つまり妖術は他人にかけるものじゃなくて、近い親族にかけるもの、かけられるもの。すごく近くにいて、普段親しくしゃべったりしているけれど、やっぱりわからないという他者のはかり知れなさが、この妖術の怖れへの根底にあるんじゃないかと思います。
実は妖術は、「おまえ、妖術かけたんじゃないか」と言われた本人にとってもわからないものなんですね。ひょっとしたら自分が妖術をかけたかもしれない。なぜなら、意識してかけるものではなくて、夢の中でそれをやっちゃってるかもしれないからです。妖術っていうのは、他者のはかり知れなさを表すものでもあるし、自分のはかり知れなさ、自分自身に対して抱いているわからなさでもあるのかなと思います。
相田 つながりが全部ダメなんだとか、孤独がすばらしいんだとかっていう話をしたかったんじゃなく、愛もあり孤独もあり、あるいはウソか本当か、みたいな話の中で、揺れ動いたり、あっちでもない、こっちでもないってジグザグ行くところに、そのものの本質が垣間見られる瞬間があるんじゃないかなって…。人類学の根幹にも、そういうところってあるんじゃないかなとも最近は思っていて。自分とは違うように見える人のところにいって、一見相反する2つのものの中で、往復しながら何かを考えていくのって、けっこう大事なんだってことも、民族誌の中で実現したかったことかなと。
石井 そうですね。相田さんのご本の特徴は、逡巡の軌跡が書かれていて、「私はこう思った。けれどもこう反論できる。けれどもこれはやっぱり大事だ」みたいな。その逡巡の軌跡が、今おっしゃった、単純に一直線に解答に向かうのではないところですよね。迷いながら、解のようなものにジリジリ近づいていく。その人類学的な足どりがリアルに描かれているなと思いました。
書くことと文体
相田 自分がこの民族誌の中で書いた音楽家というのは、『プロジェクトX』みたいに、これは日本のヒーローだとか、ボリビアのヒーローだというだけじゃなくて、弱いところも持つ人々の実践で、当人からしてみればかっこ悪いところも正直書いているわけなんです。そうなったときに、自分だけかっこいい感じにするのもおこがましいかなと思ったこともあって、この本を書くにあたっては、自分が失敗したり、うまくいかなかったりしたことも、書いたほうがいいんじゃないかと思ったんです。なので、話の途中で、こういう調査やってみたんだけどあまりうまくいかなかったとか、こういう仮説がおもしろいんじゃないかと思って試したけど、やっぱり違うなと思ってあきらめたとか、そういうことも、全部順番に書いています。
自分は文化人類学の中身だけじゃなく、文体や書き方について悩みもありつつ書いてきました。石井先生の最近の本は、『たまふりの人類学』もそうですし『めぐりながれるものの人類学』(いずれも青土社)もそうですが、いわゆる論文調ではない文体を選ばれているのかなと思うのですが、意図的にやられていることなのか、気づいたら自然とそうなっていたことなのかということは少し伺ってみたいです。あるいは、論文のようないわゆる文化人類学の専門家に向けたものと、そうではないものとを、二つの仕事だと思ってスイッチしながらされているのか、一つのやり方として考えているのか、その辺のことを伺ってみたいです。
石井 そうですね。わりと最近、エッセイみたいな本を何冊か書いているんですけれど、そこでは論文とは全然違う、もうちょっとなんというか、柔らかい文章で書いているんですね。そういった感じのものは、実はずっと日記みたいな感じで書いてて、エッセイの話をいただいたときに、自然とそういう文体で書いてみたのですが、思いの外いろんな方に届いたなという気持ちがあって。やっぱり学術書って、理論的なことも書かれていますし、読みやすいものではないですよね。価格も高いっていうのもありますし。
エッセイを初めて出したときに、いろんな方からいろんなご感想をいただいて、「こういうふうに書いてもいいんだ」って思ったんですね。読んでくださる方がいるんだなと思いまして。それで今まで自分だけで書いていたものを、もうちょっと意識的に、人類学になじみのない方にも届けたいという気持ちでといいますか、結果的にそういう形で書くようになったっていうのがあります。
ただ内容については、そんなに違うことを書いているわけじゃなくて、同じ曲を違う形で演奏しているみたいな感じで、書いていることはそんなに学術論文もエッセイも変わらないんですよね。ただ、エッセイのほうが、ある意味ではためらいなく思っていることを書けるといいますか。学術論文って、先行研究があって、自分の立ち位置があって、事例があってみたいな、それこそ型があるんですけど。エッセイのほうがそこから取りこぼされた、相田さんのご本ではそれが入っていると思いますけど、いろんな自分の感覚だったり、色彩だったり、匂いだったりとか、そういうものも書けるという意味では、やっぱりすごく書いてて楽しいですね。
相田さんの演奏とアネクドタ
相田 ところで、これがサンポーニャという楽器でして。従来的には竹の楽器、竹や葦を使って管を作るんですけど、日本って寒暖の差もあり、湿度の差も大きくて、割れやすいっていうことと、東京から京都まで運ぶのに運びやすいっていうことで、これは完全にプラスチック管でできたサンポーニャです。
演奏するのは、先ほどのヒメネス氏が1980年ぐらいに作曲して、大ヒットを飛ばした曲。下を向いて吹きなさいと教わった話を本の5章に書いているんですけれど、そのときに習っていたのは、この曲だったというのを、演奏したいと思います。
石井 今のがアネクドタですね。
相田 そういうことです。こういう小話みたいなことで。
「ニーナナイラ(炎の目)」っていう、曲名の意味はよくわからないのですが、歌詞を聞いてると、「私の孤独よ 悲しみを 誰も思い人がいないことの悲しさよ」といったことをずっと歌っている曲で、端的に言うと、好きだった女の子に逃げられちゃって、寂しい、切ないっていう曲ではあるんですけれど、誰も私のことを思ってくれる人はいないっていう悲しさじゃなくて、誰にでも自分が思うことができない人がいるっていう悲しさを言っているところにひねりを感じて、いい曲だなと思うので、演奏したいと思います。
相田 元々はこの笛、三段あるんです。これがドレミファソラシドみたいにジグザグに音が並んでいまして。農村とかでやるときは、ハンドベルみたいにして、一段ずつ順番にやって、ここの管だけ吹く人と、ここの管だけ吹く人が交互に音を出してメロディを作っていくという吹き方が一般的なんです。なので、それを束ねて一つにして、さらにピアノで言うところの黒鍵みたいなもの、足りない音も全部足して、音楽全部できるぞっていうフル装備にして、一人で吹くっていうのがフォルクローレ音楽にでてきた発展なので、そういう意味でも、なるべくして孤独になったっていう。
三段サンポーニャ
石井 本当ですよね。本当は何人かでやっていたのに、自己完結しちゃうっていう。
相田 村の人も実は一人で吹こうと思えば吹けるんですよ。あの二つを持って。だけどみんなあえて自分のできることを減らして、そうしているっていうところはあると思うんですね。
石井 なるほど、孤独に至るための改造だったわけですね。すごいいろんなことを示唆していますね。
(おわり)
装画:ミロコマチコ 装丁:大倉真一郎
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目次
はじめに
序章 孤独とつながりの人類学
1 私たちの孤独と人類学
2 不安の時代の音楽
3 ラテンアメリカの孤独
4 個人誌という方法とその可能性
5 本書の構成
1章 旅の前にあるもの
1 フォルクローレ音楽に出会う
2 フォルクローレ音楽は論じるに値するのか
3 右でも左でもなく
4 それではフォルクローレ音楽とは何なのか
2章 不器用な音楽家たち
1 ラパスというフィールド
2 最初の問いを着想するまで
3 仕事のつながりに参与する
4 ばらばらな音楽家たち
5 在地論理の取り出し方
3章 物語を愛する人々
1 グルーヴから物語へ
2 とあるコンサート制作のアネクドタ
3 アネクドタ的思考
4 人生とその群像
4章 孤独の内に立ち上がる者たち
1 他者の世界を記述すること
2 フォルクローレ音楽家の肩越しに見える世界
3 「孤独」から立ち上がる世界
5章 他者に抗する戦士/旅人
1 フォルクローレ音楽をめぐるノスタルジアとブーム
2 他者に抗うための音楽
3 個が個であるための音楽
4 反抗、世代、強度
6章 「不真面目」なひとりの楽器職人
1 近代の孤独とポスト多文化主義時代の孤独
2 民族誌的背景──アイキレという場所
3 ある女性楽器製作者「モニカ」のアネクドタ
4 すれ違いを笑い飛ばすこと
5 多層なるものとしてのひとり
7章 アマゾンの開拓者
1 アンデスからアマゾンに下る経験
2 カバドールとそのライフヒストリー
3 カバドールへの同行取材
4 カバドールの論理
5 決して交わることのないもの、にわかには知覚できないもの
終章 すでにそこにあるもの
1 関係の彼方へ
2 そのものの内にある力
3 ばらばらの時間の内で繰り返す
4 美を愛する者たち
注/あとがき/初出一覧/参照文献/索引