【前編】生き物としての孤独と笛の音
『愛と孤独のフォルクローレ』の刊行を記念し、京都の誠光社にて、著者の相田豊さんと文化人類学者の石井美保さんによるトークイベント「聴くこと・書くこと・共にすること――フォルクローレと文化人類学の饗宴」を行いました。つながりの裏にある複層的な孤独、そしてアネクドタ(噂話、小話)を通じた人と人との関係性など、本書の論点を深める充実の対談、前編・後編に分けてお届けします。
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相田豊さん(左)と石井美保さん
『プロジェクトX』の南米ボリビア版を作りたい
相田 私は、初めてこの書店に来たのですが、大人の隠れ家のような、いるだけでワクワクするようなところですね。このような場所でお話しできること、みなさんと空間を共にすることができることを、うれしく思っています。最初に私から、この本について簡単に説明させていただければと思います。
南米のボリビアでは1970年代から、民俗楽器は使うんだけれど、それぞれに自分の作曲した曲を演奏する新しいタイプの音楽が生まれまして、それがフォルクローレ音楽と呼ばれています。この新しい音楽が生まれる過程のドラマを書いてみたいというのが『愛と孤独のフォルクローレ』のひとつのテーマになっています。
NHKの『プロジェクトX』という番組をご存じでしょうか。自動改札機とか、人々の生活を劇的に変えた新製品の開発とか、日本人の底力を示す巨大プロジェクトみたいなものに焦点を当てて、そこに関わった人たちがどういう挑戦をして、その陰にどんなドラマがあったのかなどを描いた番組ですが、その南米ボリビア版を作りたいというか。ボリビアではみんなが聞いたことがあるこの音楽、最初に作った人たちはどういうことを考えてこれを作って、裏にどんなドラマがあったのかを、書いてみたかったということなんです。
日本の『プロジェクトX』に出てくるのは自動改札機かもしれませんが、ボリビアの場合は音楽というものが、自分たちの国で近代というものを実現するための技術そのものだったわけです。ボリビアというものが思い描いた、ペカペカした、ある意味では張りぼての近代の夢のようなものが、どういうものだったのかを書いてみたい。それが『愛と孤独のフォルクローレ』のひとつのテーマでした。
ただ、私は歴史学者ではなく人類学者ですので、過去も大事ですけれど、今、人々がどういうふうにそれを生きているのかということも大事なテーマです。それに、『プロジェクトX』はどこか「だから日本はすばらしい」みたいなメッセージにつながっているようで、引っかかるところもあって、そこは『プロジェクトX』そのものからは離れてくるところだと思います。
この本で焦点を当てたいなと思ったのは、一度は成功した音楽家たちが年をとって、今はもう時代遅れのおじいさんだなんて言われてしまう、ある意味では郷愁を帯びた姿、一緒に音楽活動をする中で見えてきたそのような姿です。時代を一身に背負った人たちが、今度は逆に、抗いがたい時間の中で、自分たちがそれに遅れを取ってしまい、演奏しても昔ほどは振り向いてもらえないけれどステージに立ち続ける。その背景には何があるんだろう、今どういう思いでやってるんだろうといったことを書いてみたかったんです。
情景が目に浮かぶ、音楽が聴こえてくる民族誌
石井 私の好きな民族誌というのは、それを読むと、自分もその場所にいったことがあるかのような、そこにいて、その人たちと知り合っているような気持ちになれる民族誌なんです。この相田さんのご本はまさにそういう本で、読んでいる間、私もアンデスの高地からアマゾンに下ったり、あるいはすごくクセのあるフォルクローレのマエストロたちと知り合って、なんやかんや言われているような気持ちになりました。
そういう意味で、相田さんのご本は情景が映像的に目に浮かぶような、音楽が聴こえてくるような民族誌だなと思いました。相田さんも、最後のほうで「群像劇」って書かれていましたけど、人の人生模様が見えてくるような本だなと思います。
中でもやっぱりテーマが「愛と孤独」ということで、すごく劇的で魅力的なタイトルですよね。本の中で相田さんがおっしゃっているように、近年の人類学において、「孤独」よりも「つながり」とか「共同性」とかが民族誌のタイトルとして、たくさん出されてきたんですけれど、相田さんはあえて「つながり」じゃなくて「孤独」なんだと打ち出されているわけですね。
本書を読んでみると、すごく隔絶された孤独な人について書かれているというわけでもなくて、なんで「孤独」なのかというと、つながりの裏面を見ようとされているからかなと思いました。だからつながりを否定しているわけじゃなくて、つながりの裏には必ず孤独があって、その孤独というのを見ていくとやっぱりつながりが、孤独の深さほどにキラッと輝いて見えるような、そういうところを拾い上げていらっしゃるんじゃないかなと思いました。
生き物としての孤独を描いた民族誌
石井 ここで描かれている「孤独」は、すごく複層的な多重的なものだなと思ったんですね。一つは、ボリビア社会の、ラテンアメリカにおけるある種の近代人としての孤独。もう一つは彼らが芸術家だということからくる孤独。さらに私が思ったのが、個としての、生き物としての孤独。アンデスの環境の中で生きることそのものから生まれてくる、個としての孤独というものが、通底しているように思いました。
なので少なくとも、この三重の孤独を背負って年を重ねてこられたマエストロたちの人生の軌跡を書かれているんだなと思いました。人類学においてつながりがフォーカスされていると言ったんですけれど、思い返してみると、その中でも孤独を描いた優れた民族誌というのがいくつもあって。特にアンデスで生きる「生き物としての孤独」から連想したのは、河合香吏さんと中屋敷千尋さんの民族誌です。
河合さんは、ケニアの牧畜民の間でずっと調査をされてきたんですけれども、短い論文「チャムスの蝉時雨」(『ものの人類学』 京都大学学術出版会)の中で、まさにその孤独について書いているんですね。読んだ時、すごい深い印象を受けたんですけど、チャムスという牧畜民は、牧童が一人でヤギとかを追って、一日中野原にいるんですね。そうすると蝉時雨が、耳も聞こえないぐらいワーッと自分を取り巻くと。そういうときに人々は「リイヨに食われる」って言うらしいんですね。じゃあそのリイヨっていうのが何なのか。チャムスの人々によれば、それは蝉時雨のことでもあるし、一人でいることでもあるし、耳鳴りでもあると。なんかすごく、不思議な概念ですよね。でもこの「リイヨに食われる」という概念が、ある環境の中で一人でいること、生き物として一人でいることによって、その環境に呑まれてしまいそうになりながら、なおかつどうにか自分を維持しようとしているような、そういう人のあり方が、この「リイヨに食われる」という言葉に表されているのかなと思います。
もう一つ挙げたのが、中屋敷さんのヒマラヤの民族誌です。中屋敷さん自身が高地で調査しているときに、何一つ生き物の気配がなくて、風がゴーゴー吹いている。そこでたった一人で眠るときに、自分の心臓の鼓動の音を確かめてたって言うんですね。街に下りたときに、「高山の景色は全て孤独を表している。だから気をつけなさい」と言われたとも書いています。ここで中屋敷さんが描いているのは明らかに「孤独」なんですけど、彼女の本のタイトルは『つながりを生きる』(風響社)なんですよね。だから逆説的にもみえるんですけど、相田さんのご本と通底するような、すごく深い孤独とか、一人でいることの怖さみたいなものがあって、だからこそ、予定調和的じゃないつながりが稀有なものとして現れてくる。そういうところをとらえた民族誌というのが、人類学の中にもあるのかなと思います。
音響兵器で妖怪カリカリを撃退する
石井 「生き物としての孤独」に関してすごくおもしろいなと思ったことなのですが、フォルクローレの音楽においては、私たちが普通考えるようなメロディラインとかリズムとかよりも、音の強度が大事だっていうんですよね。だからバーン!っていうこの音を出すっていうことが、周りの人を驚かせて、時には敵を撃退するっていう……。
相田 音響兵器ですね。
石井 音響兵器としての側面を持っていて、それがフォルクローレの根底の一つをなしているというのが、すごく斬新だし、なるほどと思ったんですね。
「ヒメネス氏の教え」というのがあるんですけれど、彼は演奏をしている時、ずっと下を向いてて、普通アイコンタクトを取って演奏するのに、なんで下を向いているんだろう、これ良くないんじゃないかと思って相田さんが尋ねてみたら、きっぱりと言うんですね。
サンポーニャを吹いている時は必ず足元のところを見るんだ。〔…〕ステージで他の音楽家の音を聴いたり、見たりしたらいけない。自分自身の音だけを聴いて、強く吹くんだ。強く、強く
これは本当に、他者と協調することの対極にあるような、他者を遠ざけ、圧倒し、他者に抗するための音なわけですね。ここで他者っていうのは、基本的には他の演奏家とかの人間を指しているんですけれど、相田さんは先住民の集落に行ったときに、もう一つ発見をするわけです。いよいよ村を去りますというときに、村長さんの奥さんがタタッと走ってきて言うわけですね。
道中、ひょっとしたらカリカリが現れるかもしれない。ひとりで旅するのは危険なことよ。ネギや笛さえあれば、カリカリはあなたを襲うのをためらうはず。しっかり身につけていきなさい。
私、このくだりがすごい好きで。カリカリって(笑)と思ったんですね。
相田 日本語に似ていて不思議な感じがするんですけど、カリカリは「刈り取る」という意味だそうです。あちこちにいて、人が一人で、特に旅をしていると、刈り取ったりとか、最近は注射器なんかも使って脂肪を抜き取ってしまうらしいんです。
石井 脂肪を吸われると、その人が死んでしまうという恐ろしいものなんですけど、ここで笛が重要になるわけです。音響兵器としての笛を使って、この恐ろしいカリカリを撃退することができるっていう知恵が、ここで授けられているんですけど、ここで言われている「他なるもの」というのは人間ですらないわけです。
さっき紹介した、チャムスの牧童を捕えるリイヨみたいなものとして、このカリカリっていうのが現れてくるわけですね。これは一見おもしろいようでいて、すごく深いことがここで書かれてるんじゃないかなと。要するに、なんでこのカリカリみたいなものから身を守るときに、笛が大事なんだろうって考えたんですね。
河合さんとか中屋敷さんの事例でも、たった一人のときに自分に脅威を与えて、自分の輪郭みたいなものを失わせるものは音なわけですよね。リイヨの場合は蝉時雨ですし、中屋敷さんの場合は、ゴーゴーという自分の声も聞こえないような風の音が、「この自分」みたいなものを失わせるような力を持つんですけれど、楽器に息を吹き込んですごい音を鳴らすことが対抗になるっていうのは、私にすごい納得を与えました。
なぜ笛なのか
石井 日本でも最期、「息を引き取る」って言いますけど、この息っていうのは、いろんな社会でまさに生命そのものとして考えられているわけですね。息を吹き込んで、自分の周りに自分の音響を作り出すということ自体がたぶん、この「個」としての自分の生命を守ることなんじゃないかなと思ったんですね。なので、自分の輪郭を失わせて呑み込んでしまいそうな音に対して、何か頼りにするときに、笛みたいなものが大事になるんじゃないか。その時に、息と音と、そこから生じてくる力みたいなものが一体になっている。学術的な言葉で言うと、「アニマ」といえるものかなと思います。
相田 ありがとうございます。現地のアイマラ語で音楽家を「プフシリ」って言うんですけれど、「プフサニャ」っていうのは息をプフッって吹き出すという意味で、「プフシリ」っていうのは、直訳すると息をプフッって吹く人たちっていう意味になるので、おっしゃっていただいた息を吹き込むっていうのは、すごい大事なことだと思います。
アンデス高原って4000mの高地なので、歩いていると生き物の気配って、あんまりしないっていうか、どこまで行ってもただの草原で生命感がない。にも関わらず、カリカリのようなよくわからないものたちが、満ちてる感じがして。河合さんの本なんかの世界は、もうちょっと生き物がいる雰囲気なのかなと。
石井 そうですね。河合さんの場合は、わりと生き物とか生命に満ちてる感じはしますね。だから中屋敷さんの世界に、ちょっと近い感じですね。
相田 確かに。ヒマラヤで高地なので、似ているのかもしれないです。
あとヴィヴェイロス・デ・カストロという人がいて、アマゾン地域の民族誌がいろんな人に読まれているんですけれど、アマゾンは、行くともう命に満ちてる感じで、いろんな生き物に見られて監視される中、自分たちがいるっていう感覚なんですが、それとは全然違う感覚がアンデスにはあるなって思います。アンデスの場合、目に見える動物みたいなのとは違うものから、自分、それこそ生命を守りたいというときに、笛が出てくるのは、直感的にはよくわかります。
現地の人の中でも、どうして笛が役に立つのかっていうのは、大まかに2通りの仮説があって。一つは笛の音とか音圧っていうもので、よくわかんないものを吹き飛ばしたりとか、あっちに追いやったりするから役に立つんだっていう説。もう一つは、笛を吹いていると、魔物たちが旅人を見たときに「あれ? 1人で旅しているのかと思ってたら、2人いたんだ」って勘違いして、2対1だと思って襲ってこないっていう、そんな理屈があったりするんですよね。
でも、人類学的な思考としては、それによってだいぶ話は違ってきます。音楽によって、他の人をそれこそ隔絶しようとしているのか、あるいは息を吹き込んで、擬似的なもう1人の人格みたいなものを作れるから笛があるのか。
石井 両方かもしれないですよね。笛が自分の分身みたいなものでありつつ、でもその分身の力を借りて、何か良くない、他なるものを吹き飛ばすみたいな。
音で断ち切るか、音で混ざり合うか
石井 音っていうのは自分を守るものにもなりうる、自分の消え去りそうな境界を、息を吹き込んで音を鳴らすことで張りめぐらせるというか、そういうものとしても働きえますけれど、振動なので波のように伝わっていって、他のものと混じり合ったりとか、他のものから影響を受けたりとか、常に境界を越えていくものでもある。そういう二重性があると思うんですね。この両義性をどう考えられるのか、お聞きしたいです。
相田 音が他と混ざり合うっていう意味で言うと、アイマラの人たちは、ティンクイなどと呼ばれる儀式(出し物)を祭りの中でやるんです。A村とB村の人たちが楽団を作って、それぞれに演奏するんですが、最初はそれぞれの村から始め、だんだん近づいていくんですね。思い切り大きな音を出してお互いに演奏をして。マーチングバンドなどをやったことがある人はわかると思うんですけど、近づき過ぎると、どっちが演奏しているのかだんだんわからなくなってきて、音が弱いほうとか、足並みが乱れているほうの演奏がグチャグチャになって、片方の音楽に取り込まれちゃう。そうしたら、取り込んだ方の勝ちっていうことになります。
それぞれの村から演奏を始め、だんだん近づいていく
石井 それは競技なんですか。
相田 競技としてあるんです。参加させてもらったこともあるんですけれど、音だからグーッと混ざり合ってくる。それにがんばって抗って、元々の自分のやつを吹き続けるみたいな。一方では音楽が他の人との関係をうまく切ったりするけど、そういうものをどんどん乗り越えて、つながりの中に引き込んじゃうみたいな、そういう力も当然ながらあって。それ自体をせめぎあいっていう形で一つの出し物にして見せるところは、すごいおもしろいなって。
石井 まさに音響兵器の現代版みたいですよね。それで競技するっていう。何人ぐらいでやるものなんですか。
相田 基本、1グループ12人でやると聞いています。村の成員によって、ちょっと多くなったり少なくなったりするんですけど。12対12で。
石井 私もガーナの村に住んでいたときに、民族集団が混住している開拓移民村だったんですけど、それぞれの民族集団が、それぞれの太鼓を持っていて、それぞれの叩き方とかがあるんですよね。なおかつ教会もあって。そうすると、日曜日とかには、こっちの民族集団が自分たちのやり方で太鼓を叩いてて、こっちはこっちで叩いてて、こっちでは鐘が鳴ってるみたいな。そこの場所を中心として響くので、同じ村のはずなんですけど、テリトリーの競合が起こっているといいますか、そういうのが聴覚を通して感じられるんです。それをもうちょっとシステマティックに競技としてやっているんですね。
後編は7月25日に公開予定です。村で競技として行われる音楽から、ボリビアの人々にとって音楽とは何か、フォルクローレのアネクドタと民話(フォークロア)の虚構性、そして「書くこと」や文体についてなど、話が展開していきます。最後にはサンポーニャの演奏も。お楽しみに!
装画:ミロコマチコ 装丁:大倉真一郎
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目次
はじめに
序章 孤独とつながりの人類学
1 私たちの孤独と人類学
2 不安の時代の音楽
3 ラテンアメリカの孤独
4 個人誌という方法とその可能性
5 本書の構成
1章 旅の前にあるもの
1 フォルクローレ音楽に出会う
2 フォルクローレ音楽は論じるに値するのか
3 右でも左でもなく
4 それではフォルクローレ音楽とは何なのか
2章 不器用な音楽家たち
1 ラパスというフィールド
2 最初の問いを着想するまで
3 仕事のつながりに参与する
4 ばらばらな音楽家たち
5 在地論理の取り出し方
3章 物語を愛する人々
1 グルーヴから物語へ
2 とあるコンサート制作のアネクドタ
3 アネクドタ的思考
4 人生とその群像
4章 孤独の内に立ち上がる者たち
1 他者の世界を記述すること
2 フォルクローレ音楽家の肩越しに見える世界
3 「孤独」から立ち上がる世界
5章 他者に抗する戦士/旅人
1 フォルクローレ音楽をめぐるノスタルジアとブーム
2 他者に抗うための音楽
3 個が個であるための音楽
4 反抗、世代、強度
6章 「不真面目」なひとりの楽器職人
1 近代の孤独とポスト多文化主義時代の孤独
2 民族誌的背景──アイキレという場所
3 ある女性楽器製作者「モニカ」のアネクドタ
4 すれ違いを笑い飛ばすこと
5 多層なるものとしてのひとり
7章 アマゾンの開拓者
1 アンデスからアマゾンに下る経験
2 カバドールとそのライフヒストリー
3 カバドールへの同行取材
4 カバドールの論理
5 決して交わることのないもの、にわかには知覚できないもの
終章 すでにそこにあるもの
1 関係の彼方へ
2 そのものの内にある力
3 ばらばらの時間の内で繰り返す
4 美を愛する者たち
注/あとがき/初出一覧/参照文献/索引