『ローカルボクサーと貧困世界〔増補新装版〕』ためし読み 解説:岸政彦
2024年1月20日発売の『ローカルボクサーと貧困世界〔増補新装版〕』より、岸政彦さんによる「解説」の一部を公開します! 本書がフィリピンのボクサーたちの暮らしを描き出したような、人の人生を描くことにはどのような意味があるのか。岸政彦さん渾身の解説です。
マニラ首都圏のパラニャーケにある「Eジム」を、石岡丈昇が最初に訪れたのは2002年の11月のことだった。ジムの周辺にはいくつかのスクオッター地区があった。ジムに住み込むボクサーたちも、その多くが貧困層出身だ。
仕事を求めてマニラに来ていた人びとがボクシング以前に就いていた職は、鶏の屠殺、漁師、工事現場での荷物運び、ナイトクラブでのバーテン、廃品回収、路上での水売り、ジプニーの料金回収役といった雑業などである。また、ナイトクラブに訪れる客(多くの場合外国人客)にナイフをつきつけお金を奪って生き延びた者や、路上で暮らした者もいる。ボクサーになろうと思った理由を「ハングリーだったから」と答えるボクサーもいる。ここでいう「ハングリー」とは「ハングリー精神」のことではなく、文字どおり食事を取ることができなかったことを示している。(63頁―64頁)
ある18歳のボクサーは、著者にこう語っている。
「農村じゃ、両親は俺たちに話はしないけど、農民なんだけど収入がなくて、借金が膨らむ一方で暮らしは本当に厳しい。 小さいころ、俺たちが寝静まった後、母親がひとりでシクシクと泣いているのを聞いていて、子どもながらにわかってた。農村にいても仕事はないし、大きくなったらひとり立ちするためにもマニラに行こうと思ってた」(64頁)
読者はこうして、著者とともに、マニラ郊外の片隅にある小さなボクシングジムの扉を叩くことになる。屈託のない笑顔でどこにでも入り込み、誰とでも友だちになる石岡丈昇に連れられて、私たちも「ローカルボクサー」の世界に入っていくのだ。そこでは貧しい若者たちが、夢をつかむわずかなチャンスにすべてを賭け、過酷な減量とトレーニングに耐え、ひたすらサンドバッグを叩く。
だが、本書で描かれているのは、「貧困に耐えかねた若者たちが夢を掴むためにボクシングジムに入る」という単純なストーリーではない。ここで問われているのは、「人びとはどのようにして生きているか」という普遍的な問いだ。まるで、息を止めて冷たく暗い夜の海に深く潜るように、石岡丈昇は現場に入っていく。
「深さ」の問題。石岡丈昇の『ローカルボクサーと貧困世界』を読むにあたって、まずはじめに問題にしたいのは、この点だ。質的調査は、量的調査に比べて、「分厚い記述」によって対象を「内側から」理解することができると、わりあい簡単に言われることが多い。しかし私は、いまだに何をどうすれば「分厚い」とか「内側から」とか「深い」とかということになるのか、よくわからない。他者を「質的に」理解するということは、どういうことだろうか。
それは要するに、私たちがどのようにして私たちの人生を生きているか、という問題でもある。ある特定の歴史的な時間、社会的な空間のなかに私たちは産み落とされる。そしてそのなかで必死に生きている。ある特定の、階層やジェンダーや人種、あるいは障害やセクシュアリティの条件のもとで、私たちは生きていかざるをえない。それは私たちにとっての現実的な選択肢を強力に規定する。階層やジェンダーなどの条件は、私たちの人生をほぼ「決めてしまう」のだ。それは私たちの選択肢を規定することによって、私たちの欲望や信念や価値観までも方向づけてしまう。私たちは日々の生活に追われ、毎日「飯を食う」ことを迫られている。こうした暮らしのなかで私たちは、ありもしないような、非現実的な、実現する可能性のほとんどないような夢や欲望を手放してしまう。いや、手放すというよりも、はじめからそれは除外されてしまうのだ。私たちは、はじめから実現可能な範囲で夢を見るのである。客観的なものは主観的なものを条件づけ、方向づける。もちろん私たちの人生はそれらの条件によって完全に決定されてしまうわけではないが、それでもそれは、私たちの人生を「おおかた」決めてしまう。
私たちの行為選択は、こうした大きな「因果関係」のなかに埋め込まれている。私たちの行為には「原因」がある。構造的条件と言ってもいいし、可能な選択肢のセットと言ってもいい。とにかく私たちの行為は、なにかによって決定付けられ、幅を狭められ、あらかじめ行き先が決められている。
ところが、行為というものは、あるいは相互行為というものは、客観的な条件には還元できない。当たり前のことではあるのだが、私はこのことが、つくづく不思議だ。私たちはただ生きているのではない。私たちは必死に生きているのだ。
このことは、ふたつのことを意味している。ひとつは、私たちには動機や利害がある、ということ。もうひとつは、私たちはただ外的条件に反射的に適応しているのではなく、なにかとてつもなく「過剰な」ことをしている、ということだ。
そもそも、構造的な条件を決められながらも、私たちはなぜ生きているのだろうか。なぜ私たちは、生きることを諦めないのだろうか。なぜ私たちは生き続けようとするのだろうか。いや、「なぜ」という問いは、ここでは不適切かもしれない。それは答えようのない問いだからだ。むしろ、こう問いかけたほうがよいかもしれない。私たちは、どのように生き続けているのか。
私たちはただふんわりとシンボルや象徴や記号を交換しているのではない。私たちは単なる言葉をやりとりしあっているのではない。当たり前のことではあるが、しかし何度も、この事実に驚きたいと思う。
私たちはただ生きているのではなく、より良く生きようとする。それは初めから私たちに与えられた何かだ。私たちは別に特に、自分たちの人生をなにか素晴らしいものにしたり、誰よりも幸せになったり、とてつもない金持ちになろうと思っているわけではない。しかしそれでも、その場その場の選択のなかで、私たちはかならず「まだマシなほう」を選び取るようになっている。そういうふうにできているのだ。
そして、私たちがそのように必死に生きることによって、思ってもみなかったもの、想像もつかなかったもの、初期条件からはとても導き出せないような、まったく新しく過剰な何かを生み出している。おそらくこれが、文化とか、生活とか、人生とかいうものなのだろう。
ひとつの行為選択が、次の行為選択を生み出していく。切実な動機と利害に突き動かされながら私たちは生き続ける。このようにして、私たちの人生は、時間的に展開していくのである。
マニラの貧困家庭に生まれた若者が、すこしでもマシな人生を夢見て、ボクシングジムの扉を叩く。扉を叩く手はすぐにサンドバッグを殴る手に変わる。そして自らヘッドギアをつけ、同じような境遇の若者によって殴られる。出自や階級に還元できない物語──そもそも物語というものは時間的に展開するなにものかであって、この点でそれは音楽と似ている──が、ここから始まるのである。
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【目次】
序 章 ローカルボクサー世界から
1 ローカルボクサーの社会学
2 貧困世界とのつながり
3 住み込み調査と身体文化への着目
第1章 ローカルボクサーの身体文化への方法的接近
1 ローカルボクサーへの接近
2 第三世界スポーツ論の問題構制
3 「スポーツ社会学のための計画表」と二重のフレーミング論
4 マニラ首都圏のローカルボクサーへ
第2章 ボクシングジムの空間構成
1 Eジムのボクサーと非ボクサー
2 Eジムのコンテクスト
3 ボクサーの属性
4 〈全体的空間〉としてのジム
第3章 ボクサーになる――集団競技としてのボクシング
1 ジムの日常の深みへ
2 ボクサーになる
3 ジムワークにみる実践理性
4 サクリフィショという倫理
5 女性の排除形式
6 集団競技としてのボクシング
第4章 ボクシングマーケットの構造――敗者の生産の仕組み
1 ボクシング試合と敗者の生産
2 試合をめぐるボクサーの性向
3 ボクシングマーケットの政治経済
4 国際試合の交渉過程と「敗者の生産」
5 ボクシングキャリアの分類化
6 社会的選別と身体のトレード
第5章 互酬性の中のボクサー身体――引退ボクサーの日常
1 引退ボクサーの日常へ
2 スクオッターを生きる
3 スクオッター生活の窮状
4 引退ボクサーの暮らし
5 互酬性の中のボクサー身体
終 章 裸一貫のリアリティへ
1 ローカルボクサーの生活実践
2 裸一貫のリアリティを見据えた身体文化研究へ
後 章 その後のボクサーたち
1 ラフィ――単身での子育て、そして料理人へ
2 ステラ――フィットネスジムの運営を軌道に乗せた敏腕経営者
3 ロセリト――フィットネストレーナー、妻子の移住、女子ボクシング
4 ロイ――総合格闘技、中国への移住
5 ジェイソン――日本への移住
注/あとがき/増補新装版あとがき/図表一覧/文献/索引
解 説 時間/身体/人生 (岸 政彦)