トカゲの叫び 『ギニア湾の悪魔』より
神と悪魔の憑依は、いかにして現実の〈もの〉になるのか? 写真や映像、エッセイを交え、霊と呼応する人々の生に迫る、マルチモーダル人類学。
村津蘭『ギニア湾の悪魔――キリスト教系新宗教をめぐる情動と憑依の民族誌』より、エッセイ「トカゲの叫び」と、特設サイト「2.信者の日々」を紹介します。
「『闘いのロザリオ』をつけていないのなら、この近くにいると危ないよ」。
最初に言われたのは、聖地バナメーの丘で、人々が悪魔祓いを受けている場所にいた時だった。祓われた悪霊が近くの身体に入ってしまうことがあるからね、とその女性は言う。そこは倒れた人々の叫び声や、暴れる人の汗が飛び交う場所だった。ロザリオは家に忘れてしまったと答えると、彼女は私を売り場まで連れて行き、「これを買いなさい」と教えてくれた。小さなダボの写真のついた赤いロザリオだ。強い口調だったので断りそこね購入してしまったが、特に自分が危険であると感じていたわけではなかった。なるほど悪霊はそのように人々の身体に入ることが想定されているのだな、と面の皮が厚い私は人ごとのように思い、その皮の厚さを疑うことはなかった。
その後繰り返し、霊からの攻撃の危険性を周りに注意されるようになる。例えば、デリヴァランス・ミサで出会った、あるコトヌーの女性信者の家に聞き取りに行った時、彼女は自分の経験を話し始めるより前に、まずバナメー教会のロザリオの唱え方を一つ一つ私に教えてくれた。
「家で必ずした方がいい。あなたは白く、目立って、狙われやすいからね」
と彼女は言った。私は頷いた。自分が悪霊たちの目を引いているのは知っていた。以前、デリヴァランス・ミサで憑依霊たちが、私に言っていたことがあるからだ。憑依された二人の女性は、私とロジェの肉がうまそうだと、からかうような口調で話していたのだった。
それを聞いた時、私は特に恐ろしいと思わなかったのだが、横にいたロジェが額に汗をかき、みじろぎもしなくなったことに気づいた。その後すぐ、私たちは教会の補助役に誘導されるように他の人々への按手に目を向け、その憑依霊には背を向け座ることになったが、ロジェはその後もずっと背中で二人の憑依霊たちに注意を払っていた。それで、私も背中で気配を感じるようになった。すると、先ほどは感じなかった緊張が身体を伝うのに気づいた。それは、自分が掴まれるかもしれないという感覚だった。
「この調査は危険だよ」
ロジェは、デリヴァランス・ミサに行く間、頻繁に口にした。
「君はバナメー教会の信者じゃないだろ。何か日本で信じている宗教で、守ってくれそうなものはないのか。身につけた方がいい」
ある時深刻そうに言われたが、私は特に何も持っていなかったので、
「私は外国人だから大丈夫だと思う」
と答えた。妖術は外国人には効かないのだという人もいるからだ。ロジェは納得いかない顔をしていたが、
「君がそのことに信念を持っているなら大丈夫だと思うけど」
とつぶやいた。私は、その返事に不安を覚えた。それ程強い信念を持っているわけでもなかったからだ。
数週間後、私は家の居間で妖術師についてどのように調査を進めるかの相談をロジェとしていた。深夜一二時近くだった。私がいつもと同じトーンで話していると、ロジェは玄関の扉をちらと見た。私は、すぐに話している内容が夜にすべきものではないことに気づき、声を弱めた。夜中は妖術師が出歩く時間なので、いつどこで妖術師がその話を聞いているかわからないとされる。ロジェは聞いている間も、少し居心地が悪げだった。けれど私が「やっぱりこの話は今やめようか」と言うと、「構わないよ、続けて」というので、そのまま小さな声で話を続けた。
そうしていると、居間の壁を何かが動いて「キー、キ、キ」と甲高い叫びのような音がした。聞いたことがない音だった。会話が途切れ部屋の空気が緊張で満ちた。ロジェは、声の音がした方をひと睨みしたが、何も言わなかった。気味が悪かったが、反応しすぎるのも変なように思い、私は努めて気にしないようにして話を続けた。ロジェは私が言ったことについて意見を述べたが、話している間も左側にある壁に注意を向け続けているのが視線からわかった。
ひととおり話を終えると、ロジェはゆっくりと壁に近づき、吊るされていたカレンダーをおもむろに上げた。するとその後ろに灰色のトカゲがいて、サッと逃げていった。私はあまり見たことのない大きめの灰色のトカゲが、滑らかに素早く壁を這い、棚の後ろに逃げるのを見て、息を止めた。「妖術師だ」とロジェは言った。ただのヤモリではなく、妖術師が変身する種類のトカゲだったらしい。しばらく沈黙が流れた。他の家の者はすでに寝入っていた。私たちは言葉少なに、寝る挨拶をして別れ、私は部屋のベッドで横になった。あのトカゲはまだ家の中にいるはずだった。その晩はなかなか寝付けなかった。
数日後、私は電話で日本にいるごく近しい間柄の人と喧嘩をした。会話をしていてもどうもお互いの身に起きていることが、分かち合えない感じだった。相手は、自分のおかれた状況を私が理解しないことに苛立っていた。私も、自分が今感じていることを伝えられないもどかしさを感じていた。電話を切った後、その喧嘩が数日前に見たトカゲと関係があることのように思えてきた。親しい人と喧嘩させる妖術について、デリヴァランス・ミサで神父は何度も話していたじゃないか。
その後、携帯の充電器を他の町に忘れてきたり、ものもらいだろう、片眼がはれあがったりした。それ自体は大したことではなかった。ただ私は、自分が浸食可能ななにものかになってしまったように感じた。縛り、縛られること、入り、入られることが可能ななにものか。あの夜のトカゲの声が、私を守っていた面の皮を引き裂いてしまったのだ、そんな気がした。
その次のデリヴァランス・ミサの日、行きの乗り合いタクシーに乗りながら、どうも自分がこの滞在中に交通事故にあうような気がした。外国から来た人類学者が、現地の人々が言うことを真に受けず行動した結果不幸なことが起こるという話は、いかにもありそうに思った。交通事故が起きて、みなが口をそろえて「やっぱり、あんなに悪霊に晒されていたのに気にしていなかったから」と言うのが目に浮かぶ気がした。「外国人だから、わかっていなかったんだ」と、きっと人々に噂されるのだ。
そうした考えを馬鹿々々しいと思おうとした。ただそう思った瞬間に、「馬鹿々々しいと笑っていた人類学者が事故にあう」想像も追いかけてきた。悪い予感から抜け出ることができなくなっていた。狭い車内で私はあえぐように息をしながら脂汗をかいていた。バイクの多いコトヌーでの運転は一筋縄にはいかない。クラクションが鳴る、急ブレーキがかかる。そうした車の動作の一つ一つに、私はそんなはずはない、そんなはずはないと言いながらも、「闘いのロザリオ」のビーズの感触を手で確かめるのだった。
本書では、学術的とされる記述・分析だけではなく、そこから零れ落ちる、しかしフィールドの経験を描き出すためには不可欠であるイメージや感情の震えを帯びた言葉、映像を織り交ぜながら、マルチモーダルな民族誌を編むことを試みている。
以下の特設サイトは、その一部である。
2.信者の日々
目次
――鳥になる──
序章❖霊の現れと情動
1 アフリカにおけるキリスト教の背景
2 霊的存在を意味づける
3 霊が生成するところへ
――雨の日の会話――
1章❖ベナンの宗教と霊的領域
1 調査地ベナン
2 ベナンの歴史と宗教
3 霊的な諸力
4 呪術と妖術
――丘に登る――
2章❖バナメー教会の神と悪魔の現れ
1 悪魔の現れ
2 神の現れ
3 「証言」という現れ
――退屈で重要な――
3章❖改宗の諸相
1 バナメー教会の信者たち
2 改宗の動機
3 「間」に生じる説得
――スパイと民族誌――
4章❖憑依による変容
1 デリヴァランスの概要
2 デリヴァランスの特性
3 憑依霊の正体と憑座
――声がつかむ――
5章❖憑依のエンスキルメント
1 憑依と身体
2 絡まり合いとしての霊の現れ
3 憑依される者のエンスキルメント
4 取り巻く者と霊のエンスキルメント
――送られる病い――
6章❖「妖術の病い」の治癒過程
1 病いの〈もの〉化
2 バナメー教会の治療の特徴
――トカゲの叫び――
終章❖呼応の中の霊、病い、民族誌
注
あとがき
参考文献
索引