『ギニア湾の悪魔』序章 霊の現れと情動(冒頭)
神と悪魔の憑依は、いかにして現実の〈もの〉になるのか? 写真や映像、エッセイを交え、霊と呼応する人々の生に迫る、マルチモーダル人類学。
村津蘭『ギニア湾の悪魔――キリスト教系新宗教をめぐる情動と憑依の民族誌』より、序章の冒頭部分と、特設サイト「1.バナメーへの道」を紹介します。
「十六歳の少女が神を名乗っている。彼女に挑戦した偉大な呪術師たちは次々と死んでいる」。その話を聞いたのは、私がベナン南部の町の福祉センターで、ボランティアとして働きながら暮らしている時だった。私のフォン語の家庭教師をしていたロジェは、時に勉強よりも長くなる雑談の一つとしてその話をした。ロジェは少女が神であることには懐疑的だったが、彼女が何か非常な力を持っていることは疑っていないようだった。
その少女はパーフェット(完全)と名乗っている。最初、病気でバナメーという町のローマ・カトリック教会のエクソシスト(祓魔師)のもとに担ぎこまれたらしい。そこで悪魔祓いを受け、病気が治るとともに神になったということだった。神を名乗る不遜な少女に、呪術師たちが超常的な力で攻撃をしかけているが、次々と返り討ちにあっているらしかった。彼女が様々な奇跡を起こし病人を治しているため日増しに信者は増えている、とロジェは言う。
日常で見えている様相とは全く異なる闘いが、自分のいる場所と地続きのところで起きていることに、私は驚いた。そこには、いくつかの宗教をまたぐ広範囲な人々が関与しているらしかった。パーフェットとは一体どのような少女なのだろうか。どんな闘いが行われているのだろう。どんな人々がその教会に惹きつけられているのだろうか。
昼下がり、ロジェが去った蒸し暑い部屋で、私はぬるい水を飲みながら、ぐるぐるとそんなことを考えながら、バナメーという場所に思いを馳せていた。
悪魔と闘う教会
本書は、この少女パーフェットを中心とする教会と、それをめぐる可視・不可視領域の騒擾や、人々の霊的存在とのやりとりに焦点をあてながら、この地域における現在の生のあり様を描き出すものである。この教会は、後に「イエス・キリストの大聖教会 バナメーミッション」(La Très Sainte Église de Jésus-Christ, Mission de Banamè、以下「バナメー教会」)と名づけられる。
バナメー教会について議論することは、ベナンという西アフリカの国の出来事としてだけではなく、近年のアフリカのキリスト教のあり様への理解ともつながる。バナメー教会は「神が悪魔を滅ぼすために降臨した」と語り、悪魔との闘いを主題として掲げるが、それはアフリカの現代のキリスト教において広く共通するテーマだからだ。
アフリカの多くの国々において、キリスト教はヨーロッパによる植民地統治と結びつきながら影響力を強めてきたが、主流派と呼ばれるこのような教会とは潮流を別にする、ペンテコステ・カリスマ系と総称される運動が、一九七〇年代以降、急速な高まりを見せてきた[Anderson, A. H. 2002. The Newer Pentecostal and Charismatic Churches. Pneuma 24(2)]。この傾向は現在まで続き、ペンテコステ・カリスマ系教会の信者は、一九七〇年代にはアフリカの人口の四・八%だとされていたが、二〇一五年には一六・八%にのぼるとされる[Johnson, T. M. & G. A. Zurlo. 2019. World Christian Encyclopedia. Third Edition. Edinburgh University Press.]。本書で焦点をあてていくバナメー教会も、この潮流の中にある。
「悪魔との闘い」を前面に掲げ主張する点について、例えば、ガーナのペンテコステ系教会を研究したマイヤーは、宣教によってもたらされた主流派の教会と、そこから新しく派生した教会を比較し、新しい教会ほど「悪魔」との闘いを強く主張することを指摘している[Meyer, B. 1999. Translating the Devil. Africa World Press.]。近年のペンテコステ・カリスマ系教会の影響の高まりと、悪魔への恐れは深く結びついているのである。
そしてこの「悪魔」とは、多くの場合、アフリカの在来の神格や霊的存在、または妖術師である。超常的な力で不幸をもたらすとされる、在来の霊的存在や妖術師は、悪魔という名のもとで人々に対する影響力を保ち続けているのである。それは、在来の霊的存在が、植民地統治とともに根づいたキリスト教の神や悪魔に、取り込まれながらも、それらを取り込み返し、生成を続ける姿だといえるかもしれない。
しかし、そうした外からの視線とは裏腹に、人々にとって悪魔の影響は、日常の切実な問題である。バナメー教会を含む多くのペンテコステ・カリスマ系教会では、悪魔や悪霊の影響からのデリヴァランス(délivrance:解放、救済)が重要な主題であり、按手(手を信者の身体に置き祈ること)や祈祷など、そのための様々な実践を行っている。しかし、悪魔はなかなか立ち去る気配を見せず、時には人々に憑依してその姿を現し、現実へと介入してくる。その中で人々の身体は、悲鳴を上げ、汗を散らし、目に見えない鞭で打たれ、涙を流す。手足を震わせ、身体を反らして、叫び、倒れ込む。立って走り、暴れつくした後に、床に寝そべり、うめき声を上げる。
それは、「人々は悪魔や妖術師を信じている」という記述にはとても収まらない、情動や身体など様々なものが絡まり合う中で起こっている出来事だ。神や悪魔といった人ならざるものたちが、いかに人々の間に立ち現れ、複雑に呼応しながら生が紡がれているのか。本書は、出来事が生起する場を起点として、このような問いを探究していくものである。そして、人々と霊的存在の実践における動態を検討していくことで、現代アフリカで拡大するペンテコステ・カリスマ系教会における人々のあり様についても理解を深めていきたい。
本章では、まずアフリカのキリスト教の背景を概観し、これまでの研究を検討した後に本書の視座を示していく。
本書では、学術的とされる記述・分析だけではなく、そこから零れ落ちる、しかしフィールドの経験を描き出すためには不可欠であるイメージや感情の震えを帯びた言葉、映像を織り交ぜながら、マルチモーダルな民族誌を編むことを試みている。
以下の特設サイトは、その一部である。
目次
――鳥になる──
序章❖霊の現れと情動
1 アフリカにおけるキリスト教の背景
2 霊的存在を意味づける
3 霊が生成するところへ
――雨の日の会話――
1章❖ベナンの宗教と霊的領域
1 調査地ベナン
2 ベナンの歴史と宗教
3 霊的な諸力
4 呪術と妖術
――丘に登る――
2章❖バナメー教会の神と悪魔の現れ
1 悪魔の現れ
2 神の現れ
3 「証言」という現れ
――退屈で重要な――
3章❖改宗の諸相
1 バナメー教会の信者たち
2 改宗の動機
3 「間」に生じる説得
――スパイと民族誌――
4章❖憑依による変容
1 デリヴァランスの概要
2 デリヴァランスの特性
3 憑依霊の正体と憑座
――声がつかむ――
5章❖憑依のエンスキルメント
1 憑依と身体
2 絡まり合いとしての霊の現れ
3 憑依される者のエンスキルメント
4 取り巻く者と霊のエンスキルメント
――送られる病い――
6章❖「妖術の病い」の治癒過程
1 病いの〈もの〉化
2 バナメー教会の治療の特徴
――トカゲの叫び――
終章❖呼応の中の霊、病い、民族誌
注
あとがき
参考文献
索引