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中島京子講演会「わたしを育てた本たち」@教文館ナルニア国

届く言葉があれば生きていける

 2022年11月17日に銀座の教文館ナルニア国で、『ワンダーランドに卒業はない』刊行を記念して、中島京子さんの講演会が開かれました。テーマは「わたしを育てた本たち」。初めて出会った本、幼いころ繰り返し読んだ本、思春期を支えてくれた本……。本、そして言葉への想いにあふれたトークを2回にわたってお届けします。

前編はこちら

大人になって面白いと思ったこと

 子どものときに面白いと思ったところと、今の年齢になって面白いと思うところが違う作品もあります。そのような作品については、「今読んでどう思ったか?」を書きました。

 その観点から面白かったのがバーネットの『秘密の花園』です。私はこの本を偏愛していました。病気になると必ずそれを読んでいましたし、高校生や大学生になってもなんとなく疲れたときに読んでいました。

 この物語は始まりが、結構苛酷です。大人はみな疫病で死んでしまい、気が付いたら自分だけ生き残っていたという女の子メアリが主人公です。大人たちからネグレクトされてきたメアリはイギリスの叔父に引き取られますが、叔父からもかわいがられません。そんな彼女を少しずつ癒してくれるのが植物です。ヒースやエニシダやハリエニシダなどの草、クロッカスやスイセン、バラなどの花、ムーア(沼地のある荒野)を吹き抜ける風などが与えてくれる生命力がとてもよく描かれています。メアリは自然に触れることで元気になり、自らにも春を招き寄せ、秘密の花園を再生させます。そうした植物や土地こそが主人公で、それを描こうとしたのだということが、読み直してみてよくわかりました。

 本にも書いたのですが、メアリはぜんぜんかわいくないのです。でも、容姿をまったく気にしない強さがあります。老庭師のベン・ウェザースタッフに、「おめえもわしも不細工だし、器量に負けず愛想も悪い。気立ても悪い。おたがいにな」と言われても、メアリは「自分は、ベン・ウェザースタッフと同じくらいみっともないのだろうか」などと考えるだけなんです。

 叔父さんに「何か欲しいものはないか」と聞かれると、メアリは「土地を少し」と答えます。彼女は要するに庭が欲しいのです。古典の『虫愛づる姫君』に出てくる、虫が好きで好きでたまらない姫君とちょっと似ているかもしれません。あまり少女小説の主人公になるタイプではないですね。このメアリの「土、好き。」のような感じがとてもいいなあと思いました。

ぜんぶコロボックル物語に書いてある

 佐藤さとるさんのコロボックル物語も、読み直してみて、その先見性に感心しました。いまSDGsなどと言っていますが、持続可能な未来や多様性といった流行りの言葉を使わなくても、そんなことはぜんぶコロボックルシリーズに書いてあると思いました。この本は世界中で翻訳してほしいですよね。 

 シリーズの第1作『だれも知らない小さな国』(1959)は、コロボックルたちの神聖な山「鬼門山」を貫いて道路を作るという人間たちの乱開発計画を、コロボックルとせいたかさん、おちび先生が協力して撤回させるという物語です。シリーズ4作目の『ふしぎな目をした男の子』(1971)は、ツムジイという年寄りコロボックルが人間の少年タケルと友だちになり、汚染された用水池をよみがえらせます。

 考えてみれば、60~70年代は公害や農薬などがとても問題になっていました。有吉佐和子さんが『複合汚染』を新聞で連載(1974~1975)されていたのもその頃です。世の中の流れとしても地球をこれ以上汚してはならないという危機感が出てきていました。こうした時代の意識も、コロボックルシリーズの背景にあったと思います。

 コロボックル物語では、違う文化を持った小さい人たちの世界と人間の世界が出会い、協力しあい、共存を目指します。ファンタジーにおいては、人間以外の存在と人間の出会いは一時的なものにとどまることが多いですが、コロボックル物語では小人たちと人間が友だちになり、一緒に暮らしていきます。最近はダイバーシティなんていう言葉が使われていますが、なんのことはない、コロボックルと人間が真摯な対話を重ねて共生を目指す姿に、一歩も二歩も先の未来が描かれているように思います。

コロナ禍で『モモ』を読む

 コロナのときに読み直してはっとさせられたのがミヒャエル・エンデの『モモ』です。最初の頃に、「不要不急」という言葉が流行りましたね。不要不急のものはやめて、要と急を優先しなさい、という。たしかにあのときは仕方がありませんでした。感染者が増えて、病院が逼迫ひっぱくすれば、救える命が救えなくなりますから。ワクチンもなかったから、普通の人にできることは、家にいて感染しないこと、させないことでした。

 でも例えば、皆で黙って画面を見つめるだけの映画館などが、それほどいけなかったのか。黙って一人でお酒を飲むバーなども閉めなければならなかったのか。まるで酒がウイルスを媒介するかのような扱いでしたよね。ああいうことも、後からきちんと検証して欲しいと思います。音楽を奏でるのも聴くのも、お芝居をするのも観るのも、友達と食事を楽しむのも、全部がダメになってしまいました。

 つまり、あるとき誰かがやってきて、「それは良くないことです」と、生きる喜びを制限することがある、ということです。『モモ』に出てくる「時間」とは「幸せ」とか「生きる喜び」のようなものだと思うんです。それを制限されることが起こりうるのだと、コロナのときに意識しました。人びとから時間を奪う「灰色の男たち」のように、灰色の服を着てたばこを吸っていたりすればわかりやすいのですが、悪というのは悪の装いをしてわざわざ現れてくれないから、何が悪なのか実際にはわかりません。悪――というより、命を楽しまないことからくる圧倒的な不幸と言うべきかもしれません――がむしろ絶対正義のように見えるときもあるのだというのを、実人生で体感しました。 

 「ステイホーム」という言葉も流行りましたね。私には、ホームレスなどの困窮者支援をやっている友達がいます。コロナのとき、その友達はとても大変でした。ホームレスが増えすぎてしまい、毎日忙しくて、ステイホームなどしていられませんでした。ネットカフェなどにいた人が皆、出されてしまいました。「ステイホームしてください」と言っても、ホームのない人たちはできないわけです。ですから、そのような人たちをどこかに行かせなければならないので、困窮者支援の人たちはまったく休めませんでした。

 その頃、私は『やさしい猫』(中央公論新社)という、非正規滞在の人の小説を書いていました。入管は六畳間に5人というような「三密」どころではない環境です。入管に収容されていた方たちのなかには、クラスター回避のため、一時的に仮放免になった人もいました。しかし、仮放免された人たちは労働が禁止されており、生活保護も申請できず、健康保険も適用されません。航空便は激減し、帰国する手段もなく、路頭に迷ってしまうケースもありました。

 ここで思い出したいのが、モモはホームレスだということです。ホームレスの女の子を、皆で何となく支えて住まわせていました。そうすると、その子が、皆のために奪われた時間を取り返してくれます。ホームレスの女の子に社会が救われる話なんですね。

 こんなふうに、コロナのときの目にしたものと『モモ』は、いろいろなところがリンクしました。50年前に書かれた作品なのに気づかされることがたくさんありました。

論理国語と文学国語

 数年前に、高校の教科書から文学が削られるような話がありましたね〔2018年に新学習指導要領が告示された〕。たしか、今年〔2022年度〕高校に入学した生徒から教科の形が変わるということでした。この話が出てきたときにとても変だなと思ったのは、「論理国語」と「文学国語」という区分けです。論理国語は論説文や実用的な文章を扱い、実用的な文章には契約書や機械のマニュアルなどが含まれるという話でした。現場の先生は努力されていらっしゃるし、教科書会社も頑張って、実態はそれほどひどいことになってはいないと思います。しかし、私が驚いたのは、契約書などが実用的な日本語で、小説の日本語は実用的ではないのか?ということです。そんなふうに分けられないだろう、と思いました。

 そして、実用的とはどういうことか、を考えざるをえなくなりました。文学は喜怒哀楽といわれる感情を育むとか、人間としての幅が広がることなどを期待される方もいらっしゃるでしょう。でも、それは私の感覚とはちょっと違います。

 感情はどこかからやって来るわけではなくて、個人の中にあるのですが、それは何かに触発されて動くわけです。その動きのことを、感情と呼びます。文学を読むことによって、個人の中からある感情が引き出され、曖昧な感情に言葉が与えられます。感情が動くことも大事ですが、それがどのような動きなのかがわかる、どのような動きなのかを言葉にできるのは、人間にとってとても大切なことだと思います。

 それは要するに、「表現する」ということです。表現するのは、言葉でなくてもいいかもしれません。音楽や美術、ダンス、格闘技など、さまざまな表現があります。その表現ができることは、私たちの生活の中でとても大事で、その表現を獲得するのはとても実用的なことだと思うんです。

 人間の心の動きは、契約書や生徒会規約、機械の操作マニュアルの言葉では説明することはできません。機械の操作マニュアルを読まされたって、ボキャブラリーも使用例も圧倒的に足りません。やはり、そうでないものを読まなくてはならないと思います。そもそも言葉は、自分の感情などを非常に直接的に表現できるし、相手に伝えるためのコミュニケーションツールでもあるので、これほど実用的なものはないんじゃないかと思います。それを実用的な言葉とそうでない言葉に分けていく発想が奇妙に思えます。

 私はこのところ、小説の新人賞の選考をよくやっています。人が初めて書く作品は、何かに対して少し違うという違和感が出発点になっているものが多いです。ただ、自分の違和感や、嫌だと思ったこと、つらさなどが、とてもダイレクトに書かれているものは、小説としてあまり高く評価されません。それを読ませるものにするのには技術や客観性が必要だからです。とはいえ、最初に人が何か表現しようと思う根本には、「私はこれを感じた」というものを出したいという思いがあるんですね。私も、中学生のときに模倣しながらでも書こうと思ったのは、自分なりの感じたものを表現したい気持ちがあったからだと思います。

明日を生きのびる言葉

 先月、『ワンダーランドに卒業はない』の刊行記念イベントで、翻訳家の金原瑞人先生とお話しする機会がありました。金原さんは、本の探偵の赤木かん子さんと一緒に、ヤングアダルトというジャンルを日本に紹介された方です。

 金原さんは、ヤングアダルトとはどのようなものかを話してくださいました。アメリカでは12歳以上の読み物がヤングアダルトとされているそうです。50年代に若者文化というものが生まれ、60年代からヤングアダルトが増えていきます。それらは、ベトナム戦争で荒廃した時代状況のなかで、麻薬や妊娠・中絶、親の離婚などアメリカの若者が経験する厳しい現実をリアルに描きました。ティーンエージャーの感情を表すようなものが、書かれるべくして書かれて出てきたと、金原さんはおっしゃっていました。時代が変わるときに、必要な表現が出てくるんですね。だからヤングアダルトは暗いものが多いのだそうです。

 私が子どものときには、ヤングアダルトというジャンルはありませんでした。それで、考えてみたんです。自分がその頃何を読んでいたのか。自分にとってヤングアダルト小説のようなものはあったのか。

 10代のときに繰り返し読んでいたのは、サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』や、『ナイン・ストーリーズ』『フラニーとズーイ』などの「グラース家」ものです。ウィリアム・サローヤンの『我が名はアラム』もとても好きでした。アルメニアからアメリカに移住したアラムという男の子の話で、サローヤンの少年時代が題材になっています。これは今ならヤングアダルトにジャンル分けされるのではないかなと思います。年代的にはもう少し上になってからですが、アラン・シリトーの『長距離走者の孤独』が丸谷才一さんの訳〔河野一郎と共訳〕であり、とても好きでした。少年院のようなところに入っている、足が非常に速い、反抗的な男の子の話です。

 ほかにも惹かれたのは、テネシー・ウィリアムズの『ガラスの動物園』という戯曲です。ローラという足の悪いお姉さんが、引きこもりのようになってしまっています。小さいガラスの動物を集めて、自分だけの小さな動物園を作っているような、地味なお姉さんです。それを心配した弟のトムが、友達を紹介してあげます。格好いい青年で、じつは婚約者もいます。そのジムという弟の友達が、ローラにむかって「君が悩まされているのは、インフェリオリティーコンプレックスだね」と言うんです。そして、「僕にもそれはあるけど、自分のいいところとか、自分の自慢できるところか何かを見つけなよ」と言ってくれます。ローラはとても地味な子です。私は、自分のことをとても地味だと思っていたので、このローラや、『秘密の花園』のメアリが好きだったんでしょうね。

 学校でいじめられていたり、何か深刻な問題があったわけではないのですが、10代のころ、とくに中学時代はうつうつして暗い気持ちでした。外からはそう見えなかっただろうし、友達に聞いても「よく食べてたよね」とか言われるだけかもしれませんが(笑)、内面的にはとてもつらかったです。もう明日生きのびられるかどうかわからないぐらいにつらかったです。けれども、それを救うものが、やはり本の中にはありました。

 金原さんのヤングアダルトの解説を聞いて、かならずしもジャンルが必要なわけではないけれども、その年頃の心に届くのは絶対に生徒会規約の言葉ではない、と思いました。届かないと、その子をどうにも救うことができないという、そのような言葉が絶対にあるはずだと思っています。そのことを、子どものときの読書をあらためてすることによって、思い出すことができました。皆さんにも、おそらく、そのようなものがあるのではないでしょうか。

( 終 )


中島京子『ワンダーランドに卒業はない』がためし読みできます!

まえがき 『ワンダーランドに卒業はない』より

「不要不急」と灰色の男たち――ミヒャエル・エンデ『モモ』

物語に没頭する、圧倒的な幸福感――ロバート・ルイス・スティーヴンソン『宝島』

目次

まえがき

1 プーの森で、ことばと遊ぶ――A・A・ミルン『クマのプーさん』『プー横丁にたった家』

2 銀河ステーションから、めくるめく幻想世界へ――宮沢賢治『銀河鉄道の夜』

3 二人がそれぞれ、親友のためにやったこと――エーリヒ・ケストナー『点子ちゃんとアントン』

4 物語に没頭する、圧倒的な幸福感――ロバート・ルイス・スティーヴンソン『宝島』

5 教訓を見いだそうとする者は追放されるだろう――マーク・トウェイン『ハックルベリ・フィンの冒険』『トム・ソーヤーの冒険』

6 植物とコミュニケートする農系女子――フランシス・ホジソン・バーネット『秘密の花園』

7 ワンダーランドは卒業を許さない――ルイス・キャロル『鏡の国のアリス』

8 「衣装だんす」で、ファンタジーと出会う――C・S・ルイス『ライオンと魔女』

9 コロボックルはわたしたちの先生なのだ――佐藤さとる『だれも知らない小さな国』

10 愛があれば。愛さえあれば。どんなに世界が苛酷でも。――カルロ・コッローディ『ピノッキオの冒険』

11 才能ある女の子の行く末は――ジーン・ウェブスター『あしながおじさん』『続あしながおじさん』

12 ウェンディの哀しみ――J・M・バリー『ピーター・パンとウェンディ』

13 「不要不急」と灰色の男たち――ミヒャエル・エンデ『モモ』

14 人間が想像できることは、必ず人間が実現できる――J・ベルヌ『二年間の休暇』

15 反省、赦し、和解こそが、知恵である――ルーネル・ヨンソン『小さなバイキングビッケ』

16 落語の世界に通じる『ラッグルス家』の物語――イーヴ・ガーネット『ふくろ小路一番地』

17 「時」とはなにか? 時間旅行SFの金字塔――フィリパ・ピアス『トムは真夜中の庭で』

18 二十一世紀の読者のために作り直された、ル= グウィンからの贈り物――アーシュラ・K・ル= グウィン『ゲド戦記』

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著者略歴

  1. 中島 京子

    1964 年、東京都生まれ。東京女子大学文理学部史学科卒。
    出版社勤務、フリーライターを経て、2003 年『FUTON』で小説家デビュー。
    2010 年『小さいおうち』で直木賞、2014 年『妻が椎茸だったころ』で泉鏡花文学賞、2015 年『かたづの!』で河合隼雄物語賞、柴田錬三郎賞、歴史時代作家クラブ賞、同年『⻑いお別れ』で中央公論文芸賞、2016 年日本医療小説大賞、2020 年『夢見る帝国図書館』で紫式部文学賞、2022 年『やさしい猫』で吉川英治文学賞、同年『ムーンライト・イン』『やさしい猫』で芸術選奨文部科学大臣賞を受賞。

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