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丸山里美×岸政彦 スペシャル対談『質的調査の話』

行為は意志に還元されない

『女性ホームレスとして生きる〔増補新装版〕』の刊行(2021年9月)を記念して、トークイベントを開催しました。著者の丸山里美先生と、同書に解説「出会わされてしまう、ということ」を寄稿してくださった岸政彦先生による対談の一部を、全4回にわたってお伝えします。
「行為」や「責任」をどのように捉えるか。第3回では、社会学者の立ち位置やジレンマについて語られます。 

第1回はこちら

第2回はこちら

現場に出ていく社会学者は、極端にいえば「責任解除」をしている

丸山 責任といえば、今日電車の中で、國分功一郎さんと岸さんとの対談(2017年11月『現代思想』「討議 それぞれの「小石」 : 中動態としてのエスノグラフィ」)を引っぱりだして読んだんですけど。

 おお、責任の話してましたね。

丸山 すごく面白かったです。お二人の人の行為の捉え方に、近しいものを感じました。人の行為ってその人の意志に還元されるものではない。もっと偶発的に決まっているような感じがしているんですよね。それなのに、その人が自分で選んだからといって、責任をかぶせることに無理があるんじゃないか。そこは良く分かります。その行為の微妙なところを書きたいというか。

 現場に出ていく社会学者は、極端にいえば「責任解除」をしていると思うんですよ。解除というと、偉そうな言い方になるんですけど。この人らにもそれなりの理由があるんだよ、と言いたいなと思うんですよね。

だから、ぼくらがエスノグラフィを書く時には、調査対象者にはみんな理由があるんだよと書く。沖縄の人のなかに、基地を容認する人がいるのも、当然理由がある。たとえば孫が大学に入るときに、公共事業がなくなったら困るという建築関係の人もいる。だから当然、立場によっては基地容認の選択をしてしまうこともあるのですが、だからといって「沖縄の人びとが自分たちで望んで基地を置いている」という言い方はできないはずです。

それぞれの人がしている選択は、当たり前だけど、理由があるわけで、そこを書くのは、自己責任からどれくらい離せるのかということをやっているんだと思うんです。

でも國分さんとズレたところもあって、彼はわりと責任解除の話が多かったのですが、ぼくは一方で、マジョリティとしての研究者は、ある種の責任を負うべきだと思っている。負うべきというか、負わされるのではないか、と。マジョリティって言葉は簡単に使いたくないですけど、じゃあ、沖縄に基地を容認する人もたくさんいるからといって、研究者本人も基地に反対しなくていいのか? と思ってしまう。そこは基地を沖縄に押し付けている日本人としての責任が発生するのではないか、と。基地を沖縄に作ったのは個人としてのぼくではないのですが、日本人の研究者としては、ある種の「連帯責任」がそこで発生するんじゃないかと。

丸山さんは女性の貧困を書く時に、女性としてある種の純粋さで入れるところがあると思うんです。でもぼくは男性で、内地の人間として沖縄に入って書くわけだから、純粋な面白さで書いたらあかんのちゃうかと。負わなあかん責任もあるんちゃうか。

最近、加害者の理解について考えています。もちろん、加害、被害は簡単には分けられないんですけど、例えば嫁にDVしているおっさんの生活史をじっくり聞いた時に、同情してしまわない自信がないというか。このおっさんは、おっさんなりに辛かったと書きかねない。どこかに線引きしないと、と思いつつ。線引きすることが社会学者として正しいのかわからない。

丸山 それは「問いの前の問い」というか、政治的なスタンスとして、調査の前に決まっているわけですよね。それは仕方ないのでは。

 社会学者として線引きしていいのか。要するに、こいつは理解するけど、こいつは理解しない、ということにもなりかねない。そうやなぁ……内地、沖縄ってもうスッパリ分けられないんですけど。でも純粋に人間の行為ってこうだよね、と全責任を解除するところには行けない。なんか怖い。

丸山 そうですね。

 そこを開き直っていいのか。ややこしい話やけど。加害者の理解ができるかどうか問題って、今まで話していても理解されていない気もするし、答えが出たこともない。

人の語りは、理由には還元できない

丸山 聞きたいことがあるんですが、いいですか。岸さんは「行為には理由がある」とおっしゃっていますよね。しかし岸さんが『文藝』(2021年冬季号「聞くという経験」)に書かれた論文では、自分の院生に、行為の理由を聞くなと指導しているとありました。意外な感じがしたんです。私の場合、理由は自分も聞いているし、理由を聞いた方がいいんじゃないかという指導をしていて。

 あれはね、理由を聞くなというのではなく、まとめるなってことなんです。理由はもちろん聞くんですよ。それはそうなんだけど、例えば、「あなたにとってズバリ、路上とはなんですか?」みたいな質問とかは、あんまり意味がないんじゃないかと。

『東京の生活史』(筑摩書房)では150人が150人に話を聞いたんだけど、経験者がほとんどいなかったので、説明会をたくさんした。その時にお願いしたのは「あなたにとって、ズバリ東京とはなんですか」と聞かないでくださいと。それはその場で考えた凡庸な言葉しか返ってこないわけ。人間って、普段から、俺にとって東京ってなんだろう? と言語化しないわけでしょう。生い立ちから生活史をじっくり聞いていってはじめて、辛かったんだな、楽しかったんだな、それなりに居場所をつくってきたんだなとわかる。

だからぼくは後から気づいて自分で笑ったんだけど、『同化と他者化』(ナカニシヤ出版)の本の中で、なんでUターンしたのかは一切聞いてないんです。ふつう院生がいまやったらダメだしされると思うんですけど(笑)。

丸山 まぁ、ふつう聞きますよね(笑)。

 そういうのは、長い時間かけてじっくり聞いていくことで、やっとこっちがわかることなんじゃないかなって思うよね。でも調査をしようと思ったら、相手に言わせることは絶対に必要で、論文の査読でもひっかかるところですよね。こっちが理由を解釈しても、「語り手が語っていない」という理由で、論文の査読に落ちたりするわけ。「それは解釈であって、経験的データじゃない」って言われる。歯がゆい感じがして。

例えば離婚した人がいて、なんで離婚したんですかと、その場で聞くことはあるかもしれないけど、それを明確に言語化している人はいないと思うんだよね。なんで沖縄にUターンしたのかについて、理由はたくさんあると思うんですよ。だからぼくが言っている「すべての行為には理由がある」というのは、それくらいの幅の大きい話をしたくて。特定の要因や原因を聞くなと言っている。

丸山 では理由を質問するなということでもない。

 ないない。理由は聞いてもいいけど、全体を聞いて、こっちが解釈する感じ。そのものずばりの答えを聞くならアンケートでええやんと。

丸山 私も同じように思っています。基本的には理由を聞くんですが、そこで語られた理由に還元して解釈しないというか。例えば本で紹介した話ですが、夫と公園で生活をしていたホームレスの女性は、夫が拘留されてる間に、生活保護を受けて一人で施設に入る一大決心をする。その時彼女は、頑張って自分で主体的に選択したのだという語りをするんです。でも半日で施設を飛び出して、公園に戻ってきた夫と暮らします。

このシーンについて、院生の方に批判されたことがあります。彼女が主体的に決めたんだという語りを無視して、夫との関係が行為の理由として重要なんだと私が書いていると。批判はその通りなんですよ。でも一方で、私は彼女の語りだけを聞いていたわけじゃない。半日で公園に戻ってきて、また夫と暮らし始めたという全体を見ると、一場面の語りよりは、行為の方を重視して見てしまう。人の語りは、理由には還元できない。

 できないな。

なかなかきわどいところで、社会学者でいる

丸山 これも岸さんに聞きたかったんですけど、インタビューだけで調査をするイメージがつかなくて。私はフィールドワークをしながらインタビューもして、語られていない背景も含めて解釈して書いてきました。インタビューだけでは難しいと感じている。でも岸さんは生活史、しかも一回の語りで書きますよね。

 そうですね。ぼくはワンショットサーベイが多くて、一回聞くと二度と会わない人が多い。でもその代わり数を聞くんです。生活史の語りが一番面白いのだという信念と自信はあるけど、生活史だけでは何もわからないとも思います。人の語りの中にすべてがあるとも思わない。

それに生活史だけではやっていない。『同化と他者化』では、いろんな資料を集め、どのような戦後の歴史の中で人びとが生きているのかを書いた。当たり前だけど、特定の問題に対して、とにかく勉強して詳しくなることだよね。丸山さんだったら女性の貧困、ぼくの場合は沖縄の戦後史に詳しくなる。研究者は総合的に詳しくならないといけない。

だから、その分野の歴史や背景も知らず、調査を始めたばかりの院生さんがちょろっと生活史を聞いて、ちょろっと書こうとすると書けないと思う。

論文を書くことは、自分の作品を書くことと同じです。語りをたくさんいただいて、自分の表現をしないといけないわけですよね。その時に特定の問題について詳しくならずに、人の語りだけ書くのはおこがましいというか、そんな不遜なことは無いと思うんですよ。

丸山 そうすると、『街の人生』(勁草書房)みたいなものは、研究とは切り離された仕事なんですか。

 それを言われると非常に困る(笑)。どっちかではない。繰り返すけど、生活史の語りはめちゃくちゃ面白いと思う。だから「生活史モノグラフ」も書きたい。生活史の語りがただ並んでるやつね。『東京の生活史』も『街の人生』もそうやし。とにかくこれ面白いから読んでっていう感じで作ってます。

でも同時にぼくは沖縄の研究をやっている。そのためには沖縄の社会学的な先行研究のなかに自分の研究を位置づけながらやってます。生活史以外の歴史的資料や統計データも使う。

だから、なんていうか、「ナラティブとかライフストーリー専門の作家」にはならへんわけ。なかなかきわどいところで、社会学者でいる。自分でも偉いなと思う(笑)。今は沖縄戦の研究をやっていて、生活史の聞き取りをしながら、沖縄戦のいろんな資料を織り交ぜながら書こうと思っています。

丸山 生活史でも構造として把握できるくらいのインタビュー数をとって、その中で全体像を描きながら理解していくと。

 そうですね。20~30人に聞かないとわからないと院生には言っている。さっきの、「なぜ公園に戻ってきたのか」という問いも、その時の日本社会全体の状況やジェンダー規範の在り方とか全部わかっていないと、書けないですよね。

なんだろうな、「理由を本人に喋らせる」ロマン主義がある気がする。「理由は本人にしか喋れないはずだロマン主義」なのかもしれないし。そうすると、当事者にしか分からないという話になってしまう。でもエスノグラフィや参与観察を長いことしていたら、こっちにも書けることがあると思うわけじゃないですか。本人が言ってなくても。だからこそ「研究者」という存在が必要とされるわけで。

理由というのは状況なんです

 せっかくなんで、会場の方から。

齋藤直子 この分野は素人なんですが……。

 こわいなぁ、やめて(笑)。

丸山 (笑)。

齋藤 質問というより、感想ですが。社会学をやっていると、多分に政治的なところがあるなと普段感じていて。この間も、あるセクハラ裁判の意見書を社会学の方が書いておられたのを読んで、素晴らしいなと思った。社会学はよく役にたたないと言われると思うんですけど、裁判の時に、例えば法学の人には書けない意見書がある。

法学の人だったら、こういう行為をされたら普通こう行動するでしょうと、一般論になると思うんです。でも人の行為について考えてきた社会学者は、人にはこうした行為をする場合もあるのでは、と裁判を引っくり返すような仕事もできるんじゃないか。そして意見書を書く時に、社会学者はセクハラ加害者の意見書は書かないですよね。被害者の方を書く。そこでかなり線引をしていて、政治的な立場が明確になっているんだなと思います。

あと聞き取りの時に、私も理由は聞かないけれども、ある行為をした話が出たら「その時、どう思っていましたか」とは聞くなと思います。理由は聞かないけれど、出来事を出来事のまま捉えているわけでもないなと思いました。

丸山 政治的なスタンスが調査以前に決まっているというのは、私は当然だと思ってました。だから岸さんがそこで悩みを抱えているのが意外でした。特にわれわれ質的調査者なんて、自分の個人のセンサーにひっかかったことしか仕事としてできないじゃないですか。そもそも、自分の信念や政治的なスタンスも、自分のセンサーのひとつなわけで。そこは開き直っているというか……(笑)。

理由を聞くか聞かないかについて付け加えると、私は複数回話を聞いていて、院生にも複数回インタビューすることを勧めています。理由って後づけなので、けっこう矛盾があったりするんですよね。そこが面白いと思っています。容易には理解できない、矛盾や飛躍がある場合、そこについてもう一回インタビューしたりすると、そこから一番面白いところが出てくるんじゃないかなと。

あとは、ある行為を選択したと聞いた時に、「○○という方法もありましたが、なぜ選ばなかったのですか?」と、それ以外の選択肢を選ばなかった理由をあえて聞くこともあります。その選択肢の周りの世界が見えてくるというか。

 ぼくが言っている理由って、原因や要因と勘違いされるんです。そうじゃなくて、理由というのは状況なんですよ。

丸山 うんうん。状況ですね。

 だよね。だから要するに、さっき齋藤さんが、社会学者が裁判で書いた意見書が非常に良いものになった実例を挙げていたけれど、それは社会学者、あるいは人類学者でも、フィールドワークする人は「状況の中の行為」を書いてきたからですよね。

例えば性被害にあった人が、その時は恋愛として処理してしまうこともある。そして女性ホームレスの人が施設に入っても次の日には公園に戻ってしまう。そしてそれを、自分の主体的な選択として語る。でも人間ってそういうことするんだよと、ぼくらはひたすら書いています。そこから、ひとつの人間の理解が生まれるだろうなと。

だからこそ、裁判の被害者側の、性被害にあったときにこうした行動をしてしまうけど、この人の責任ではないという意見書にもなりうるわけです。そういうぼくらがやっている形の遠回りの理解が役に立つことがあるんだろうね。いい話やな。

丸山 本当にいい話ですね。社会学者が役に立つと信じられる数少ない領域といいますか(笑)。

 数少ないな(笑)。やっぱり責任解除をしていくという。

丸山 DVなんてまさにそうですよね。単なる夫婦間のケンカだとそれまで考えられてきたことを、それは夫婦間でも暴力で問題なんだと女性たちが読み替えてきた。それは社会学が活躍できるところですよね。

 言葉を与えることはしていると思いますよね。こういう状況で人はこうするんだよと。これは心理学でも同様で「共依存」という言葉が出来たことで見通しが良くなったりしていますから。

構成:山本ぽてと

第4回「質的調査と理論」に続きます!

女性ホームレスとして生きる〔増補新装版〕

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著者略歴

  1. 丸山 里美

    1976年生まれ。社会学者。現在、京都大学大学院准教授。
    主な著作に、『質的社会調査の方法――他者の合理性の理解社会学』(岸政彦・石岡丈昇と共著、有斐閣、2016年)、Living on the Streets in Japan: Homeless Women Break their Silence(Trans Pacific Press、2018年)、『貧困問題の新地平――〈もやい〉の相談活動の軌跡』(編著、旬報社、2018年)、『女性ホームレスとして生きる〔増補新装版〕』(世界思想社、2021年)、などがある。

  2. 岸 政彦

    1967年生まれ。社会学者・作家。現在、立命館大学大学院教授。
    主な著作に『同化と他者化――戦後沖縄の本土就職者たち』 (ナカニシヤ出版、2013年)、『街の人生』(勁草書房、2014年)、『断片的なものの社会学』(朝日出版社、2015年)、『質的社会調査の方法――他者の合理性の理解社会学』(石岡丈昇・丸山里美と共著、有斐閣、2016年)、『ビニール傘』(新潮社、2017年)、『マンゴーと手榴弾――生活史の理論』(勁草書房、2018年)、『図書室』(新潮社、2019年)、『地元を生きる――沖縄的共同性の社会学』(打越正行・上原健太郎・上間陽子と共著、ナカニシヤ出版、2020年)、『大阪』(柴崎友香と共著、河出書房新社、2021年)、『リリアン』(新潮社、2021年)などがある。

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