人間の「行為」を書く
『女性ホームレスとして生きる〔増補新装版〕』の刊行(2021年9月)を記念して、トークイベントを開催しました。著者の丸山里美先生と、同書に解説「出会わされてしまう、ということ」を寄稿してくださった岸政彦先生による対談の一部を、全4回にわたってお伝えします。
質的調査によって何をしたいのか、それはなぜなのか。第2回では、お二人が自らの「問い」に向き合います。
第1回はこちら
改善を目指す知の在り方と、ぜんぜん違うことをしている
岸 上間陽子さんの『裸足で逃げる』(太田出版)の帯に、“「かわいそう」でも、「たくましい」でもない”と書きました。こういう話を書く時って、「かわいそう」か「たくましい」のどっちかになっちゃうじゃないですか。
上間さんの本でもそうですが、この本(『女性ホームレスとして生
丸山 「なんとかしなきゃ」という問題意識があるから現場に入ると、岸さんは今おっしゃっていましたが、私はそもそも社会問題を解決したいという発想は薄いんですよね。それよりはもうちょっと現実を知りたいとか、当時は女性のホームレスの人から、女性の先輩としての生き方を聞きたいという興味の方が先にありました。こんな研究をしていると、有効な政策について質問されるんですけど、ホームレスや貧困はどうやったらなくなりますかとか、そういう質問にはいつも困ってしまって……。もちろん(対策や政策について)言わなきゃいけない場面では言ったりもするんですが。
岸 丸山さんは女性の貧困に対して政策提言をしたり、イベントをされたり、活動団体ともつながりつつ、現場で仕事をされている。
丸山 まぁ、そうですね。少しは……
岸 少しは、じゃないでしょう! でもそう言いたくなる気持ちはわかる。なんか、ぼくたちの仕事って、「すぐに役に立ちます!」って言いづらいんですよね。おこがましいというか、そういうアピール自体が非常に不遜です。
丸山 貧困研究をしているって、私は周りから思われがちで。
岸 しているじゃないですか(笑)。
丸山 でも自分では、「処方箋」を出すタイプの貧困研究をしているという意識は薄い。貧困がたまたま対象だけれども、私の研究で直接的に貧困の社会問題を解決できるという言い方をするのは難しいです。ホームレスをなくすための政策はと聞かれても、そもそもなくならないといけない存在なのかという、その手前の部分で詰まってしまう。そこをじっくり考えることなく、まずはじめに社会問題を「解決しよう」として調査に入ると、調査しなくてもわかっていることしか出てこないと思うんです。
岸 難しいな。だから臨床的というか、改善を目指す知の在り方と、ぜんぜん違うことをしているんですよね。改善ももちろん大事ですが、それより先に、「理解」したいじゃないですか。そこで人びとがどうやって生きているのかを。
丸山 うんうん。
岸 一般的に研究者に求められる役割って、「資本主義を乗り越えよう」みたいな、大きなことを言うことなのかもしれない。でもこの本を読むと、ここで描かれたディテールを通じて、人びとはそこで生きているんだな、ということが直接伝わってくる。人はそれぞれのところで、みんな、生きているんだなと、ものすごく感じる。
その辺が生ぬるいって批判する人もいるかもしれませんが。でも女性ホームレスをひとりでも無くそう、みたいな発想しか持たずに現場に入ると、ここまでの語りは得られないだろうなと思います。これは実際の支援をすることと両立しうることです。
例えば、被差別部落の聞き取り調査をしている齋藤直子さんは、実際に部落の結婚差別にあった人の相談を受けるNPOの活動をしている。若年出産した女性たちの調査をしている上間陽子さんは、最近ご自身でシェルターをはじめた。
調査をすることと同時に、具体的な支援をすることは、何も矛盾しません。むしろ、実際の現場に入っていくと、つながりが出来てきて、支援や活動に関わることも求められていきます。だから、だいたいの社会学者は現場で何か具体的な活動に関わってると思いますよ。それはそれで自然にやっていく。でも社会学の本の中では、理解することを一番に描きたいですよね。
丸山 それはねぇ。だから社会学、役にたたないんですよ。
岸 本当につくづく思いますよね。役にたたない……一体何なんだ、俺たちはと(笑)。最近、臨床系の人らと話すことがあったんですが、やっている仕事がぜんぜん違うなと。でも、そこで開き直ってもあかんとも思うんです。やっぱり役に立てたほうがいいことはいい。まあ、結論が出ない話ですけどね。
「どうすべきか」とかよりも、「人間ってこうだよな」っていうこ とが書きたい
岸 丸山里美さんの研究のベースには理論的な指向性があるなと。やはりジュディス・バトラーが一番でかいですか。それは研究の初期のところで出発点にあったんですか?
丸山 この本ではそうです。バトラーの理論とつなげて考え出したのは後の方かもしれません。やっているうちに必要になってきました。あとはゼミの影響が大きかったかもしれません。当時所属していた松田素二さんのゼミは、各々がバラバラの場所でフィールドワークをしてたんですが、みんな人の行為や主体性をどう捉えるのかということに関心が集中していくんですよ。見ている現実はみんな違うんですけど。
岸 この本を書く時に何を書きたかったですか。一番。何が書いてあるんだと思いますか。
丸山 難しい質問ですね……。
岸 いろいろ考えるんですよね。ぼくらは、人の行為について書くわけじゃないですか。社会学者でもいろんなタイプがいて、「○○型社会から、○○型社会に変わったのだ」とマクロなことをいう人もいますよね。そうした人とくらべると、ぼくたちはチマチマしているというか。
個人の行為を、人々は何をしているのかを書く。でも一方で、何を題材にしてもいいわけではない。ホームレスのことや被差別部落のことを研究することを選ぶわけですよね。そのことについてどう思いますか。
丸山 難しいですね。でも私、岸さんみたいな感じでは選んでないかもしれないですね。女性ホームレスをやってなかったら被差別部落をやっていたのかと言われると、そうでもない気がする。でも私はチマチマしたところにしか、関心が行かないんですよ。たぶん、人にしか関心が向かないですね。制度とか社会全体とかに関心が向かない。
岸 そこにはちょっと言わせてもらいますけど(笑)、そんなにたまたま選んでない気がしますけどね。関心は社会的なものにあったんだと思いますよ。人間の行為に興味があって、そこを聞きたいんだなというのは。
いま、沖縄戦の経験者に聞き取り調査をしています。その中に、集団自決の生き残りの男性がいました。手榴弾3つくらい真ん中に置いて、みんな親戚で輪になって自決された。その方ははまだ10歳くらいで。身体が小さくて後ろの方にいて、自分だけ生き残った。その時、一緒に亡くなった弟さんの話をして、途中で嗚咽をもらして、会話が止まったようなインタビューでした。
でもそこで同時に「基地に賛成だ」という話もしていた。日本に対する反発もとてもある。でも米軍基地が沖縄の人に飯を食わせてくれたから、と言うんです。だから基地に反対じゃないと。ここで「どうすべきか」とかよりも、「人間ってこうだよな」って
丸山 すごくわかります。
岸 そうなんですよね。規範的な議論に回収したくない。
丸山 人ってだいたい、自分も含めて矛盾を抱えて生きているものじゃないですか。私はそういうのが見えた時に人間らしさを感じる。それが単に好きなんですよね。
岸 まあ、ぼくはナイチャーとして、いわばマジョリティの立場として沖縄のことをやっているんで、そこはあんまり楽天的になれないというか。語りを理解した上で、ナイチャーとしてどうすべきかという規範的な話をしなければならないと思ってます。公園をポジティブに意味づけする女性ホームレスがいる。沖縄戦を経験しながら、米軍基地を容認する沖縄の人もいる。まずは、そこで慌てて規範的な議論に回収せずに、そこで生きている人びとの行為選択の、その人なりの「理由」があるはずなので、それを理解したいと思う。
そして同時に、やはり貧困や基地をなくしてくことも考えなければならないんです。でも単純にいうと、人間の複雑さに出会ったときに、そこで「唸る」んですよね。
丸山 ああ、そうですね。
岸 面白い、ってつい言っちゃうじゃないですか。さっき丸山さんが学部生時に「釜ヶ崎が楽しい」と言っていたのと同じ感覚だと思います。funnyの面白さじゃなくて、かといってinterestingってほど知的でもないし。他にぴったりくる言葉がないから、しょうがないから「面白い」と使っちゃう。でもまぁ、面白いんですよ。しみじみする感じ。あーって唸る感じの。これが人間なんだな、と思うような。
質的調査って、「一概に言えなくしていく」作業だと思うんです。『女性ホームレスとして生きる』に出てくる女性たちも、公園を受け入れたという語りをしているんだけど、やっぱり読んでいてハッピーな話ではない。けど、この人にとっては公園が居場所になったんだなとわかる。
丸山 簡単に理解できない矛盾した語りとかに出会った時に、人間の深みを感じますよね。だからこそ、そこをもうちょっと掘り下げて考えたい気持ちが生まれるのだと思います。
ジェンダーの視点を入れると、本当になにもかも変わる
岸 本の増補のところにも書かれていましたが、いま女性の貧困の形が変わってきているんですよね。
丸山 この本の初版を出して以降、貧困支援をするNPO「もやい」で調査をしました。そのとき統計には出てこない問題があるのだと感じました。私はそれを「世帯の中に隠れた貧困」と呼んでいます。
貧困は世帯単位でカウントされるのが一般的です。そうなると夫に収入がある場合、例えば専業主婦の女性が経済的DVを受けていて生活費をもらえなくても、今の測定方法では貧困とカウントされません。そもそもの貧困の捉え方自体も、ジェンダーバイアスを問題にしないといけないと思うようになっています。
岸 統計には上がらない、目に見えない貧困があるんじゃないかと。ジェンダーの視点を入れると、本当になにもかも変わるなと思います。この本でも、これまでの「ホームレス研究」が、あくまで「男性ホームレス研究」であったと批判していますよね。それまでのホームレス研究はどういうことを言っていたんですか。
丸山 研究史の大きな流れとしては、まずはスラム研究からはじまって、そこにいる人たちは「かわいそう」「改良されなければいけない」と言われて来ました。でも80年代あたりから、次第にそこに住んでいる人たちにだって主体性があり、人間で、ちゃんと生きているのだという議論が生まれます。この人たちも働いていて、怠け者ではないのだと、労働者性や強い人間主体が強調された。「ホームレスのおじさんだって働いている」「主体的に社会に抵抗しているのだ」と。私が現場に入ったのも、ちょうどそう言われている時代でした。ホームレスの人のことは「野宿労働者」と呼ばれていたりしました。
でも私は違和感を覚えていました。現場で見てみると、そういう人もいるし、そうでもない人もいるなと。働いていない人もいるし、働けない人もいるし、女性もいる。そこから落ちこぼれていくものの方が気になった。
岸 あの人たちは立派に労働しているから「野宿労働者」ということですよね。でも一方で、この人たちが立派な人間だと言うときに、その根拠が労働になっているとも言えます。労働に還元している。でもここにジェンダーの軸を入れるとガラッと変わっていく。
丸山 女性が労働していないわけではもちろんないのですが、そもそも女性には労働が期待されていなかったりする。これまでの研究では、労働に加えて抵抗にも還元してきました。
岸 人間を疎外する資本主義に対して、勇敢に抵抗する野宿労働者……のような描き方でしたよね。こういう言い方は難しいですが、なんというか、理論がマッチョですよね。でも女性ホームレスはそんなふうには生きていないと丸山さんの本を読めばわかる。結局のところ、男性ホームレスに対する描き方としても一面的だったのかもしれない。特にそれが女性ホームレスの生活をつぶさに見ていくと、はるかに複雑なことをしているのがわかる。
「問いの前の問い」
丸山 今日ぜひ、岸さんにお聞きしたかったことがあって。去年、日本社会学会のシンポジウム(第93回日本社会学会大会 11/1(日)「フィールド調査は何を「問い」にできる/できないのか?-社会調査のパンドラの箱を開ける試み」)でこんな話になりました。われわれは、問いを中心に研究の論文を書かないといけないわけですけど、その問いが立ち上がってくる以前に、その問いを決めているもっと個人的な感性のようなものがあるのではないか。それは研究の中では書かれないんだけど、研究の方向性を大きく決めているんじゃないかと。
それはすごくよくわかる感じがする。そういうことで言うなら、私の場合、たぶん運動的なものに乗り切れない自分がいる。だから「野宿労働者」と言われた時に、そう言うことの大事さはわかる半面、そこに自己同一化できない居心地の悪さを感じていて。運動的なものから取りこぼされるものを見たい。そういう「問いの前の問い」があるんですよね。
私はセクハラの経験がすごく自分の研究の方向性を決めていて、当時はすごく調査に失敗した、自分には能力がないと思いながら調査を進めてました。だから女性ホームレスの人たちの、「物事を決められない」感じがものすごく良くわかる気がしました。私も自分に自信がなくて、調査の依頼すらできず、物事を自信を持って決めていくことができない個人的な経験があったので。だから女性ホームレスの中のその部分に敏感に反応したという感じがしている。
シンポジウムの司会をしていた金菱清さんは「センサー」という言葉を使っていました。そこに反応する私のセンサーが、そうした問題を捉えたのではないかと言われて、改めて気づきました。岸さんの問いの前の問い、センサーは、どのようなものなんでしょうか。
岸 えーっとね、「独り」ってことだと思うんですよね。最近取材を受けたり、生活史って何って聞かれることが多くて、この歳でやっと初めて考えたことなんだけど。
ぼくの最初の本『同化と他者化』(ナカニシヤ出版)は出稼ぎの本です。沖縄から東京に本土就職に来て、また沖縄に帰る話。自分のふるさとから一人で出て、一人で生きて、一人で帰ってくる。そのあとの、『地元を生きる』(ナカニシヤ出版)で書いた話も、共同体から離脱する話だったんです。
考えたら自分って、生まれたところから出て、大阪を選んで移り住んで、大阪に来たら沖縄にハマっていって、共同体の濃いとこ、濃いとこに流れていくんだけど、けっきょく自分が書いているのって、小説もふくめて、一人になる話なんですよ。
生活史って聞いていて寂しくなる。最近出した『東京の生活史』(筑摩書房)を読んだ方が、「読んでいて寂しくなりました」って言っていて、めっちゃわかるんですよね。80歳、90歳の人が、生まれてから、こういう家族で、こういう学校にいって、こういう仕事をして……。結局、全部別れの話なんですよ。親も兄弟も配偶者も最後には死ぬ。犬飼ってて、その犬も死んでいく。その語り手の人は元気で、子どもや孫に囲まれて、幸せに生きているんですけど。なんか生活史を2時間、3時間聞くとね、けっきょく目の前で喋っているその人が一人、残っている感じになる。共同体の濃いところに行っても、けっきょくそこで個人の話を聞いているなと思う。
みんな一人だなと。自分が社会学者として失格だと思うのは、中間集団やネットワークや共同体があんまりよくわからない。だから、みんな一人やねん。
丸山 しかも、集団の中にいる一人、ですよね。都会の中にいる一人。それは岸さんの小説とか、いろんな作品に通底している気がしますね。
岸 社会学者は立派な社会科学だと思うけど、それぞれの視点からみて表現していることがあるんですよね。研究もひとつの「表現」なんですよ。
丸山 そうですよね。
岸 丸山さんとこういう話するの初めてやな。そうか、丸山さんは、「物事を決められない人」の話を書いているんですね。
丸山 でもこの本について、女性の主体性や戦略を書いたように評されることが多くて、私そんなの書いたかな? と思ったりするんですよ。
岸 公園に居場所を見出していく話だし、「生活戦略」のような感じの言葉を使いますからね。ぼくもそうした言葉を使っちゃうし。やっぱり、「かわいそう」か、「たくましい」か、どっちかになっちゃう。完全にどっちでもないような言語ってまだないんだよな……。どっちかに回収されてしまう。自由か構造かのどっちかに。そうか、でも丸山さんが主体性を書いたとは思わないですね。あれだけホームレスの主体性に関する議論について批判しているのに(笑)。
丸山 (笑)。
岸 そう思うと、ぼくも誤解されていて、断片的なディテールが好きな人だと。「かけがえのないものに、神がやどっているんですね」みたいな感想を言われる。そんな話には全然興味ない(笑)。かけがえのないものや、ささやかなもの、チマチマしたものに全てがあるんだというのは、それはそれでロマン主義な気がする。非常に凡庸なストーリーですよね。
だからぼくは構造の中の孤独、全体の中の個別が好きなんです。丸山さんの本が好きなのは、それが書いてあるからですよね。構造的条件をきちんと書いて、その中でなんとか生きている女性、選べなかったりもするし、施設に入るけど戻って来たり。なんか「責任」ってところに行きつくと思うんですけどね。丸山さんの本って。
丸山 責任ですか?
岸 例えば、自分で好き好んで公園に帰って来てしまう人。さっき危険な面もあると言ったのは、なんの説明もなしに、その話だけ聞くと、「この人たちは自己責任だ」と思う人がいるかもしれない。そして生活保護あげる必要ないじゃんという話になる。今が最高と言うなら、ずっと公園にいたらいいじゃんと。でもそうじゃない。むしろ逆ですよね。
構成:山本ぽてと
第3回「行為は意志に還元されない」に続きます!