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美しいってなんだろう?

美しき「壁」

「センバイコウシャにいく?」

 子どものころ、たばこ屋を営む母にそう聞かれると胸が高なった。いまでは「JT」という名前になったが、三十五年くらい前まで、たばこ屋が国産のたばこを仕入れる場所はそういう名前で呼ばれていた。当時はどういう意味か知らなかったけれど。
  家から車で十五分ほどの桜木町。専売公社の倉庫には、文字どおり山のようにたばこの箱がつみ上がって、たくさんの人が忙しそうに働いていた。お兄さんに伝票をわたすと、テキパキと品物を集めそろえて、大きなダンボールに箱づめしてくれる。みな威勢がよくて、かっこいい。
 手続きを待つあいだ、ときどき入口ちかくの自販機であまい飲みものを買ってもらえることがある。寒い日には温い缶で手をあたため、ミルクココアをちびちびとなめながら、トラックやフォークリフトが出たり入ったりする姿をぼんやりながめる。それも楽しみのひとつだ。
 専売公社のすぐ近くには、東急東横線の電車が走る高架があって、高島町から桜木町まで一、二キロほどひと気のないコンクリートのガード下がつづいていた。
 あるころから、その壁に絵が描かれるようになった。絵といってもまるで意味のわからない漢字や英語をスプレーで書きなぐったものがほとんどだが、なかにはふくざつに描きこんだ文様や、写真みたいにそっくりな人間や動物、マンガのキャラクターなどもある。柱と柱のあいだ、二メートル半ほどの壁面がひとり分のキャンバス。いつだれが描いたのかはわからない。上手いも下手も、丁寧も適当もごったまぜ。ひとつとして似ている絵はなく、それぞれの世界がある。どんなにおもしろい絵でもぬりつぶされ、上から新しい絵が描かれる。どの絵が消え、どんな絵が増えたのか、うつりかわりを見つけるのも面白い。
 車がガード前の通りにきかかると、きまってぼくは窓にへばりつき、左から右へ流れゆく壁画を夢中で見ていた。

 中学生一年生の夏。かろうじて学校には通っているけど、たいくつで死にそうだったぼくは、いまこそあのガード下に絵を描くときだ! と思いついた。
 ずいぶんヤブから棒な話だが、「桜木町の壁に大きな絵を描きます」というチラシをつくりコピーして、学校の友だちや近所の人に配り、ペンキやスプレーなど材料や道具を買うために寄付してもらえないかと呼びかけた。まねき猫のかたちをしたプラスチックの募金箱には、五円玉から千円札まで大小の銭がガシャガシャとたまっていき、数週間で一万円ちかい金額が集まった。
 しかし、間もなく「学校でお金を集めている生徒がいる」と職員室でぼくの行動が問題になった。
 その昔、学校が荒れて、生徒がガラス窓を割り、暴れて運動会が中止になった。不良たちが「カンパ」といって、同級生からむやみにお金をまきあげた。そのときから、学校で金銭のやりとりはしてはいけない、と決まったそうだ。
 ぼくは脅してお金を集めているわけじゃない。寄付する人はみんなお金の使い道に納得して、応援したいと募金箱にお金をいれてくれる。なんの問題もないはずだ。毎年学校でやっている赤い羽根募金やベルマーク募金はよくて、なんでぼくの募金はいけないんですか、と反論したが、そもそも、電車の高架に絵を描くこと自体が違法なのだから絶対やってはいけないと、先生にこっぴどく叱られた。じつは寄付してくれた人のなかには何人か先生もいたのだが、騒ぎになったとたん知らんぷりで、助け舟をだしてくれる人はだれもいなかった。
 あえなく計画は中止となり、数カ月後、ぼくは学校を辞め、一年後にはインドで暮らすようになった。壁画は描けずじまい、集めた数千円は宙ぶらりん。お金を返そうにも、だれがいくら寄付してくれたかわからない。日本に帰ってきて、桜木町のガードの前を通るたび胸の奥がチクチクした。 

 装丁をはじめたころ、よく一緒に仕事をしていた出版社、春風社のオフィスは桜木町にあって、ぼくは毎週のようにあのガード下を歩いていた。
 そのときには、幼いころ見たような絵はことごとく消えていて、かわりに派手な色のスプレーで文字や模様をぬり重ねるスタイルが流行っていた。「ストリートグラフィティ」と呼ばれるものらしいが、どれも似たりよったりに見えてつまらなかった。
 もはやガード下には、「人目を盗んででも、この壁に絵を描きたい!」と思わせるような荒々しい魅力はなくなっていた。まだFacebookもTwitterもなかったけれど、自分の絵をたくさんの人にみせたい若者たちは、壁ではなく、インターネットで作品を公開するようになっていた。
 二〇〇四年、東横線の桜木町駅がなくなって、高架は頭に線路をのせただけのたんにぶあつい壁になった。老朽化がひどいので、取り壊すか、遊歩道として建て直すか、どちらにしても撤去しないといけない。その前にこの壁で遊ぼうということになり、二〇〇七年、NPOが中心となって「桜木町ON THE WALL」というガード下の壁に絵を描くアートプロジェクトが開催された。
 応募して抽選に当たれば、自由に絵を描いていいという。もちろん東急や横浜市もOKしているから違法ではない。材料費は自腹だが、ぼくには中学生のときに集めた寄付がある。十数年ごしにはなってしまったけれど、みんなのお金をちゃんと使える日がようやくきたのだ。

 寒空の下、ペンキやローラーをぶらさげて、割り当てられた区画にいく。ガード下では若者から中年まで、いろんな人がはしごに腰かけ絵を描いている。柱と柱のあいだがひとり分なのはむかしと同じだ。
 壁は長年ぬり重ねられたペンキが固まって、ミルフィーユのようになっていた。ちょっと手で触るだけでボロボロとはがれ落ちる。これじゃペンキもぬれないので、軍手やスクレーパーをつかって表面をけずり取ることにした。一時間もしないうちに、排気ガスと土ぼこりで手や顔は真っ黒。ガリガリやっているうちにあっという間に一日がおわった。
 はしごをおり、道具を片付けていると、向かいのビルの隙間から夕日が差しこんで、壁が黄金色に染まっていくのが見えた。けずり取った層の下からでてきた古いペンキが宝石のように輝いている。かつてそこにどんな絵が描かれていたのかはわからない。だが、時のながれとともに重なり混ざりあったペンキは、まるでモザイク模様のようで美しかった。もう絵なんて描かず、このままにしておくほうがいいんじゃないか……。




 インドの町中を歩いていると、たびたび美しい壁に出会う。
 もともとはなんの変哲もない普通の壁だったのだろう。気まぐれに落書きが描かれ、映画やサーカスのポスターが貼られ剥がされ、また貼られる。映画スターのおでこに色粉がついている。足元には真っ赤な噛みタバコを吐いたあと。その上に「噛みタバコと立ち小便禁止」の注意書き。ボロボロになったスポーツジムのチラシのなかから、レオタード姿の女がこっちを見ている。
 彼らはどんな気持ちでこの壁の前に立って、描いたり貼ったりしてきたのだろう。じっと壁を見ていると、この町で暮らすよるべない人たちの息が聞こえてくるようだ。
 もちろん、それを汚いと感じる人もいるだろう。数年前からモディ首相が呼びかけた「清潔なインド運動」におうじて、市民ボランティアたちの手によって町のなかのあらゆるふきだまりは、白のペンキやお花や虹模様できれいにぬりかえられた。彼らは自分はよいことをしている、と信じていると思うが、ぼくはちいさなさびしさを感じていた。
 たとえば、インドの町は音にあふれている。車やオートリキシャのエンジン音。おしゃべりしているみたいなクラクション。紙くず、トマト、タオル、ふうせん……もの売りたちの声はよく通る。となり近所も気にせず大声で喧嘩している夫婦。子どもたちは遠慮なくワイワイ遊ぶ。ドーンとヤシの木から実が落ちる。どこかの屋上で洗濯物を叩いて洗う音。夜中にとなりの部屋からハンマーを打つ音がしてとびあがったこともあった。
 はじめてインドにきた日本人は「ひどい騒音ですね」という。でも、ぼくは十代のとき、インドから帰国すると、日本の電車もバスも町も静かすぎて、むしろきゅうくつな感じがした。暗い夜道で、家からもれるあたたかい明かりを見つけたときのように、生活の音を聞いてほっとすることもある。

「GREEN is NOT BLUE and YELLOW」

 緑は青と黄色じゃない、ということばが、バンガロールのあちこちの壁に書かれたことがあった。湖が埋め立てられ、街路樹が切り倒され、道路が広げられ、家と車と人が増えて、空が灰色になっていったころだ。青と黄色の絵の具を混ぜれば緑色はできるが、緑(木々)はそんなかんたんにつくりだせないんだよ、という意味だろう。なるほど、とんちがきいているな、と思った。
 同じことは、ほかのものにもあてはまる。いまここに自由につかえるペンキと壁があっても、ぼくが子どものときワクワクして見ていた、あのガード下の壁画たちは生まれないだろう。




 ……桜木町の壁に絵を描く二日目。すっかり平たくなった壁にアイボリー色の下地をぬる。そこから何日かかけて、ガネーシャの絵を描いた。インドからやってきた象の顔をもつこの異形の神さまは、学問と芸術の神であり、物事のはじまりの神だ。いまさら、なにかを伝えたいなんて思わない。お寺や神社の大木のように、ただそこに生えて見守っているようなものを描きたかった。
 インドやアフリカの古代人たちは洞窟に絵を描いた。木の実や赤土をつぶして、手の平でべたべたと自分たちの手形をのこした。
 画家の谷中安規は、住んでいる部屋の壁やふすまに絵を描きつくすというクセが、どうしても治らず、大家さんや同居人に見つかるたびに怒られ追い出され、一生、家を転々とした。
 真夜中に警察の目を忍んで、壁にスプレー缶をふきつけていた彼らの気持ちも、すこしわかる気がする。単純に自分のからだより大きなものを描くのは楽しい。壁と紙は一見似ているようで、まったくちがう。描いていると、目の前の空間と自分の絵の境界があいまいになる。完成させることより、描いている最中が最高に心地よくて、たとえ次の日に自分の絵が消されてしまってもかまわない、とさえ思った。「やっぱり、描いてみなかったらわからなかったよ」と、あの夏をクヨクヨすごしていた中学生の自分に教えてあげたい。

 ちなみに、アートプロジェクトの一年後、何十という壁画たちは、業者の手によってぜんぶきれいにぬりつぶされた。高架と歩道と壁の持ち主がそれぞれ異なるという複雑な事情もあり、結局、壁は取り壊されることも、建て替えられることもなかった。なーんだ、と思ったけれど、いまさらあの場所にまた絵を描きたいという気持ちはない。桜木町のガードは、暗い灰色の塗料がぬられたまま、二〇二〇年の今日も残っている。

娘 つたのつぶやき 

わたしとかべの出会いはそんなにないかも……と思う。
世界には、色々なかべがある。目に見えるステキなかべ、よごれたかべ、目に見えないかべ……。
多聞の文章に書いてあるようなかべは、たぶん見たことがない。「どんなかべがすき?」ときかれたら、んー、かわいいかべがみがはっているかべかな、と言うと思う。
わたしの家は、かべがほとんどない。あるといえばあるが、ないといえばない。
いま、この文章を書きながら、見つめているのもかべだ。「本をつくるVOL1」とかいてあるチラシ、わたしがちいさい時に書いた絵などがはってある。

ありにとって、わたしのくつはかべ。わたしにとって、かべはかべ。でも、ありはどんなたかい所でものぼれる。まあ、京都タワーはのぼれるか、わからないけれど……。人間は、たかい所にのぼる時、エスカレーターやエレベーターでのぼる。ありは自力でのぼる。

もし、多聞の文章に書いてあったかべがわたしのそばにあったとすれば、絵をかいてみたい。自分の体より大きな絵を。
申しおくれました。 どんなかべがすき? ときかれたら、「かわいいかべがみがはってあるかべ」と書いたのですが、それは、へやの話で、外だったら、「絵が自由に書けるかべがいい」と言うでしょう。

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著者略歴

  1. 矢萩 多聞

    画家・装丁家。1980年横浜生まれ。9歳から毎年インド・ネパールを旅し、中学1年生で学校を辞め、ペン画を描きはじめる。1995年から南インドと日本を半年ごとに往復し個展を開催。2002年から本をデザインする仕事をはじめ、現在までに500冊を超える本を手がける。2012年、事務所兼自宅を京都に移転。著書に『偶然の装丁家』(晶文社)、『たもんのインドだもん』(ミシマ社)、共著に『タラブックス インドのちいさな出版社、まっすぐに本をつくる』(玄光社)、『本を贈る』(三輪舎)がある。http://tamon.in

  2. つた

    2011年横浜生まれ、京都育ち。小学校は昨年から永遠の春休みにはいり、風のふくまま気の向くままフリースクールとプールと図書館に通っている。本があれば、どんな長い時間でも退屈しない本の虫。好きな映画は「男はつらいよ」。いつの日か車寅次郎と再会することを夢見ている。矢萩多聞の娘。

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