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美しいってなんだろう?

美しき「問いかけ」

人気連載『美しいってなんだろう?』が本になりました。

装丁家と小学生の娘が交わした、世界のひみつを探る13の対話。
書き下ろしを3編を加えて5月末刊行です。
ぜひ書籍でもお楽しみください。


 娘があと数ヶ月で、九才になろうとしている。十八才をひとつの区切りと考えるならば、九才はちょうどおり返し地点。ついこのあいだ生まれたと思っていた赤ん坊が光の速さで育ち、川をとび野山をかけ、ずいぶん達者に喋るようになった。自分でくつしたをはき、ころげることもなく自転車にのる。うどんをゆでて食べ、一日何冊も本を読み、ぼくがつまずいた九九の六の段をすらすらそらんじてみせる。

 

 自分が九才のときって、どんな風だっただろう。一九九〇年といえば、両親とともにネパールを旅したときだ。これがはじめての海外旅行だったが、ほそい路地の多いカトマンドゥは居ごこちがよく、おおらかでなつっこい人たちにふれ、子どもながらに、ああ、ぼくは生きてていいんだ、とおもった。

 

 あのみじかい旅を境に人生のかじとりが一八〇度変わった、とは思わない。だが、ゆるやかに潮目が変わったことはたしかだ。

 娘があのころの自分とおない年になる。彼女を見ていると、手におえないほどおおきな物語に、よわよわしく立ちすくむ、幼き日の自分の姿と重なる。歳月は右から左へすぎさるものではない。時間は燃え尽きることのない蚊とり線香のように、うずまき状に進んでいる。

 樹木が年輪を重ねるように、三十九才のぼくのなかには、九才のぼくがひそんでいて、いつでも出会いなおすことができる。ことあるごとに、子どもはそのことを教えてくれる。

 

 「美しいってなんだろう?」

 ふいに娘がたずねる。どうして、絵や文字を書くのがうまい子と下手な子がいるのだろう。なんで、チーターのように走り、魚のように泳げる子とそうでない子がいるのだろう。だれかれかまわず女子にブス! という男子がいる。お気に入りの服がどろでよごれるのはイヤなのに、コケも花も虫も石も、みな美しいものは、どろのなかにうずもれて生きている。

 矢つぎばやにくりだされる問いかけに、ぼくは足を止めて、考えて、ろくな答えもだせぬまま、「あなたはどうおもう?」と聞きかえす。

 

 美しいもの、美しいもの、と口のなかで反すうして、思いうかぶのはインドの風景だ。それもなんてことのない日常のワンシーンばかり。

 落書きの文字、かみタバコであかく染まった壁。毎朝、玄関先に描かれふみつけられる文様。つぼを頭にのせ牛乳を売り歩く女性たちの背すじ。オートリクシャー運転手のくたびれた肩ごしに流れていく街の風景。ココナツ売りの見事なナタさばき、やわらかい果肉をこそげとる手わざ。水牛のそそり立つ角。パローターの生地を丸める食堂の兄さん。鉄なべで塩豆を炒る音、ヤシから実が落ちる音、花売りがぷつんと花輪の糸を切る音、ちり紙交換屋のよび声……路上は音に満ちている。

 ぼくはインドの「美しさ」にひかれたのだとおもう。美しいものは、ときにはみにくく、ざんこくである。とりとめがなく、たよりなくもある。おしゃべりであり、無口でもある。若さであり、老いでもある。身近なところに隠れているのに、手をのばせばけむりのように消えてしまう。ことばにしたとたんに、まったくちがうものに変わりはてる。

 いまぼくは、流れゆく雲のようにあてどもないものを書こうとしている。

 それでも、忘れえぬ美しいの光景をあらためて書きとめ、娘とともに「美しいってなんだろう?」ということを考えてみたい。

 

 子どものころ、手におえないとおもっていたおおきな物語は、えたいの知れない怪物ではなかった。目のはしから流れていってしまう、ささいなものたちによって、わたしたちの物語はつむがれているはずだ。それだけを道しるべに、ここから「美」をめぐる対話をはじめようとおもう。

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著者略歴

  1. 矢萩 多聞

    画家・装丁家。1980年横浜生まれ。9歳から毎年インド・ネパールを旅し、中学1年生で学校を辞め、ペン画を描きはじめる。1995年から南インドと日本を半年ごとに往復し個展を開催。2002年から本をデザインする仕事をはじめ、現在までに600冊を超える本を手がける。2012年、事務所兼自宅を京都に移転。著書に『本とはたらく』(河出書房新社)、『本の縁側』(春風社)、『インドしぐさ事典』(Ambooks)、共著に『タラブックス インドのちいさな出版社、まっすぐに本をつくる』(玄光社)、『本を贈る』(三輪舎)がある。http://tamon.in

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