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進化生物学者がイヌと暮らして学んだこと

キクマルが来る

【書籍になりました】
2021年11月19日刊行!『人、イヌと暮らす 進化、愛情、社会』
単行本化にあたり、加筆修正を行い、改題しました。ぜひ書店で手にとってみてください。

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 2002年、両親と一緒に暮らしていた家から、夫の勤める東京大学駒場キャンパスの近くのマンションに引っ越した。そのころ、私は早稲田大学政治経済学部に勤めていたが、2004年、東京大学農学部獣医学科で集中講義を頼まれた。そのとき、当時そこで助手をしていた菊水健史先生から、「うちのスタンダード・プードルに子どもが生まれるのだけれど、1匹いかがですか?」と声をかけられたのである。

 そのときは、まだコテツの喪中という感じであったし、ずっと自分たちは「ネコ人間」だと思い込んでいたので、イヌにはあまり関心がなかった。ところが、5月24日に「生まれました」というメイルとともに写真が送られてきた。可愛い、白い子犬(雄)がうずくまっていた。それを見たとたん、私は一目惚れしてしまい、「もう、あかん」と夫にメイルした。すると、夫も「わいもや」という返事。こうしてあっという間に、スタンダード・プードルを飼うことになってしまったのである。

 ところで、私たちは二人とも、東京生まれの東京育ちである。私は、小さいときに数年、和歌山県の紀伊田辺で過ごしたことがあるので、関西弁はできる。が、私の本来の言葉は東京弁である。夫は関西で暮らしたことはないので、まったく関西弁はできない。しかし、漫画の「じゃりん子チエ」の影響を受けて、私たちは、ときどき妙な関西弁を使うことがある。また、そのころ、内田かずひろ氏の「ロダンのココロ」という漫画にも惚れ込んでいたが、この主人公のロダンというイヌは、博多弁(?)を話すのである。そういうわけで、私たちの会話の中には、ときどき、へんな関西弁が混じる。

 さて、獣医である菊水先生は、生まれてから3ヶ月は、しっかりとイヌのお母さんに育ててもらうという方針なので、5月24日から3ヶ月がたった8月の末ごろ、渋谷の富ヶ谷のマンションに子犬が来た。名前は、キクマル。菊水先生のところから来たのでキクマルなのではない。駒場の先生の誰かが昔飼っていたネコの名前がキクマルだと聞いたことがあった。そのとき、とてもいい名前だと思ったので、うちのイヌの名前に採用したのである。

 ペット・ショップでは、とても小さな子犬でも買えることがある。小さな子犬は、それは可愛いものだが、やはり、イヌはイヌの親に育ててもらい、しつけてもらわないといけない。そうでないと、イヌどうしの社会関係の基本が身に付かないし、飼い主である人との関係にも支障をきたす。今度から法律で、8週齢以下の子イヌ、子ネコを販売してはいけないことになるそうだが、それは当然である。

 菊水先生のところのスタンダード・プードルは、雌がアニータ、雄がコーディと言って、ともに、アメリカの血統書つきのイヌだった。これが、キクマルの両親である。アニータはアンズ色、コーディは真っ黒だが、生まれた子犬は白が多く、キクマルも白だ。キクマルのきょうだいは全部で8匹。子犬たちは次々ともらわれていき、キクマルは最後に残った1頭だった。最後までお母さんのアニータに甘えて暮らしていた。うちに来たときは、生後3ヶ月でまだ小さいとはいえ、すでに体重7.8キロだった。

2-1きょうだい
生後2ヶ月のキクマル(左下)ときょうだいたち(撮影:菊水健史先生)

2-2両親と
キクマルと両親(撮影:長谷川寿一先生、以下同)

 キクマルは、菊水先生の家から夫の車に乗せられて、富ヶ谷のマンションにやってきた。しかし、その時、私は一緒ではなかった。富ケ谷から早稲田に通うのがなんとも遠回りで不便なので、もっと早稲田に通いやすい二番町に小さなマンションを購入したのである。それから数年間、私は富ヶ谷と二番町との2カ所をめぐる暮らしをしていた。

 初めてキクマルと会ったのは、9月の始めごろに、私が富ケ谷のマンションに帰ってきたときだ。キクマルは、当時はまだ小さかったのだが、それでも、初めて見るととても大きくてきれいな子だった。スタンダード・プードルの子犬は、始めは脚が短いのだが、どんどん長くなる。事実、キクマルは見る見る大きくなり、最終的に体高69センチ、体重25.5キロになった。後ろ脚は本当に長く、優雅な歩き方をする。性格はおとなしく、人間でもイヌでも、誰に対してもやさしかった。

 毎日のご飯もお散歩も夫がめんどうをみているので、キクマルにとって、夫は完全に「ご主人」である。一方、私はと言えば、ときどきしか富ケ谷のマンションに来ない。私も、ご飯をあげたり、お散歩に連れて行ったりもするのだが、その比重は夫とはずいぶん違う。あのころのキクマルは、まだ1歳前の子どもだったから、遊び盛りだった。どうも、私をただの「友達」だと思っているらしく、よく、両腕を前に放り出してからだを低くし、遊びに誘う動作をする。

 ある日、夫がいなくて私とキクマルの2人だったとき、仕事をしている私に対して、キクマルがまた遊びをしかけてきた。私は、これはちょっと困ったものではないか、こんなに遊び仲間だと思われていてよいものか、と考えた。これから長いつきあいが始まるのだから、私は夫と同じく「ご主人」の立場であることを示しておかねばならないのではないか。

 そこで思い出したのが、もう何十年も前に読んだ、コンラート・ローレンツの著作である。ローレンツは、動物の行動を研究する学問である動物行動学の元祖の一人であり、1973年に、カール・フォン・フリッシュ、ニコ・ティンバーゲンとともに、ノーベル生理学・医学賞を受賞した。動物行動学という新しい学問分野を設立した貢献での受賞である。

 フォン・フリッシュはドイツの研究者で、ミツバチが蜜の在りかを見つけると、巣に帰って、8の字ダンスを踊ることで、その距離と方向を仲間に伝える、という発見をしたことで有名だ。この例は、高校の生物の教科書にも載っていることが多い。

 ティンバーゲンはオランダ出身の研究者で、英国のオックスフォード大学の教授になった。彼は、おもにセグロカモメの研究で有名である。セグロカモメの親のくちばしの先には小さな赤い点がある。ヒナはそれを見ると親だと思い、その赤い点をつつく。すると、それに反応して親がヒナに餌を与えるのだ。たとえ、親の顔とそっくりの模型を見せても、くちばしの先に赤い点がなければ、ヒナは餌ねだりをしない。逆に、かなり雑な模型でも、長いものの先に赤い点があれば、ヒナはそれをつついて餌ねだりをする。つまり、ヒナは親の全体像などを理解しているわけではなく、「長いものの先の赤い点」というのが鍵刺激となり、餌ねだり行動を誘発しているのだ。この研究も、高校生物の教科書に載っている。

 ローレンツはオーストリアの研究者で、彼は、たくさんのおもしろい研究をした。卵からかえったばかりの水鳥のヒナが、最初に見た動くものを「親」と認識し、そのものについて歩くという「刷り込み」行動の研究が有名だろう。彼の家はオーストリア郊外の広大な敷地にあり、森も湖もある。そこで、子どものころからいろいろな動物を飼って研究してきた。卵からかえって初めて見た動くものがローレンツであったハイイロガンのヒナたちが、ローレンツの行くところにはどこにでもついて行き、彼が走れば彼らも走り、彼が湖に飛び込むとヒナたちも湖に飛び込む、という有名な動画が残されている。

 1974年に、夫は東京大学の文学部心理学科へ、私は理学部の生物学科へと進学した。その前年がローレンツたちのノーベル賞であり、駒場の教養課程で最後にとった授業で、新分野である動物行動学のことを知った。私たちは、さっそくローレンツらの本を買って読みあさった。どれもとてもおもしろかった。その中の一つが、ローレンツの『ソロモンの指環』である。その中に、このハイイロガンたちが屋敷の庭を我が物顔に歩き回り、ローレンツの奥さんの菜園を荒らす話が出てくる。

 おとなのハイイロガンは、翼を広げると2メートル近くにもなるという大きな鳥なのだ。図々しくて、ちょっとやそっとでは逃げない。そこで業を煮やした奥さんが一計を案じた。大きな黒いこうもり傘をたたんだまま持って、ガンたちに近寄る。そこで、ぱっと傘を広げては閉じる、ということを素早く繰り返すのだ。これには大きなハイイロガンたちも心底びっくりして逃げていったという。

 キクマルが私を尊敬しないのでどうしよう、と考えていた私は、ある日、この話を思い出した。そして、玄関から傘をとってきて、キクマルの前でさっと開いた。キクマルはびっくりした。そこで傘を閉じる。キクマルは怪訝そうな顔で私を見る。また傘をぱっと開く。これを繰り返すと、キクマルは驚き、だんだん怖くなり、しり込みしながら廊下を洗面所方面に退却した。私はそれを追って、傘の開け閉めを繰り返す。とうとうキクマルは、尻尾を巻いてお風呂場にすわり込んでしまった。これで、私の勝ち。

 当時の私は、まだイヌというものがよくわかっていなかった。今思えば可愛そうな気もするが、さいわい、キクマルはこれで性格がねじ曲がることもなく、それ以後も良い子に育ってくれた。では、私のことを「尊敬するように」なったかと言えば、そうでもない。やはり「ご主人」の地位は夫だけのものであり、それはゆるがず、一生変わらなかった。

 イヌにお散歩はつきものだが、スタンダード・プードルのような大型犬は、とくに運動量が多く、長いお散歩が欠かせない。富ケ谷のマンションの近くには、代々木公園がある。ここは、大変に広い公園で、朝早くに大型犬の飼い主さんたちが集まって、イヌを遊ばせていた。そこで、うちのキクマルも、毎朝6時ごろに公園に行って散歩するのが日課となった。東京の真ん中なのに、こんな場所があって本当に幸せなイヌだ。

 代々木公園では、たくさんのイヌたちと友達になり、飼い主さんたちとは「イヌ友」になった。みんな近所に住んでおり、こうして私たちの生活も大きく変わることになった。

2-3キク3歳あくびをするキクマル(3歳) 

長谷川眞理子さんの連載は毎月第2金曜日に更新予定です!

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著者略歴

  1. 長谷川 眞理子

    総合研究大学院大学学長。専門は行動生態学、自然人類学。野生のチンパンジー、イギリスのダマジカ、野生ヒツジ、スリランカのクジャクなどの研究を行ってきた。現在は人間の進化と適応の研究を行なっている。著書に『クジャクの雄はなぜ美しい?』(紀伊国屋書店)、『進化とは何だろうか』(岩波ジュニア新書)、『ダーウィンの足跡を訪ねて』(集英社)、『科学の目 科学のこころ』(岩波新書)、『世界は美しくて不思議に満ちている ―「共感」から考えるヒトの進化』(青土社)など多数。

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