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スペシャルトーク「教養としての音楽」 @梅田 蔦屋書店

スペシャルトーク「教養としての音楽」中編 @梅田 蔦屋書店

引き続き、2019年5月12日に梅田蔦屋書店で行われた『音楽と出会う』の刊行記念トークイベントの様子をお届けします。

岡田先生の切れ味の鋭すぎるトークとそれを優しく受け止める藤原先生のとても穏やかな雰囲気を少しでも味わっていただければ幸いです。

前編はこちら

ポストモダンを象徴するような本屋といったら、池袋のパルコ

岡田:さっきの教養バブルの後に来たのがポストモダン時代。日本でいえばバブルの時代。あの頃から、ポストモダンを象徴するような本屋といったら、池袋のパルコですよね。池袋のパルコはご存じ?

藤原:わからないです。

岡田:西武池袋の百貨店の一番上の、洋書とかも置いていた本屋です。セゾングループの総帥で詩人でもあった堤の兄が特別につくらせた。浅田彰世代にとっては聖地のような本屋で。ちょっと気の利いたサブカルから、高い文化から、非常にセンスよく集めて、しかも隣にはおしゃれな喫茶店を隣接させる本屋やった。

藤原:蔦屋書店と似ていますね。

岡田:似ている。というか、やっぱり絶対にモデルはセゾングループのあれやったと思うよ。自由に本を読めるようなスペースをつくるとか、こんな風にディスカッションが出来るスペースをつくるとか、そういう発想は全部あの西武池袋のてっぺんのあの本屋が原点だったはず。誰かあの本屋の名前を覚えてらっしゃる人はおられません?

(会場から)リブロじゃないですか。

岡田:そうそう、リブロ。あの時代はまた独特の教養商品のあり方というのがあって、そういうところに来る女子というのは、なにかかっこいいんですよ。いきなりこんなことを言うと、キョトンとされるかもしれませんけれども、取りあえず伏線として覚えておいてください。とにかくリブロとかにたむろしている若い女性たち。おしゃれな隣の喫茶店で物憂げな顔をしてフランス語の本を読んでいる女性たち。フランス語のゴダールの映画の批評集みたいなのを開いているいい女、という人たちがいたんですね。

東京の人だったら、たぶんわかると思うんですね。田中康夫の小説に出てくるようなタイプです。

そういう女性が実は教養というものに果たしていた役割というのを、この本(『音楽と出会う』)で書いたんですね。ちょっと昔話になりますけれども、それが私どもの青春時代でございました。要するにまだ教養というのが生きたものとしてあったわけですね。

藤原:ところが、という話ですね。

岡田:ところが、就職した30歳すぎぐらいからだんだん様子が違ってきて、何かがおかしくなって、「文化」が細って、細って、ハッと気が付いたときは、全然違うところに来ていた。

教養というものが実学だった時代

岡田:ものすごく日常的な次元の例を出せば、今では想像が難しいでしょうが、クラシック音楽とか映画とかいわゆる「教養」に詳しいというのが、例えば異性にアタックする条件だったりしたんですよ。

藤原:クラシック音楽とかを語ることが?

岡田:そう。あるいはそれプラス、ジャズについても語れます、歌舞伎についても語れます、だったらもう万全。教養というものが実学だった時代というふうに私は思っています。

たぶん今しきりにいわれるコミュニケーション力とか、あの手のものは、かつてはまず異性との交際が最初の大きなイニシエーションの場になっていたところがあった。いかに知らない異性と相互理解を深めていき、相手に好意をもってもらうか。何を話題の糸口とするか。そういうときに教養の出番になる。

藤原:口説きの実学?

岡田:例えば田中康夫さんの小説なんかで描かれている世界がその見本です。小説や映画は恋愛指南書、人生指南書として受容されてきたところがある。教養は実学だった。実学としてある種の社会的影響力を確実にもっていた。SNSなどで異性とのつきあいがかつてと比べて格段に「お手軽」になったこと(だって相手の家の固定電話に電話をかけて、先方の父親が電話口に出たりして慌てふためくなどということも経験しないで済むわけですから)なども、存外「教養」衰退のきっかけになっているんじゃないかなどと思うことすらあります。

相対化するというのがとても重要なこと

岡田:いうまでもないですが、小説や映画をはじめとする「教養」の類は、社会勉強という名の実学であると同時に、「別の世界に遊ぶ」ということの楽しみを教えてくれるものでもあります。翻って、私が何より怖いと思うのは、現実世界だけが世界の唯一の可能性だと思ってしまうということなんですよ。世界の他の可能性に思いを馳せることが出来ないという。

藤原:それは僕もそう思います。

岡田:やっぱり相対化するというのがとても重要なことだと思います。

藤原:大切ですね。この本を読んでいて、岡田さんがこの領域に踏み入ってきたのかという驚きもあったんですけれども、一方でとてもうれしかった。

岡田さんが浦島太郎状態になったという環境は、例えばYouTubeとか、インターネットもそうだし、SNSとかもすでにいろいろなコミュニケーションですよね。現在はそれらによって商売も、恋愛も、仕事もなんでもできる。

岡田さんと私はたぶん十何歳ぐらい違うんですけれども、やっぱり僕のほうが、そういうものに小さい頃から囲まれて暮らしてきたので、私の違和感はたぶん岡田さんよりも低くて、なじみもある。なじみはあるんだけど、いまだにどこか気持ち悪い。そこに、岡田さんがついに踏み込んできたことが、私はすごくうれしかった。

敵、というか浦島太郎状態にしてしまったアイテムたちと環境について、岡田さんはどう考えていますか。

岡田:現在、われわれの分野で「売れ線」というと、AIと、もう1つが教養なんですよ。リベラルアーツと言い換えてもいい。教養ブームというか。「教養としての○○」みたいなタイトルを付けたら、今はすごい売れるんですよ。もう一方で、「AIはここまで来た」みたいな本もすごい売れるんですよ。皆さんはこれをどう思われますか?という話です。

藤原:聞きたい。今日の一番大事な議論。

岡田:この2つはセットだと僕は思っています。恥ずかしながら僕の『クラシック音楽とは何か』(小学館)という本も、結構売れているらしい。たぶんこれも「教養ブーム」の波にうまく乗っけてもらったんじゃないかなと。大学の教養部が姿を消し、大学教育が実学一辺倒になり始めてもうずいぶん時間がたちますが、他方で今こんなにもリベラルアーツがブームになっている・・・。

藤原:これは、なんなんでしょうね。

岡田:要するにこのAIブームと教養ブームの2つはセットなのではないでしょうか。

AIブームは、シンギュラリティーといって、もうすぐ人間はロボットに取って代わられるぞ、人間なんていらんようになるぞ、とあおり立てるわけです。「お前らはそのうちリストラされるぞ」ブームとすらいえるかもしれない。

そうなったときに「人間力を高めなあかん」=「ほな、教養があったらええんやろか」となるのが僕の見立てです。

「教養がある人間は失職しません。絶対に大丈夫です」という場合の「教養」は、結局のところ、私の世代の男子どもが若い頃の苦い恋愛の数々を通して身につけることのできた人間への洞察とか、簡単にいえば「生きる知恵」ぐらいに言ったらええですかね。生きる勘とか、直感みたいなものがちゃんと生きている人間。結局AIでできる仕事というのはなにかといったら、アルゴリズムに落とせる仕事なんですよ。でもこの生きる勘みたいなものというのはなかなかアルゴリズムには落とせない。

教養はAIで代行できない人間らしさというものを、なんらかの形で養ってくれるという側面はある。ただし、これも強調しておきたいんですが、それが「教養としての美術史」なんて本を読んだり、あるいは「ここがすごい、ハーバードのなんちゃら教養、リベラルアーツ」みたいな本を読んだら教養が身につくという話になると少し困る。教養本を手に取ったら教養人になるというのはエセ教養主義だろうとも思うわけです。

藤原:来てくださった皆さんが、今日手に取っていたらすみません。

岡田:それはわれわれの責任でもあるのかもしれない。なにか教養を身につけたいと思っても、われわれ人文系の学者が「そういう啓蒙本は、私は書きません」みたいな、お高く止まったポーズをし過ぎてきた側面があるからね。

藤原:それは反省を迫られますよね。

さっきの、AIブームと教養ブームはつながっているというのは、とても面白い視点だと思います。裏表だというのは、僕も岡田さんに言われて、ハッとしました。私が本屋をぐるぐる巡っていて思うのは、「毎日これを読めば世界史の教養が身につく」、つまり毎朝5分、10分、これを読めば教養が身につきますよ、とうたっているのが多いんですよね。新聞や電車の広告では、必ず(40歳男性)とかが「こんなにも早く教養が身につくなんて」みたいな感想が書いてありますよね。ある意味、サプリメントのように、毎日、薬を飲めば鉄分とビタミン補給できます、みたいな。そういう教養書というのが多いですね。

もう1つ理由を付け加えるとしたら、最近、サラリーマンの方は海外に行くことが多くなっていますよね。海外に行きますと、当然英語が求められますけれども、皆さん英会話を習って、ペラペラでしゃべれるようにはなっている。だけど試されているのは実は英語力だけではないんですよね。むしろ英語力ではなくて、モーツァルトとか、絵画の話とか、歴史の話が、ビジネストークの中でも絶対に出てくる。

特に歴史学なんて、例えばドイツに行って、ナチスの過去を知らないと、話がすごく薄っぺらくなっちゃうんですよね。そういう意味で、海外出張のときのビジネストークで、英語が流暢なだけに、逆に徹底的に向こうのビジネスマンに教養の浅さを晒してしまうような、そういうのもあるのかなと思っています。

岡田:それはありますよね。だってアメリカの大学なんて、めちゃくちゃリベラルアーツ教育をやりますから。ただ向こうのビジネスマンがモーツァルトだのゴッホだのをよう知っているというのも、考えてみたら、擬似教養主義といえなくもない話です。要するに「私は労働者とはちゃいます」と言うているわけです。私はエリートサラリーマンですと。向こうのエリートサラリーマンのエリートの概念というのは、「あのオペラはいいよね」みたいな話題を知っているか。

イギリスは階級社会で、どういう英語をしゃべるかで階級がわかるという、あの感覚ですよね。自分より下の階級の人間とはお話ししない。クイーンズイングリッシュをエリートは話すもの。だから、それはかなり嫌味なものではあるんですけれども、ただ、そういう経験を通して、日本のビジネス界でも、「とにかく教養がないことには最後の一歩が攻略できへんみたいや」と思ってもらうのはいいことかもしれません。

次回へ続きます!

『音楽と出会う』「はじめに」を公開中!

本書の「はじめに」をホームページで公開中です。
今回のトークイベントの原点です。是非ご覧ください。

はじめに

今回のイベントは梅田 蔦屋書店様にご協力いただきました

今回のイベントは梅田 蔦屋書店で1年ほど前からスタートしている、「読書の学校」という取り組みの中で実現しました。熱い書店員三砂さん、いつもありがとうございます。

「読書の学校」とは梅田 蔦屋書店と出版社16社が連携し、新たな視点で読み応えのある書籍を掘り起こして魅力を発信していく取り組みです。隔月でリーフレットを作製し、特定のテーマに基づいて各社がお薦めの書籍を紹介。毎月その選書にちなんだトークイベントを行っています。

梅田 蔦屋書店

〒530-8558
大阪府大阪市北区梅田3-1-3 ルクア イーレ9F

HP:https://store.tsite.jp/umeda/

Twitter:https://twitter.com/umetsuta

 

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著者略歴

  1. 岡田 暁生

    1960年京都生まれ。音楽学者。京都大学人文科学研究所教授。専門は19世紀から20世紀初頭の西洋音楽史。おもな著書に『音楽の聴き方』、『西洋音楽史』、『オペラの運命』(以上、中公新書)、『リヒャルト・シュトラウス』(音楽之友社)、『すごいジャズには理由がある』(共著、アルテスパブリッシング)がある。

  2. 藤原 辰史

    1976年、北海道旭川市生まれ。島根県奥出雲町で育つ。2002年、京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程中途退学。博士(人間・環境学)。京都大学人文科学研究所准教授。専門は農と食の現代史。著書に、『ナチス・ドイツの有機農業』(柏書房、2005年/新装版2012年/第1回日本ドイツ学会奨励賞)、『カブラの冬』(人文書院、2011年)、『ナチスのキッチン』(水声社、2012年/決定版:共和国、2016年/第1回河合隼雄学芸賞)、『稲の大東亜共栄圏』(吉川弘文館、2012年)、『食べること考えること』(共和国、2014年)、『トラクターの世界史』(中公新書、2017年)、『戦争と農業』(集英社インターナショナル新書、2017年)、『給食の歴史』(岩波新書、2018年/第10回辻静雄食文化賞)、『食べるとはどういうことか』(農山漁村文化協会、2019年)、『分解の哲学』(青土社、2019年/第41回サントリー学芸賞)、『縁食論』(ミシマ社、2020年)、『農の原理の史的研究』(創元社、2021年)、『植物考』(生きのびるブックス、2022年)などがある。

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