『音楽と出会う』はじめに
はじめに
子供時代から音楽を聴くことは大好きだった私だが、いつのまにか音楽との「出会い方」がかつてとまったく変わっていることに、最近はたと気がついた。今から半世紀近く前、私は音楽といったいどんなふうに出会ったか? それはピアノのお稽古であり、クラシック音楽好きの父が書斎で聴いていたレコードであり、同じく父が読んでいた音楽雑誌を通してであった。やがて十代後半になって音楽熱がますます高じると、演奏家になるのは無理としても、何かしら音楽と関係のある仕事がしたいと考えるようになった。そして最初はレコーディング・エンジニアや音楽マネージメント業などにも憧れたのだが、結局、研究/批評を生業とする今の仕事に落ち着いた。
こうやって振り返ってみると、この半世紀近くの間に、音楽との出会いのモードが一変したことに、あらためて驚かされる。私にとって「ピアノ教室」と「父の書斎のレコード・コレクション」と「音楽雑誌」なくして音楽との出会いはありえなかったわけだが、今やピアノを習い事とする子供の数は激減し、レコード・コレクションなどという趣味はほぼ消え去り、情報源としての音楽雑誌はネット検索に取って代わられた。ネット動画を通勤電車の中で聴くのが当たり前になり(「レコード・プレーヤーの前に座って聴く」などという習慣は、多くの若い人には想像することすら難しいだろう)、音楽教室に通わずとも一人部屋にこもり、パソコンによって作曲・演奏の少なくともまね事をすることが不可能ではなくなっている。
私はときどき、同じ「音楽を聴く」といっても、あの頃とぜんぜん別のことを自分がしているのではないか、かつてと同じ曲の同じ録音を聴いているときですら、知らぬ間に中身はぜんぜん別物になっているのではないかという妙な感覚をおぼえることがある。おそらく音楽の歴史において、この数十年の間に、百数十年前の録音メディアの登場にも比すべき劇的な変化――それを境に何もかもが一変してしまうような歴史の亀裂――が生じていたのだ。これだけドラマチックな歴史の転換点に居合わせる機会は、そうあるものではあるまい。この本でとりあげたテーマの多くは、前世紀にあって私が夢にも想像しなかったようなことがらである。その中には、自分が「ついていけない」と感じているものも多い。ではなぜそういうものもあえて取り上げたかと言えば、前世紀に育った自分が浦島太郎になっているかもしれない、まさにそういう状況こそが、二一世紀に固有の音楽現象にほかならないと考えたからである。
AIに自動作曲をさせようとする科学者たち。日本酒にモーツァルトを聴かせて発酵させる試み。「パーティー用」「元気を出したいとき用」「眠れないとき用」といった指標を貼られたネットによる音楽配信。ネット動画の空間を永遠に流れ続けるありとあらゆる音楽録音。アプリによる作曲とボカロとヴァーチャル・アイドル。ほとんどそれ自体が病的と思えるほどの「癒し音楽」ブーム。三十年前ならこれらはSFの世界だっただろう。誰かが「二一世紀の音楽はこうなる」などと預言をしたとしても、「まさか……!」と一笑に付されたはずだ。私は右に挙げたような潮流の行方に対して楽天的にはなれない。しかし同時にそれらを面白いとも思う。一種の怖いもの見たさである。
かつて第一次世界大戦中に書かれた『非政治的人間の考察』においてトーマス・マンは、ゲーテの「全生涯を通じて自分の足下に同一の文化的基盤を、同一の思想的基盤を感じておれる人は、幸福だといわねばならない」という言葉を、深い共感をもって引用した。マンは一八七五年生まれであるが、自分が依って立ってきた文化的社会的基盤を大戦によって木こっ端ぱ微み塵じんにされた自らの運命を、フランス革命の「前」と「後」を横断して生きざるをえなかったゲーテのそれに重ね合わせたのである。
以前の私は、こんなふうに人生の中で世界の風景が一変してしまう亀裂を体験する/体験できるのは、ゲーテやマンのような歴史上の偉人だけであり、こうしたドラマチックな時間の裂け目は自分のような凡人には一生無縁だろうと、漠然と考えていた。「そのとき歴史が動いた」式の、世界が一変するような体験は、偉人伝のヒーローにこそふさわしいフィクションなのであった。しかし最近になって、どうやら自分もまた、SF映画のワープのようにして、言ってみれば何万光年も離れた別の音楽世界に連れてこられたらしいと確信するに至り、あえてこの未来音楽を思い切って覗いてやろうという気になってきた。
本書の書き方は一見したところずいぶんと反時代的に見えるかもしれない。前世紀育ちの人間として私は、今世紀の状況に対し、「あえて」批判的なポーズを強調してみたわけである。ただし「昔はよかった、昔に戻ろう」などと言いたいわけではない。どんなに過去を懐かしもうと、何かは確実に容赦なくますますエスカレートして、行くところまで行くであろう。むしろ私は本書を、「前世紀に生きていた音楽好きが、この三十年くらいをすっ飛ばして、いきなりタイムマシンで二一世紀の現代に連れてこられたとしたら、今の音楽状況がいったいどんなふうに見えるだろう?」という、少々SF的な好奇心でもって書こうと思った。それは、「今」において「当たり前=永遠に変わらない」と思われていることが、数十年もたてば一変するということを、思い切り強調したかったからである。しかしまた、どれだけ音楽を取り巻く環境が激変しようとも、人間が人間である限り変わらないだろうことがらもあるだろう。そういうものを私は大事にしたいと思う。
たかだか三十年程度で音楽はこんなにも変わる。ならばこの先にどんな音楽との出会いが待ち受けているのか。私たちが今「音楽」と呼んでいるものが、五十年後、百年後、あるいは五百年後にいったいどのようなものになっているか。ジョージ・オーウェルの未来小説『一九八四年』ばりの地獄郷を想像して戦慄するのも一興だ。本書が音楽との出会いの未来形を大胆に想像するきっかけとなれば幸いである。