スペシャルトーク「いま、あたりまえの外へ」後編 @青山ブックセンター本店
絶好調で四刷に進んだ『文化人類学の思考法』。本当にありがとうございます。
前回に引き続き4月20日に青山ブックセンター本店で行われた本書の刊行記念トークイベントの様子をお届けします。
文化人類学者の松村圭一郎さんと『WIRED』日本版前編集長の若林さん。お二人の見つめる世界を少しでもお伝えできれば幸いです!
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答えは提供できないけれども、答えに至るための道筋が書いてあります
若林:答えがあるということを、うのみにし過ぎなのかもしれないです。特にビジネスサイドの人たちに多く会うようになって、「答えがあるってことをなんで、みんな信じてるんだ?」って、けっこう衝撃だったんですよね。答えのない世界と向き合っているんだという感覚がないんですよね。
松村:私も大学に入学したての学生たちに、なぜ大学が入学試験のようなテストをやるのか、説明することがあります。それは単純で、点数をつけて並べるため。〇か×か点数をつけるには答えが1つの問いしか作れないわけです。入試問題を作るとき、答えが2つあるような問いがないか、かならずチェックします。2つの説がある、とか答えが定まらない問題は出せないわけです。
でも世の中には答えのない問いのほうが多くて、学問ってそっちをやるものなんですね。答えが出て明白だったら、別に研究する必要もない。
問いやその答えが1つに定まることを前提にしない大学が、受験では答えが1つしかない問題を解かせるって、シュールな状況ですよね。受験勉強の姿勢のまま社会に出てしまうと、それがリアルだと思ってしまう。
若林:本当にそうですね。やっぱりビジネスは複数の選択があって「じゃあ3つやりましょうか」というわけにもいかないので、1つを選ばなきゃいけないわけですよね。そのときに「これが正解だ」というふうにそれを選ぶのか、あるいは「正解はないんだけれども」という前提からそれを選び取っていくのかで、やっぱり思考の巡らせ方が変わってくるじゃないですか。ビジネスは失敗したとしても、なにか得られるということもある。なのに正解をみんなが取りに行く。誰かが正解を知っているはずだって、それを探しちゃうんですよね。
松村:知っているに違いない、と。
若林:思ってんですよ。だからあたしなんぞのところにまでに来ちゃう。答えを知ってるわけないじゃないですか(笑)。
松村:面白い(笑)。
若林:そうなんですよ、面白いんで、「うーん、その額だとちょっと言えないかな」ともったいつけてみたりする(笑)。
松村:(笑)。だからこの『思考法』でも繰り返し書いています。最初から「答えはないです、ごめんなさい。シンプルな答えは提供できないけれども、答えに至るための考える方法がたくさん書いてあります」と。
そもそも向き合っている問いが違うので、人によって答えはそれぞれ。「これが答えです」とか言われても当てはまるはずがないんですよ。だって生きている現場が違うんだから。われわれにはそんな安易な答えを示すことはできない。いろんなトピックに沿って考えなおすきっかけを提供しようとはしているんですけれども。
われわれもフィクションすれすれのどっちか分からないようなところを現実に生きている
松村:本の内容にも少しふれましょうか。3章の「呪術と科学」では、コラーゲンで肌がぷるぷるになるか、って例が出てきます。コラーゲンぷるぷるって、別にそれを飲んだって消化されてアミノ酸に分解されるので、コラーゲン自体は吸収されない。ぷるぷるしたものを取ったからって、ぷるぷるになるわけじゃない。
若林:に、なるような気がしちゃうんですよね。
松村:でしょ? そう信じている方も多いと思う。だからそういう製品って、わざわざゼラチンとかでぷるぷるさせたりする。でもゼラチンのぷるぷるが皮膚のほうまでいって肌をぷるぷるさせる、わけないんですよ。
若林:ぼくからすると、もうこれは科学のほうが圧倒的に間違っているんですけどね(笑)。水炊き食べたあととか、もう明らかにぷるぷるになりますから(笑)。
松村:たしかに、科学的にどこまで真実か、偽科学かみたいなのでいうと、全く偽とも言えない。立証できないレベルなんですけれども。そういうものを信じることと占いなどを信じるって実はそんな切れていない。連続している。科学とも切れていない。
なのに、たとえば占いとかおまじないを信じる人は科学的じゃないとか、アフリカの呪術とか自分には関係ない、別世界の人とか考えてしまう。
若林:意味が分かんないとか。
松村:そういうふうに切っちゃう。でも実は一緒なんですよ。君がやっていることとアフリカでおまじないをしている人は、じつはつながっているんだと。
若林:それこそ詩人のイェーツのエピソードが本の中にありましたよね。イェーツが妖精探していたときに、あるおばあさんから妖精の話を散々聞かされた。イェーツがそのおばあさんに「じゃあ妖精を信じているんですね」って聞いたら、「信じていないわよ」って答えられる。そういう距離感ってありますよね。
松村:その章も面白くて。4章の「現実と異世界」ですが、人類学者は妖術とか、実際はないだろうと冷静に考えつつ、ふと「妖術の魂」と言われる光を見て追いかけたりする。これを書いた石井美保さんもアフリカのガーナで研究をしているときに、小人を見てるんですよね。
若林:小人というのは。
松村:妖精みたいなものです。人類学者が小人を見ちゃうと、それをどう受け止めていいか分かんなくなる。
そういうあるかもしれない世界というか、完全に否定できないような幅のある現実の中でみんな生きてますよね。だからわれわれが現実と信じている、この物理的に見える世界がハードでリアルなものに固められているかというと……。
若林:そうでもない。
松村:フィールドに身を置いていると、ちょっと信じられないことに自分の体が反応してしまう。彼らと感覚を共有したり、いろんな出来事に居合わせたりすると、見えなかったはずのものが見えてしまう。
さっきのおばさんは、「まさか(妖精なんて)信じているわけない」って言った。でも「じゃあ」って帰るときに「でも彼らはおりますよ!」って言うんです。「え?」ってなりますよね。この単純に切り分けられない感じが、この章のぐっとくるところなんです。
若林:いいところですよね。
僕はUFOの話が本当に好きなんですよ。UFOも、基本的に科学的には立証できないうんぬんみたいなことで、水掛け論になるじゃないですか。だからUFOをいかに語りうるかというのは実は難しいわけです。それは存在するのか、という問いが間違っているというか、そういう感じがあるんですよね。
ユングは、それを一種の深層心理とか、そういう論点からいくわけですよね。あるいは、それを脳内現象として説明するみたいな脳科学っぽいアプローチもありそうですが、なんか面白くないんですよね。こういう話のときに脳科学にいくのって、なんかイマイチな感じがとてもするんですよ。それってどこまで行っても結果の説明にしかなってないって気がしちゃうんですよね。
あるいは心理学とかある種のフィジカリティーのところに根拠を求めていくというようなどこにもいかなさというのが、僕は本当に全然好きじゃなくて。面白さが全く分かんないんです。だからUFOって本当に難しいんですよ。
『何かが空を飛んでいる』(国書刊行会)というUFO本の傑作があります。著者の稲生平太郎さんは英文学者なんですけど、そのアプローチが僕は好きでした。UFOというものをどう語るか、そのナラティブに対するアプローチがちゃんとあるんです。とにかくUFOについてちゃんと書くのってものすごい複雑なんですよ。「それをいかに語るか」こそが問題なのかもしれません。
松村:まさに人文学的ですよね。われわれも実際には、なにが現実でフィクションか、どっちか分からないようなところで生きている。はい、脳のここが反応しましたとか見せられると、「ああ、そこに根拠がある」と思っちゃう。けれど「脳のここが光っている」で、すべての自分の感情とか認識のあり方を説明できるわけではない。人間ってどんな存在かということを考えていくと、そう簡単に「ここが光ればどうだ」みたいには言えないはずですよね。
若林:やっぱりそれは「どういうふうに他者を理解するか」、根源的にはそういう問題なんだとは思うんです。その難しさが僕がこの本を読んで「なるほどな」と思ったところなんです。「こういうふうに考えられてきたけど、ちょっと違う」とか、「こういう問題が抜け落ちている」とか更新はされていっているじゃないですか。
でもそれは「より正解に近づいている」ということとは違うのかもしれない。
松村:複数の捉え方というか、解釈の可能性が人類学の中でもいくつもあるんです。そういう考える選択肢みたいなものが示されている、という側面がこの本にはあるんですよね。
初めて見たときに何を感じたかというのって、基本的にはだから捕まえんのがすごい難しい
松村:もう1時間半もしゃべり続けてしまったので、そろそろ質問コーナーにしましょう。ぜひ何か聞いてみたい方……じゃあ一番最初に挙がった後ろの方。
質問者:学生さんのフィールドワークのお話(中編の内容)の中で、あなたが見てきたものはこんなことじゃないだろう、とやりとりをかさねていくと自分なりの言葉で表現できるようになったということなんですけど、僕もやっぱり自分が何を見たかをつかまえたいと思うんですけど、なにをどうしたらいいんでしょうか?
松村:われわれにもすぐには分かんないんです。「違う」というのは分かるんですよ。「面白いのに、そんなまとめちゃったら面白さが消えているよ」というのはすごい分かる。でもじゃあ何を持ってきたらその面白さがきちんと収まるかは、彼女にしかたどりつけないんですよ。そこでまずは自分が知らないうちにとらわれているありきたりな言葉/概念という、あたりまえの枠からいかに抜け出せるかが鍵になると思います。
若林:最初に見た印象ってすぐに上書きされちゃうんですよ。雑誌を作っているときに、デザイナーがレイアウトしてきたものを初めて見る瞬間というのはとても重要なんです。「初めて見る」というのは1回しかできないんですね。2回目に見るときにはもう上書きされている。なので初めて見たときに何を感じたかとか、どこに目がいったかとかをちゃんと把握しなきゃいけない。
それが結構難しいことなんです。しかも人は無意識的に見ていることもあったりするので。だから初めてデザインを見るときは、ちゃんと気持ちを整えて、ふーと深呼吸をしてから見るんです。「初めて見るということは1回しかできない」と強く思いながら、ばって開く。そのときに「なんか眠い感じだね」とか「あったかい感じだね」みたいな印象をちゃんと掴む。感覚的になにを受け取ったかを把握するという感じなんですけど。そういうことがとても重要なんです。
松村:それは面白い。
若林:それをよほど意識的にやらないと、すぐに言語的に理解しようというアタマが作動してきちゃう。それが結構難しいかなって思う。
松村:いや、それすごい。
若林:いい話でしょ(笑)?
われわれは1人でもいいのでリアルに出会いに行くんですよね。
松村:人類学者が1人で観察できる範囲とか、調査できる範囲って、すごいちっちゃいんですよ。統計やっている社会学者にしてみたら、サンプル数が少なすぎって言われます。でも、われわれ人間はサンプルじゃない。私と若林さんを足して2になる、ってそもそもおかしい。それぞれが1という等価な存在ではないので。100集めて100で割ったって、なにかよく分からないものにしかならないのに、それが平均的な姿になっちゃう。だからわれわれは1人でもいいので、ちゃんと「人間」に出会いに行くんですよね。
その人は例外的な人かもしれない。けれど、そもそも人生って1回きりのものなので、そこに1人の具体的な人間がいるという地点から考えを始めるしかない。その例外のほうが、マジョリティーの姿勢や考え方を鏡のように映し出しているかもしれない。もちろん出会ったらなにかがぱっと分かるわけじゃない。でもそこを思考の拠点にしていく。
若林:それは面白いなと思います。僕的にはそこにある種の客観性が宿る感じがあるんですよ。
松村:われわれは普遍性と言い換えたりしますが。具体的な1人の存在を掘り下げていくと、普遍的ななにかに至ると。それは数値的な指標で人間性を引きはがしてしまうと抜け落ちてしまう、なにか。われわれとつながっている1人の存在としての「普遍性」なんだと思います。
とっても良いお話をたくさんいただきました!
松村さん、若林さん、ありがとうございました!!
『文化人類学の思考法』の前書き部分を公開中!
トークでも話題に上がった「はじめに」をホームページで公開中です。
執筆者たちの情熱が伝わってくる名文です。是非ご覧ください。
今回のイベントは青山ブックセンター本店様にご協力いただきました
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