スペシャルトーク「いま、あたりまえの外へ」中編 @青山ブックセンター本店
絶好調で四刷に進んだ『文化人類学の思考法』。本当にありがとうございます。
前回に引き続き4月20日に青山ブックセンター本店で行われた本書の刊行記念トークイベントの様子をお届けします。
文化人類学者の松村圭一郎さんと『WIRED』日本版前編集長の若林さん。お二人の見つめる世界を少しでもお伝えできれば幸いです!
前編はこちら
前の自分には戻れないような感覚とか、変身してしまうような感覚
松村:文化人類学のフィールドワークをして、それを卒論などにまとめていくと、学生ががらっと変わることがあります。優等生的なことしか言わなかった子が、目の色が変わって、急に成長するのを目の当たりにするんです。今年の卒論で私は泣きましたよ。
若林:本当ですか。
松村:香川県の大島のハンセン病療養所に行った学生が、いっぱいいろんな方にインタビューをして卒論を書いたんです。すごくいい調査をしてるんだけど、最後のまとめがどうにも学級委員長みたいな感じなんですよ。
だから「いや、違うでしょ、君が見てきたのはこんなんじゃないじゃん」とか言って。「自分がなぜハンセン病のことに興味を持ったか」「なんでそれを卒論で問うのか」とか、そこから考えなおしてもらう。そしたら実は卒論テーマをお母さんに反対されていたりする。一般的なありきたりなメッセージを書く前に、まず自分の母親に何を伝えるかを考える。そういう自分が直面したことに向き合って言葉を紡ぎ出していくと、すごくいいものになるんですよね。私たちにも書けないような言葉が出てくる。
『思考法』を読んだだけで、文化人類学のエッセンスがわかって、そこまでなるとは思いません。けれどそういう学生たちの姿を見ていると、少しはその片鱗みたいなことを広く一般の方にも伝えられたら、と思うんです。もう1回自分なりに「あたりまえ」の殻を脱ぎ捨てて、そこからあたらしい一歩を踏みだせるような考え方を手にできたらいいなと。
私自身も、そうやって前の自分には戻れないような感覚とか、変身してしまう感覚になったことがあります。なので学生がそうやって変われると、すごく感動します。
若林:編集の仕事でも、経験が少ないとやっぱり言葉から入っちゃうんですよ。タイアップの記事とかはそれでいいんですけど。
ちゃんと現場に行って見てきた。見てきたのに自分がなにを見たかということをつかまえることができないんですよね。やっぱり言葉が先に来ちゃう。
松村:既存のどこかにあった言葉をぱっと持ってきちゃうんですよね。
若林:持ってきちゃう。いろいろゆっくり話を聞いていると、「それすごく面白いじゃん」ってなるんですが「なのになんでこんなありきたりの結論なんだよ」みたいな。
松村:ほんと、同じことを言ってますね。
若林:例えばビジネスの人で、「こういう企画をやりたいんですよ」って相談されたり、世間話の中でそういう話になったときにも、「こういう思いがあって、こういうことをやりたい」ってところまでは面白かったりするんですよ。でもいざそれを企画に落としてみるとものすごく凡庸な言葉とかフレームみたいなのが出てきて、ぶれるんですよね。
最初に自分が見たのはなんだったのかということを、しっかり、ずっと最後までつかまえておくというのは、思ってるよりも難しいですよね。
松村:そうなんですよね。フィールドに行けばいいという話じゃなくて、行ったことを自分なりに考えるということですよね。既存の言葉じゃない、自分なりの言葉で、いったん持っている言葉を捨てて新たにつかみなおす。
やっぱりそれは1つの「思考法」だと思うんです。たんに文化人類学を学んだり、フィールドワークしたりすれば身につくとかではなく。そこが絶対に重要な部分ですよね。若林さんも、いろんな業界を見られていて、それが足りていないって感じがしますか?
ちょっとなにか違うものを結び付ける努力をみんなでしよう
若林:足りていないんでしょうね。でも、それは才能とかではなく、頭の使い方の訓練だと思うんです。
世の中には細かい領域にセグメントされているものがいっぱいあるんです。どの産業もちゃんとセグメントされているわけです。その中でいろんなことが回っているうちはそれでよかったんですけれど、それが回んなくなって「さて、どうすんだ」ってときに、やっぱり全体性の中で考えなきゃいけない。
例えばインターネットが入ってきたことによって全部がつながっちゃうことがある。領域を切り出すということが実は相当困難になってくるんです。
僕の経験でいうと、ウェブサイトの中にカテゴリを作っていたんです。カルチャー、ビジネス、テクノロジーとかって。でも、アップルの記事が出てくるたんびにどこに入れたらいいか分かんなくなるんですね。全部に収まっちゃうので。
これはなかなか厄介な問題なんですね。今までは「ビジネスならビジネス誌」とか、ぜんぶ決まった産業にメディアが紐づいていたわけです。ただ、そのありようだと、ビジネス誌は、アップルをビジネスの括りでしか語れないわけです。でも、それって、アップルという会社やプロダクトの、ある限られた領域しか語っていないということになっちゃうんです。
だから本当はメディア自体も、別のフレームが必要だということに気が付くわけなんですが、そうなったときに、ある限定された領域での言葉使いだと、これはもう不十分なんですよね。なので、その領域内におけるモノの理解の仕方を捨てないといけないし、それをするためには最初に、そこでの言葉遣いを捨てないとダメなんだと思うんです。
松村:もう一回カテゴリ自体を作り直して捉えなおさないとその現象をつかめない。だから銀行業界だったらこういう考え方、こういう常識みたいなのがあって、新聞だったら経済部と政治部があって、これはどっちの縄張りみたいな・・・。でもほとんどの現象は、そもそも簡単には切り分けられない。
若林:そうなんです。分けられない。
松村:効率的にさばくために、既存のカテゴリに沿って役割分担していただけですよね。
若林:それがある時期までは一番効率も良かったんです。それって分業っていうことなので、それはそれである時期までは意味もあったんです。けれどもどの産業もそれぞれ行き詰まっていったときに、その既存の枠組みだけで見ててもどこにもいけないということをみんな感じていて、じゃあ「外を見ましょう」となるんですが、いざ外を見るといっても、そもそもの視点も言葉も元のままだから、すごく話がとんちんかんになったりするわけです。
自分は音楽業界とちょっと関わりがあるんですけれども、「コンテンツ産業はまじでもう駄目」という話になって、彼らは外を見ようとするんですが、そのときいきなり「やっぱりVRとAIとブロックチェーンですよね」みたいな話になるんですよね。音楽の業界なんだから音楽をどう外から見るか、が大事なのに、いままでの音楽の概念のなかから外を眺めることをやっちゃうわけです。なので、「お前にそれ関係なくない?」みたいな話がすぐ出てきてしまう。
それって結局外から新しいテクノロジーを導入するというだけの話で、外に出たことにはならないんですよね。
「音楽産業」っていったときにそこで想定されているのって、実はレコード会社を中心とするコンテンツ産業のことだけなんですよ。楽器産業はそことは切れてしまっているし、オーディオ業界とも微妙に切れちゃってるわけです。で、コンテンツの人たちは、案外、楽器ビジネスの世界では何が起きているか、実は知らなかったりするんです。あるいは学校の音楽の授業で何が起きているか、みたいな話も、「音楽業界」の一部でもいいわけじゃないですか。
松村:たしかに。
若林:楽器屋さんや、音楽をかけているバーやら、大学の音楽サークルや、リハーサルスタジオも含めた、音楽のエコシステムみたいなものを全体として外から見たところで、「いや、待てよ」って思いつくようなアイデアもあるんじゃないか、と思うんです。
松村:それ、やっぱりすごい人類学的ですよ。さまざまな要素を全体性のなかでとらえる、って人類学の基本中の基本ですから。
でも一方で、文化人類学自体もセグメント化しています。宗教人類学とか経済人類学、政治人類学って、たこつぼ化してきたんです。だいたいの教科書も、その枠に沿って書くんですよね
今回の本ではあえてそれをやらなかった。ちょっと違うものを結びつける努力を、みんなでしようと。自分なりのストーリーをつくり出さなきゃいけないので、なかなか難しいことなんですけれども、どこかの教科書に書いてある、ありきたりな語り方では駄目だと思って、あえてみんなで挑戦しました。
根源的に考える、ということをアウトソーシングしてしまっている
松村:最初の話に戻るかもしれないんですけれど、やっぱり自分の足元を一回疑ってみる。普通は自分の足で歩いていると思っている。でも実は社会で用意されている土台の上でただ歩いているだけに過ぎないかもしれない。じゃあどういう隠れた構造がその「歩くこと」を可能にしているかを問う。今そういうことが求められているのではないかと。
「そもそも」を問い直すって、あんまり心地いいことじゃないですよね。今まであたりまえに過ごしていた自分自身を疑う。頼ってきた足場がぱっと消えるような、一回ちゃらにしてまっさらな中に自分の土台をあらたに見つける作業をしなきゃいけない。いろんな現場に行って自分なりの言葉をつむいでいく、というのもそういう作業ですよね。
若林:そこを考えなきゃいけないとなったときに、わりと単純な話になっちゃうのも気がかりなんです。人類の歴史がいま行き詰まってるんだって思い込むと、「それ、人類史だ!」って感じで、『サピエンス全史』(河出書房新社)とかに飛びついちゃうじゃないですか。「やっぱりこれからは狩猟採集民の時代だ」みたいな(笑)
さっき言ったみたいに、自分の土台を見つけるというのは、基本的に「なるほど、これは難しい、複雑だな」と感じるところからじゃないですか。これまでの言葉やフレームでは理解ができない複雑さと向き合うというか。
松村:本当はそうですよね
若林:ものごとの「複雑さ」とか「微妙さ」をちゃんと持ち続けることって難しいじゃないですか。それをしないで、ハラリが答えだというふうになっちゃって、ハラリをインストールして「ハイ、おしまい」となっちゃうと、それはそれで一種の思考停止なのかな、と。
松村:世の中って、複雑に絡みあっているんですよね。ありとあらゆるものが絡みあっている。それに自分なりの道筋とかストーリーを見つけるって、すごい体力が要る。
若林:ですよね。大変ですよね。
松村:一番やっちゃいけないのは、やっぱり安易な答えとか安易な既存の言葉に飛びついちゃうことなんでしょうね。売れるビジネス書って、ちゃんとぱっと新しい言葉をもってくる。でもそんなビジネス業界で、いまなぜ狩猟採集民とかが出てくるのか、よく分からない。
若林:そうなんです。だからどんどんおまじないっぽく聞こえてきちゃうわけです。
松村:ふだんからふつうに狩猟採集民のこととかを語っているわれわれ人類学者も不思議に思っているんです。なんでああいう本が何十万部も売れるのか。それも今の社会の状況を映し出しているとは思うんですが。
若林:そうなんでしょうね。
松村:たぶん根源的に考える、ということをアウトソーシングしてしまっている。
若林:自分の感覚だと、「根源的に考えることが重要なんだ」というところは結構多くの人が感じ取っているように見えるんです。で、「根源的に考える、これが重要だ」っていったときに2つの方向性があるんですね。1つはやっぱり哲学をやんないと駄目だという方向に行って、なんだか根源的な感じがするので、アリストテレスなんかを読みだすパターン。
松村:まあ大事だと思いますが。
若林:もうひとつは「根源を知ろうと思ったらとにかく始原に行くのだ」って感じで、歴史に行くというパターンなのかな、と。
松村:進化の歴史とか。
若林:ですです。人類史とかってなんか根源的な感じがするじゃないですか。なんせ「全史」なわけですから。人間のすべてがそこに詰まってて、自分たちがどこからきて、ここにいるのかを解き明かしてくれそうな気がしちゃいますよね。
『文化人類学の思考法』の前書き部分を公開中!
トークでも話題に上がった「はじめに」をホームページで公開中です。
執筆者たちの情熱が伝わってくる名文です。是非ご覧ください。
今回のイベントは青山ブックセンター本店様にご協力いただきました
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