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『スポーツ・クリティーク』序章より抜粋

序章 スポーツ・クリティーク――その役割と意義

スポーツ批評の現在

 なぜ、人間はこうも飽きず、スポーツに夢中になれるのだろうか――。

 例えば、私たちの身近にあるメディアに目を向けてみても、その多くがスポーツに関する情報を日夜止めどなく発信し続けている。五大全国紙から地方紙に至るまで、新聞にはほぼ必ずスポーツ面が組み込まれているし、各テレビ局が放送する報道番組にも絶対にスポーツコーナーが設けられている。またインターネット上にも種々様々なスポーツ専門サイトが立ち上がっており、たとえ見る気がなかったとしても世界中のスポーツ情報が知らず知らずのうちに目に飛び込んでくる。このようにメディア一つに着目するだけでも、スポーツという文化が、いかに私たちの日常や社会に深く根付いているかが一目瞭然となるのではないだろうか。

 もちろんメディアだけがスポーツと密接に繫がっているわけではない。国などが定めたスポーツ政策を推進するスポーツ庁をはじめ、各地方自治体の役所にも大抵スポーツ課なるものが設置されていることに鑑みれば、スポーツは政治や行政とも不可分であるし、多くの企業がスポーツにビジネスの可能性を見出している現代においては、経済とも分かち難い関係を築いている。さらに学校では体育がカリキュラムの中に盛り込まれていることに加え、一九六〇年代にスポーツ科学という学問が確立されて以降は、多くの大学にそれ専門の学部や大学院が設置されるようにもなった。つまり、スポーツは教育や科学とも切り離すことができないということだ。しかもこのような光景が日本だけではなく、世界中の国々でも見られるのであるから、スポーツは私たちの社会にとって余程大事であるらしい。

 だが、それもそのはずである。なにせスポーツは古代にまでその歴史をさかのぼることができる悠久の文化なのだから、たかだか一世紀ほどしかこの世界に存在しない今を生きる私たちが、飽きる飽きないなどといった軽率な態度で語ってよいものではないのだろう。むしろ先人たちがそうしてきたように、私たちの社会もまた後世へと確実にこの文化を受け渡していかなければならない。

 とはいえ「文化」(culture)とは、その語源が「耕す」(ラテン語のcolere)という意味であるように、常に人が正しく手を入れ続けなければ、やがて荒廃していってしまうものでもある。当然、それはスポーツ文化とて例外ではない。よくスポーツは、「する」「みる」「ささえる」という三つの役割が社会の中で正常に機能して初めて成立すると言われる。確かに、アスリートなどの競技者を筆頭に、彼らのプレーを見て応援する観戦者や、制度と環境を整えるなどして彼らの活動を支える支援者たちは皆、スポーツ文化にとって何よりも重要な存在だ。やはり彼らの弛まぬ活動が連綿と積み重ねられてスポーツの今があるのだから、「する」「みる」「ささえる」などを通じて競技に直接関与するスポーツ界の人々こそが、この文化の担い手であることは間違いない。

 しかしだからといって、彼らさえいればスポーツ文化は安泰かというと、決してそうではない。例えば、世界のスポーツ人口は何十億人という規模に上る。世界中からそれだけの人々が参加していれば、当然日々さまざまな問題が起こる。また先にも確認した通り、スポーツ文化がメディア、政治、経済、科学などのありとあらゆる接点を通じて社会と繫がっている以上、変化の激しい社会情勢の影響を受けることになるのは必至であるし、時として時代の荒波に翻弄されることだってあるだろう。

 そうして大小さまざまに生じる問題の一つ一つと、それに対して文化の担い手たちが起こす考えや行動の一つ一つが、スポーツ文化の未来を形づくっていくことになる。文化というものは意外と繊細で脆いから、判断を誤れば将来が危ぶまれるし、反対に考え方や行動次第ではいかようにも発展させることができる。従って、スポーツの行く末は彼ら「する」「みる」「ささえる」に関わる文化の担い手たちの肩に掛かっているのだが、一方でいつでも彼らが自力で問題を克服できるとは限らないし、さらに言えば、その重責を彼らが孤独に背負い込もうとする必要もない。なぜならば、この世界にはスポーツ界で起こった出来事を洞察して言葉にする「スポーツ批評」という営為がしかと存在しているからだ。

 思えば、私たちが普段親しんでいる近代スポーツの黎明から、この文化に対する批評の言葉は紡がれてきた。日本でもおそらく最初に主たる批評の場になったのは新聞だろう。明治期の新聞をひもといてみると、例えば、野球は子どもたちの教育にとって害になるか否かを問う「野球害毒論争」が、新渡戸稲造や安部磯雄ら知識人たちの間で繰り広げられたりするなど、すでにこの頃から記者はもとより、学者や、文化人、教育者、政治家、思想家に至るまで、実にさまざまな立場の人々が鋭い批評を展開しており、驚かされる。そこから大正末期に始まり、昭和初期にかけて広く一般に愛された『アサヒ・スポーツ』(朝日新聞社)などを皮切りに、スポーツ専門雑誌が次々に創刊され、さらにラジオ、テレビ、インターネットへと批評の場は広がりを見せてきた。

 ただ、どれほど時代やメディアが移り変わったとしても一貫して批評は、スポーツ界に対して多様かつ重要な役割を果たしてきたように思う。ある時にはスポーツ界で起こった出来事を評価し、またある時には誰も知らぬスポーツ情報を広く報道する。それだけでなくスポーツ界に対して、議論すべき問題を提起したり、問うべき責任を問うて反省を促したり、見直すべき常識を再考したり、啓発すべきことを教え導いたり、歴史として残すべき事象を克明に記録したり――そうしてスポーツ批評は昔から今に至るまで、この文化のあるべき姿や進むべき道を率先して追究してきた。スポーツ文化の担い手はあくまでもスポーツ界の「中の人々」なのであるが、スポーツ批評もまたこの文化の行く末を考えるためのよすがとなってきたはずなのである。

(後略)




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【目次】

序章 スポーツ・クリティーク――その役割と意義

Ⅰ スポーツと社会を媒介する
 第1章 スポーツと社会
 第2章 アリーナの今と未来
 第3章 オリンピック批評
 コラム スポーツにおける感動の意味

Ⅱ スポーツが育む心身
 第4章 スポーツと教育
 第5章 アスリートの健康
 コラム 北京オリンピックのドーピング問題

Ⅲ スポーツを通じて哲学する
 第6章 スポーツの本質を求めて
 第7章 生きる身体との対話
 第8章 本との対話
 コラム アスリートとして経験し、研究者として叩き上げる

Ⅳ スポーツとアートを結ぶ
 第9章 スポーツとアート
 第10章 アーティスティックスポーツと著作権
 コラム フィギュアスケート界における音楽著作権管理システム改革の兆し

おわりに―ペンを持ってスポーツを生きる

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著者略歴

  1. 町田 樹

    1990年生まれ。スポーツ科学研究者。現在、國學院大學人間開発学部准教授。2020年3月、博士(スポーツ科学/早稲田大学)を取得。専門は、スポーツ文化論、身体芸術論、スポーツ&アーツマネジメント、知的財産法。主著は、『アーティスティックスポーツ研究序説』(白水社、2020年、令和2年度日本体育・スポーツ経営学会賞)、『若きアスリートへの手紙』(山と溪谷社、2022年)。第33回ミズノスポーツライター賞最優秀賞、第16回(池田晶子記念)わたくし、つまりNobody賞など、著述活動に関して数多くの受賞歴がある。また、かつてフィギュアスケート競技者としても活動し、2014年ソチ五輪個人戦と団体戦ともに5位入賞、同年世界選手権大会で準優勝を収めた。現在はその経験を活かし、研究者の傍らで、振付家やスポーツ解説者としても活動している。
    Photo:Shinotsuka Yoko

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