『愛と孤独のフォルクローレ』はじめに
今から遡ることおよそ五〇年前。南米の真ん中、ボリビアの高原地帯にある都市ラパスには、これまで大陸の誰も聞いたことがないような笛のメロディーが響いていた。
煉瓦と石畳でできたような街には、夜になると、どこからともなく若い音楽家たちが集まってきて、酒場や社交場で、彼らの音楽を演奏する。ひとつひとつは、聞き覚えがある民俗楽器の音色。しかし、聞いたこともない組み合わせ。めくるめく、自作の曲の数々。ノリやすいリズム。はじめは冷ややかにこれを聞いていた市民たちも、次第に彼らの親しみやすくもポップで新しい音楽に熱狂した。
ボリビアの村々の男たちは、とてもうまく笛を吹く方法を知っていた。だけど、かつての笛吹きたちは「音楽」を知らなかったんだ。
音楽家たちは、自分たちこそが、ボリビアの歴史で初めて「近代」的な意味での「音楽」を実現したのだと考えた。まだ、誰も聞いたことがない音楽を。とんでもなく新しいものを。自分たちにしか奏でられない何かを。彼らはそのようなものを作ろうとした。
彼らが作った音楽は、今日「フォルクローレ音楽」と呼ばれる。彼らの音楽は、世界史の中には埋もれて見えなくなっているかもしれないが、しかし、彼らが身を置く日常世界には確かなる変化をもたらした。
その時、私は確かに普遍という高みに手が届いた気がしたのさ。
それから半世紀、若かった彼らは相応に年を取った。またある者は、病気や事故で命を失った。南米の最貧国のひとつであるボリビアに生きるということは、思いがけない喜びにも、予期できない死にも向き合うということである。彼ら自身は今、皮肉なことに、自分たち自身が生み出したフォルクローレ音楽の中において、「流行遅れ」の存在になりつつある。
彼らは、今、自分たちの駆け抜けた時代を、人生を語り始める。彼らの人生のテーマを一言だけ取りあげることが許されるならば、それは「孤独」ということになるだろう。音楽家たちは、若い頃、家族にも背を向け、同じフォルクローレ音楽家たち同士の中ですら馴れ合わず、「自分」の探究を続けた。それは今、彼ら自身を縛りもする何かになっている。
お前も私の年齢になればきっと分かるさ。
本書は、私が三年半にわたり、ボリビアで聞き、時には自分自身もその中に入って経験した、フォルクローレ音楽家たちの物語を記述していくものである。彼らは、ボリビア全体にとっても激動だった時代を、とにかく軽やかに──あるいは軽薄とすらいえるかもしれないほどの軽さで──駆け抜けた。その軽快で、明るい「愛」と「孤独」を書くのが本書の目的である。
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私が、ボリビア・フォルクローレ音楽に初めて関心を持ったのは、日本でCDを聞いたのがきっかけだった。民俗楽器の笛や弦楽器の特徴的な音色、「もの悲しい」メロディーライン、独特のリズム感。そうした特徴を持つフォルクローレ音楽に惹かれ、私は遠いアンデスの大地をイメージしつつ、手当たり次第に曲を聞くようになった。CDのアルバムに付されたアンデスの先住民とおぼしき人の写真を見ては、アンデスの山々に思いを馳せていた。当時聞いていた曲の中で最も好きだった曲の中に「ワヤヤイ(Wa Ya Yay)」と題された、以下のような詞の歌がある。
(歌詞は省略)
先住民として生きてきた親が、子に対して、先住民として生きることの困難、その中で味わってきた孤独な苦しみを語ろうとする。ワイニョのリズムに乗せて、チャランゴやサンポーニャといった民俗楽器を使って、その思いを語ろうとするが、それは言葉にはならない。ただ「ワヤヤイ」と言うしかない。「ワヤヤイ」とは特に辞書的な意味を持たない嘆息の間投詞である。この曲はその意味で、言葉にすることができない歴史を語ろうとすることについての曲である。語ることについての語りであり、歌うことについての歌であり、奏でることについての音楽である曲である。後で知ったことだが、この曲は、一九八一年にボリビアで発表されるやいなや大ヒットとなり、この曲を作り、演奏したカルカス(Los Kjarkas)というグループを一躍有名にした曲であった。
こうしたフォルクローレ音楽を聞いていく中で、次第に私の中で浮上した問いがあった。それは、フォルクローレ音楽のひとつひとつの曲の由来をめぐる疑問だった。私がフォルクローレ音楽に触れ始めた当時(そしておそらく今でも)日本でフォルクローレ音楽はしばしば「アンデスの先住民の民謡」であるとか、「インカの末裔たちが伝承してきた音楽」あるいは「アンデスの響き」といったフレーズとともに紹介されていた。こうしたフレーズは、私に、いつの時代の誰が作ったとも知れないような伝承曲のような音楽をイメージさせた。「アンデス先住民の民謡」という言葉は、インカの時代から五世紀以上にわたり先住民に伝承されてきた「作者不詳」の伝承音楽のようなものを想像させたのだ。
しかし、私を混乱させたのは、先述のワヤヤイのようなフォルクローレ音楽の曲の大半に作曲者・作詞者がいたし、そのことがCD等にも明記されていたということである。先述の「ワヤヤイ」という曲もまた、CDのジャケットの情報によれば、作曲者・作詞者は演奏者でもあるカルカスというグループであるということだった。フォルクローレ音楽が民謡であるのならば、それに作者がいるとはどういうことなのだろうか。ボリビアに「真の」民謡なるものはあるのだろうか。あるとして、それでは作者はどういうつもりでこれらの曲を作ったのだろうか。もしフォルクローレ音楽の大半の曲が同時代の音楽家の創作であるのならば、あえてそこで民俗楽器や民俗音楽的なモチーフが使われているのはなぜだろうか。つきつめれば、フォルクローレ音楽家たちがフォルクローレ音楽に賭けたものとは一体何なのだろうか。ワヤヤイの作者が、歌詞の中の人物を通して歌おうとした「夢」とは、「失望」とは、「孤独」とは一体何なのだろうか。このような疑問が生まれていく中で、私の中では、フォルクローレ音楽そのものだけではなく、それを作った人々に対しての関心が深まっていくことになった。
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本書の中で、私は、ボリビア・フォルクローレ音楽家たちの世界を旅した、その経験を語っていくことになる。ボリビアの空気を吸い、地面を踏みしめ、人と直接会って分かったことを、順序立てて述べていきたいと考えている。
時に、良い研究論文とは、拾い読みができる論文であるという。結論を読めば著者の言いたいことが分かるもの、自分の知りたい情報がどこにあって、どこを読めば十分なのかが分かるのが、良い論文なのだ。私はこの意見には賛成だし、普段論文として何かを書く時には、なるべくどこを読んでも、どこから読んでもそれぞれに利用しがいのある情報を受け取ってもらえるように、工夫して書こうとしている。
ただ、こと今回、この『愛と孤独のフォルクローレ』という本を書くのに際しては、どうしても私は、それを手際よくまとめられた情報としてではなく、一冊の読み物として書きたいと思った。私が出会ったボリビアの人々は、どの人もとても話がうまかった。引き込まれる語り口。忘れられない名ゼリフ。驚きの展開。彼らのあまりに巧みな語りっぷりを通じて、普通の人の普通の人生がどれだけ面白いのか、私は見せつけられた思いだった。こうした経験があったので、私は、少しでも彼らの語りに近いものを自分で書いてみたいと思ったのだ。だから、この本は、通読できる民族誌を目指している。基本的には私自身の経験に沿いながら、読者の方々に、最初から最後まで読み通してもらえるようなものを書くことを目標にした。
結果、分かりやすく結論を出すことよりも、一度回答のようなものを出しては、ああでもない、こうでもないと逡巡し、回り道を重ね、ジグザグに進んでいくところばかりになってしまったようにも思う。しかし、これもまたフィールドワークというものの醍醐味だと思って、どうか読者のみなさんには甘受いただければありがたい。
そうはいってもこの本はやはり文化人類学の本であり、私がこの本を書くまでの過程で出会った、様々な文化人類学の著作や、同時代の日本社会の状況との対話の中で書いている。とりわけ、二〇一〇年代以降の英語圏の人類学において前景化しつつある、関係性の切断ないし、ポスト関係論、孤独といった問題について、本書はがっぷり四つに組んで、答えを出そうとして取り組んだつもりだ。これまでの人類学にとって、「関係」という概念は揺るぎない重要性を持ってきた。それゆえ、関係以降にあるものを考えるというのは、極めて挑戦的な問いである。本書もまた──それがあまりに大きく、無謀な問いであることは承知の上で──「孤独」の側から人類学理論を刷新していくことを目指している。
音楽家たちが、とんでもなく新しい何かを愛し、目指したのと同じように。
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以上が本書のあらましの全てである。願わくは、うまく始められていることを祈るばかりである。
著者・相田豊さん(左から二人目)のサンポーニャ演奏
装画:ミロコマチコ 装丁:大倉真一郎
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目次
はじめに
序章 孤独とつながりの人類学
1 私たちの孤独と人類学
2 不安の時代の音楽
3 ラテンアメリカの孤独
4 個人誌という方法とその可能性
5 本書の構成
1章 旅の前にあるもの
1 フォルクローレ音楽に出会う
2 フォルクローレ音楽は論じるに値するのか
3 右でも左でもなく
4 それではフォルクローレ音楽とは何なのか
2章 不器用な音楽家たち
1 ラパスというフィールド
2 最初の問いを着想するまで
3 仕事のつながりに参与する
4 ばらばらな音楽家たち
5 在地論理の取り出し方
3章 物語を愛する人々
1 グルーヴから物語へ
2 とあるコンサート制作のアネクドタ
3 アネクドタ的思考
4 人生とその群像
4章 孤独の内に立ち上がる者たち
1 他者の世界を記述すること
2 フォルクローレ音楽家の肩越しに見える世界
3 「孤独」から立ち上がる世界
5章 他者に抗する戦士/旅人
1 フォルクローレ音楽をめぐるノスタルジアとブーム
2 他者に抗うための音楽
3 個が個であるための音楽
4 反抗、世代、強度
6章 「不真面目」なひとりの楽器職人
1 近代の孤独とポスト多文化主義時代の孤独
2 民族誌的背景──アイキレという場所
3 ある女性楽器製作者「モニカ」のアネクドタ
4 すれ違いを笑い飛ばすこと
5 多層なるものとしてのひとり
7章 アマゾンの開拓者
1 アンデスからアマゾンに下る経験
2 カバドールとそのライフヒストリー
3 カバドールへの同行取材
4 カバドールの論理
5 決して交わることのないもの、にわかには知覚できないもの
終章 すでにそこにあるもの
1 関係の彼方へ
2 そのものの内にある力
3 ばらばらの時間の内で繰り返す
4 美を愛する者たち
注/あとがき/初出一覧/参照文献/索引