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『沖縄の植民地的近代』おわりに

植民地統治下の台湾へ渡った沖縄系の人びと。
彼ら・彼女らはどのような人びとで、いかなる経験をしたのでしょうか。
解放と抑圧、支配と被支配、「日本人」になることと「沖縄系」の出自をもつこと……。
欲望や葛藤がうずまく「在台沖縄人」のライフヒストリーを通じて、沖縄の近代と日本帝国主義を問い直す『沖縄の植民地的近代』より、「おわりに」全文を紹介します。


南西諸島と台湾(作成:水田憲志)

 日本が東アジアにおいて帝国主義的拡大を進め、地理的に近接する台湾を植民地化することにより、琉球列島は国民国家としての日本の辺境に位置づけられるとともに、〈内地〉と〈外地〉の境界領域となった。したがって、沖縄県の近代は辺境性と境界性という二面性の中で捉えられるべきである。

 植民地帝国日本における近代沖縄の辺境性と境界性を具現化したのが、二〇世紀初頭の沖縄県から台湾への人の移動の興隆である。移動は、買物や通院、観光といった日常生活の延長上にあるようなタイプのものから、就職や進学を目的とした長期の滞在、さらには家族ぐるみでの移住といった定住型の移動まで多様な形をとった。本書では、一見両極端と思われる、小学校を卒業してすぐに台湾に渡航し現地で店員や女中として働いた出稼ぎ者と、沖縄県内で中学校や師範学校を卒業後に台湾で医学を学ぶために進学目的で渡航した若者たちの植民地的近代経験について検討した。

 両者に共通するのは、国民国家としての日本の中で周縁化されていく沖縄県で生まれながらも、沖縄の境界性を利用しつつ帝国主義的キャリアを形成した点である。人びとは、植民地帝国日本において辺境であると同時に境界であるという沖縄県の特異なポジションを利用しながら移動し、上昇を志向する近代的主体として植民地台湾を生きた。そして植民地帝国日本において社会的上昇は、「日本人」になることと不可分であり、「日本人」になることはすなわち植民地において支配者となることでもあった。それが台湾における沖縄系移民の植民地的近代経験である。

 植民地台湾では沖縄県移民の出身地域や職業に大きな多様性がみられた。漁業関係者は比較的凝集性の高いエスニック・コミュニティを形成していたが、それ以外の職業をもつ沖縄系移民の多くは、日本人コミュニティの中でマイノリティとして分散して生活していた。そして移民一世の意識的な日本の主流文化への同化への努力によって、二世以降の沖縄系移民は、「植民地の日本人」としてのアイデンティティを獲得した。彼ら・彼女らは植民地台湾で「日本人」として育てられたために、沖縄や琉球の文化にほとんど馴染みがなく「沖縄人」としてのアイデンティティを自覚していないことも多々あったが、「沖縄系」の出自をもつことから、沖縄/琉球人差別のターゲットとされる存在でもあった。

 在台沖縄系移民が集団凝集性をもっとも高めたのは日本統治期ではなく、敗戦によって日本帝国が崩壊した直後の数ヶ月だった。台湾の沖縄系移民は、終戦後に日本本土でスムーズに引揚げていく「日本人」と引き離され、いずれの政府の庇護も受けられず、米軍統治下の沖縄本島に引揚げることが可能となるまでの間、相互扶助によって生き延びるしかない状況に置かれて、「沖縄人」としてのアイデンティティを再獲得したのであった。第六章で見たとおり、戦後沖縄社会の公的な言説空間においては、長い間、台湾引揚者の植民地経験が真剣に省みられる機会は少なかった。だが一方で、台湾引揚者たちはみずからの帝国主義的キャリアを活かしつつ戦後を生き、沖縄社会を築いていったのである。


 * * * 

 本書を締め括るにあたり、筆者が沖縄県と台湾を往き来しながら調査をしていたなかで遭遇した印象深いエピソードを最後に紹介したい。筆者はオーストラリア国立大学大学院の博士課程に在籍中に沖縄県と台湾の歴史に関する調査に取り組むようになり、普段はオーストラリアに居住しつつ、年に数回、台湾と沖縄県を訪ねながら調査を進めていた。二〇〇四年七月、筆者は調査の合間に台北市にある小さな映画館にひとりで入り、前年に中華民国映画事業発展基金会が主催する台北金馬映画祭にて第四十回金馬奨最優秀ドキュメンタリー賞を受賞した『Viva Tonal 跳舞時代』を鑑賞した。本映画は、一九三〇年代を中心に日本統治下台湾における日本文化と西洋文化の受容に着目しながら当時の台湾の流行音楽の様相を描いたドキュメンタリー作品である。映画は当時の映像や写真のほか、当時のことを知る人びとに対するインタビュー映像から構成されていた。

 そのなかで、ひときわ印象的なシーンがあった。日本本土でも一九三〇年代に大ブームとなった「東京音頭」をひとりの台湾人男性が明瞭な日本語で歌うシーンである。それを観ながら筆者は台北に来る直前に訪れた竹富島でインタビューをした黒島苗の話を思い出していた。インタビューにおいて黒島は、台北市の中心部にあった新公園(現・二二八和平公園)で東京音頭を踊った思い出話を語ってくれた。そして戦後竹富島に引揚げて来てから、種子取祭の時に桜の枝を象った造花を手にして東京音頭をみんなで踊った思い出を嬉しそうに話してくれたのだった 。

 インタビューを終えた後、筆者は竹富島ビジターセンターを訪ね、種子取祭で東京音頭が踊られていた事実について尋ねてみた。するとセンターの職員は苦笑しながら、それは随分以前のことで、国の重要文化財に指定されて以降はそのようなことは行われていない旨を説明してくれた。竹富島の種子取祭が国の重要無形民俗文化財に指定されたのは一九七七年のことなので、黒島の証言通り住民たちが東京音頭を踊っていたとすれば、それ以前のことであったと考えられる。映画を鑑賞しながら筆者は、台湾人と沖縄人と日本人がある特定の場所と時間を共有しながらも、その経験が持つ意味が異なっていたこと、そして経験の記憶が異なる形で継承されてきたことについて考えをめぐらした。

 本書は植民地帝国日本の中の「沖縄」を主体として、沖縄人の視点から日本の台湾植民地支配について描いた。言うまでもなく同じ場所と時間を共有した台湾人にとって、その経験の意味は異なるものであり、その経験の記憶が継承されるなかで、その意味も変容しうると考えられる。また本書は、沖縄県から台湾へ移動した人びとの軌跡を辿ったが、同時期に台湾から沖縄県に移動した人びとがいたことも忘れてはならない。本書で十分に言及できなかった、台湾人にとっての日本植民地主義の経験とその記憶の継承については稿を改めて論じることとしたい。

 黒島苗(仮名)、筆者によるインタビュー、二〇〇四年六月十六日、沖縄県竹富町にて、カセットテープに録音。

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著者略歴

  1. 松田 ヒロ子

    1976年生まれ。東京大学大学院総合文化研究科修士課程修了。オーストラリア国立大学Ph.D(History)取得。
    シンガポール国立大学アジア研究所ポストドクトラル研究員、台湾・中央研究院台湾史研究所博士後研究員などを経て、2014年4月より神戸学院大学現代社会学部准教授。
    専門は、社会史/歴史社会学。
    主著:Liminality of the Japanese Empire: Border Crossings from Okinawa to Colonial Taiwan (University of Hawaiʻi Press, 2019)、Rethinking Postwar Okinawa: Beyond American Occupation (Lexington Press, 2017, 共編著)、『多文化共生のためのシティズンシップ教育実践ハンドブック』(明石書店、2020 年、共編著)

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