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『子どもたちがつくる町――大阪・西成の子育て支援』はじめに

 「日雇い労働者の町」と呼ばれる大阪・西成(にしなり)。生活保護受給率は、23%にのぼります(2019年)。
 西成の労働者やホームレスの人たちについては、これまでもたくさん注目されてきました。でも、この本が描くのは、西成の子どもたちと、かれらを支える大人たちです。
 日本の子どもの7人に1人が貧困といわれ、「子どもの貧困」が深刻化する時代。このしんどい町の、ゆたかな支援の秘訣とは?
 村上靖彦(大阪大学教授)著『子どもたちがつくる町』より、「はじめに」を紹介します。

子どもたちのきれいな目

 長年、大阪市西成区釡ヶ崎で子ども支援を牽引してきた「こどもの里」の代表・荘保(しょうほ)共子さんは、かつての子どもをつぎのように描写する。日雇い労働者の町が、大阪港や70年大阪万博会場の建設でわいていた時代だ。

 

荘保 1970年のときに私は釜ヶ崎に来ました。〔…〕50年まえすでに釜ヶ崎のなかではですね、子どもたちに勉強教えるっていう土曜学校っていうのがあったんですね。それを私たちはボランティアとして支援に行こうっていうことで、私ははじめて地下鉄の花園町で降りて、そして釜ヶ崎のなかに行きました。それが22歳のときです。
 そのときに出会った、その子どもたち、私には想像できない〔状況〕でした、私とは全然違う世界の子どもたち。子どもは言葉は荒い、たしかに、手は出る、しょっちゅうけんかする、「くそばばあ」とか、「ばばあ」とかすごく言われる。だけどすっごいきれいな目してたんですね。もう、その目のことは、私は、すごい気になりましたんです。『なんでこんなすごいきれいな目してるの?』って。
 そのことで私はもう、そこの場から〔出ずに〕50年間居つづけることになります。ひとつのボランティアの出会いがですね、人の人生を変えるってことがあるっていうことを、私は自分で知ったんですけれども。その子どもたち、『なんでそんなきれいな目してるんだろう?』って思ったんですけど。あとで、いろんな子、それからあとにいろんな子どもたちと出会って、『あっ、こういうことだな』と思うんですけれども。

(本書は語りのディテールが表現する語り手の身体性を重視する。それこそが語りにリアリティを与えるからだ。そして、分析のなかでも助詞や言い間違いを手がかりとする。そのため、語られたまま編集を加えずに提示する)

 

 荘保さんの言葉からは、土門拳の『筑豊のこどもたち』を思い出すこともできるかもしれない。おそらく、貧困地区で自由にたくましく育ってきた終戦直後の子どもたちの姿が、ここには残っているのだろう。しかし、これは失われた過去の思い出というわけでもない。私が出会う西成の子どもたちもまた、言葉は荒いが人懐っこく、もの怖じせずに話しかけてくるのだ。

 この世界にはたくさんの困難があるなかで、生存と幸福を可能にするコミュニティをどのようにつくることができるのか、この問いが本書のテーマである。

 それを貧困地域で実践する熱心な支援者たちへの取材から考えていく。私が訪れた釡ヶ崎(あいりん地区、萩之茶屋)と長橋地区、鶴見橋地区といった大阪市西成区の北部は、いずれも生活保護を受けている家庭が多く、ひとり親家庭、障害者手帳をもつ親子、父親が違うきょうだいが多数同居する家庭もめずらしくない。たしかに、釡ヶ崎は日雇い労働者の町として知られ、今では高齢化が進んでいる。しかし、本書はあえて子どもの町として西成を描く。

 この地域では貧困や家庭の葛藤によって多くの子どもたちが困難を強いられているのであるが、しかし、にもかかわらず、ここでは元気で明るい子どもの姿が見られる。〈逆境であるにもかかわらず元気〉であるという逆説は、子どもと家庭を支える熱心な支援者が多数活動していることで生まれている。しかも、個性的な複数のグループが、連携しながらひとつのコミュニティをつくっている。逆境をはねかえすべく自発的に生まれていくコミュニティの生成を描くことが、本書の第一の目的だ。元気に遊ぶ子どもの姿を描写するだけではこの目的に達することができないが、かといって逆境を記述するだけでも、描いたことにはならない。そして、貧困や教育をめぐる社会政策の充実は当然求められるが、制度だけの問題でもない。個から出発しつつ、その背景のダイナミズムと歴史的な系譜をたどる必要がある。

「自分の今の状況をわかってもらえる人はおれへんやろうな」

 ここで、第4章の語り手である大阪市の子育て支援員スッチさんの語りを少しだけ覗いてみたい。彼女自身が西成で生まれ育ち、しかも今、かつての自分と同じような家庭環境のなかにいる人たちをサポートしている。先ほどの荘保さんの語りに登場する1970年代の子どもの姿は、ちょうど同じころに近所の子どもだったスッチさんのものでもあろう。彼女の生い立ちは、この町に暮らす人たちの生い立ちそのものである。

 釡ヶ崎にある古びているがおいしいコーヒーを淹れてくれる喫茶店で、彼女はためらいがちにゆっくりと子ども時代を語りはじめた。

 

スッチ 私はこの向こうの同和地区のなかで生まれて、両親が二世で、在日なんです。で、で、昔ね、親は、皮革業。革か。靴の甲の裏の、裁断師をしていて、で、商売をしてたんですけど、で、あそこの地域は、靴の、多くって。多くは、なんていうかな、よくわからへん、在日の人のコミュニティっていうか、商売とかもしてはった方が多いと思うんですよ。
 で、なかで商売に、多分、不渡りが出たとかで、すごく、生活が激変するというか、両親が大きな借金を負って、で、まあ、必死に、まあ、お金の工面をしたりとかっていうことになるんやけれども。小学校〔に通っていた〕あたりでは、まあ、でも、きっと、もう、いくら、こう、がむしゃらに働いても、返済できるような金額じゃなかったんやと思うんです。まあ、ほとんど、まあ、両親もいないなかで、当時、サラ金って知ってます?

村上 はい。でもあんまり知らない。

スッチ フフフ。〔サラ金〕にもお金を借りていて、ほんで、家には、まあつねに、借金取りが来るみたいな、生活をしてたんです。
 で。で、なかでいろいろ、まあ、いろんな、それにまつわるいろんな経験をしたりとかしていて、で、結局、両親は別れることになるんです。なるんですけど、なぜか私は父親のほうに。母と妹は、自分の実家のほうに戻り、で、私は父の面倒をみるっていうのと、もう、当時、中学生になっていたから、友だちだったりとかがすごくそこにあったので、で、通ってて。で、それもあったしで。あ、家はあったから、残ることになって。
 で、お兄ちゃんがいてるんですけど、で、中学ぐらいからほぼお兄ちゃんと二人の生活みたいな。で、そこにときどき、まあ、借金取りが来たりとかっていうような生活をずっとつづけてはいて。
 で、多分、学校の先生も、どこか、小学校ぐらいのときに「大丈夫か?」みたいなんで、担任の先生にも聞かれたことがあるから、なんとなくは知ってたと思うんやけれども、でも、周りには、どちらかというと、友だちとかには知られないようにというか、ていうような生活をしてて。

 

 スッチさんが生まれたころに、第2章の舞台となる「わかくさ保育園」ができ、小学校に上がるころに第1章の舞台である「こどもの里」の前身ができる。また、第3章の舞台である「にしなり☆こども食堂」は、国道をはさんだ隣の学区だ。そして、第5章の助産師ひろえさんが活動するのは、両地区を含む西成全域である。

 借金を抱えることで家族がばらばらになり、そして、借金取りがきょうだいのもとを訪れる(そして借金取り自身もおそらくは同じような逆境で育ってきている)。つまり、「借金」という過酷な状況をめぐって家族が離散し、借金取りがやってきたり、学校の先生に気にかけられたりといった人物の交差が生じる。

 「〔中学生の〕私は父親の面倒をみる」というのは、奇妙に聞こえるかもしれない。本来であれば親が子どもの面倒をみる年齢である。しかし、父親には生活能力がなかったため、スッチさんが父親の生活を支える役割を担ったのである。これは「ヤングケアラー」と呼ばれる状態である。

 このような経験の特徴は、「それ〔父親の借金〕にまつわるいろんな経験」の部分に現れる。スッチさんの語りでは、困難な状況については具体的に語られることがなく、そして、見えにくくなってくる。「いろんな経験」というあいまいな〈語られないこと〉の背景に逆境が横たわっている。「いろんな経験」は、「〔先生は〕なんとなくは知ってた」けれども「友だちとかには知られないように」していた生活のなかにある。逆境体験(ACEs:Adverse Childhood Experiences)は、〈語られず知られない〉という仕方で現象するのである。

 スッチさん自身も、「返済できるような金額じゃなかったんやと思うんです」「〔先生も〕知ってたと思うんやけれども」と、当時はわからなかったけれども大人になってふり返って、子ども時代の状況を推量しているのだ。スッチさんはのちに支援者になり、語る言葉を手にした人である。しかし、困難の渦中にいる多くの当事者たちは、言葉を手にする機会をもたないかもしれない。

 

スッチ 一緒にいた友だちも親がいなくって、で、いない状況で、きょうだいで暮らしていて近所の通報があって。もうやっぱり、子どもたちだけで、学校の先生だったりとか、周りのサポート、関わってる大人が、生活していけるようにっていうことで、生活をしているような友だちやったりとかして。で、なんとなく、なんか、なんかな、そういうつながりで、支えのなかで、ずっと生活はしてきたんです。

 

 このような〈語りにくい〉〈知られない〉逆境のなかにあったスッチさんの経験が、語られていく。同じように、困窮した境遇にあった「一緒にいた友だち」との「支えのなかで、ずっと生活はしてきた」という困難な状況にある当事者同士が支え合うピアの関係が、スッチさんを支えてきたのだ。スッチさん自身が逆境「のなかで」育ったこと、そして、ピアである友人と「一緒に」支え合い、支え「のなかで」生活してきたことが、のちに支援者として親たちのサポーターになる実践の基盤となるのだ。

 

スッチ で、高校とかも、もう全然、お金もなかったし。やけど同和地区やから、奨学金とかもあったし。なのでそれをもらいながら、免除申請をしたりとかして。で、高校に入ってからも、まあ、ほとんど毎日バイトをしながら行って。
 そういうなかで、でもやっぱり、父親は、まあ別で家庭をもってたときもあるけど、でもやっぱり仕事もだし、生活も、まあ、でけへんかって、お酒に頼るようになって。もうアル中状態でいる状況のなかで、過ごすっていうような時期を、すごい長い間、してきていて。
 で、なので、すごい、自分の今の状況を、『わかってもらえる人はおれへんやろうな』とか、だけど、なんか、自分の家庭っていうかな、『自分の居場所がほしい』だったりとかっていうのは、つねに、多分、思っていたりとかしてて。
 で、それと、まあ、お金ですよね、やっぱり。だから、すっごい働いたし。働いて。で、生活もしてきたけれども、でも、生活を、やっぱり父親が、お金の無心に来たりとかっていうので、なかなか、やっぱり、こう、安定。そもそも手助けもないし、自分で、生活せなあかんし、それからまだ、お金の無心に来るし。でも、断られへんし、どうしてもあげてしまうみたいなことをずうっと、すっごい長い間。
 〔…〕で、なんだかんだあって、結婚して、で、結局シングルになるんですけど、やっぱり、中学の友だちやったりとかも、まあ、同じようにシングルやったりとかなんで、子育ても一緒にとか、支え合ってっていうようなかたちでしてて。

 

 「ずうっと」「すっごい長い間」「そもそも手助けもない」困難な状況はつづく。そして、「働いたし」「手助けもないし」「生活せなあかんし」「無心に来るし」「断られへんし」という「〜し」の語尾が、困難の連鎖を描く。貧困をめぐって就学の困難が生じる(この地域では高校に行かない人も多い。スッチさんが自らの意志で高校に進学したことは彼女の力を示している)。父親は「生活も、まあ、でけへん」、しかし、スッチさんは「自分で、生活せなあかん」、というギャップがある。ヤングケアラーとは、この家族状況のギャップ「のなかで」「断られへん」優しさをもった子どもに強いられる役割のことだ。       

 しかし、この「自分の今の状況を、わかってもらえる人はおれへん」状況は、理解されないものである。そして、この状況のなかのスッチさん自身の経験も「なんだかんだあって」と困難が暗示されるが、語られないままになる。〈語られなさ〉と〈見えなさ〉〈理解されなさ〉が困難の渦中にいる人の状態なのだ。逆境の渦中にあるスッチさんは、(同じく貧困のなかにいた友だちと支え合ってはいたが)社会のなかで孤立している。インタビューの冒頭から、淡々と困難な生活が語られてきたのだが、この場面ではじめて感情が語られている。

 「自分の居場所がほしい」と、ほかの人の目には見えない困難な状況「のなかで」、欠けているものとしての「居場所」をスッチさんは求める。自宅は安心の場ではない。借金取りが訪れ、父がお金の無心をしに来る傷つきと恐怖に満ちた場所になっている。生活苦は単に金銭の苦労というだけでなく、〈居場所の欠如〉として生きられている。

 〈居場所〉とはまさにスッチさんがのちに勤めることになるこどもの里が実現しているものであり、こどもの里に最初に来た子どもたちとスッチさんは同年代だ。「自分の居場所がほしい」という願いは、「居場所」の価値を知っている現在から、状況の〈見えなさ〉のなかにいた過去へと遡行したときに生まれたものであるがゆえに、「多分」という推量で語られている。子ども時代は逃げ場の見えない閉塞した状況に置かれていたため、具体的な願いを自覚することができなかったのだろう。

 しかも、父親に依存される状況は、スッチさんがこどもの里に転職してきた数年前までつづいていた。つまり、ヤングケアラーとして生活しながら、かつ、支援者としても実践をつづけていたということになる。第4章でみるスッチさんの現在の実践は、ネグレクトと呼ばれる家庭への訪問を軸としているのだが、これは自身のヤングケアラーとしての経験にもとづけられているのだ。スッチさんはまさに、困難な状況を引き受けるなかで、自然なかたちでつぎの世代をサポートする側に回った人である。

 このような変身を支えたのは、同じ境遇にある友人であり、西成北部のさまざまな支援者のネットワークであり、文化である。本書ではそれを、いくつかのグループについて支援者の語りを中心として描いていき、それぞれのグループを成り立たせている実践のスタイルを取り出しながら、明らかにしていきたい。

 西成の子育て支援について授業や学会で紹介すると、しばしば「すばらしいと思うけど、そんなことはうちの地域ではできない」「西成マジック」という反応が返ってくる。しかし、大事なことはとてもシンプルだ。「一人ひとりの子どもの最善の利益は何か考え」、「子どもの声を聴く」ことだということを、私は西成の人たちから学んだ。一人ひとりの子どもの声を大事にし、一人ひとりの支援者が自分の顔と声で実践すると、自ずと自発的で変化に富んだ支援になる。このシンプルな方針から生まれる個性的なセーフティネットは、ほかの地域の支援者にとってアイディアの源泉となるのではないだろうか。それぞれの地域で「何ができるか?」という問いを生み出し、また、新しい実践の創造を触発するはずだ。

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著者略歴

  1. 村上 靖彦

    大阪大学人間科学研究科教授。2000年、パリ第7大学で博士号取得。
    著書に『自閉症の現象学』(勁草書房)、『摘便とお花見――看護の語りの現象学』(医学書院)、『仙人と妄想デートする――看護の現象学と自由の哲学』(人文書院)、『母親の孤独から回復する――虐待のグループワーク実践に学ぶ』(講談社)、『在宅無限大――訪問看護師がみた生と死』(医学書院)、『ケアとは何か――看護・福祉で大事なこと』(中公新書)、『交わらないリズムーー出会いとすれ違いの現象学』(青土社)ほか。第10回日本学術振興会賞受賞(2013年)。

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