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『それでもなおユダヤ人であること』はじめに

 船があっちに〔片方の手を上に遣りながら〕行って 従姉妹 いとこ はアメリカ人になって、船がこっちに〔片方の手を下に遣りながら〕来て私はアルゼンチン人になったのよ。今頃私がアメリカ人だったかも。

 アルゼンチンの首都ブエノスアイレスに住む六〇代のユダヤ人女性ルシアは、このように冗談めかした。

 彼女の祖父母が「ロシアのキエフ注1 」からアルゼンチンに移住したのは、一九二〇年代のことである。他方、彼女にとって大伯母(祖母の姉)にあたる女性は米国に移住し家庭を築いた。ルシアは、彼女にとって又従姉妹はとこ(「年の離れた従姉妹」と呼んでいた大伯母の孫)にあたるアメリカ人の二〇代の姉妹と親しくしており、インターネット上のコミュニケーションサイトを通して頻繁に連絡を取り合い、姉妹はスペイン語を、ルシアは英語を学んでいた。姉妹がアルゼンチンを訪問し、ルシアが私に「アメリカ人の従姉妹」を初めて紹介した際、彼女は笑いながら冒頭のように言った。ルシアの手振りはアメリカ大陸をなぞり、「従姉妹」が生まれた米国と、ルシアが生まれたアルゼンチンにたどり着く。

 ある場所からの出立は、ユダヤ史において繰り返されてきた光景であった。出エジプト(Exodus)、追放(exile)、ディアスポラ(diaspora)、追放(Expulsion:大文字で一四九二年のスペイン追放を指す)といった単語には、いずれも土地を追われて移動を余儀なくされた時々の負のニュアンスが刻まれている。東欧のユダヤ共同体はホロコーストにより壊滅し、その生活世界を持続的に生きる人は皆無に等しい。帰属する国家を選択する権利は彼ら自身にはなく、他者によって帰属を決定されたことが苦難の原因でもあった。

 しかしながら、ユダヤ人の歴史の長さと重みに比して、私がアルゼンチン・ブエノスアイレスというフィールドで出会った人びとは、ブエノスアイレスの自由で世俗的な空気を享受し軽やかに生きているように見えた。また、ユダヤ教の、外部から見ればきわめて厳格な宗教法にも彼らの生活はほとんど拘束されることはなかった。それでは、ユダヤ人が、他のアルゼンチン人と同様の生活を送りながらもそれでもなおユダヤ人であるとしたら、それはなぜ・どのようにしてなのか。本書では、ユダヤ教の教義や原理原則を解説することではなく、きわめて曖昧ながらもたしかに存在する、現代に生きるユダヤ人の生き方をありのままに描き出していく。

 「それでもなお」とは、現代のユダヤ人について考えるうえで一つのキーワードとなりうる言葉かもしれない。六〇〇万人と言われるユダヤ人が犠牲となったホロコーストの後、それでもなお世界からユダヤ共同体が消滅することはなかった。「非ユダヤ的ユダヤ人」[ドイッチャー 1970]とすでに百年来言われ、居住社会に同化しながらも、それでもなおユダヤ人はユダヤ人として生き続けた。そもそも一つの民族が地理的に隔たった異なる土地で生活し、異なる言語を話し、ある国の国民でありながらユダヤ人でもあるという多層性自体が、読者には謎めいて見えるかもしれない。

 本書は、アルゼンチンの首都ブエノスアイレスに住まうユダヤ人の姿に文化人類学という方法から肉薄しつつ、現代に生きられるユダヤ性とは何かを問うものである。三〇〇万弱の人口を有する都市ブエノスアイレスに、ユダヤ人は約一八万人居住すると推定されている。私がフィールドワークの対象として選んだのは、ある特定のシナゴーグ(ユダヤ教会堂)や組織に集う人びとではなく、あくまでも個々の人とその家族である。フィールドワークの過程において、私は彼らとともにさまざまな集団とかかわっていくことになるが、それらの場所と彼らのかかわりは、一時的な滞在と過ぎ去りという相対的に短い瞬間の出来事であった。

 ユダヤ人がなぜ、どのようにブエノスアイレスにやってきたのかという疑問にはおいおい答えていくことにしよう。ここではまず、世界のユダヤ人をユダヤ人たらしめるいくつかの要素について、本書にとって重要と思われる点のみ簡潔に触れておきたい。一つ目は、ディアスポラ(離散)として生き、住まうことの意味である。イスラエルが近代国家としての独立を宣言したのは一九四八年のことであり、ユダヤ史においては、ユダヤ人が独自の領域国家を持たず、社会のマイノリティ集団として暮らす状態のほうが普通であった。

 本書はあくまでもアルゼンチンに暮らすユダヤ人についての論であり、イスラエルの社会や政治とは別物であることを補足しておきたい。そして第一の点とかかわることであるが、国家を持たないユダヤ人は時に「書物の民」[Halbertal 1997]や「記憶の民」と呼ばれ、集団としての記憶や記録を継承し続けることに意義を見出してきたことも重要な要素である。

 以上の二点については、本書を通じて繰り返し論じることになるだろう。しかし本格的な論考に入る前に、やや個人的な経験から始めることをお許しいただきたい。

 私が初めてユダヤ的なものを目の当たりにしたのは、二〇〇六年に旅行で訪問したモロッコでのことだった。二〇世紀初頭時点では三〇万人のユダヤ人が暮らしたモロッコには、イスラエル建国を経て現在では二〇〇〇人ほどが残るのみである。マラケシュのかつてのユダヤ人地区で、強烈な印象を私に与えたのはユダヤ人墓地であった。当時の印象を記した記録を持ち出してみたい。

 墓碑も文字の痕跡も見当たらない白い墓石はつるつるとしていてまぶしく、考える手がかりを与えようとはしない。ここには三種類の墓がある。ラビを記念する少数の祠堂。最近築かれた墓碑付きの墓には、二〇〇三年や二〇〇四年の新しい日付とともにヘブライ語とフランス語が併記される。「父の思い出のために」。あとは名づけられなかった圧倒的多数の墓の群である。ユダヤは文字に固執する人たちではなかったのか。文字の甘美さを子どもたちが知るために、学校が開かれる最初の日に石板にハチミツでヘブライ語を書かせて舐めさせたというエピソードや、人類学にもたらされたユダヤ人学者たちの言語への固執に抱いていたイメージを覆される。

マラケシュ(モロッコ)のユダヤ人墓地

 今思えば、墓には元来文字が刻まれていなかったのではなく、なんらかの事情で後に塗り込められたものだったのかもしれない。イスラエルとアラブ諸国の独立後、モロッコに居場所を失ったユダヤ人の多くは欧米のフランス語圏やイスラエルへと移住していった。

 文字のないユダヤ人墓地というイメージから発して、私はモロッコからアルゼンチンに旅することとなった。探究の根底には、伝統的に文字で伝えるという技術を持つユダヤ人にとって、書くこととは、また伝えるとはどのような意味を持つのかという問いがあった。

 この問いは、各章で形を変えて変奏されていくことになる。家庭で行われる儀礼での書物とのかかわりが論じられる章もあれば、書物を離れ、より身体的なレベルへ接近する章もある。フィールドノートには、あるラビ(聖職者)が「祈り」について語った言葉が書き留められている。

 現在〔のユダヤ教において〕テフィラー(祈り)が指しているのは、正確にはアミダー(立禱)注2のことで、称賛、請願、感謝からなっている。一方で、神殿の時代には、犠牲を行う前に祈りの言葉が唱えられていたが、犠牲そのものに比べて言葉は重要度の低いものとされていた。〔神殿の存在しない〕現代の世界でも、私の祖母の家では鶏を屠り、そのあとおいしいチキンスープを作ったものだった。犠牲や食べ物の重要度が低いとは私は思わない。

 これは、私が「祈りとは何か」と質問した時のラビの返答の一部である。祈りとは何よりも言葉の世界であるという私の予想に反し、ラビはまずそれが「感覚」的なものだと述べた後、この言葉を続けたのだった。チキンスープは滋味あふれた家庭の味としてユダヤ料理の一つとみなされている。

 神殿崩壊後のユダヤ教において神殿供犠はその意義を変容させ、各時代のユダヤ教は律法や聖書の再解釈を通じて刷新され続けている。ラビはこのことを踏まえつつ、現代においても祈りとは言葉の世界ではないことを指摘した。ユダヤ教においてはつねに、言葉とモノの世界が混淆また拮抗しつつ展開しているという理解から本書は立ち上がってきた。本書は、複数のテクストの引用―調査中に書き記したフィールドノート、聖典、人びと自身が書き話す言葉―が織り成しあう文から成っている。そのテクストから、日本から遥か遠くに生きる彼らの生が浮かび上がってくることを願う。

 

注1 現在、ウクライナのキエフ。インタビュー時には、移民の出自は現在の国名ではなく、当時の「ロシア」という呼称が用いられることがほとんどだった。
注2 シナゴーグの礼拝では会衆は立ってエルサレムの方角を向き、声を出さずに各自で唱える。

『それでもなおユダヤ人であること』は9月中旬刊行予定です!

 

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