『二枚腰のすすめ』はじめに
はじめに
二〇一三年の一月から二〇一九年の七月まで、私は読売新聞の「人生案内」という、一〇〇年以上の歴史をもつ欄――大正三年の開始当初は「身の上相談」というタイトルだったそうです――の回答者という役を務めておりました。
じぶんが「人生の案内人」にふさわしい者でないことは、なによりじぶんがいちばんよくわかっていましたので、このお話をいただいたときにはちょっとうろたえました。
幼い頃から長じてもなお、人としていっぱい失敗や挫折をしてきたし、世間からどう見えるのかよくわかりませんが、「よくやった」とか「ご苦労さんでした」とか言ってもらえたときも、その実態といえば、たいていは妥協の産物で、じぶんでは納得していない、いや、じつはほとんどがやりそこないだったと思ったからです。
そんな私がこの回答役を引き受けたのは、まさに相談には「答える」以外にも「乗る」という手があると知ったからです。乗るだけならいろいろな手がある。じぶんはこうして失敗したと返すこともできるし、あなたの言うことはわからないでもないが、正直なところ納得できないと返すこともできる。さらに相談事そのものへの疑問を呈することもできる。私はいまでもいろんなもやもやを抱え込んでいるので、たぶんもやもやをもやもやとして受けとめることはできる。おんなじように思っている人はここにもいますよと。そう思い定めて、しばらくだったらと、この話をお引き受けしたのでした。
かすり傷から深手の傷まで、深い浅いは別として、痛手をいちども抱え込んだことのない人などいません。この痛手にもちこたえられるだけの生き方の軸というものを見つけられないあいだは、いつまでもこの痛手を、納得できないままに引きずるしかありません。それは「そろそろお迎えが」という年齢になってもおなじです。それでも、書かせていただく以上は、少なくともその納得できないものの感触をしかと掴むところまで、相談人を引っ張っていきたいとの思いはありました。悩みはこれで終わりではないですよ、もっと先がありますよ、とも伝えたいと思いました。それは希望の在りかを伝えるということではありません。しいていえば、痛手を繕うのではなくて、人としての〈業〉と向きあうところまで行かないうちは、答えは出ないということです。
と同時に、倒れないで、という希いは強くあって、だから問いに押しつぶされずにもちこたえるための算段は、しかと伝えようと思いました。その二枚腰、三枚腰の構えについては、10章の「二枚腰のすすめ」という文章にまとめて記しています。
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