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『ワンダーランドに卒業はない』試し読み

まえがき 『ワンダーランドに卒業はない』より

空想が日常の子ども時代、だれもが異世界へと旅する時間を持つ。
物語に没頭する喜びは、ずっとあなたを支えてくれる。本を開いて、自分の中の子どもに会いにいこう。

『クマのプーさん』から『ゲド戦記』まで――作家を育てた18の物語。
 直木賞作家・中島京子による初の児童文学エッセイ、『ワンダーランドに卒業はない』より、まえがきを紹介します。


 プーさんの生みの親A・A・ミルンは自伝を書いている。『今からでは遅すぎる』というタイトルで、石井桃子さんが御年九十歳になってお訳しになった。石井桃子さんは「いいえ、今からでも間に合います」と、日々、思いながら訳していらっしゃっただろうか。

 子どものころに読んで大好きだったものを思い出すと、あれもこれも石井桃子訳だったりする。人生で最初に手にした自分の本は、ディック・ブルーナ文・絵、石井桃子訳の『ちいさなうさこちゃん』だった。石井桃子さんから言葉を学び、文章を作る楽しみを学んだ。わたしのユーモアセンスも、たぶんに石井桃子、もしくは石井桃子経由の児童文学由来だ。

 一〇一歳まではまだ、だいぶあるから、今後も、その物書きとしての姿勢を学び続けていくことになるだろう。

 肝心のA・A・ミルンがその本に何を書いたかというと、年を取ってはなにもできない、などという投げやりな年よりの繰り言を書いたわけではなかった。

 他人は本を読むと、あれを書けばよかった、これが書かれていないと、ケチをつけるものだけれども、そんなことを言われても「今からでは遅すぎる」。なぜなら、人がものを書くようになったときには、もうすでに人間ができあがって、書けるものも決まっているからだ。その人が書かなかったことを、書けばよかったなんていうのは、おかどちがいもはなはだしい。そういうことを書いてほしいなら、それが書ける、ほかの人に頼みなさい。

 タイトルの解題は、このようなものである。

 しかし、なにしろ、いま、引っ越しの準備中で、蔵書がすべて段ボールに入ってしまっているので、じっさいの本を開いて確認ができない。ああ、なんてこと! ひょっとしたら引用するかもしれない本は、可能な限り手元に置いておくべきなのに! しかし、そんな、用意の悪さも、どうすることもできない。間に合わなくなってから、自分を責めるのはやめよう。そう、「今からでは遅すぎる」。

 ミルンの自伝を読んだのは、もちろん大人になってからだが、この自己肯定的なフレーズは、クマのプーさんの前向きさとともに、常にわたしを支えている。

 ところで、これは「まえがき」だった。「まえがき」には、これから何を書くのか、なぜこれを書くことになったのか、などを書くべきだが、子どものころに愛読した本についてのエッセイを、京都の出版社の編集者さんに頼まれたから、という理由を書いただけでは、「まえがき」が二行で終わってしまい、芸のないことはなはだしい。

 おもしろい「まえがき」といって思い出すのは、やはり、エーリヒ・ケストナーの少年文学だろう。どれにも印象的な「まえがき」がついていて、それを読むことで、物語の始まり、始まり!という感覚を味わったものだった。『エーミールと探偵たち』の、本編に入る前の「十まいの絵」は圧巻だ。あれを真似してみたくて、でも、まるっきりパクるのも恥ずかしいから、以前、子どもの本を書いたときに章タイトルと扉絵で、オマージュをささげてみたこともある。

 有名な『飛ぶ教室』の「第二のまえがき」でケストナーは、「どうしておとなはそんなにじぶんの子どものころをすっかり忘れることができるのでしょう」と書いた。「この機会に私はみなさんにお願いします。みなさんの子どものころをけっして忘れないように!と。それを約束してくれますか。ちかって?」。

 もちろん、子どものころのわたしは、ぶんぶん頭を縦に振ってうなずいて、ちかった。忘れませんとも! そして、大人になって、だいぶ、忘れた。

 もちろん、忘れていないこともたくさんあるけれども、人生が長くなると、なにもかも覚えているというわけにはいかない。とはいえ、人は最近のことよりも、昔のことを多く覚えているものだそうだ。もっと年を重ねて、忙しさにかまけて過去を思い出さずにいるようなせちがらい時間が少なくなると、『トムは真夜中の庭で』の中でハティに訪れたような時間が返ってくるのかもしれない。

 ともあれ、子どものときに夢中になった本を読み返すのは、半強制的に、子ども時代を思い出す時間を作ることだった。わたしと三歳年上の姉は、毎月それぞれ一冊ずつ、本屋さんで好きな本を買ってもらっていた。お小遣いが控えめなぶん、それだけは、本好きな両親のもとで育った幸運だった。姉とわたしはそれらの本を繰り返し読み、お互いに交換して、声に出して朗読し、すっかり頭に入れて、覚えたフレーズを日常会話で使って生きていた。

 いまは岩波少年文庫の一冊になっている、『からたちの花が咲いたよ――北原白秋童謡選』という本が、わたしたちが手にしたはじめての詩の本で、姉妹は気に入った詩を画用紙に書き写し、絵をつけて、本を作った。おおまじめに、二人で、出版社ごっこをしていたのだった。わたしたちの初めての「出版物」は、著作権をすっかり無視した手書きの冊子で、色画用紙で表紙をつけ、開けた穴にリボンを通して作ったものだった。半世紀も前のそんな日々を思い出した。

 このエッセイを書いている間、わたしは物語に没頭し、言葉のセンスに大笑いして、とても幸福な時間を持った。読書というのは、なんと安上がりで気楽なタイムマシンであることか。

 数ある児童文学の中で、どうしてこの十八作を選んだのかという質問には、うまく答えられそうな気がしない。じつは、これら以外にも、ずいぶんたくさん読み直してみたのだった。それらも楽しかったし、中にはぜんぜん楽しくないというか、いまとなるととくにおもしろいと思えない、というようなものも、あるには、あった。だから、これらは、子どもの時間を思い出しただけではなくて、大人になったいま、書いてみようという気持ちを起こさせた十八作でもある。

 きっと、この中には、読者のみなさんのなつかしい本がいくつもあるに違いない。あるいは、読み逃していたから、読んでみようかなと思える本があるかもしれない。

 これらを読んでいたわたしの幸福体験が、みなさんに伝わりますように。

 大好きな子どもの本たちが、さらにさらに多くの人の手に渡るための、少しばかりのお手伝いができれば、物書きとしてはたいへん光栄であります。


目次

まえがき

1 プーの森で、ことばと遊ぶ――A・A・ミルン『クマのプーさん』『プー横丁にたった家』

2 銀河ステーションから、めくるめく幻想世界へ――宮沢賢治『銀河鉄道の夜』

3 二人がそれぞれ、親友のためにやったこと――エーリヒ・ケストナー『点子ちゃんとアントン』

4 物語に没頭する、圧倒的な幸福感――ロバート・ルイス・スティーヴンソン『宝島』

5 教訓を見いだそうとする者は追放されるだろう――マーク・トウェイン『ハックルベリ・フィンの冒険』『トム・ソーヤーの冒険』

6 植物とコミュニケートする農系女子――フランシス・ホジソン・バーネット『秘密の花園』

7 ワンダーランドは卒業を許さない――ルイス・キャロル『鏡の国のアリス』

8 「衣装だんす」で、ファンタジーと出会う――C・S・ルイス『ライオンと魔女』

9 コロボックルはわたしたちの先生なのだ――佐藤さとる『だれも知らない小さな国』

10 愛があれば。愛さえあれば。どんなに世界が苛酷でも。――カルロ・コッローディ『ピノッキオの冒険』

11 才能ある女の子の行く末は――ジーン・ウェブスター『あしながおじさん』『続あしながおじさん』

12 ウェンディの哀しみ――J・M・バリー『ピーター・パンとウェンディ』

13 「不要不急」と灰色の男たち――ミヒャエル・エンデ『モモ』

14 人間が想像できることは、必ず人間が実現できる――J・ベルヌ『二年間の休暇』

15 反省、赦し、和解こそが、知恵である――ルーネル・ヨンソン『小さなバイキングビッケ』

16 落語の世界に通じる『ラッグルス家』の物語――イーヴ・ガーネット『ふくろ小路一番地』

17 「時」とはなにか? 時間旅行SFの金字塔――フィリパ・ピアス『トムは真夜中の庭で』

18 二十一世紀の読者のために作り直された、ル= グウィンからの贈り物――アーシュラ・K・ル= グウィン『ゲド戦記』

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著者略歴

  1. 中島 京子

    1964 年、東京都生まれ。東京女子大学文理学部史学科卒。
    出版社勤務、フリーライターを経て、2003 年『FUTON』で小説家デビュー。
    2010 年『小さいおうち』で直木賞、2014 年『妻が椎茸だったころ』で泉鏡花文学賞、2015 年『かたづの!』で河合隼雄物語賞、柴田錬三郎賞、歴史時代作家クラブ賞、同年『⻑いお別れ』で中央公論文芸賞、2016 年日本医療小説大賞、2020 年『夢見る帝国図書館』で紫式部文学賞、2022 年『やさしい猫』で吉川英治文学賞、同年『ムーンライト・イン』『やさしい猫』で芸術選奨文部科学大臣賞を受賞。

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