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過去につながり、今を問え!

ベニン・ブロンズとは何か(3)

メアリ・キングズリとの「再会」

 現在ピット・リヴァーズ博物館がWEB公開しているベニン・ブロンズの所蔵リスト、「1897年、ベニン懲罰遠征での入手品」 (https://www.prm.ox.ac.uk/benin-bronzes 現在同博物館では2024年秋まで所蔵品の検証作業が行われている)によると、所蔵するベニン・ブロンズ97点の3割近く、28点を寄贈したのは、あの・・ メアリ・キングズリであった。リスト16~43番の「来歴の詳細」欄には、次の短い言葉が並んでいる。

メアリ・ヘンリエッタ・キングズリ(1862-1900)がピット・リヴァーズ博物館に寄贈したもので、1897年の襲撃で入手と記録されている。

 うち、42、43番の「鉄の腕輪のペア」には、メアリ自身の手でベニン懲罰遠征の略奪品とは明記されていないが、他の寄贈品同様、「懲罰遠征時に略奪されたものの一部であることは明らか」との説明が付記されている。

 このリストに、私は大きな衝撃を受けた。メアリがベニン・ブロンズを持っていたことなど、数々の伝記のどこにも書かれていないからである。実際、彼女は西アフリカの旅でベニン王国には一度も立ち寄っておらず、ベニン・ブロンズとの接点は見当たらない。

 上記博物館リストの来歴から、彼女がベニン・ブロンズを入手したのは、1897年2月の懲罰遠征後、南アフリカ戦争の戦場に看護師を志願して旅立つ1900年3月までの間、であることははっきりしている。この間、最初の著作『西アフリカの旅』(1897)出版後の彼女は、相次ぐ講演や執筆の依頼に追われながら、西アフリカの貿易や植民地化をめぐって、商人、植民地省、宣教師ら、利害を異にする者たちの対立に巻き込まれた。その意味で、心身ともに疲弊した時期でもあった。その様子を、伝記作家たちは彼女の心情に分け入り、交友関係のなかに浮き彫りにしながら、1900年6月、37歳で亡くなるまでの非常に濃い彼女の人生を、死してなお残る彼女の記憶を、表現豊かに記述している。これらの伝記を手がかりに、私は、「メアリの西アフリカ」から広がる知的、文化的ネットワークの存在を見いだし、拙著『植民地経験のゆくえ』(人文書院、2004年)にまとめた。

 当時の私は、彼女の人生にベニン・ブロンズが絡んでいたなどと、予想だにしなかった。

書かれなかったベニン・ブロンズ

 従来、メアリ・キングズリについては、伝記にせよ著作分析にせよ、彼女の西アフリカの旅――なかでも、沿岸部の貿易拠点をひとり離れ、オゴウェ川を遡って内陸部へと向かった単独行、その途中で出会った「人喰い」ファン族との交流、ガボン沖合に浮かぶコリスコ島訪問、その後4000mを超えるカメルーン山登頂――が中心であった。彼女の命を奪うことになる南アフリカ戦争だが、伝記作家の多くは、当時のメアリ自身は、戦争が終わったのち、ケープタウンからアフリカ西岸を北上して西アフリカに向かい、三度目の旅を実現させようとしていたと推測している。

 彼女の人生と活動を知る主な資料は、2冊の著作、執筆した数多の新聞・雑誌記事、そして彼女の手紙である。筆まめだった彼女は、西アフリカの旅を支えた商人、現地で出会ったヨーロッパ諸国の植民地官吏、通訳を務めたアフリカ現地人、ミッション教育を受けたアフリカ人エリート、帰国後の講演で知り合った学者や学芸員たち、外務省や植民地省の関係者などと、頻繁に手紙のやりとりをしていた。メールやSNSはもちろん、電話の普及もまだまだ低かった19世紀末、手紙こそが人と人とをつないでいた。

 ところが、彼女の弟チャールズは、姉宛ての手紙を「すべて捨ててしまった」(!)らしい。「オー、ノー!」という伝記作家の(そして私の)叫び声が聞こえてくる。あまり大きな声で言いたくはないが、この弟、メアリの死の知らせが届くと、南アフリカ、ケープタウンへと駆けつけたが、そのあとがいただけない。まもなく、「姉の伝記を書きたい」と言って、彼女の友人たちに姉からの手紙の回収を求めたものの、結局、伝記は完成しなかったどころか、着手すらされなかったという。メアリが深い信頼を寄せたリヴァプール商業会議所の有力者で、1860年代以来西アフリカとの交易に携わってきたジョン・ホールト(1841-1915)は、「あのとき、(手紙の)控えの方を送っておいてよかった」と、友人のE・D・モレル(連載第7回参照)宛ての手紙(1900年6月16日)で漏らしている。

ジョン・ホールト

 ゆえに、メアリ・キングズリの生の声を聴くには、彼女の手紙を受け取った(と思しき)友人たちの周辺を細かに当たるしかない。そうやって編まれた数冊の伝記を手がかりに、彼女の「声」を求める私が目を留めたのは、メアリが心を許した年上の友人で、シャイな彼女のいわば代理人の役割を果たした女性――拙著『植民地経験のゆくえ』のもう一人の主人公、アリス・ストップフォード・グリーンであった(連載第7回参照)。ロンドンの彼女の自宅は、知識人や文化人、政治家や運動家らが多く集うサロンとして知られていた。南アフリカに渡ってわずか3か月でメアリはなぜ亡くなったのか、その理由を知ろうとケープタウンに赴いたアリスは、帰国後、メアリが実現をめざした「アフリカ協会」設立の発起人となる。メアリとの交流のなかでアリス自身も大きく変わった。その先に開かれたアイルランドの未来(正確にはアイルランドの「過去」!)については、拙著をお読みいただきたい。植民地での経験とはそのように継承され、人と人とをつなぎ合わせながら、「その人と出会わなかった未来」と少し違った未来をもたらしていく。


井野瀬久美惠『植民地経験のゆくえ』のカバーにはメアリ・キングズリ(右)とアリス・グリーンの写真を載せている。二人の女性の友情を通して19世紀から20世紀への世紀転換期のイギリス帝国をながめ直してみると、イギリス、アフリカ、アイルランドを結ぶ三角形の見え方が変わってくる。

 しかし、である。2004年に拙著を刊行するまで、私はそれこそ目を皿のようにしてメアリ・キングズリと関わる文献をたどったつもりだったが、そこにベニン・ブロンズの記述を見つけることはなかった。その理由ははっきりしている。私の意識にベニン・ブロンズがなかったからである。2023年秋、ベニン・ブロンズ返還という新たな視点でピット・リヴァーズ博物館を調査するなかで、私はメアリ・キングズリと「再会」した。この「再会」は、激しい衝撃とともに、私に運命めいたものを感じさせた。

『西アフリカの旅』人気の背後

 メアリ・キングズリは、1893年8月から翌年1月にかけて、沿岸部の交易拠点を中心に初めて西アフリカを訪れたのち、1894年12月下旬、2回目の旅に出かけた。沿岸部の白人コミュニティを離れて、『西アフリカの旅』の副題に謳われた「フランス領コンゴ、コリスコ島、カメルーン」への旅が、1895年11月末に帰国した彼女を一躍「時の人」にした。

 西アフリカの旅のなかでメアリが学んだことを一言で言えば、「アフリカにはヨーロッパとは異なる文化や制度、世界観や価値観がある」ということになろう。多様性が声高に叫ばれる今でこそ当然視される見方だが、当時は「帝国主義」と呼ばれる時代である。ヨーロッパ諸国が競い合って領土を国外に広げ、その支配の正当性を人種主義や社会進化論と結びつけた19世紀末、それがどれほど奇抜な考え方であったか、想像していただきたい。そんなメアリの前に、アフリカの野蛮さ・未熟さ、人種的・民族的劣性、統治能力の欠如を強調して介入の必要性を見いだし、彼らを改宗させて「文明化」しようとするキリスト教各派の宣教師たち、ヨーロッパの課税制度やヨーロッパ人が決めた「国境線」を押しつけようとする植民地行政官らが立ちはだかった。

 旅とは常に、国際情勢の変化、それと呼応する現地社会の動きに左右されるものである。イギリスの交易・統治拠点のカラバル周辺は、1893年、オイルリヴァーズ保護領からニジェール沿岸保護領へと改称し、メアリが2回目の旅にあった1895年の上半期のうちに、管轄も外務省から植民地省に代わった。交易をめぐる現地人とのトラブルを逆手にとって、植民地化を一気に進めようとするイギリス政府の方針は、メアリの旅のなかにも透けて見える。


メアリ・キングズリが旅した当時の英領西アフリカ(現ナイジェリア)の領有状況(『植民地経験のゆくえ』126頁)

  1895年1月にカラバルのイギリス総領事館到着後、メアリは4か月もの間、カラバル周辺から動いていない。いや、動けなかった。カラバルを北上してイギリスの王立ニジェール会社(RNC)が管轄するナイジェリア北部に向かう当初の計画は、逆方向――カラバルから沿岸を南下してフランス領コンゴ、オゴウェ川を遡る旅へと、大幅な変更をよぎなくされた。これらは、この時期に行われた植民地省の人事異動(異動の打診を含む)と関係している。

 このとき、新たなトップに就任したのは、「帝国の時代」を代表する政治家、ジョセフ・チェンバレン(1836-1914)だ。自由党を離党して自由統一党を結成し、保守党との連立政権で植民地大臣を務めた彼は、外務省から「格下」と見られていた植民地省をあえて希望したといわれる。チェンバレンのリーダーシップによって、イギリスのアフリカ植民化政策は加速度的に進められ、やがて南アフリカ戦争(1899-1902)へと突き進んでいく。

 この動きに警戒感を募らせたメアリは、帰国直後からイギリス各地を講演して回り、新聞・雑誌の執筆を数多く引き受けて、アフリカ独自の文化や制度の存在とそれへの理解を社会に呼びかけた。1897年1月に出版された最初の著作『西アフリカの旅』は、出版と同時に大評判となり、数多くの書評が書かれ、大いに売れた。拙著『植民地経験のゆくえ』では、その人気の理由をもっぱら、著作の中身と彼女のユニークな文体に求めた。アフリカの自然や人びとに注がれたメアリ独特のまなざし、男性探検家と大きく異なる観察眼、それが生かされた彼女の文体、込められたユーモアのセンス――これらは、私が彼女の著作で大いに堪能したことでもあった。

 メアリの鋭い観察眼が最も発揮されているのは、西アフリカのさまざまな地域にさまざまな形で認められた「フェティッシュ」の存在に関してである。フェティッシュとは、山や石、植物や動物、仮面など物理的な形あるモノに宿り、魔力や呪いを行使する超自然的な力を意味する。形無き不可視の神の象徴(もしくは神に代わる)とされる「偶像崇拝」との違いがわかるように、「物神崇拝」「呪物崇拝」などと訳されることが多い。それは、キリスト教やイスラム教、仏教などの(いわゆる)「宗教」と明確に区分され、アフリカの後進性や野蛮性、劣性の象徴ともみなされた。

 しかしながら、メアリは、フェティッシュとは「アフリカ人の行動を背後で動かす論理、あるいは規範」であり、アフリカの人びとにとっての「宗教」に他ならないと考えた。このフェティッシュ認識から、2冊目の著作『西アフリカ研究』(1899)のなかで、メアリはベニン王国とその王オバに触れている(後述)。

 だが、『西アフリカの旅』には、ベニン王国の話はいっさい出てこない。本文と索引いずれにも出てくる「ベニン」は、ヨーロッパから西アフリカへの沿岸交易ルートに位置し、象牙海岸や黄金海岸に続く「ベニン湾(the Bight of Benin)」だけである。メアリ・キングズリが現実の旅のなかでベニン王国に関心を持つことはなく、よって彼女自身がベニン・ブロンズを西アフリカで入手、収集することはなかったと思われる。

 だからこそ、ベニン・ブロンズの返還問題に揺れる21世紀の今、気になるのは『西アフリカの旅』の中身以上にその・・出版のタイミング――ベニン・ブロンズの略奪につながる1897年1月、2月の出来事と同書の出版が、時期的にぴったり重なることである。すなわち、メアリ・キングズリの『西アフリカの旅』は、オバの警告を無視して王宮に向かった副領事ジェイムズ・フィリップスらへの襲撃(1897年1月上旬)とほぼ同時に公刊され、イギリス海軍の懲罰遠征(1897年2月)と関連する報道のなかで爆発的に売れた。それはまさしく、懲罰遠征を正当化すべく、メディアがこぞって「ベニン王国は野蛮で残酷」と叫びはじめた時期でもある。『西アフリカの旅』は、このメディア戦略とどこか共振したのではなかっただろうか。メアリ自身のフェティッシュ理解とは別に、当時の読者たちは、西アフリカの記述のなかに、「懲罰遠征もやむなし」と納得する「野蛮さ」を確認したかったのではないだろうか。

 そんな目で見直していると、『絵入りロンドンニューズ』(1897年2月6日)の『西アフリカの旅』紹介欄の一節が目に飛び込んできた。曰く、「驚くべき本である。ベニン王に対する遠征開始に合わせたかのような出版である。」

 こうやって、過去はたえず、「新たな現在」と対話するものなのである。

『西アフリカ研究』のなかのベニン・ブロンズ

 2冊目の著作『西アフリカ研究』の第4章「フェティッシュ諸派」で、メアリは4頁ほどベニン王国に言及している。それが、略奪されたベニン・ブロンズ(「略奪する(loot)」という言葉をメアリは使っていない)に対する社会の強い関心を反映するものであったことは、下記の文章からも読み取れよう。

17世紀末ごろまで、ベニンが、内陸部奥深くにある、より高度な文化を有する王国と関係があったことは間違いない。それはアビシニア[エチオピア]であったかもしれないし、ムスリムのスーダン侵攻による混乱で破壊された文化的諸国家のひとつであったかもしれない。現在の私たちの知識では、もっと多くのことがわかるまでは曖昧なままに推測するしかない。ただひとつ確かなことは、ベニンの芸術的展開が示すように、ベニンが影響を受けてきたということである。(『西アフリカ研究』141-142頁)

 強調されているのは、ベニン王国が独自の政治的、経済的、文化的な発展を遂げたわけではなく、より高次の文明国家の影響を受けてきたはずだ、ということである。このあとにも、ベニン王国が森林の湿地帯で孤立し、商業発展から取り残され、周囲に影響を与えるよりも、周囲から影響を被ってきたことが繰り返されている。

 交易したことのある外国の宗教思想をアフリカ人がどれほど安易に表面上採り込んできたかを考えると、ベニン王国に金属加工技術を採り入れた人たちは、宗教の一部も採り入れたと推測せざるを得ない。ベニン・フェティッシュに見られる、フェティッシュとは異なる宗教的遺物は、間違いなくキリスト教のものである。これらの遺物がすべてポルトガルのローマ・カトリック伝道のものか、あるいはそれより早い時期、ムスリムの北アフリカ侵攻以前に存在した西スーダンのキリスト教国家との交流の産物なのかについては、さらに詳しい情報が必要である。(中略)フェティッシュのなかのキリスト教的遺物は、起源はさまざまであっても、すべて現地のフェティッシュに吸収されたと確信する。(『西アフリカ研究』143頁)

 これこそ、ベニン・ブロンズを見る当時のヨーロッパ人の「まなざし」であった。アフリカ人にこれほど繊細で精巧な芸術品が作れるはずもなく、高い文明、おそらくはキリスト教文化の影響を受けたにちがいない――。その芸術性と写実性、高い技術力、洗練されたデザインなどから、ヨーロッパの美術関係者は、当初よりベニン・ブロンズに、エジプト起源説やエチオピア起源説、あるいはヨーロッパのなかで最も早くアフリカとの交易を開始したポルトガルのキリスト教文化などの影響を指摘していた。それほどベニン・ブロンズは、ヨーロッパが想像する「アフリカらしさ」――たとえば、20世紀初頭、パブロ・ピカソがパリの人類博物館で鮮烈なインスピレーションを得て描いた「アヴィニョンの娘たち」に指摘されるアフリカのプリミティヴ・アートのような――に欠けていたということなのだろう(なお、当時ピカソが人類博物館で見た作品の多くは、現在ケ・ブランリ美術館に移されている)。

 メアリ・キングズリの記述も、こうした当時の根拠不明の推測の域を出るものではない。

 自分の知識、情報不足を補うためだろう、メアリは『西アフリカ研究』の最後に、ベニン王国を旅した人たちの記録を附録として掲載している。「附録I」は、友人のシャルル・ナポレオン・デ・カルディの「ニジェール沿岸保護領の現地人についての寸描。その習慣、宗教、交易などに関する若干の記述」である。その名前が示すように、デ・カルディはコルシカ島出身の探検家で、ニジェール川河口のデルタ地帯での生活経験が豊富であり、「西アフリカ通」として知られる。デ・カルディは、「ベニンの現地統治制度と宗教」「ベニン・シティの人びとの起源」という2つのタイトルで、生贄の風習、王位継承や王に仕える官吏の制度、犯罪と刑罰、埋葬方法など、ベニン王国とその人びと、制度や慣習などを21頁にわたって綴った。

 そのなかで、「真鍮、鉄、銅、青銅の鋳造品や象牙の彫刻、綿織物において、ベニン・シティの人びとは比類なき芸術性を発揮していた」と語る一方、デ・カルディもまた、ベニン・シティの祖先が「遠くカナンの地から真鍮細工技術を持ち込んだ」(『西アフリカ研究』456頁)という推測を示している。ヨルダン川河畔のカナンは、旧約聖書で「乳と蜜の流れる場所」と記された約束の地。これもまた、ベニン王国にキリスト教文化の影響を認めるメアリの根拠となっていたのだろう。

 どうもメアリは、デ・カルディのような探検家や西アフリカ商人らの話を集め、いくつかの関連文献で読んだ内容を、『西アフリカ研究』に短くまとめたに留まるようだ。

「マニラ」への注目

 それでも、メアリの記述には、ベニン・ブロンズの核心を突くある重要な指摘がある。ブロンズ(青銅)は、銅と錫、亜鉛、鉛の四元素を主とする合金だが、これらの金属成分についてこう述べているのだ。

ここ[象牙海岸]で現地通貨に相当するものがマニラだ。ブレスレットの形をした、よくある代用通貨である。マニラは、銅とピューター[白鑞、主成分は錫]の合金であり、主にバーミンガムとナントで製造され、個々の価値は20~25サンチームである。 (中略)現地の[仲介]商人たちは、イギリス船の船長やフランスの製造所と取引して、仕入れた荷物(商品)で内陸部の人びとからパーム油を買い、それを現地人や外国人の荷主に売る。そのとき、現地商人はマニラで支払いを受けるが、希望すれば、マニラを製造所や交易船で再び商品に変えることができる。したがって、マニラは、黒人商人にしてみれば、儲けを一時的に蓄えておける一種の銀行のようなものである。(『西アフリカ研究』82頁 )

 
ポルトガル兵士の周りに「マニラ」があしらわれたベニン・ブロンズ 

 レリーフ銘板に描かれたマニラは、その描き方もあって、ブレスレットというよりは馬蹄を連想させるかもしれない。象牙海岸のみならず、広く西アフリカ沿岸で、マニラはヨーロッパ人と現地商人の取引で使われ、メアリが言うように、いわば「貨幣」の役割を果たしてきた。15世紀末にベニン王国と交易を開始したポルトガルが、購入した奴隷の支払いをマニラで行って以来、マニラは、ベニン王国の「主要輸出品」であった奴隷と交換されてきた。そのマニラが、ベニン王宮を飾るベニン・ブロンズの素材となったわけである。

 13世紀ごろに生まれたベニン王国は、当初はサハラ砂漠を渡るアフリカ内陸部の奴隷交易のなかで、マニラを、すなわちブロンズの素材を確保してきた。それが、15世紀末以降、まずはポルトガル、次いでフランスやオランダ、イギリスが参入した大西洋奴隷貿易の増大とともに、ブロンズの素材が大量かつ安定的に入手できるようになったのである。


国際奴隷博物館に展示されている「マニラ」(写真上部、2023年10月6日筆者撮影)

 ベニン・ブロンズはオバへの献上品として、特殊な金属鋳造、象牙・木彫り細工の専門家集団によって作られており、大量かつ安定的な金属の供給は、オバの権力の誇示と直結していた。15世紀から16世紀にかけてのベニン王国の全盛期は、ベニン・ブロンズの製造と奴隷貿易のクロスオーバーのもとでもたらされたといえる。

 イギリスでは1807年に奴隷貿易が禁止され、1833年には植民地における奴隷制度も廃止された。この廃止運動は、19世紀後半までに広く欧米諸国やラテンアメリカ諸国に広がった。それにともなってマニラの使い方も変化し、メアリ・キングズリが西アフリカを旅した19世紀末にもなると、商品交換や銀行替りの貯蓄として機能するようになったと思われる。 

 メアリは、さらに次のように書いている。

ベニンで発見された金属類のなかには、バーミンガムで作られたものもあれば、古いポルトガル製のもの、現地の鋳造品もあり、[ベニン王国に影響を与えた]その内陸国家から採り入れたものの複製もあれば、その内陸国家の製品そのものもあると私は思う。(『西アフリカ研究』143頁)

 略奪したベニン・ブロンズの金属成分がバーミンガム産であったとは……! 彼女のこの指摘が興味深いのは、それが21世紀に進められているマニラの成分分析と通じるからである。

 近年、欧米の博物館が所蔵するマニラのみならず、沈没船に残されたマニラに注目した水中考古学の最新調査として、「ベニン・ブロンズ秘密の成分」が公表され、西アフリカ沿岸で奴隷売買に使われたマニラには3種類あったことが明らかにされた。第一に、ポルトガルが使用した「ターコイズ・マニラ」と呼ばれるタイプであり、その成分はドイツ、ラインラントの鉛と一致した。第二に18世紀に登場した「バーミンガム・マニラ」であり、この2つの移行期に使われたのが第三タイプの「ポポ・マニラ」だという。科学を駆使した21世紀の調査は、上記、マニラをめぐるメアリの推測を裏付けているようにも見える。

 マニラの成分分析に注目する重要性は、1897年にイギリス軍が略奪したベニン・ブロンズが、ヨーロッパで製造された金属素材からできていた事実にある。それは、バーミンガム・マニラに素材提供したイギリスが、(買い手として)奴隷貿易の共犯者であったことを想起させるだけではない。奴隷貿易のもう一方の主役、売り手であるベニン王国(並びにベニン・シティを抱える現在のナイジェリア)が、奴隷売買の対価であるマニラで作られたベニン・ブロンズの返還を求めることは適切だろうか、という新たな問いを誘発するのである。 
 文化財にせよ遺骨にせよ、過去の植民地主義によって奪われたモノの返還作業には、正当に返還請求できるのは誰なのか、その根拠は何か、という難しさがつきまとう。それゆえに、過去との対話において、現在進行中のマニラの科学的な成分分析が見逃せないのだ。

ベニン・ブロンズから「もうひとつの物語」へ!

 繰り返しになるが、ベニン・ブロンズという切り口からメアリ・キングズリの人生を再考した伝記作家は(目下のところ)誰もいない。それでも、手元にある数冊の伝記を読み返していると、彼女がベニン・ブロンズを持っていたことを示す言葉にぶつかるから、不思議である。見たいものが変わると、見えるものも変わってくる。

 たとえば、よく知られるキャサリン・フランクの伝記(A Voyager Out: A Life of Mary Kingsley, 1986)の書き出しは、「ロンドン、ケンジントンの自宅書斎で、メアリ・キングズリが真夜中過ぎまで書き物をしている」シーンから始まる。時は1899年の終わりごろ。当時のメアリは、貴族らの主治医を務めて世界中を旅した父ジョージの追想録を編もうとしていた。壁の本棚には大量の本が積み上げられ、周囲には彼女がアフリカで入手した象牙の仮面が散らばっている。それに続いてこう書かれている。

ベニン・ブロンズは書斎の隣の居間に、人目を引くように飾られており、釘が何本も刺さった血まみれの偶像、高さ3フィートのムヴングが、エントランスホールの正面を誇らしく占めていた。(Chatherine Frank, A Voyager Out: A Life of Mary Kingsley, 1986, p. 3)


メアリの自宅エントランスホール正面に置かれたムヴング

 なるほど。メアリの自宅を訪れた人たちは、まずはムヴングを目にし、次いでいくつかのベニン・ブロンズを見たことになる。だが、話はここまでで、フランクの伝記にベニン懲罰遠征と関わる記述はない。他の伝記同様、メアリがベニン・ブロンズをどのように入手したかに関する言及もいっさいない。

 メアリ・キングズリはどうやって懲罰遠征の略奪品を28点も入手できたのだろうか。この謎を解く鍵はまだ見つかっていない。オークションならば記録が残っているだろうが、彼女自身がオークションに出向いたというよりも、西アフリカの「専門家」である彼女に誰かが個人的に贈ったと考える方がピンとくる。長年彼女とつきあっていた私の直感だ。エビデンスが必要なことは言うまでもないが、贈り主はなんとなく推測できる。この遠征と関わった軍人以外の・・・ 誰か――おそらく、当時の西アフリカ交易と深く関わるリヴァプールの商社や商人だろう。

 メアリ・キングズリは、アフリカ人に対する人種偏見が根深い植民地省の官僚や植民地の役人、現地のフェティッシュを否定してキリスト教化を図る宣教師らと対立する一方で、商取引を通じて現地の人びとと良好な関係を築いてきたヨーロッパ商人たちに信頼を寄せた。とりわけ、彼女との信頼関係で知られるのは、先にも紹介したジョン・ホールトである。ホールトは1862年から西アフリカで取引経験を積み、リヴァプールと西アフリカとの関係発展に大きく寄与してきた。ホールトを介して、メアリ・キングズリにベニン・ブロンズが贈られた可能性は小さくない。ホールトは、かつての自分のような西アフリカ駐在のイギリス商人から、ベニン・ブロンズの情報を得たのかもしれない。連載第15回で話したように、息子が在籍するケンブリッジ大学ジーザス・カレッジに雄鶏のブロンズ像、オクコーを寄贈したのは、リヴァプールに本社のある船会社エルダー・デンプスター社の駐在員ジョージ・ウィリアム・ネヴィルであった。リヴァプールには、入手したベニン・ブロンズをメアリ・キングズリに贈りたくなる人たちが何人もいたのではないか!

 そうそう、昨年秋に立ち寄ったリヴァプールの世界博物館では、「ベニン・ブロンズとリヴァプール」という特別コーナーが設けられていた。そこに、メアリ・キングズリという「補助線」を引いてみたら、何が見えてくるだろうか。


「ベニン・ブロンズとリヴァプール」展(リヴァプール世界博物館、2023年10月5日筆者撮影)


ベニン・ブロンズが略奪された事実を直視し、異なるレンズでリヴァプールの歴史を捉えようとする展示パネルがいくつも目につく(2023年10月5日筆者撮影)

*** 

 「過去につながり、今を問え!」――「過去」とつながらなければ、「今」の奥深くに何があるのか、その「本質」は見えてこない。一方で、現在とのつながり方によって、過去の見え方も大きく変わる。まさしく、歴史は「過去と現在の不断の対話」なのである。

 近い将来、メアリ・キングズリとの「再会」から生まれたいくつかの問いを解く旅に出かけよう。問いが解けていく私の話に聴衆が、読者がワクワクする、そんな日を想像しながら……。

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著者略歴

  1. 井野瀬 久美惠

    1958年愛知県生まれ。甲南大学文学部教授。京都大学大学院文学研究科西洋史学専攻単位取得退学。博士(文学)。第23期(2014-2017)日本学術会議副会長。大英帝国を中心に、(日本を含む)「帝国だった過去」とわれわれが生きる今という時空間との関係を多方向から問う研究をつづけている。主な著書に『大英帝国はミュージック・ホールから』(朝日新聞社、1990)、『子どもたちの大英帝国』(中公新書、1992)、『女たちの大英帝国』(講談社現代新書、1998)、『黒人王、白人王に謁見す』(山川出版社、2002)、『植民地経験のゆくえ』(人文書院、2004、女性史青山なを賞受賞)、『大英帝国という経験』(講談社、2007;講談社学術文庫、2017)、『イギリス文化史』(編著、昭和堂、2010)、『「近代」とは何か』(かもがわ出版、2023)など。

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