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過去につながり、今を問え!

ベニン・ブロンズとは何か?(2)

揺れる大英博物館

 1963年にイギリス議会を通過した大英博物館法は、一貫して収蔵品の移動を禁じている。例外は、「収蔵物が複製品であるか、破損しているか、所蔵品として『ふさわしくない』と判断された場合」のみだ。この議会法に守られて、大英博物館は今日に至るまで、いっさいのコレクションの「返還」に応じていない。


大英博物館正面入り口(2023年9月29日筆者撮影)

 たとえば、1970年代以降、ギリシャ政府は、古代ギリシャ、アテネのパルテノン神殿の破風(屋根の先端部分)を飾る大理石彫刻、通称「パルテノン・マーブル」の返還を主張し続けてきた。これらは、持ち帰ったイギリス人外交官で、当時ギリシャを支配下に置いていたオスマン帝国駐英大使、第7代エルギン伯爵にちなんで、「エルギン・マーブル」という名で知られる。


エルギン伯爵トマス・ブルースがアテネのパルテノン神殿からはぎ取り、大英博物館に売却した大理石の彫像・レリーフ群、パルテノン・マーブル。大英博物館は全体の半分以上を所有している(2023年9月29日筆者撮影)


大英博物館に展示されたパルテノン神殿破風部分の彫刻群(2023年9月29日筆者撮影) 

 ギリシャはことあるたびに、公式・非公式にその返還を求めたが、大英博物館はいっさい耳を貸さなかった。この強硬姿勢は、アテネ・オリンピック(2004年)をきっかけに、ギリシャ政府がパルテノン・マーブルの完全収容――アテネに遺された彫刻と大英博物館所蔵の彫刻との一体化計画――をめざして、新アクロポリス博物館を完成(2009年)させ、パルテノン・ギャラリーを披露しても変わらなかった。2023年11月、イギリスの首相リシ・スナクは、パルテノン・マーブルの返還を議論するために渡英したギリシャ外相との会談をドタキャンしている。

 ことほどさように、大英博物館は、所蔵物の返還に応じない姿勢を貫いてきた。2017年、フランス大統領に選ばれたエマニュエル・マクロンがアフリカの文化遺産の返還計画を宣言しようが、翌2018年、マクロン大統領の指示で歴史学者サヴォワと経済学者サルによる文化財返還の倫理ガイドラインが(フランス語と英語で)公表されても(本連載第14回)、大英博物館の姿勢は基本的に変わらなかった。ベニン・ダイアローグ・グループ(本連載第14回)のように、2010年代に入る以前から、欧米の博物館では収蔵品を「元の場所」に戻すべきか否かの議論が巻き起こっていたのだが、大英博物館が事あるごとに繰り返したのは、「ここ大英博物館こそ、歴史的・文化的遺産にとって最も安全な居場所である」という主張であった。

 この頑固な主張を見直さざるを得なくなったのは、直接的には2020年代に起こった二つの出来事にあると思われる。

 ひとつは、2020年5月下旬、アメリカ、ミネソタ州ミネアポリスでのジョージ・フロイドの死をきっかけに、世界各地に拡散した「ブラック・ライヴズ・マター(BLM)」運動だ。「黒人の命は大切」を訴えてレイシズム(人種主義)に厳しい批判の目を向ける運動の中心は、いわゆるZ世代と呼ばれる若者たちである。IT革命で到来したデジタル時代の申し子である彼らは、物理的距離などものともせず、SNSで瞬時につながりあい、動画や画像を駆使してリアルタイムで情報をやり取りする。現在の人種差別の根源に奴隷貿易や奴隷制度、植民地主義の歴史を認めた彼らは、その責任を過去の人物たちにも求めた。アメリカではコロンブスや南軍のリー将軍らの像が倒され、イギリスでは、港町ブリストルで長らく「慈善家」として知られてきたエドワード・コルストン(1636-1721)の像が引き倒されて、海中に投棄された。見るべき問題の論点が、コルストンがこの町で行った慈善活動の中身ではなく、慈善資金の出処に移行し、彼と奴隷貿易との関わりが浮上、問題視されたのである。それ以外にも、歴史上の「偉人」たちに奴隷貿易・奴隷制度との関係が問われたことは、すでに本連載(第2回第3回第4回)で触れた通りである。

 大英博物館がBLM運動のなかで指弾されたのも類似の問題、すなわち、7万点ものコレクションを寄贈して博物館の基礎を築いたハンス・スローン(1660-1753)と奴隷貿易・奴隷制度との関係であった。

 スローンは北アイルランド、アルスター出身のプロテスタント系アイルランド人、いわゆるアングロ・アイリッシュの家系に属する。子どものころから博物学に興味を持ち、ロンドンとパリで医学と植物学を学んだのち、1689年、大英博物館のほど近くで内科医として開業した。ちょうどイングランドが、「主権は国王ではなく議会にあり!」という原則を確立させた政変、「名誉革命」を通じて国王ジェイムズ2世を廃位し、彼の長女メアリ(2世)と彼女の夫のオランダ総督ウィレム(ウィリアム3世)を新たな国王として迎えた、歴史的な出来事の年のことである。以後、裕福な上流階級を患者として抱えたスローンは、1719年に由緒ある王立内科医協会の会長となり、1727年には王立協会(ロイヤル・ソサエティ)の会長にも就任した。

 開業以前、スローンはジャマイカ総督の主治医を務めた関係で、ジャマイカに1年余り(1687-89)滞在している。このとき彼は、先住民や西アフリカから連れてこられた奴隷の助けを借りて、現地の事物、特に植物に関心を寄せ、標本を集めはじめた。やがて『マデイラ諸島、バルバドス、ネービス、セント・クリストファー、ジャマイカへの旅』(全2巻、1707~1725年)にまとめられるその成果には、イギリス(広くは西ヨーロッパ諸国)がカリブ海域との間に築きあげた知的ネットワークが顔をのぞかせている。言い換えれば、この知のネットワークは、アフリカ人奴隷やカリブ海域先住民らの自然観、植物への知識や理解とも深く結びついていた。大西洋上で展開された奴隷貿易・奴隷制度には、奴隷を介した「知の混淆」との一面があったのだ。語弊を恐れずに言えば、近代科学は、ヨーロッパのオリジナルでも独占物でもないのである。


ハンス・スローン著『マデイラ諸島、バルバドス、ネービス、セント・クリストファー、ジャマイカへの旅』の表紙

 このときスローンがジャマイカから送った800点余りのコレクションは、ロンドンの自然史博物館に今なお保存されていると聞く。増え続ける植物や昆虫、動物の標本、その他珍品を収容するために彼が新たに購入した土地屋敷は、ロンドン西部、チェルシー地区の地下鉄の駅名「スローン・スクエア」に今も残る。

 スローンのコレクション拡大に大きく貢献したのは、何と言っても、ジャマイカの砂糖プランターの未亡人、エリザベス・ラングレイ・ローズとの結婚(1795年)であった。彼女が相続した大農園は、コレクション収集に潤沢な資金を提供するとともに、スローンを奴隷所有者にもしたのである。加えて、当時の上流階級によく見られたように、彼もまた奴隷貿易と関わる企業に投資していた。

 高揚するBLM運動のなか、大英博物館は、コロナ禍によるロックダウンに伴う閉館期間(2020年3月18日~8月26日)を利用して、奴隷貿易・奴隷制度や植民地主義の観点から館内全体を見直し、展示の改修を行った。博物館のシンボル的存在であったスローンのテラコッタ製胸像(1730年代制作)は、それまで、1階中央「啓蒙ギャラリー」の目立つ場所に置かれてきた。それが台座からはずされて、「ハンス・スローン、帝国、そして奴隷制」と銘打たれたガラスケースに収められたのである。同じギャラリー内、わずか数メートルの移動ではあるが、その差は歴然としていた。スローンの立ち位置を変えることで、大英博物館は、その基礎となったコレクションが奴隷制の産物であることを認めたのである。「啓蒙ギャラリー」自体の説明にも、スローンが生きた18世紀が、「新たな知識と科学的発見の時代」のみならず、「ヨーロッパの植民地主義と大西洋上の奴隷貿易の時代」でもあったことが明記された。


鍵付きガラスケースに収められ、「帝国と奴隷制の遺産」と題する説明が付記されたハンス・スローンのテラコッタ製胸像(2023年9月29日筆者撮影)

 同時期、同じ視点から見直されたアフリカ・セクションでは、ベニン・ブロンズに略奪の来歴が地図入りで加わった。

 もうひとつ、大英博物館がこれまでの主張を見直す契機となった出来事がある。2023年8月、2000点を超える所蔵品の紛失が発覚し、新聞や雑誌、ネット上で大々的に報じられ、厳しい批判を浴びたことである。古代ギリシャ・ローマの宝飾品を中心に、25年にもわたって窃盗と転売に手を染めたシニア・キュレータは免職処分となった。館長と副館長も責任をとって辞職した。関連する調査では、大英博物館が所蔵品すべての記録を残していない事実も明らかにされ、博物館の名誉は大きく傷つけられた。大英博物館は歴史的・文化的遺産にとって「安全な居場所」ではなかったのである。

 創設者ともいえる人物の像を台座からはずして歴史的文脈に置き直した大英博物館は、すべての収蔵品の来歴を見直し、そのデジタル化、及び倫理コードの見直しを進めつつある。大英博物館法ではどうにもならない環境変化を受けて、大英博物館は、ベニン・ブロンズについても返還を視野に入れながら、その実際的、具体的な方法を模索している。

モノをモノとしてとことんこだわる――ピット・リヴァーズ博物館

 2020年5月、アメリカ発の人種主義抗議運動が見直しを迫ったのは、大英博物館だけではない。BLM運動は世界各地の博物館に倫理コードの再検討を求めた。オクスフォード大学ピット・リヴァーズ博物館(PRM)も例外ではない。


オクスフォード大学自然史博物館の入り口(2023年10月3日筆者撮影)


ピット・リヴァーズ博物館は、オクスフォード大学自然史博物館に居並ぶ恐竜たちを横目で見ながら、回廊を進んだ先にある(2023年10月3日筆者撮影)



自然史博物館には明るい陽光が差し込む(2023年10月3日筆者撮影)

 PRMをご存じだろうか。オクスフォード大学付属の人気博物館、自然史博物館の正面玄関を入り、1階の吹き抜け部分、自然光に満ちた展示室に居並ぶ恐竜の骨を横目で見ながら回廊を進むと、その奥、明るい光が途切れた瞬間、PRMの世界が一気に開けてくる。目に飛び込んでくるのは、木組みのガラス張り展示ケースにぎっしりと詰め込まれたモノ、またモノ。この光景は1884年の設立、2年後の開館以来、変わっていないと聞く。ともかくも、写真をご覧いただきたい。



木組みのガラス張り展示ケースが並ぶピット・リヴァーズ博物館(2023年10月3日筆者撮影)



鍵の展示ケース(2023年10月3日筆者撮影)



石、ガラス、陶器で作られたビーズの展示ケース(2023年10月3日筆者撮影)

 設立から140年が過ぎた今、パンフレットによると、PRMのコレクションは70万点余りを数えるという。最も興味深いのは、多くの博物館が地域別、民族別、あるいは時代別の展示構成をとるなかで、PRMが、ブーメランや仮面、喫煙道具や鍵といったモノの種類別、ないしは「魔術や儀礼、信仰」とか「光や火を起こす」といった目的別の展示を貫いていることだろう。

 ゆえに、「順路」などはあるはずもなく、来館者は「どこからでもご自由に」閲覧できる。3階建ての展示室のどこにも、各階の全体像を語るパネルはない。それぞれの陳列ケースにはモノのざっくりした種類名が、各々のモノには手書きかタイプ打ちしたラベルや簡単な説明があるだけだ。さまざまな地域から似たような用途のモノを集めた各キャビネット空間からは、時代も地域も超えた「人類の世界」を展望しようとする空気を感じる。これこそ、1884年、オクスフォード大学に2万6000点ものコレクションを寄贈して博物館の名称にその名を刻んだ人物、イギリス海軍の軍人であったオーガスタス・レイン・フォックス・ピット・リヴァーズ(1827-1900)の願いだったと伝えられる。

 彼は、従兄で後継者のいない第6代リヴァーズ男爵ホレイス・ピットから、「ピット・リヴァーズを名のること」を条件に、27000エイカーの土地を継承して、当時イギリス最大の地主となった。豊かな資産を使い、考古学や人類学、博物学への自身の興味のおもむくままに、彼は古物商からモノを買い集めた。彼の関心を支えたのは、妻アリス・マーガレット・スタンリー(1828-1910)との結婚を介してつながった、スタンリー家の知的ネットワークであった。妻の父で男爵のエドワードは枢密顧問官、母アンリエッタは女子教育の運動家で、スタンリー家はいわゆる「知的貴族」と呼ばれる名家だった。スタンリー家の一員となったことで、ピット・リヴァーズは、進化論のチャールズ・ダーウィン、考古学者のフリンダーズ・ペトリといった有名知識人の知己を得る。とりわけ社会進化論を展開した哲学者ハーバート・スペンサーとの親交が、博物館の上記展示方法につながったとされている。

 博物館設置にあたり、オクスフォード大学が条件としたのは、人類学の教授ポストを設けることであった。かくして、ピット・リヴァーズの寄付講座として始まった人類学教室において、初代教授となったのがエドワード・バネット・タイラー(1832-1917)である。「文化人類学の父」といわれる彼の著作『原始文化』(1871年)は、文化を「知識、信仰、芸術、道徳、法、習俗など、人間が社会の一員として獲得したすべての能力と慣習の総体」と定義し、その後も広く使われた。PRMの設立はイギリスにおける人類学の発展と直結していたのである。

 対して、コレクションの寄贈にあたってピット・リヴァーズが大学に求めた条件は二つあった。ひとつは展示構成を変えないこと。もうひとつはコレクションを研究や教育に生かすこと。とりわけ、彼は教育が一般大衆に与える影響に関心を持っており、その場として博物館に注目した。男性労働者に選挙権が広がりつつあった1880年代、ピット・リヴァーズは博物館が民衆教育に果たす役割を確信していたのである。PRM開館後、1890年代には二つ目の民族学博物館(ファーナム博物館)を、イングランド西部、ドーセット州の所領に設立して、農民ら地元コミュニティを広く受け入れた。そこでも、PRM同様、モノの種類別、目的別の展示方法が貫かれた。

「ローズ・マスト・フォール!」の響きのなかで――変わる倫理コード

 PRMに変化をもたらしたのは、BLM運動の数年前、2015年に南アフリカから伝播し、オクスフォード大学のキャンパスと周辺道路を埋め尽くした学生たちの叫び声であった。「ローズ・マスト・フォール!」――イギリス帝国主義を象徴する実業家で、ケープ植民地相も務めた「南アフリカの巨人」、セシル・ローズ(1853-1902)の像は倒されるべきである!

 2015年3月、南アフリカのケープタウン大学で始まった学生たちの草の根運動、植民地主義に反対し、カリキュラムの脱植民地化を求める「ローズ・マスト・フォール(RMF)」運動(本連載第2回)もまた、BLM運動同様、Z世代の大学生らが使いこなすSNSを通じてあっという間にアフリカ大陸を越え、同年秋にはイギリス各地の大学に広がった。とりわけ、セシル・ローズの石像をファサードに置くオクスフォード大学オリエル・カレッジ周辺は、「ローズ・マスト・フォール!」を連呼する学生たちで連日あふれかえった。

 オクスフォード大学には、セシル・ローズの遺言により、20世紀初頭から(その名も)「ローズ奨学金」なる制度が設けられ、今なお多くの留学生がその恩恵に預かっている。そのひとり、オクスフォード大学博士課程に在籍する学生がこうツイートした。「PRMはオクスフォード大学で最も暴力的な空間のひとつだ」と――。

 そんな折、2016年春、PRMの「脱植民地化」へと舵を切る新しい館長が着任した。ローラ・フォン・ブロークホーヴェン教授である。前任のライデン大学人類学博物館で一足早く「博物館の脱植民地化」議論に触れていた彼女は、イギリス帝国が収奪してPRMに収蔵されたモノたちをめぐって「元の持ち主」たちとの対話を開始し、返還に向けた交渉を丁寧に進めていった。

 たとえば、2017年、東アフリカ、マサイ族から、PRMが収蔵するビーズの装飾品の返還要求が出された。父から息子へと受け継がれるネックレスとブレスレット、割礼後の女性がつけるイヤリングと頭の飾り、結婚した女性用の首飾り、の5点である。マサイの慣習では売買も譲渡も許されていないこれら5点は、イギリスの行政官で作家だったアルフレッド・クラウド・ホリスが持ち出されたとされる。2017年から交渉を続けたPRMは、牧畜を主な生業とするマサイの婚資を基準に、一家族49頭ずつ、5家族に牛を送り、2023年7月、和解と補償の儀式を執り行った。

 また、コロナ禍によるロックダウンとBLM運動を経た2020年7月、PRMは、それまで「目玉」展示であったラテンアメリカ、シュアール族の「干し首」――英語では「縮んだ頭部(shrunken head)」――を陳列ケースから撤去した。と同時に、陳列ケースの「間」に、倫理コードに触れたパネルがいくつも設置された。それまでPRMにはなかったものだ。その一つ、「『干し首』を見に来たことはありますか?」というパネルには、こんな説明が続いている。

 かつてここに展示されていた人間の遺物ヒューマン・リメインズは撤去されました。現地の人びとは自分たちの祖先がこんなふうに展示されることにずっと異議を唱えてきました。
 私たちの調査でわかったことは、来館者が本博物館の人間の遺物の展示を見て、それらの文化を「野蛮」「原始的」「ぞっとする」証拠と考えることが多いということです。そのような展示は、来館者に互いの存在をより深く理解できるようにするどころか、人種差別的でステレオタイプ的な考え方を助長するものであり、今日の博物館の価値観に反するものです。


「干し首」が撤去された後に設置された倫理コード・パネル(2023年10月3日筆者撮影)

 「過去の研究実践には問題がある」とする別のパネルにはこうある。

頭蓋骨の測定といった人間の遺物の研究は、白人には、黒人や女性たちの身体をモノとして扱える権利があるという人種差別的、性差別的な考え方を肯定する理論に科学的なオーラを与えてしまいました。このような考え方は、今日なお人種主義や排除の行為として根強く残っています。そうした見方に私たちは影響され続けているのです。



「過去の研究実践には問題がある」と記す倫理コードのパネル(2023年10月3日筆者撮影) 

 展示の見直しのなかで、ベニン・ブロンズは、モノの種類別、目的別というPRMの伝統的ルールではなく、「1897年のベニン懲罰遠征で王宮から略奪されたモノ」という説明書きのもと、一つにまとめられて展示されるようになった。2017年、PRMはベニン・ダイアローグ・グループの正式メンバーともなっている。



「1897年のベニン懲罰遠征で王宮から略奪されたモノ」としてまとめて展示されているベニン・ブロンズ(2023年10月3日筆者撮影)

 コロナ禍が収束する兆しが見え始めた2022年1月、ナイジェリア国立博物館・記念碑委員会(NCMM)はオクスフォード大学に対して、97点のベニン・ブロンズをナイジェリア連邦政府に返還するよう要請した。このうち、94点がPRM所蔵である。PRM館長らは、同年4月、NCMMの代表2名と面談。6月には大学評議会(カウンシル)から「97点すべての返還」に賛同を得た。新聞はこれを大きく報道した(https://www.theguardian.com/education/2022/jul/30/oxford-university-may-return-items-looted-from-nigeria-by-britain-in-1897)。

 所蔵品の来歴を調査したのは、PRMのキュレータを務めるオクスフォード大学考古学教授のダン・ヒックスである。大英博物館(British Museum)をもじったヒックスのベストセラー『野蛮な博物館たち(Brutish Museums)』(2020年)には、より詳細なベニン・ブロンズの所蔵状況が掲載されている。それによると、PRM所蔵のベニン・ブロンズの総数は、ナイジェリア政府が求めた返還数よりも多い145点。大半が懲罰遠征でオバの王宮から略奪されたものであり、ディーラーや競売での入手以上に、個人からの寄贈が多いことを特徴とする。わけても私にとって興味深いのは、その2割近くの28点が、あのメアリ・キングズリ(本連載第5回第6回第7回)からの寄贈であったことだ。彼女は、看護師として南アフリカ戦争の戦場を志願するにあたり、万が一の事態を考えたのだろう、弟チャールズに遺言書を託した。そこに、所蔵するベニン・ブロンズのPRM寄贈が書かれていたのである。

 メアリ・キングズリはベニン・ブロンズとどのような接点を持ったのだろうか。次回じっくりと考えてみたい。

イギリス初の返還事例――ケンブリッジ大学ジーザス・カレッジのオクコー

 セシル・ローズ像をファサードに置くオクスフォード大学オリエル・カレッジ周辺が「ローズ・マスト・フォール!」を連呼する学生たちで埋め尽くされた2015年の晩秋、ケンブリッジ大学ジーザス・カレッジの学生組合は、一風変わったモノに目を向けた。カレッジのメインホールに置かれた雄鶏のブロンズ像、通称「オクコー(Okukor)」である。この雄鶏像を問題視したのはナイジェリアからの留学生で、彼は、オクコーはベニン王国からの略奪品であり、ホールから撤去して「元の場所」に返すべきではないかと主張した。これを受けて、学生組合は同年末に「ベニン・ブロンズ評価委員会」を立ち上げてオクコーの来歴を調査し、今後の方向性を議論した。それは、南アフリカ発のRMF運動が突きつけた「キャンパスの脱植民地化」と文字通り呼応しながら、学生たちに「イギリスが帝国であった過去」、植民地を持った過去と向き合うことを迫ったといえる。


ケンブリッジ大学ジーザス・カレッジの「オクコー」と類似の雄鶏のブロンズ像は、大英博物館でも展示されている(2023年9月28日筆者撮影)

 ジーザス・カレッジの記録によると、オクコーは、1905年、当時ここに在籍していた学生の保護者、ジョージ・ウィリアム・ネヴィル(1886-1974)からの寄贈であった。ネヴィルはリヴァプールの船会社、エルダー・デンプスターの西アフリカ駐在員で、当時の二大交易拠点ラゴスとボニー(ともに現ナイジェリア南部)での駐在経験を持ち、植民地化に必須の金融政策のため、「イギリス西アフリカ銀行」(1965年にスタンダード銀行に吸収合併)の設立にも尽力した人物である。ネヴィルは、懲罰遠征軍が王宮を陥落させた後に、ベニン・シティに入った。王宮陥落の1か月ほどのちの地元紙『ラゴス・ウィークリー』(1897年3月20日)には、ネヴィルのインタビュー記事が掲載されている。そこには、彼が、遠征軍司令官ハミルトン大佐の助言を受けて本隊より一足先に遠征拠点のカラバルに戻ったこと、ベニン王宮内で膨大な数のベニン・ブロンズが見つかったこと、ベニン・シティ脱出時には20人もの護衛がつき、かの地がかなり危険な状況にあったことなどが綴られている。

 当時ネヴィルもかなりの略奪品を入手したようだが、そのなかから雄鶏のブロンズ像を息子が学ぶカレッジに寄贈したのは、ジーザス・カレッジの紋章が、創設者であるイーリー司教ジョン・オルコック(Alcock)の名にちなんで、3羽の雄鶏、であったからだろう。


3羽の雄鶏があしらわれたジーザス・カレッジの紋章

 ベニン・ブロンズ評価委員会は、この問題について大学とカレッジが果たす倫理的な役割を重視し、「オクコーはナイジェリアへの恒久的返還が望ましい」との結論を下した。11頁にまとめられた同委員会の報告書には、オクコーの返還は、「帝国であった過去」と向き合い、脱植民地化を進める行為であり、本事例がグローバルに議論されている「学術の脱植民地化」のモデルケースとなるだろうことも明記されている。ケンブリッジ大学がオクコーを所蔵、展示し続けるならば、それは大学が植民地主義の暴力に依然として加担し続けることになるとする学生組合の見方は、セシル・ローズ像の撤去を求めたRMF運動とぴったり重なる。

 報告書を受けて、2016年2月、ジーザス・カレッジの学生組合はオクコーのナイジェリアへの恒久的返還に合意し、翌3月には実質的な決定権を有するカレッジの同窓会組織に諮られた。卒業生の意見は賛否両論に分かれた。学生たちの主張を「行き過ぎ」と批判する声が多く聞かれ、「オクコーがナイジェリアに返還されれば寄付をとりやめる」と息巻く卒業生も複数いたという。加えて、「誰に返還するのか?」「返還行為を代弁、代表するのは誰か?」などの疑問も出されたと聞く。

 ケンブリッジ大学に31あるカレッジはいずれも独立した組織であるが、問題の性質を考えて大学本部が仲裁に入り、一旦、オクコーはカレッジのメインホールから撤去され、大学付属の考古学人類学博物館(MAA)に預けられた。ここでも、大英博物館と同じく、植民地主義の遺産を収蔵・展示し、その存在や意味を議論する場として、「博物館こそが最も適切かつ安全な場」という暗黙の合意が働いたと思われる。2017年3月には、ベニン・ダイアローグ・グループや、PRMの返還プロセスにも参加したナイジェリアのNCMM関係者を招いて、ワークショップも行われた。

 その一方で、ジーザス・カレッジ学生組合との対話に前進はなかったようである。あくまで「ナイジェリアへの恒久的返還」を主張する学生たちは、MAAでのオクコーの保存と展示を「大学の組織的人種主義」だと激しく反発した。オクコーはジーザス・カレッジに戻され、鍵をかけた棚に保管された。ナイジェリアへの返還を視野に入れた対話は、暗礁に乗り上げたかに見えた。

 硬直化した状況が動き出したのは、2019年、第41代ジーザス・カレッジ学寮長マスターに就任したソニタ・アレイネ・オベ(1968~ )のリーダーシップによるものと思われる。ソニタはカリブ海に浮かぶ旧英領バルバドスの出身。ジーザス・カレッジ初の女性学寮長であり、オクスブリッジ(オクスフォード大学とケンブリッジ大学の併称)初の黒人学寮長でもある。実業界のみならず、ジャーナリストとしても活躍していた彼女は、学寮長に抜擢されるや、教員(フェロー)、職員、学生各々の代表で構成される「奴隷制遺産ワーキング会合(LSWP)」を設置し、この問題をより広い文脈に置き直した。

 この「奴隷制遺産」という名称は、2009年、ロンドン大学ユニヴァーシティ・カレッジが中心となって立ち上げた奴隷貿易・奴隷制度関連のデータベース化事業、通称「レガシープロジェクト」を想起させよう。立ち上げられたデータベースには誰でも簡単にアクセスできることから、2020年のBLM運動は、広く「過去」を巻き込むことになった。すなわち、17、18世紀に奴隷貿易で儲けた企業や銀行、団体、個人との関係や責任が21世紀の今なお問われるという事態が、2010年代後半から20年代にかけて前景化したのである。

 責任を問われたのは大学という教育・研究機関も例外ではない。2016年、グラスゴー大学は他大学に先駆けて「奴隷制と歴史に関する運営委員会」を設置して、「過去の補償」に向けて動き出していた。すなわち、ケンブリッジ大学ジーザス・カレッジのベニン・ブロンズ返還問題は、それ自体が独立した問題ではなく、イギリス(そしてそれ以外の西欧諸国やアメリカ)の大学で噴出した「奴隷貿易・奴隷制度の記憶」と深く関わっていたのである。

 LSWPの会合では、カレッジがこのベニン・ブロンズを所有するに至った歴史的、法的、道徳的な状況が詳細に調査された。学寮長は、大学本部とカレッジ双方の多様な意見に耳を傾けながら、論点を整理してオクコーのナイジェリア返還への道筋をつけていった。ナイジェリアのNCMM事務局長アッバ・イサ・ティジャニ教授やナイジェリア教育文化相、ベニンの現オバを招いてオクコー返還式典が行われたのは、2021年10月下旬のことであった。その模様は今なお、カレッジのHPで見ることができる。LSWPの委員長を務めたベロニク・モーティエは、返還実現の喜びとともに、オクコーを「正当な所有者から長期間奪ってきた歴史的な過ちに対して、心から謝罪する」と述べた。公式の場での正式な謝罪あっての返還、ということなのだろう。

 かくして、ケンブリッジ大学ジーザス・カレッジは、ベニン・ブロンズを返還したイギリス初の機関となった。とはいえ、友人のケンブリッジ大学教員の情報によると、ジーザス・カレッジでは今なお、この返還の是非をめぐって意見対立が続いているという。奪われたもの/奪ったものを「元に戻す」道のりはけっして平坦ではない。だからこそ、対話を重ね、記憶を共有し、忘れないようにしなければならない。

 そして、記憶を喚起するツールとして、映画は時に有効である。たとえば……。

『ブラックパンサー』

 ある映画の一シーンに触れながら、今回の話を終えることにしよう。

 場所は大英博物館を模したとおぼしき「英国博物館(Museum of Great Britain)」のアフリカ展示室。ひとりの黒人男性が食い入るようなまなざしで展示品を見ている。不審に思った警備員から通報を受けた女性学芸員がコーヒー片手に彼に近づき、「おはようございます。何か御用ですか」と話しかけた。「展示品を見ています。美しい。あなたのご専門ですね」と応じた男性は、近くの黒い仮面に目をやり、こう尋ねた。「これはどこのものですか?」 

 女性学芸員は、手にしたコーヒーを飲みながら、「アサンテ、今のガーナ、19世紀の作品」と答えた。「まじで?」と黒人男性。彼は別の仮面を指さし、「ならば、あれは?」と質問を続けた。「あれは16世紀、ベニンのエド人たちのもの」と学芸員。その仮面は、前回紹介した大英博物館のアフリカ・セクションを彩るベニン・ブロンズのひとつ、オバを象った象牙の腰飾りによく似ている。

 「じゃあ」と、黒人男性は展示品の斧を指さし、「これについて教えてくれる?」と続けた。学芸員は、「これもベニン王国で入手されたもの。7世紀のフラ人[ナイジェリア北部の部族]のものだと思う」とコーヒーを飲みながら答えた。これに対して、「そうかな?」と黒人男性は疑問を呈す。「なんですって?」と聞き返す学芸員。彼は彼女にこう言った。「これはイギリス兵士によってベニン王国から持ち出されたものだけど、実はワカンダのもので、ヴィブラニウムでできている。」 

 妙な顔をする学芸員に、「落ち着いて、僕がもらっていくから」と彼は言った。女性学芸員は即座に、「これは売り物ではありません」と応じた。注目したいのは、このあとの黒人男性の言葉である。

 じゃあ、君の祖先はどうやってこれを手に入れたと思う? 適正価格を支払ったのか? あるいは、他のすべてのもの同様に、奪ったのかな?

 これに対して、学芸員は、「申し訳ありませんが、お引き取りを……」となぜか喉を詰まらせた。その様子を見ながら、黒人男性は冷たくこう言い放つ。「私がここに入ってきたときから、警備員たちはずっと私のことを監視していたけれど、あなたの飲み物にはまったく注意を払わなかったね」――はっとして、手に持つカップに目をやった学芸員は、次の瞬間、信じられないという表情を浮かべて倒れ込んだ。彼女に近づく警備員に、黒人男性は「ご同僚はどうも調子がよくないようだね」と介抱するふりをしながら、救急救命士を装って博物館に入ってきた仲間たちと合流した。監視カメラ画像をフェイク画像と入れ替えた仲間のフォローも受けて、彼らはヴィブラニウムでできたその斧を持ち去った……。

 「ヴィブラニウム」という言葉でピンときた読者もいるだろう。そう、上記は、キャプテン・アメリカンやアヴェンジャーズ、ドクター・ストレンジやアントマンといったヒーロー物で知られるマーベル・シネマティック・ユニバース制作の映画『プラックパンサー』(2018年公開)の一シーンである。ヴィブラニウムは、ブラックパンサーの故郷(に設定された)アフリカの仮想未来国家、ワカンダ王国のみで採掘される鉱物資源で、振動や衝撃を吸収するという特性からその名がつけられ、ワカンダ王国の繁栄を支えた。上記博物館シーンに登場する黒人男性は王国の王位を狙う殺し屋であり、このシーンでも人殺しを躊躇しない。だが、ベニン王国からの略奪品にワカンダのヴィブラニウム製の斧を加え、それを「英国博物館」から取り戻そうとする設定自体、大英博物館が現実的に直面している返還問題そのものである。

 この映画は、公開からわずか12日間で7億ドルを超えるチケットセールスを記録し、興行収入競争に嵐を巻き起こした。だが、そのなかで、このシーンに込められた皮肉を、黒人男性の問いのリアルな問題性を、かぎ取った人はどれくらいいただろうか。

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著者略歴

  1. 井野瀬 久美惠

    1958年愛知県生まれ。甲南大学文学部教授。京都大学大学院文学研究科西洋史学専攻単位取得退学。博士(文学)。第23期(2014-2017)日本学術会議副会長。大英帝国を中心に、(日本を含む)「帝国だった過去」とわれわれが生きる今という時空間との関係を多方向から問う研究をつづけている。主な著書に『大英帝国はミュージック・ホールから』(朝日新聞社、1990)、『子どもたちの大英帝国』(中公新書、1992)、『女たちの大英帝国』(講談社現代新書、1998)、『黒人王、白人王に謁見す』(山川出版社、2002)、『植民地経験のゆくえ』(人文書院、2004、女性史青山なを賞受賞)、『大英帝国という経験』(講談社、2007;講談社学術文庫、2017)、『イギリス文化史』(編著、昭和堂、2010)、『「近代」とは何か』(かもがわ出版、2023)など。

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