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過去につながり、今を問え!

カリブ海の近代と帝国の未来(3)

 エア・アンティルというカリブ海域のローカル航空は、一日一便、サントドミンゴとグアドループとを結んでいる。この航空会社から突然、予定していたフライトが「翌日早朝に変更」とのメール連絡が入った。理由は不明。慌ててもう1泊できるホテルを探して移動し、タクシーの予約時間を変更した。翌朝、ラス・アメリカス国際空港で出発手続きを終えて荷物を預け、搭乗ゲートに向かうと、出発便一覧ボードに当該便の「キャンセル」が表示されていた。はあ? 戸惑う私たち。事情がわからないままゲート近くでまごまごしていると、(これまた理由不明だが)なぜか便が復活し、予定時間を4時間近く遅れてサントドミンゴを飛び立った。

エア・アンティル機の窓からカリブ海域を眺める(2023年8月10日筆者撮影)

 自由席の窓側座席をしっかりキープして、空からカリブ海域を眺めつつ、東に向かって飛ぶこと1時間半余り。プロペラ機は小アンティル諸島の一角にあるグアドループ島、ポワンタピートル国際空港に着陸した。

カリブでユーロ

 グアドループのメインアイランドは、蝶が羽を広げたような形をしていることから、「バタフライ・アイランド」の愛称で知られる。東がグランド・テール島、西がバス・テール島で、この2つを隔てるサレ川には現在橋がかかっており、車で自由に行き来できる。首都は西のバス・テール島南西部沿岸にあるバステール(1643年にフランスが建設、地図ではバセテール)という町だが、観光も経済もその中心は、東のグランド・テール島のサレ川沿いに位置する最大の都市、ポワンタピートル(ポアント・ア・ピートル)であり、国際空港もここにある。



グアドループとマリー・ガラント島

 ポワンタピートルの近くには、白い砂とヤシの木という絵にかいたような海岸へと続く長期滞在型のリゾートホテルが数多く林立している。エア・フランスはじめ、パリやリヨン、マルセイユといったフランス国内からの定期直行便も多く、この島がフランスの「海外県」であることを改めて意識させられる。

 欧米の植民地では、第二次世界大戦を大きな契機として「脱植民地化」が進められ、その多くが「独立」を目ざして欧米宗主国との闘争に突入し、時に内部対立で戦闘が長期化、激化して、市民の犠牲が拡大した。仏領インドシナしかり、英領ケニアや仏領コンゴなどアフリカの諸地域しかり。だが、独立だけが脱植民地化のゴールではない。1946年、カリブ海域のグアドループとマルティニーク、すぐ近くの南米北東部に位置する仏領ギアナ、インド洋に浮かぶレユニオン島が選んだ道は、独立ではなく、その後もフランスの一部に留まるというものであった。フランスに帰属し続けることに島全体の合意を得るにはいくつもの葛藤があっただろうことは想像に難くない。複雑な思いを抱く島民はいまなおいるだろう。だが、独立運動後も各地で続く民族・宗教対立や経済的な貧困状況を見れば、フランス政府からの規制はあるが補助金もある「海外県」という脱植民地化の方法もありか……と思えてくる。

 現在、フランスの「海外県」は、法律的、行政的にはフランス本土と異なる体系を有しており、独自の議会を持ち、自治権がある。かつフランス本土の議会代表選出権があり、さらにはフランスが加盟する欧州連合(EU)の一部として欧州議会の投票権もある。2011年には、アフリカ大陸南東部の沖合、コモロ諸島に属する旧仏領マヨット島も、島民投票の結果を受けて海外県に「昇格」し、2014年には正式にEUの一部となった。

 海外県の公用語はフランス語、通貨はもちろん、ユーロである。

 カリブでユーロ。そこにもまた、カリブの近代が関わっている。

カリブ族の男たちは森に逃亡した

 1493年9月にスペインのカディス港を出発し、イスパニョーラ島に向かう第2回航海の途中、コロンブスは立ち寄ったある島で、タイノ族とは異なる先住民族に出会った。農耕を中心とする温和なタイノとは対照的に、漁労中心の荒々しいその部族こそ、「カリブ海」という地名と直結するカリブ族である。「人喰い」を意味する「カニヴァリズム」の語源ともなった。コロンブスはこう綴っている。

 この島には村は多くなく、さまざまな丘陵の斜面に点在しておりました。家々は大変良く、備蓄に溢れていました。男たちは、その大勢が森に逃亡してしまったため、わずかにしか遭遇せず、捕らえることができませんでした。女たちしか捕らえられませんでした。
中村隆之『カリブ-世界論』人文書院、2013年、33-34頁

 このときコロンブスは、捕えた女たちから、カリブ族の男たちが彼女たちの故郷の村を襲撃し、彼女らの兄弟や夫を食べたこと、この島に連れてこられた自分たちにも人を喰うことを強制することなどを聞いた、とある。コロンブスは「この島」に、スペインのサンタ・マリア・デ・グアダルーペ王立修道院(エストレマドゥーラ州)に祀られている聖母にちなんで、グアドループの名を与えた。第1回航海でコロンブスが「発見」したサン・サルバドル島(「聖なる救世主」を意味するスペイン語)同様、神への感謝を表す命名であろう。

 上記コロンブスの記述に「男たちは、その大勢が森に逃亡してしまった」とあることから、カリブ族のこの集落はおそらく西の島、バス・テール島にあったと思われる。地図を見れば2つの島の地形の違いは一目瞭然。平野が多いグランド・テール島に比べて、バス・テール島は山がちで、その周辺には光を遮る深い熱帯雨林の森が密集している。バス・テール島が火山島で最高峰の山が1500m近いことを知ったのは帰国後のことだ。

 調査中、この島の標高差を実感する出来事があった。車でバス・テール島の中央部を移動中に、突然耳がキーンと痛くなり、一気に周囲の音が聞こえづらくなったのである。飛行機の着陸時に経験する、あの不快な感覚である。それがなぜここで……?

 地形に合わせて揺れ続ける車中で思い出したのが、上記、コロンブスの言葉であった。そうだ、第1回航海でコロンブスを歓迎したタイノ族とは違い、戦闘的なカリブ族の男たちは森に逃亡したのだった。

サトウキビ・プランテーションの遺構――マリー・ガラント島

 時をバス・テール島調査の4日前――ローカル航空エア・アンティルの飛行機が、グアドループのポワンタピートル国際空港に大幅遅れで到着したとき――に戻そう

 荷物を取り、タクシーに飛び乗ってフェリー乗り場に急いだ私たち一行は、なんとかマリー・ガラント島行き最終便に間に合った。マリー・ガラント島は、バタフライ・アイランドの南に浮かぶ島である。約1時間後、船が島に到着するころには周囲は深い闇に包まれていた。

 ホテルで私たちを迎えたのは、聞いたことのない奇妙な音だった。私には「キョイキョイ」と聞こえた。何だ? 鳥か? いや、鳥は夜は寝ているから啼かない(はずだ)。ならば虫か? 

 キョイキョイを子守唄に眠った翌朝、キョイキョイの音は消えていた。音の方向に目をやると、木や草がこんもりと大きな茂みを作っていた。キョイキョイはどこに行った? 調査チームの面々も気になったようだが、正体がわかる者は誰もいなかった。その日の午前、午後を目一杯調査に費やし、暗くなってきたホテルで食事をとりはじめたころ、再び「キョイキョイ」の大合唱が始まった。どんな生物かはわからないが、暗くなると啼きはじめ、朝が来て明るくなると啼きやむようだ。カリブ海域特有の生物だろうか。気になる。その音はとても言葉で説明できるものではないため、録音を夫に送信して調査を依頼し、私は自分の調査に集中することにした。

 さて、今回のカリブ海行きは、この海域の島々に残る奴隷制遺構の調査が主目的である。コロンブスによって拓かれた「カリブの近代」が、ヨーロッパ、アフリカ、南北アメリカという3つの大陸を結ぶ大西洋上の奴隷貿易、それと併行して進められた植民地化と直結していたことはよく知られている。16世紀から19世紀末までの400年間に新大陸に運ばれた奴隷の約半分がカリブ海域に集中していた。特に18世紀の100年間にカリブ海域で取り引きされた奴隷の数は、400年間全体の7割余りを占めたと算定されている。

 イスパニョーラ島西側3分の1を占めたフランスの植民地サン・ドマング(現在のハイチ)は18世紀の一大砂糖生産地であり、「カリブの真珠」と呼ばれていた。だが、グアドループも負けていない。グアドループの沖合約25kmに浮かぶマリー・ガラント島も、18世紀末、1790年の調査では、総人口11,500人のうち、奴隷は9,400人を数えた。フランス革命期でもあった当時、この島の製糖工場は100を超えたと記録される。なお、この島の名も、1493年、第2回航海の旗艦マリア・ガランダ号にちなんで、コロンブスがつけたものである。

 マリー・ガラント島の奴隷制と関わる遺構のひとつに、ミュラ家という家族が所有していたプランテーションがある。建物は1970年代に大規模な修復がおこなわれ、現在はエコミュージアムとして、この島の観光の目玉ともなっている。その遺構からは、プランテーションの構造のみならず、ここがどのような場であったかのイメージも感じ取ることができる。


マリー・ガラント島、ミュラ家所有のプランテーションにある製糖所の遺構(2023年8月11日筆者撮影)



ミュラ家プランテーション跡に復元された農園主の館(2023年8月11日筆者撮影)



1807年にプランテーションの主となったドミニク・ミュラは、フランス、アキテーヌの出身。この島出身の女性と結婚してここを買い、砂糖精製所を拡大し、奴隷数も3倍近くに増やした。豊かなミュラ家の人びとが暮らした館は、プランテーション全体を見晴らす高台に建てられた(2023年8月11日筆者撮影)

 建物の説明書きによれば、このプランテーションの起源は1660年代に遡る。サトウキビ畑を遠くに臨む敷地内には、9基のボイラーを備えた蒸留施設のあるサトウキビ搾汁所、製糖工場、圧搾の動力源となる風車、パン焼き窯や食糧備蓄の小屋、奴隷監督小屋や奴隷小屋などが点在して復元されている。少し離れた場所には奴隷の診療所跡もあり、プランテーション内で栽培されていた数々の薬草が使われたことを想像させる。風車ができる以前、17世紀後半から18世紀初頭にかけては、サトウキビ圧搾・搾汁の動力源には牛や馬が使われていたという。見晴らしのいい敷地内の高台には、奴隷の所有者であるプランターの邸宅がある。


サトウキビ圧搾の動力となった風車の遺構(2023年8月11日筆者撮影)



ミュラ家の少し北西、ルッセル家が所有していたプランテーション(Roussel-Trianon)遺構。フランス革命期、マリー・ガラント島では写真のような圧搾・製糖所がひしめきあっていたと思われる(2023年8月11日筆者撮影)

 これらをそれぞれ確認しながら広い敷地を歩くと、プランテーションという空間が農と工をつなぐさまざまな分業で成立していたことを実感する。その分業の末端に位置するのが、労働力であった奴隷たちだ。

 ここをドミニク・ミュラと息子エマニュエルが購入したのは1807年のことだった。1807年といえば、イギリス議会が奴隷貿易廃止法案を成立させた年だが、その10年余り前、フランス革命中の1791年8月、イスパニョーラ島西側の仏領サン・ドマングでは大規模な奴隷反乱が起こり、それを契機に2年後の1793年、奴隷解放令が出された。フランスの国民公会政府は、戦闘状態にあったイギリスにサン・ドマングを奪われまいとして、翌1794年2月、この奴隷制廃止を追認した。フランス革命をめぐるヨーロッパの国際関係は、まさしくカリブ海域と陸続きであった。違っていたのは、奴隷たちがフランス革命の理念を信じたのに対して、フランス本国が植民地の維持を優先させたことだろう。

 同じことはグアドループにも当てはまる。1794年4月、イギリス軍に占拠されたグアドループでは、6月にフランス軍が奪還すると同時に、奴隷解放令が出された。グアドループのすぐ近くには、同じ仏領のマルティニーク(ナポレオンの妻、ジョセフィーヌの出身地。現在はフランス海外県)があるが、この島は1794年3月以降イギリス軍の支配下に置かれていたため、奴隷制廃止は実行されなかった。


フランス海外県である旧仏領グアドループとマルティニークの間には、英連邦の一員である旧英領ドミニカ国(1978年に独立)がある。この3つの島の位置関係は、カリブ海域における英仏の複雑な過去を想起させて興味深い。

 1799年、クーデターで政権を握ったナポレオンは、すぐさま「植民地には本国の法体系を適用しない」ことを定め、1802年には奴隷制度を復活させた。解放されたはずの奴隷たちは、再び奴隷身分に戻された。サン・ドマングではこれに対する抵抗運動が起こり、1804年、世界初の黒人共和国ハイチが独立する。だが、後述するように、グアドループの抵抗運動は成功しなかった。

 かくして、1807年にドミニク・ミュラがここを買ったときには114人であった奴隷は、1839年には307人を数え、敷地内には100を超える奴隷小屋があった。奴隷たちはここでさまざまな肉体労働を強いられたのだが、ミュラ家のみならず、奴隷労働の大きな特徴は、性差をまったく無視していたことにある。妊娠した女性に極めて短期間限定の配慮を示したプランテーションもあったようだが、基本的に、女性にも男性と同じ作業が割りふられた。人類学者シドニー・W・ミンツの以下の言葉は、農園主プランターを頂点とする農・工融合の組織体、プランテーションの本質を鋭く突いている。

性別を無視することにあらゆる手段が利用されたとき、同時にすべての個人の特性も消し去られることになっただろう。これはまさしく近代的な企てだ。まず能率を重要視して労働力を組織すること、これは近代的だ。労働形態も「産業的」である。この点を私は強調したい。
シドニー・W・ミンツ(藤本和子編訳)『〔聞書〕アフリカン・アメリカン文化の誕生――カリブ海域黒人の生きるための闘い』岩波書店、2000年、76頁

オウコチョウの花咲く島

 奴隷貿易や奴隷制を「人道に対する罪」と明言したのは、2001年8月末から9月にかけて行われた国連主催のダーバン会議(正式名称「人種主義、人種差別、外国人排斥、及び関連する不寛容に反対する世界会議」)であった。会議後の9月7日に出された声明は、その直後に9.11同時多発テロ事件が起こらなければ、もっとずっと注目されたことだろう。

 その後、イギリスの奴隷貿易廃止200周年(2007年)、現代奴隷法(2015年。今世紀になっても終わらない奴隷労働や人身取引に関する法的強化を目的とする。参考訳はhttps://www.jetro.go.jp/world/reports/2021/01/aa1e8728dcd42836.html)の成立(2015年)、さらにはアメリカのブラック・ライヴズ・マター運動の拡大(2020年)などで、奴隷貿易・奴隷制度の過去を現在の人種主義とダイレクトに結びつける動きは確実に顕在化している。言い換えれば、私たちは、奴隷貿易・奴隷制が過去にならない21世紀を生きているのである。そこには、20世紀末から進むデータのデジタル化とその公開、オープンサイエンスを通じて、ネット上を大量に浮遊する奴隷制関連の史料/資料に誰でも簡単にアクセスできるようになったことも含まれる。

 そのなかで進められている研究のひとつに、奴隷のジェンダーに着目した分析がある。研究自体は1980年代から進められてきたが、近年、歴史研究が遺伝子解析の成果とリンクすることで、これまで見過ごされてきた事実にも光が当たるようになった。それは、カリブ海域における「長年の謎」と深く関わる。曰く、アメリカ本土(南部)のプランテーションと比べて、カリブ海域のプランテーションではなぜ奴隷人口が増えないのだろうか――それは、奴隷貿易廃止を見すえた19世紀初頭、カリブ海域の英領植民地に広がるサトウキビ・プランテーションの所有者たちが口にした疑問でもあった。

 奴隷貿易を廃止するには、すなわちアフリカ大陸からの奴隷の供給を止めてもプランテーション経営が成り立つためには、奴隷の再生産が必要である。ところが、カリブ海域の島々では、なぜか奴隷の出生率が低かった。栄養失調か? 過酷な労働や虐待のせいか? はたまた劣悪な生活環境のためだろうか? だが、奴隷労働の現状は奴隷の再生産がうまくいっていたアメリカ南部でも似たようなものであり、アメリカのプランターが特に奴隷に慈悲深かったわけでもあるまい。

 その答えが見え始めたのは、1970年代後半以降、欧米でエコロジー運動が政治的、経済的、そして学術的な盛り上がりを見せたころのことであった。19世紀初頭のカリブ海域を調査した医師たちの報告書が読み直され、分析し直されて、この地域で奴隷人口が増えない「隠された理由」があぶり出された。女性奴隷が自らの意志で行った中絶(時に嬰児殺し)である。

 余りに明快な、そして悲しいこの答えに、すでに18世紀初めに気づいていた女性がいた。南米大陸東端、カリブ海に面するオランダ領スリナムを旅したマリア・シビラ・メリアン(1647~1717)である。現在のドイツ・フランクフルトに生まれ、3歳で父を亡くした彼女は、静物画家であった義父、母の再婚相手であるヤーコブ・マレルの手ほどきで画才をのばした。イモムシがさなぎを経て蝶になる変態の様子に魅了され、描き続ける彼女に、当時の博物学者たちも注目した。

マリア・シビラ・メリアン(ヤーコブ・マレル画、1679年)


マリア・シビラ・メリアン『スリナム産昆虫変態図譜』(1705)より
 

 昆虫の変態観察を含む学術調査のため、52歳のメリアンは、次女ドロテアを伴ってスリナムに渡った。先住民や奴隷の女性たちを現地調査のアシスタントに加えたメリアンは、彼女たちから聞いた話を女性ならではの観察眼と共感に絡めてこう記録している。

オランダ人の主人からひどい扱いを受けていた先住民は、子供が奴隷になるくらいならばと嘆き、(この植物の)種子を用いて中絶を行っています。ギニアやアンゴラから連れてこられた黒人奴隷は、子供をもつことを拒む素振りを見せて、少しでも境遇が良くなるよう、願ってきました。実際あまりにもひどい扱いのため、彼女たちの中には耐えかねて自ら命を絶つ者もいました。生まれ変われば、自由に祖国で暮らせるものと彼女たちは信じているからなのです。私はこの話を彼女たちから直に聴きました。
ロンダ・シービンガー(小川眞里子・弓削尚子訳)『植物と帝国――抹殺された中絶薬とジェンダー』工作舎、2007年、8頁

 彼女たちが中絶に使った植物は、リンネ式学名をPoinciana pulcherrima、俗名オウコチョウ(黄胡蝶)といい、今なおカリブ海域のどこにでも自生している。ヨーロッパには観葉植物として紹介されたが、この植物の「中絶」という効能が伝えられることはなかった。

女性奴隷が中絶に用いた植物オウコチョウ(2023年8月11日筆者撮影)



オウコチョウは島のいたるところに自生している。女たちが中絶のために使った種子は、長いさやのなかにある(2023年8月11日筆者撮影)



復元されたミュラ家の薬草園にもオウコチョウが咲いていた(2023年8月11日筆者撮影)

 その後長らく忘れられていたメリアンとオウコチョウの話を掘り起こしたのは、ジェンダーと科学の関係を問い続ける科学史家、ロンダ・シービンガーである。シービンガーは、オウコチョウを「女性奴隷が奴隷制に抵抗する闘争のなかで用いた、きわめて政治的な植物」と明言し、メリアンを「中絶を直接に植民地闘争という文脈に位置づけた」人物と語る。

 そのうえで、シービンガーは、このことに当時の男性科学者が気づかなかったこと、あえて意図的に無視したことを問題視した。ここからシービンガーは、アグノトロジー(無知学)なる新しい学問を展開していく。意図的に抹殺、消去される知識や情報に注目し、「無知」が作られるプロセスに関心を向けるアグノトロジーは、現在、最先端の学問領域となりつつある。

23andMeが示すもの

 21世紀の今、奴隷貿易・奴隷制度をめぐる「過去との対話」を推進する大きな力となっているのはDNA解析技術の進展である。それは、私たちの健康志向の高まりとも関わる。DNA遺伝子を通じて、自分の病歴を過去に遡り、先祖をたどって病気の可能性をあらかじめ知り、未来に備えることもできるようになってきた。2006年に設立された23andMeは、そんな人びとの健康熱のなかで急成長したバイオテクノロジーの会社である。社名にある「23」は、父親と母親から各々1本ずつ受け継いだ人間の染色体23対(46本)を意味する。ちなみに、同社の一般向け唾液検査キットは100ドルほど。手ごろな値段設定もあってか、企業としての成長とともに、23andMe社には膨大な遺伝子のデータベースが蓄積されていった。

 2020年、このデータベースを利用した刺激的な研究成果が報告された。現在南北アメリカで暮らす人びとと奴隷貿易の過去との関係を遺伝子レベルで捉え直す研究である。23andMeの研究者が歴史研究者と協力して行った「両アメリカにおける大西洋奴隷貿易の遺伝的影響」と題する論文(American Journal of Human Genetics誌に2020年7月掲載)は広くメディアに取り上げられ、遺伝子学の専門家のみならず、一般の人びとにも大きな衝撃を与えた。

 サンプル数は5万余りで、うちアフリカ系は3万余り。彼らの合意を得たうえで、現代の遺伝子データを、1515年から1865年の間にアフリカから奴隷として運ばれた約1250万人に関する歴史記録とつき合わせた。すでに述べたように、21世紀の現在、歴史記録の多くはデジタル化され、誰もがアクセスできるようになっている。

 結果は予想通り、奴隷貿易を通じたひとの移動が現在に影響を与えていることが確認された。大西洋上の奴隷貿易ルートに加えて、南北アメリカ大陸間の奴隷移動も、遺伝子に記録されていた。そのなかには、植民地での奴隷貿易廃止(1807年)、奴隷制度廃止(1833年)の法案がイギリス議会を通過したのち、カリブ海域の英領植民地からアメリカ合衆国やブラジルなどに運ばれた奴隷もいただろう。

 興味深いのはやはり、奴隷のジェンダーと関わる遺伝子解析である。従来の歴史研究では、アフリカから送られた奴隷の約3分の2が男性であることがわかっている。ところが、遺伝子解析の結果、現代のアメリカ合衆国やラテンアメリカ諸国の遺伝子プール(集団における遺伝子の総体)への影響は、アフリカ男性ではなく、アフリカ女性の関与が圧倒的に大きいというのである。北米では女性は男性の1.5倍ほどだが、ブラジルでは17倍、カリブ海域では13倍と、アフリカの遺伝子プールへの影響はアフリカ女性に偏っていた。この極端な偏向は何を意味しているのだろうか。

 大西洋上の中間航路における高い死亡率(15~20%)やプランテーションの過酷な労働実態などから、「アフリカ男性は自分の遺伝子を残せなかったのではないか」と想像する向きもあろう。だが、先に引用したミンツの言葉を想い起してほしい。プランテーションという空間における労働に、ジェンダー差はなかった。奴隷たちの「個人としての特質は完全に消され、男女の労働力の互換性が強調」(ミンツ、同訳書、77頁)されて、男女ともに酷使されたのである。

 それゆえに、女性奴隷と現代の遺伝子プールとの濃密なつながりから、そこに何らかの人為的な力が働いていたことは明らかだろう。奴隷貿易廃止後もプランテーションを維持するための奴隷の再生産、そのための女性に対する性的搾取、とりわけ白人プランターによるレイプなどが容易に想像できる。

 遺伝子に刻まれた奴隷制度の歴史は、この労働システム、それが機能したプランテーションという空間がはらむ「暴力」が多様であったことを今に伝えて余りある。メリアンの記述にあったように、それが、島のどこででも手に入るオウコチョウを使って中絶を考える(考えざるを得ない)状況に女性奴隷を追い込んでいた、カリブの島々のリアリティなのだろう。

 私ならどうするだろうか。オウコチョウで堕胎するか、自らの明日をはかなんで自殺するか。いずれも自分の意志で選び取る未来ではある。いや待て。自分と子どもの未来を拓く方法はもうひとつある!

 頭をよぎったのは、ポワンタピートル市街地からほど近いウォーターフロントに2015年5月にオープンした博物館、メモリアルACTeに展示されたある光景――夜陰にまぎれて山をめざし、森に隠れる逃亡奴隷の姿であった。

逃亡という選択

 ダルブシエ製糖工場の跡地に作られたメモリアルACTeは、その奇抜なデザインがひときわ目を引く建物である。フランス政府からの巨額の資本投入で作られた施設の一角は、古代から現代に至る奴隷貿易、奴隷制度の歴史を伝える博物館となっている。博物館は左右にいくつもの展示室があり、それらを貫く中央の通路壁面は、地元グアドループはじめ、カリブ海域出身のアーティストの絵画が彩る。どの絵にも共通するのは、奴隷制度を非白人側、奴隷や解放された元奴隷の目で見ようとする視点である。

メモリアルACTe(2023年8月13日筆者撮影)

 コロンブスの「新大陸発見」500周年となった1992年前後から、とりわけ2001年のダーバン会議以後、奴隷貿易・制度の過去を持つ欧米諸国では、博物館という場を中心に、この過去を今どう可視化するかの試行錯誤が続けられてきた。それは近世から近代にかけての時代をどう捉えるかという歴史認識の問題でもある。そこに顕著に認められるのは、従来もっぱら「奴隷を解放した」白人側から描かれてきた歴史を奴隷側から描き直し、奴隷たちを白人奴隷解放の運動家らによって「解放された」受け身の存在ではなく、彼ら自身の主体性に注目する動きである。この試みには、第二次世界大戦後、欧米諸国から独立したものの、生活が成り立たず、旧宗主国を頼らざるを得ない非白人移民たちの苦悩と、彼らを受け入れざるを得ない欧米旧宗主国の葛藤とがないまぜになっている。奴隷貿易の一大拠点だったリヴァプールに奴隷貿易廃止200周年を記念して設けられた国際奴隷博物館(連載・第4回参照)も、そんな苦悩と葛藤の産物である。

 解放の受け手のみならず、解放の主体として奴隷たちを捉えようとする点で、ここメモリアルACTeは、リヴァプールの国際奴隷博物館とよく似ている。だが、この2つは、解放の現場とその臨場感という点で決定的に違っている。奴隷や元奴隷らが解放を闘った現場は、リヴァプールではなく、グアドループ、カリブ海域にある。そのせいだろうか、2007年から定点観測し続けているリヴァプールの国際奴隷博物館では感じなかったある想いを、メモリアルACTeをあとにしてから感じたのは……。

 バス・テール島内部のサトウキビ・プランテーションの遺構調査で、太い幹に蔓が絡みつき、光の通路が閉ざされた深い熱帯雨林の森を歩いた。このとき私が想い出していたのが、メモリアルACTeの片隅、最新鋭のデジタル機器を駆使してスクリーン上に再現された逃亡奴隷たちの(想像上の)声であった。プランターやプランテーションの見張りに悟られぬよう、獣の声を模したその音のひとつひとつに、逃亡奴隷のコミュニケーション方法が隠されていた。共鳴しながら、「私も絶対に逃げるぞ!」と心の中で叫んだ。これぞフィールド調査の醍醐味!

バス・テール島内陸部、鬱蒼と茂る熱帯雨林の森は薄暗い(2023年8月14日筆者撮影)

 フランス語で逃亡奴隷を意味する「マルーン(maroon)」は、コロンブス以降、カリブ海域に新しい時代をもたらしたスペイン人の言葉、「野生」を意味する「シマロン(cimarron)」からの派生とされる。当初、「山に逃げて野生化した家畜」に当てられたこの言葉は、やがて逃げた人間、逃亡奴隷を含むようになった。

 彼ら、先住民やアフリカからの黒人奴隷が逃げ込んだ場所は、スペイン語でパレンケと呼ばれる。越川芳明『カリブ海の黒い神々――キューバ文化論序説』(作品社、2022年)によると、先住民と黒人奴隷が混在、協力するコミュニティはカリブ海域の各地に点在し、時に白人が経営するプランテーションを襲撃するなど抵抗の企画・実行の場ともなり、白人支配を揺さぶり続けた。前回紹介したタイノ族のエンリキージョが築いたコミュニティもそのひとつであり、彼のように英雄視される存在も少なくない。英領ジャマイカでも、白人が容易にアクセスできない険しい山岳地帯や複雑な地形となっている場所にはマルーンのコミュニティが存在し、彼らが白人支配への抵抗において果たした役割は大きいとされる。それなのに、私はこれまで、逃亡奴隷の心情に思いをはせることはほとんどなかった。「現場」に足を踏み入れたことがなかったからだろう。

 今回の調査でそのような「現場」をいくつか経験し、逃亡という選択の意味に少しだけ触れることができたような気がしている。

デルグレスとソリチュード――脱植民地化は終わらない

 「現場」のひとつに、バス・テール島西部、ナポレオンによる奴隷制度復活に対する反乱拠点となったマトゥーバ(マトゥバ)という地区がある。1802年5月、ここに立てこもり、ナポレオンが送り込んだフランス軍と応戦したのは、ルイ・デルグレス(1766-1802)という混血の自由人率いる元奴隷たちであった。現在ハイキングコースがある公園となっているそこは、標高740m余り。「デルグレスの砦」と呼ばれるここで、デルグレスら400人ほどの反乱者は追いつめられ、火薬庫に点火。フランス軍を巻き添えに、自決の道を選んだ。戦闘から18日目のことであった。

1802年の奴隷制度復活に反対して爆死したデルグレスの記念碑(2023年8月14日筆者撮影)

 このとき、デルグレスの呼びかけに応えて集まった有色の人びとのなかに、ソリチュードという女性がいたと伝えられる。1794年に実施された奴隷廃止令で解放された彼女は、1802年の法令で奴隷制度が復活したとき、「マルーン」に分類された。デルグレスらの抵抗に参加したソリチュードは火薬庫爆破で負傷し、フランス軍に捕えられたが、妊娠中であったため、しばらく生き延び、出産の翌日に処刑された。生まれた子どもは奴隷にされたと思われるが、その消息は不明である。母の思いは届かなかったのだろうか。

おなかがふっくらしたソリチュードの彫像がグアドループに建てられたのは1999年のこと。その後、21世紀の世界は奴隷制度の過去に対する歴史認識を大きく変えていった(Guallendra, Guadeloupe Les Abymes carrefour de Lacroix, sur le boulevard des Héros

 マトゥーバ周辺を歩きながら、「デルグレスの砦」の先にある山に目をやりながら、ある空想(妄想?)が私の頭をよぎった。あの山の上から、あるいは近くの森に隠れて、火薬庫爆破とともに散ったデルグレスの最期を、ソリチュードの逮捕を、固唾をのんで見ていた逃亡奴隷(より正確には、ナポレオンが奴隷制を復活させるまでは解放身分であったグアドループの人たち)がいたのではなかったか。彼らはその後、易々とフランス軍に捕まり、再び奴隷にされただけだろうか。いや、そうではないだろう。そのまま、1848年の奴隷解放の日まで山奥に身を潜め、「自分たちの物語」を語り続けた者がいたとしても、なんら不思議ではあるまい。逃亡とは、単に今を捨てて逃げることではない。

デルグレスの砦からバス・テール島の山を臨む(2023年8月14日筆者撮影)


この写真から、砦へと続く坂道の高低差を想像していただきたい(2023年8月14日筆者撮影)

 すでに紹介したように、その後、奴隷制度の過去に対する21世紀の歴史認識は大きく変わっていく。ソリチュードの思いもまた、息を吹き返しつつある。なるほど、フランス本国で学ぶ歴史のなかで、デルグレスやソリチュードを知る人は今なお少ないかもしれない。だが、彼ら自身が「カリブの近代」を見るもうひとつの視点を与えていることは間違いない。

                  *

 そうそう、例のキョイキョイ、である。

 私が録音した鳴き声を聞き、いろいろな音声にあたった夫から、「コキガエルかもしれない」との返信があった。ドミニカ共和国のすぐ近く、プエルトリコ原産で、体長5センチ足らずの小さなコキガエルは、カリブ海域のどこにでも生息しているようだ。昆虫ならば片っ端から口に入れる、恐るべき食欲の持ち主とのこと。2010年代、外敵のいないハワイ島で大増殖し、その後マウイ島やオアフ島でもその存在が確認されて、ハワイでは侵略的外来種に指定されているという。見つけたら届け出義務があるそうだ。「コキ」は、その鳴き声に由来するらしい。

 「なるほど」と思う一方で、「コキか?」と首をかしげた。何度聞いても、私には「キョイキョイ」と聞こえる。それはまるで、夜陰にまぎれ、今日を明日につなごうとする逃亡奴隷の合言葉のようだ。少なくとも、今の私には、「キョイキョイ」をそう妄想する方がずっとしっくりくる!

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著者略歴

  1. 井野瀬 久美惠

    1958年愛知県生まれ。甲南大学文学部教授。京都大学大学院文学研究科西洋史学専攻単位取得退学。博士(文学)。第23期(2014-2017)日本学術会議副会長。大英帝国を中心に、(日本を含む)「帝国だった過去」とわれわれが生きる今という時空間との関係を多方向から問う研究をつづけている。主な著書に『大英帝国はミュージック・ホールから』(朝日新聞社、1990)、『子どもたちの大英帝国』(中公新書、1992)、『女たちの大英帝国』(講談社現代新書、1998)、『黒人王、白人王に謁見す』(山川出版社、2002)、『植民地経験のゆくえ』(人文書院、2004、女性史青山なを賞受賞)、『大英帝国という経験』(講談社、2007;講談社学術文庫、2017)、『イギリス文化史』(編著、昭和堂、2010)、『「近代」とは何か』(かもがわ出版、2023)など。

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