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過去につながり、今を問え!

カリブ海の近代と帝国の未来(2)

 日本からカリブ海諸国に向かう直行便はない。乗り継ぎにはアメリカやカナダ、ヨーロッパ諸都市を経由するいくつかのルートがあるが、今回はメキシコシティ経由となった。アエロメヒコ航空が2023年3月下旬から成田空港に直行便を一日一便運航しており、中南米のハブであるメキシコシティがぐっと近くなった。そこから、最初の調査地であるドミニカ共和国の首都、サントドミンゴへは5時間で行ける。メキシコシティでの乗り継ぎ時間が半日近くといささか長いのだが、調査メンバー一同、空港ラウンジでやることは(日頃の睡眠不足解消を含めて)たくさんある!

 ラウンジでひと仕事終え、メキシコ現地時間(日本より15時間遅い)で日付が変わるころ、飛行機はメキシコシティを出発。到着予定時刻に少し遅れて、午前7時前、サントドミンゴのラス・アメリカス国際空港に到着した。日本との時差は13時間。大阪・伊丹空港を出てから32時間余りがたっていた。「はるばる来たぜ、カリブ海!」と、心躍らせながら空港建物を一歩出たとたん、眼鏡が曇った。すごい湿気だ。猛暑は日本で馴れていたはずなのに、着ていた服は少し動いただけでぐっしょりと汗ばんだ。さすが熱帯、これがカリブか……。

 メキシコシティからサントドミンゴへの航空ルートは、西から東へ、ほぼまっすぐに続いている。機内の座席が窓側ではなく、しかもナイトフライトとあって、気がついたらサントドミンゴだった。だが、その4日後、サントドミンゴから第二の目的地、小アンティル諸島(カリブ海の東端、カリブ海と大西洋とを区切るように南北に連なっている島々)に位置するグアドループへ向かう昼間の機内で、窓際の座席を確保して目をぱっちり開けて外を観察してわかったことは、サントドミンゴが位置するイスパニョーラ島がとても大きいことである。



カリブの近代とサントドミンゴ

 大アンティル諸島(キューバ島、ジャマイカ島、イスパニョーラ島、プエルト・リコ島とそれらに付属する島々)に位置するイスパニョーラ島は、キューバに次いで、カリブ海域で2番目の面積を持つ。76,000㎢余りというから、北海道本島(78,000㎢弱)とさほど変わらない大きな島だ。地形も多様であり、沿岸部には私たちが想像するような白い砂浜と青い海があるが、内陸部には3000メートルを超える高い山がそびえたつ。1492年、第1回航海でこの島を「発見」したコロンブスは、ここをずっと「インド」の一部、黄金の郷ジパングあたりだと信じていたらしい。このときコロンブスは、沿岸に砦(ナビダー砦)を設けて、39の部下を残して帰国した。

 翌1493年、イスパニョーラ島の入植をめざすコロンブスの第2回航海は、黄金と香辛料で一攫千金を夢見る参加者を含め、17隻にも膨れ上がった。だが、砦は破壊され、部下全員の死亡が確認されたため、コロンブスはその東に新たな入植拠点――すなわち、新大陸におけるスペイン最初の植民都市プエルト・イサベラ(現プエルト・プラタ県)を作り、その統治を弟バルトロメに託した。コロンブス自身は黄金を求めてイスパニョーラ島内部の探索を続け、その後キューバやジャマイカも探検したが、その間、プエルト・イサベラの統治はうまく進まなかった。1496年に一旦スペインに帰国したコロンブスが、2年後、第3回航海でイスパニョーラ島に戻ってくるまでに、バルトロメは拠点を島の南部、オサマ川河畔の東岸に移し、ヌエヴァ・イサベラを建設した。

 だが、バルトロメの失政、部下の裏切りなどでヌエヴァ・イサベラは混乱する。1500年、スペイン両王(フェルディナンドとイサベラ)が派遣した査察官により、コロンブスは逮捕され、本国に送還された。罪は免れたものの、新大陸に関するあらゆる地位を剥奪されて、1502年に試みた第4回航海では、イスパニョーラ島への寄港すら禁じられている。

 同1502年、ヌエヴァ・イサベラはハリケーンで壊滅。同年ここに赴任した新総督ニコラス・デ・オバンド(1460-1518)は、より安全な対岸(オサマ川西岸)に町を移動した。これが現在のサントドミンゴの旧市街である。

 この町の発展の基礎を固めたのも新総督オバンドであった。貴族出身の軍人オバンドは、上記のように第3回、第4回航海で植民地経営能力の欠如を露呈したコロンブスに代わって、スペイン両王から厚い信頼が寄せられていた。16世紀前半、サントドミンゴはオバンドのもと、スペイン王室を頂点とする新世界の植民地、ヌエバ・エスパーニャ開発の拠点として、人やモノ、文化や情報の交流を牽引した。アステカ帝国やインカ帝国などの征服遠征隊はすべて、サントドミンゴから出発している。


ニコラス・デ・オバンド(1460-1518)肖像画の制作者・制作年不詳

 

 サントドミンゴ観光の目玉、旧市街ソーナ・コロニアルは、そんなスペインの黄金時代を彷彿とさせる空間である。1990年にユネスコ世界遺産に登録されたこの地区の中心には、新大陸を指さすコロンブス像がそびえ立つコロンブス広場がある。この広場に面して建つアメリカ大陸初の大聖堂、サンタ・マリア・ラ・メノール大聖堂は、1546年、新大陸における首座教会となった。1506年に亡くなり、いったんセビリアの修道院に埋葬されたコロンブスの遺骨は、生前の遺言により、1544年、この大聖堂に移送された。やはり新大陸初の修道院、サン・フランシスコ派修道院の跡地では、現在修復が進められている。歴代総督の公邸は現在王宮博物館となっている。

コロンブス広場。後ろにサンタ・マリア・ラ・メノール大聖堂が見える(2023年8月8日筆者撮影)


サンタ・マリア・ラ・メノール大聖堂内部(2023年8月8日筆者撮影)



サン・フランシスコ派修道院の跡地(2023年8月8日筆者撮影)


王宮博物館の中庭(2023年8月8日筆者撮影)

 そこからつながるスペイン広場に面して、コロンブス宮殿(アルカサル・デ・コロン)がある。1509年、オバンドの後継としてイスパニョーラ島第4代総督となったコロンブスの長男ディエゴの私邸として作られ、50以上の客室に礼拝堂やコンサートホールまで完備した贅沢な造りがスペイン国王のひんしゅくを買ったとも伝えられる。その後、ドミニカ共和国独立をめぐる紆余曲折(後述)のなかでこの建物はうち捨てられて荒廃し、20世紀後半になってようやく修復された。

現在修復中のコロンブス宮殿(2023年8月7日筆者撮影)

 コロンブス宮殿の運命のごとく、ヨーロッパによりヨーロッパに向けて開かれたイスパニョーラ島から見る「カリブの近代」への道は、けっして平坦ではなかった。

「独立」への紆余曲折

 早くも16世紀半ば、スペイン人がアステカ、インカ、マヤというアメリカ大陸の3大文明を征服し、銀鉱山の開発を本格化させると、新大陸におけるイスパニョーラ島の立ち位置は大きく変化する。この島に入植したスペイン人の多くが大陸側に移動し、スペインと新大陸との交易拠点もキューバ島のハバナに移った。イスパニョーラ島、そしてサントドミンゴは、その重要性を大幅に低下させていく。

 フランスやイギリスの海賊によって、スペインの全島支配も揺らいだ。1586年には、イングランドのエリザベス1世から「サー」の称号を賦与された海賊で、世界一周を成し遂げたフランシス・ドレイクがコロンブス宮殿を襲撃し、絵画や財宝をごっそり略奪した。イングランドに来襲したスペイン無敵艦隊(アルマダ)をドレイクらが撃退するのは、その2年後のことである。1697年にはフランスとの間にライスワイク条約が結ばれ、島の西側3分の1がフランス領サン・ドマング(現在のハイチ共和国部分)に、東側3分の2がスペイン領サント・ドミンゴ(現在のドミニカ共和国。特別区となっている首都サントドミンゴと区別するために、ここでは植民地名に「・」を入れている)にと、正式に二分された。

王立造船所は植民都市の一部として世界遺産に組み込まれ、完全に修復されたのち、2019年末から水中考古学の知を生かした調査展示博物館(Atarazanas Reales海洋博物館)となった(2023年8月8日筆者撮影)。沈没船の内部から引き揚げられた大量のモノが、沈没船の場所やその原因などの特定とともに、分類、展示されている。

イスパニョーラ島近海の沈没船(2023年8月8日筆者撮影)


沈没船から引き揚げられた壺(2023年8月8日筆者撮影)

 フランス革命期の1795年には、スペインとフランスの和約でイスパニョーラ島全体が、一時的ながらフランスの支配下に置かれた。それゆえに、ハイチが「世界初の黒人共和国」としてフランスからの独立の道を歩みだしたとき、東のサント・ドミンゴもその一部として、フランス共和国政府による奴隷制の廃止(1793年)、奴隷反乱を指揮したトゥサン・ルヴェルチュールによる全島制圧(1801年)、ナポレオンによる奴隷制の復活(1802年)など、「ハイチ革命」の荒波の真っただ中に放り込まれた。21世紀に2度も巨大地震に見舞われ、政治的・社会的な機能まひを露呈した「破綻国家」ハイチからは想像できないほどの大きな力を、当時のハイチは有していた。

 ナポレオン失脚(1814年)後、黒人共和国ハイチの一部だったサント・ドミンゴは再びスペイン領となるが、今度は折からのラテンアメリカ独立運動と相まって、1821年、スパニッシュ・ハイチとして一旦独立を果たす。だが、翌1822年には再度ハイチの支配下に置かれ、イスパニョーラ島全島がハイチの領土となった。1844年、島の東側3分の2からハイチ人を追放し、ドミニカ共和国の名のもとに独立を果たすが、以後も隣国ハイチの脅威は強く、ドミニカ共和国は、スペインに保護を求めて植民地に逆戻りしたり、アメリカの「保護国」となったりと、19世紀後半から20世紀初頭にかけて不安定な状態が続いた。第一次世界大戦前後にはアメリカの軍政支配下に置かれている。

ハイチ支配に対する抵抗のリーダーであり、ドミニカ共和国独立(1844年2月)の三英雄のひとり、ファン・パブロ・ドゥアルテの記念碑(2023年8月8日筆者撮影)

 イスパニョーラ島も植民都市サントドミンゴも、スペイン、フランス、ハイチの間を行きつ戻りつしながら、近代という時代のとば口で立ちすくみ、揺れ続けた。

先住民の絶滅?――タイノ族の場合

 カリブ海域の大きな特徴は、スペイン人の到来で先住民の人口が激減し、その後の人口構成がまったく入れ替わってしまったことにある。

 スペイン人らヨーロッパ人が南北アメリカ大陸にインフルエンザや天然痘、コレラなどの疾病を持ち込み、これらに耐性のない先住民はつぎつぎと倒れて亡くなった。高校世界史の授業よりも、コロナ・パンデミックの経験から、今の私たちにはきわめてリアルな史実に思える。これに、金銀鉱山で、さらには(これまた)ヨーロッパ人がカリブ海域に導入したサトウキビのプランテーション労働で、いずれも先住民が労働力として酷使された事情を加味すれば、先住民人口の激減も納得できよう。

 世界史の授業では、この後にこう続く。先住民に代わって、アフリカ大陸から黒人奴隷が連れてこられ、サトウキビ・プランテーションの労働力となり、大西洋上で奴隷(三角)貿易が展開した、と。言い換えると、ヨーロッパ人到来がもたらした「近代のとば口」でカリブ海域の先住民族は「絶滅」し、以後、カリブの近代は、ヨーロッパ人、アフリカ人、その混血であるクレオールによって彩られることになった、となる。

 その典型例、かつ極めて早期の例が、イスパニョーラ島の先住民、タイノ族である。近年のDNA解析によってわかってきたのは、彼らが南米奥アマゾンを起源とするアラワク語族の亜グループであり、南米北岸からカリブ海域へと木製カヌーで漕ぎ出し、海流に乗って、小アンティル諸島から大アンティル諸島、およびバハマ諸島に移動、定着したことである。今から2500年ほど前にタイノは上記地域に入植を開始し、1000年以上もの間、海域内の諸島とその住民たちと盛んに交流していたと、ドミニカ人類博物館の展示は語っている。ちなみに、人類博物館の展示はすべてスペイン語だが、翻訳アプリをカメラ入力モードにして展示説明にスマートフォンをかざせば、一瞬にして概要くらいはつかむことができる。技術革新は知の多様化を支えるツールでもある。


アンティル諸島におけるタイノ人の分布(スペイン人到着時)

 1492年、彼らと第1回航海で出会ったコロンブスは、「インド」の一角に到着したと勘違いしていたため、彼らを「インディオ(インディアン)」と呼んだ。「タイノ」とは「良き人」の意味であり、彼ら自身がカリブ海域の他の民族――たとえば、第2回航海でコロンブス小アンティル諸島で出会った戦闘的な狩猟採集民族、「人喰い(カニヴァリズム)」の起源ともなったカリブ族――と区別するために使った自称であった。

 タイノ族の人口激減の状況は、スペイン人がまめに行った人口調査に明らかである。コロンブス到来の1492年、イスパニョーラ島の先住民は25万人前後と記録されている。それが十数年後の1508年には6万人、1514年には1万4000人と激減。「生態学的視点から歴史を見る」という副題を持つアルフレッド・W・クロスビー『ヨーロッパ帝国主義』(佐々木昭夫訳、ちくま学芸文庫、2017年)によれば、1518年終わりから1519年初頭にかけての天然痘の大流行で、イスパニョーラ島のタイノ族の3分の1から半分近くが亡くなり、先住民の数は3000人前後にまで落ち込んだという。ちなみに、このときの天然痘流行はさらに北上して同じ1519年にメキシコに到達し、スペインの征服者コルテス(彼は元々イスパニョーラ島の入植者であった)によるアステカ帝国滅亡を速めたと考えられる。

 その後、新大陸の3つの文明の崩壊後、イスパニョーラ島の停滞期と重なる1565年の人口調査では、この島の先住民の数は200人と記録されており、その直後から「絶滅した」と語られるようになった。16世紀に入って本格化したアフリカ系黒人奴隷の急増とはあまりに対照的なこの先住民の運命は、現在のドミニカ共和国の人口構成にも影響を及ぼしている。外務省の基礎データによれば、ヨーロッパ系16%、アフリカ系11%、クリオール(混血)73%(2022年11月10日現在)。そこに、先住民タイノ族を想像させる痕跡は見当たらない。

 多くの専門家が強調するように、カリブ海域では、スペイン人の到来により、実に短期間に人間の入れ替えが完了した印象が強い。だが、人間とは、民族とは、それほど単純、容易に入れ替われるものなのだろうか。たとえば、イスパニョーラ島にやってきたスペイン男性がタイノ女性を妻や愛人にしていたことはよく知られているが、彼らの間に生まれた子どもたちは、タイノの文化や歴史とどのようにつながっているのだろうか。子どもたちにタイノとのつながりを教える大人が誰もいなかったとは思えないのだが……。

先住民探し――ドミニカ人類博物館

 「絶滅」した先住民が注目された時期がいくつかある。19世紀初頭、フランス革命の影響を受けて、スペインからの独立運動がラテンアメリカ全体に広がった時期はそのひとつである。上記のように、フランスからのハイチの独立、ハイチによる支配といったドミニカ共和国の成立に至る複雑な経緯のなかで、イスパニョーラ島の知識人や独立の形を模索するリーダーたちは、スペインでもハイチでもなく、「絶滅」した先住民タイノ族に、ナショナリズムの核を求めた。もっとも、そこに「絶滅」したタイノ族自身の姿や形、主体性はなかった。

 より本格的で実際的な「先住民探し」は、先住民族タイノの文化的遺産の収集と展示を目的とするドミニカ人類博物館の設立(1973年)を待たねばならない。当時のカリブ海域は、1950年代から60年代にかけて高揚したアメリカ公民権運動から強い影響を受けており、人種差別に抗議して白人と同等の権利を求めたアフリカ系黒人の姿は、1970年前後のカリブ海域でも認められた。だが、ドミニカ共和国の場合、紆余曲折の独立事情から、国立博物館の使命はもっと複雑であったようだ。ドミニカ人類博物館の正面に立つ3体の立像はそれを端的に物語っている。

ドミニカ人類博物館の正面に立つ3つの立像。中央がバルトロメ・デ・ラス・カサス、右側がエンリキージョ、左側がレンバ(2023年8月9日筆者撮影)


 中央に立つのは、新大陸におけるスペイン人支配の横暴さ、先住民への不当な虐待を厳しく非難したドミニコ会の宣教師、バルトロメ・デ・ラス・カサスである。1502年、オバンド総督の遠征時に父とともにイスパニョーラ島に移住(この時は1506年にスペインに帰国)して以来、ラス・カサスは半世紀ほどの間に6回ほど大西洋を往復し、イスパニョーラ島を中心に先住民インディオの置かれた厳しい状況を見つめ、幾度かの「改心」を通じて、スペイン人入植者による先住民への暴力を批判し続けた。スペイン王カルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)に謁見して征服活動の即時停止を訴えたラス・カサスは、その翌1542年、皇太子(のちのフェリペ2世)への報告書として『インディアスの破壊についての簡潔な報告』(染田秀藤訳、岩波文庫、2013年)を執筆。ヨーロッパ各国語に訳されて評判となったものの、彼が求めた先住民保護の法案は、スペイン人入植者の反対で実現しなかった。 

ナ・コロニアルにあるラス・カサスの立像。ぎゅっとこぶしを握り締めて天を仰ぐ彼は、何を思っているのだろうか(2023年8月8日筆者撮影)

 博物館の入口に向かって右側に立つのが、先住民タイノの英雄、首長のエンリキージョだ。タイノに対するスペイン人の非人間的な扱いに憤り、1519年に立ち上がった。エンリキージョの指揮の下、山岳地帯に身を隠したタイノたちは統制のとれたコミュニティを形成し、農作物を育てて、15年間ほどスペイン人を攪乱し続けた。他の先住民族や以下に述べるレンバのような黒人奴隷からの信望も厚かったと記録される。スペイン側と休戦が成立した翌年、1535年に亡くなっている。

先住民タイノの首長のエンリキージョ(2023年8月9日筆者撮影)

 向かって左側の像は、「絶滅した」先住民に代わる労働力としてアフリカから連れてこられた黒人奴隷で、1532年の奴隷反乱を主導したレンバである。山岳部に逃亡したが15年後に捕まり、処刑された。新大陸で起こった極めて初期のアフリカ系黒人奴隷反乱のリーダーとして、近年のドミニカ共和国で広く知られていると聞く。

黒人奴隷反乱を主導したレンバ(2023年8月9日筆者撮影)

 先住民タイノ、スペイン人(広くはヨーロッパ人)、アフリカ系黒人――ドミニカ人類博物館に立つ3つの像は、この島が育んだ多様性、ひとつに収斂しないアイデンティティの形であろう。先住民は絶滅などしていなかったのだ。

「私はタイノ」

 1990年代に入ると、2つの動きが先住民タイノ族の存在をさらに浮上させた。

 ひとつは、先住民族の権利運動の高まりである。1990年、「アメリカ先住民の墳墓保護と返還に関する法律(NAGPRA)」の成立以降、先住民であるという意識とその権利を保護する動きは大きく進んだ。「世界の先住民族の国際年」宣言(1993年)に続き、1995年から2004年は「世界の先住民の国際10年」とされた。さらに、国連総会における「先住民族の権利に関する国際連合宣言」(2007年)の採択を受けて、日本でもアイヌを日本の先住民族とする決議が議論、採択されて、2019年には「アイヌ施策推進法(正式名称「アイヌの人々の誇りが尊重される社会を実現するための施策の推進に関する法律」)」が可決されている。 

 もうひとつは、DNA技術の飛躍的向上により、現代のカリブの人びとが先住民のミトコンドリアDNAを持っていることが確認されたことである。スタンフォード大学の遺伝学者カルロス・バスタメントの調査では、プエルト・リコの場合は人口の1015%、ドミニカ共和国では5%に、タイノのDNAが保持されているという。2011年の国際人類遺伝学会で披露されたこの結果は、国際共同事業である「1000人のゲノムプロジェクト」(2008年設立)にも加えられた(https://karapaia.com/archives/52044540.html)。こうした情報は、Windows95を皮切りに急速に進んだ技術革新を通じて広く共有されるようになり、タイノを受け継ぐ人びとは、まずはネット上で、次いでリアルに、交流しはじめた。

 2015年には、デンマークの遺伝学者たちが、今から1000年ほど前の頭骨にあった歯からタイノの完全DNA鎖の抽出に成功した。カリブ海域のような湿気の多い熱帯ではDNAの保存状態が悪く、抽出はほぼ不可能とされてきた。技術革新によって抽出可能となったDNAは、1000年前、つまりスペイン人到来以前のカリブ海域にいたタイノが現代のドミニカ共和国やプエルト・リコの人びととつながっていることを証明したのである(Origins and genetic legacies of the Caribbean Taino,” PNAS Vol. 115, No. 10)。同様の調査結果は、2020年の『サイエンス』(https://www.science.org/cms/asset/03f01d51-522d-4d53-b2d3-efea3cdc9ceb/pap.pdf)や『ネイチャー』(https://www.nature.com/articles/s41586-020-03053-2でも報告されている。

 そのなかで高まってきたのが、従来の「タイノ絶滅説」の否定である。批判は、「絶滅した」として先住民の存在を抹消した植民地時代の人口調査に向けられた。イスパニョーラ島では1565年の人口調査直後にタイノの絶滅宣言が出されたことは前述したが、同じくタイノの分布地であるプエルト・リコの場合、1787年の人口調査で2300人だった先住民数は、1802年には0人と記録され、以後、民族を問う選択肢から「先住民」は消えた。21世紀に検出されたDNA鎖は、これら調査記録の嘘を暴いたといえる。人口調査に結婚・出生記録や遺言書をクロスさせた歴史研究者の検証からは、スペイン人がタイノの女性を「妻」にすることが多かったこと、奴隷である「先住民」が「アフリカ人」に書き換えられた例が少なくないことも明らかになってきた。

 2019年には、「先住民0人」としたプエルト・リコの1802年の人口調査を修正しようと、ニューヨークである写真展が企画された。ニューヨークのタイノ・コミュニティを主宰するジョージ・バラクティ・エスデベスの試みであり、タイノが民族の血や文化を確実につないできたさまが可視化された。さまざまな衣装に身を包んだタイノの子孫たちの肖像写真を撮ったのは、ニューヨークで活躍する写真家、阪口悠氏である。登場した人びとのなかには、祖先が山に逃げ込み、「タイノであることを忘れるな」との言葉をずっと大切に伝承してきたと語る人もいた(『ナショナル ジオグラフィック』に掲載された記事はこちら)。

 人口調査の選択肢から消されたタイノは、「絶滅」したわけではなかった。彼らは、スペイン人が強引に開いた「カリブの近代」をしたたかに生きてきたのである。

 「私はタイノ」を称する人びとが確実に増えたことを受けて、プエルト・リコ政府は人口調査に「先住民(インディオ)」という選択肢を復活させた。2020年にこれを選んだ人は3万人を超えた。

彼らの過去に私たちの今を重ねる

 遺伝子解析技術の進歩によって、もうひとつ別の「先住民絶滅否定説」が浮上した。南米大陸からカリブ海域の島々にやってきた農耕民たちによって、コロンブスがやってくる1000年以上も前に、「先住民」はほぼ全滅していたのではないかという仮説である。日本経済新聞に掲載された記事のニュースソース、『ナショナル ジオグラフィック』誌(日本語版、2021年1月)が伝える最新の研究成果はこうだ(記事はこちら)。

 アフリカ大陸を出た人類、ホモ・サピエンスが南米大陸に到達したのは約1万年前、そこからカリブ海域にたどり着き、定着するのは約6000年前だといわれる。ゲノム解析からも、彼らが南米大陸からの渡来者であることが確認されている。彼らこそがイスパニョーラ島の「先住民」であり、石器を使う狩猟採集民族であった。約2500年前、南米北東部から製陶技術を持つ農耕民がカリブ海域に到来するようになり、800年ほどの時間をかけて、大アンティル諸島に定住する。「先住民」は、この農耕民との接触、戦闘や病でほぼ全滅し、イスパニョーラ島でも農耕民が「先住民」に置き換わったとされる。調査によると、2つの民が混じり合った可能性は低いらしい。(この2つの民から、日本列島における縄文人と弥生人を想起した読者もいるだろうが、話が大きく逸れてしまうので、また別の機会にしよう。少なくとも、日本では、農耕民である弥生人が狩猟採集民の縄文人を全滅させたわけではないようだ。)

タイノの製陶文化(ドミニカ人類博物館の展示より、2023年8月9日筆者撮影)

 この説に従えば、1492年にコロンブスが出会ったのは、石器を使う狩猟採集民を征服した、陶器を作り使う農耕民族であり、彼らは「先住民」ではなかったことになる。「先住民」とはどこまで遡ることのできる/遡るべき存在なのだろうか。たとえば、2007年の国連総会で採択された「先住民族の権利に関する国際連合宣言」は、先住民族の具体的な定義を意図的に避けた。宣言自体に法的拘束力はなく、具体的な措置は各国に委ねられた。そこには、先住民族の多様性を勘案して、定義することで排除される集団が生まれることへの懸念があったと説明されている。「先住民」という言葉は、文化とともに、その時々の政治が絡む言葉でもある。だからこそ、本質を見極めたい。

 そんなことを思っていたとき、目に留まったのが以下の文章である(Jorge Baracutei Estevez, Nina Strochlic, “Meet the survivors of a ‘paper genocide’” 2019/10/14 訳は筆者による)。

自分の子どもや兄弟姉妹、親たちが虐殺され、レイプされるのを見ながら、自分たちの村が強奪、略奪されるのを目にしながら、祖母や母たちは何をしていたのだろうか。彼女たちもまた懸命に祈ったに違いない。苦しむ人びとがみなそうであるように。だが、その祈りはどうなったのか。キャンプファイアの煙のように、空中に消えてしまったのか。

 これは、ウクライナ戦争の犠牲者家族の言葉ではない。上記、「私はタイノ」の写真展を主宰したエステベスが2019年のインタビューで語った話である。学校でコロンブスの航海を学んだ彼は、その冒険談にワクワクして帰宅し、母親にその話をした。すると母親は、コロンブスによって祖先たちがどれほど犠牲になったかを彼に語り、少年だった彼に大きな衝撃を与えた。上記引用は、母親の話を聞いて、スペイン人によって虐殺された祖先の姿を思い浮かべたエステベスの言葉である。そして、彼の言葉から、現在進行中のウクライナ戦争のサバイバーや犠牲者家族を想い浮かべたのは私である。

 「過去につながり、今を問え!」と本連載は毎回叫ぶ。だが、その過去は、「私たちの過去」である必要はない。いや、21世紀の今、「私たちの過去」と無関係なものはどこにもない。先の言葉に、エステベスはこう続けている。


 ここではっと気づいた。私たち子孫が彼女たちの祈りなのだと。物事を正し、自分たちの物語を伝えるために、私たちは戻ってきたのだと。


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著者略歴

  1. 井野瀬 久美惠

    1958年愛知県生まれ。甲南大学文学部教授。京都大学大学院文学研究科西洋史学専攻単位取得退学。博士(文学)。第23期(2014-2017)日本学術会議副会長。大英帝国を中心に、(日本を含む)「帝国だった過去」とわれわれが生きる今という時空間との関係を多方向から問う研究をつづけている。主な著書に『大英帝国はミュージック・ホールから』(朝日新聞社、1990)、『子どもたちの大英帝国』(中公新書、1992)、『女たちの大英帝国』(講談社現代新書、1998)、『黒人王、白人王に謁見す』(山川出版社、2002)、『植民地経験のゆくえ』(人文書院、2004、女性史青山なを賞受賞)、『大英帝国という経験』(講談社、2007;講談社学術文庫、2017)、『イギリス文化史』(編著、昭和堂、2010)、『「近代」とは何か』(かもがわ出版、2023)など。

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