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祇園祭リボーン

山鉾を彩る龍と神仙――八坂神社と神泉苑

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知られざる祇園祭の謎

 祇園祭には、京都人も知らない謎と不思議がある。この連載ではそこにスポットをあてて、紹介してきた。筆者は中国思想の研究者として、祇園祭の研究をしてきて、祇園祭には、ふたつのテーマが潜んでいることに気がついた。

 ひとつが「水と龍」。第1話で述べた、祇園祭と鴨川のこともそうである。

 祭が行われる七月頃は、夏から秋。古来水害とひでり、疫病が蔓延する季節とされた。そして龍。龍は水をつかさどる霊獣で、雲を呼び、雨を降らせる。また天地自然の循環を示す存在でもある。

 もうひとつが神仙世界と不老長生。

 祇園祭は疫病退散の祭であるが、実はその先には、老いず、元気で長生きしたい、平安で幸福に過ごしたいという願いがある。

 神仙世界とは、深山幽谷が広がり、仙人が住むところ。仙人は長生きであり、老いない。不死を得る仙薬を持ち、瑞鳥や瑞獣をしたがえる。

 山鉾にも仙人が祀られる。鉾のひとつ、菊水鉾の中央に高くそびえる真木があるが、その天高く祀られる天王は、中国の不老長生の仙人、彭祖(ほうそ)である。古来より、人びとは、神仙世界と不老長生の仙人へのあこがれを抱いた。

 第4話では、これらをもとに、祭のさらなる謎に迫る。

八坂神社の龍穴と青龍の地

 筆者は近年の祇園祭で行われている、八坂神社の本殿地下の龍穴から汲んだ「青龍神水」と、神泉苑の閼伽(あか)水を交換して注ぐという神事に関心を寄せていた。祇園祭の発祥は、祇園社から神泉苑への神輿渡御にある。そのゆかりの地との互いの神水の交換。この神事を意義深いものと感じていた。

 先だって、八坂神社の野村明義宮司にお会いする機会があったので、そのことを話した。

 野村宮司は、「祇園祭は水の祈りから始まった。できうる限り、祭をむかしのかたちに戻したい」と語っていた。まさに温故知新である。

 八坂神社(祇園社)には、古来より本殿下に龍穴がある、といわれていた。

 『都名所図会』では、鎌倉時代の『続古事談』を引用し、祇園の宝殿の中には龍穴がある、その深さをはかろうとすると、五十丈(約150m)に及び、なお底なしであった、と記される。
 鎌倉時代の『釈日本紀』では、祇園の神殿の下に龍宮に通じる穴があることは、古来より申し伝えられている、とし、これは北海の神が南海の神に会うのに符合するか、とある。

 では、祇園社にあるといわれてきた龍穴とは何か。古来人びとが重んじた、風水の観点から、考えてみたい。

 「龍穴」「龍脈」は風水の用語である。

 龍穴とは龍が「結局」するところ、ここに気のエネルギーが充満する。そのうちの穴点に生気が結集する。龍脈とは地理の起伏、脈は気の通り道を示す。

 「龍穴」がある祇園社も、古来より風水の地とされていた。

巒頭(らんとう)風水のモデル(出典:水野杏紀『易、風水、暦、養生、処世 東アジアの宇宙観』、講談社、2016年、3章 風水)

 また風水では、天の四神を象る霊獣(青龍、朱雀、白虎、玄武)の鎮護があるところを、吉相地とした。八坂神社(祇園社)がある東山と鴨川は都の東に位置することから、古来から青龍として、都を鎮護するとされた。また東は太陽が昇る方位であり、春、季節の始まりを象徴する重要な場でもあった。

 八坂神社は、古来より龍と関係が深かったのである。

左は平安京と周囲の地勢(出典は前掲の水野杏紀『易、風水、暦、養生、処世 東アジアの宇宙観』、3章 風水)に綾戸國中神社を追加したもの。右は五行と四神の配当(水野作図)。前漢『淮南子』にもとづく。第2話を参照。

龍の造形と特徴

 龍は古代中国で誕生した、水をつかさどる霊獣である。その姿は、頭は駝のよう、角は鹿のよう、眼は兎、形は蛇のよう、鱗は魚のよう、爪は鷹のよう、手は虎のよう、ともいわれた。

 龍は天に昇り、雲を呼び、雨を降らせる。だから、人びとは龍の存在を大切にした。天から降った雨が地下にしみいり、山肌からわきだした水が大河の源流となる。その大河は龍にもたとえられた。

 そして、清らかな水を好む。穢れたならば、龍は棲むことができない。だから、人びとは龍のために、清らかな水を大切にした。

 龍は水の霊獣であるが、その図像をみると、火を包含する。これは雷電を意味する。五行の水と火は水尅火と尅する関係であるが、龍は火の雷電をおこし、そこから水の雨を呼ぶ。これが農耕社会の恵みの雨となるのである。

 龍はまた変幻自在である。あるときは地下深くに潜み、あるときは河川の流れや田畑に遊び、あるときは天を飛翔し、山脈を一気に駆けぬける。

 そして、龍は生命体のリズム、天と地をめぐる自然の循環も示していた。

龍の造形と特徴(作図:ロビンやすお、解説:水野杏紀)

神泉苑の龍宮と神仙世界

 第2話で紹介した『簠簋内伝』では、南海の婆竭羅龍宮の龍王、龍宮(城)、龍王の娘である頗梨采女、龍頭鷁首の宝船など、龍に関連するコトバが多く登場する。

 このうち龍宮とは、龍王が住む深海の宮殿であり、絢爛豪華なしつらえがある。

 『簠簋内伝』にも、龍宮の龍王は不老門を開け、長生殿に天王を招いた、とあった。龍宮は仙人が住むのと同じ、不老長生の仙境であった。

 祇園祭は、平安時代、疫病の退散と国家の安寧、民衆の平安を願い、神泉苑に神輿を送ったのが始まりである、と紹介した。

 神泉苑は御霊会などを行う場であった。なぜ、この神泉苑に神輿が渡御したのか。祇園社と神泉苑を結ぶつながりは何だったのか、それを考えてみたい。

 平安時代、神泉苑は平安宮の東南部に位置する禁苑であった。造営当時は広大な敷地を持っていたが、江戸幕府の二条城の建設などで、現在の規模となった。

旧神泉苑境内と、現在の神泉苑とその周辺(水野作図)

 神泉苑には、こんこんとわきあがる、清らかな池泉があった。そこに山川の世界がつくられた。桓武天皇は晩年、頻繁に神泉苑を行幸した。ここでは、さまざまな宴が催された。

 嵯峨天皇の命により編纂された、平安初期の『凌雲集』(りょううんしゅう)に、菅野真道が神泉苑を詠った一首がある。そこに、神泉苑のことがこう記される。一部を訳して紹介したい。

(西)王母の仙園は近きにあり(王母仙園近)

龍宮の宝殿は(池泉の)深きにあり(龍宮宝殿深)

 王母とは西王母のことで、崑崙山に住む神仙である。不老不死の仙薬を携え、三千年に一度しか実がならない桃を持つ。

 神泉苑は西王母の仙園を彷彿とさせる風景が広がり、その池泉の深くには龍宮の宝殿がある、まさに不老長生の仙人が住む仙境のようだ、とされていた。

頗梨采女と善女龍王

 仙境とされていた神泉苑のご祭神は善女龍王である。これは干ばつの折、朝廷の命により、空海が呼び寄せた龍の神といわれる。請雨に霊験を示し、雨を降らせたという。その後も、さまざまな霊験をあらわし、多くの信仰を集めてきた。

 一方、祇園社のご祭神である牛頭天王の妻、頗梨采女(はりさいじょ)は龍王の姫君、つまり龍女であった。明の『本草綱目』では頗梨(玻璃)の(玉の)輝いて透き通る光は水のようである、とあり、その名にも、水との関係がみられる。

 このように、祇園社と神泉苑は、龍の神をご祭神とするという共通項があった。

 神泉苑には龍宮、仙境を象る空間が広がり、善女龍王が鎮座される。

神泉苑(『都名所図会』)水野蔵、太字は水野記載

 筆者は、先の『釈日本紀』にいう、祇園社の龍穴につながる龍宮は、神泉苑とされたのではないか、と考える。

 神泉苑への神輿渡御は、疫病退散とともに、国家の安寧、人びとの不老長生への願いがこめられていたのであろう。これは北天の牛頭天王が龍宮の南海の龍王に会い、頗梨采女を娶る物語とも結びついてくる。

 現在の祇園祭では、還幸のとき、中御座の神輿(素戔嗚尊)が神泉苑に渡御する。そして神泉苑の住職による祭祀が執り行われ、八坂神社の宮司も参列する。

 同じく還幸のとき、三御座の神輿は三条通にある又旅社に赴くが、ここはかつての神泉苑において、渡御する神輿を駐輦(ちゅうれん)した(神輿を一時的に止めおくこと)場と伝わる。

龍頭鷁首の船の呪力

 『簠簋内伝』では、蘇民将来は牛頭天王のために龍頭鷁首(りゅうとうげきしゅ)の宝船を用意し、南海の龍王の婆竭羅龍宮、龍宮城に到達した、とある。

 第2話で述べたように、前漢の『淮南子』に「龍舟鷁首(りょうしゅうげきしゅ)」の名で登場する。「鷁」は霊鳥であり、水の災いをよく避けることができ、大空を飛びまわり、風にたえるとされた。

 平安時代には、龍頭鷁首の舟を池泉に浮かべ、音楽を奏でて楽しむ宴が催された。

 なお、中国では鷁をへさきにすえて、神仙世界を象る瑞祥でちりばめた船(舟)は呪力を持つとされた。それが後漢の張衡「西京賦」に記されているので、抜粋、要約して紹介したい。

昆明池に舟を浮かべ、天子が乗られる。舟には(水先案内と水の難を避ける)鷁をへさきにつけ、(瑞祥の)雲気紋と(不老長生の仙薬である)霊芝を描いたおおいをかける。葦笛を鳴らし、曲を奏し、歌う。これらは、(飾りと音楽に魅せられた)河や水の神々を喜ばせ、水に棲む魍魎(もうりょう)たちを驚き震えさせ、蛟蛇(こうだ/みずち)も驚き慎しませる。

 絢爛豪華な飾りや音楽は、それに魅せられて集まる神々を楽しませる。それだけではない。悪害をもたらす魑魅魍魎たちを、畏怖させて鎮める呪力を持つとされていた。

神仙苑御遊(『都林泉名勝図会』、水野所蔵)

 山鉾巡行にも龍頭鷁首の船が登場する。それが前祭の「船鉾」と後祭の「大船鉾」である。どちらも山鉾巡行の最後尾を飾る、「くじとらず」である。

 船鉾は神功皇后の出陣をあらわし、大船鉾は凱旋をあらわすともいわれる。

 船鉾のへさきには鷁が飾られ、一方大船鉾のへさきは龍(幣帛と一年おきに交代)が飾られる。

 「龍頭鷁首」の船は河や海につながり、神仙世界ともつながる。山鉾巡行の「龍頭鷁首」の船も、前祭では神々を迎え、後祭では神々を見送る、そうした意も含まれていたのであろう。

 古来、人びとは目にみえる表層の造形の奥にあるもの、そこにこめられている意味や物語を大切にしてきたのである。

左は前祭の山鉾巡行の最後の船鉾のへさきの鷁。右は後祭の山鉾巡行最後の大船鉾のへさきの龍、現在は金箔がほどこされている。ふたつの鉾とも随所に龍を始めとした瑞祥の造形がみられる(水野撮影)。

山鉾にみる龍と神仙

 山鉾の山は不老長生を示す神木、松を飾り、神仙の棲む山を示す。鉾は高くそびえる真木に神木、榊を飾る。山鉾には、仙人や龍などの霊獣など、瑞祥を極めた意匠がある。

 また鉾や曳山は祇園囃子の能菅や鉦、太鼓が奏でる音が美しい。まさに神仙世界のようである。その造形を後祭から紹介しよう。

 

仙人図(八幡山)

 後祭の山鉾巡行の八幡山は、明代頃の「慶寿裂(けいじゅきれ)」と称される懸装品を所蔵する。同様のものが、前祭の伯牙山にもある。この上部と下部には「慶寿詩」(長寿を祝う詩)が記される。中央には「仙人図」があり、さまざまな仙人が集まる宴の様子が描かれており、慶祝にふさわしい構成となっている。

 八幡山の「慶寿裂」には、「元禄三年午(1690)六月吉日」(裏銘)とある。

 現在の巡行のときであるが、八幡山は昭和六十一年(1986)に復元新調されたものが前懸として用いられる。それは伯牙山も同様である。

 詩文の上は明の文人、王英作、下は徐有貞の作、ともに『明史』列伝にその名がある。

八幡山の前懸、慶寿裂(復元新調)(水野撮影)。上・下部には「慶寿詩」(長寿を祝う詩)がある。中央には「仙人図」があり、仙人が集まる宴の様子が描かれる。

この慶寿詩(上下)の原文を現代語訳をほどこして紹介したい。

 中央の「仙人図」であるが、詩文にあるように、「長寿延年」「長生きして老いをしらず」がテーマとなっている。鶴の背にまたがって宴席にむかう仙人がいる。これは長寿をつかさどる南極老人である。図の仙人たちと持ち物は、中国の八仙がモデルである。八仙の詳細は、紙面の都合で紹介できないが、左下の蝦蟇(がま)は、人間の姿で仙薬を市で売る中国の仙人、侯先生を彷彿させて面白い。

 その他、禄を示す鹿、不老長寿を示す松、竹、亀、雲気紋などのめでたい瑞祥がちりばめられる。ここには仙人たちが宴席に集う世界が表現されている。

 まさに、これは神仙世界と仙人、不老長生の造形があらわされた図なのである。

先掲「仙人図」の拡大

龍袍の龍と神仙世界

 山鉾の懸装品には、龍の紋様が多くみられると述べたが、それは祇園祭と水の霊獣、龍とも結びついている。

 明清の皇族や官人の服である「吉服袍」というものがある。ここには見事な龍が描かれていた。江戸時代、この服飾品は非常に貴重で高価であったが、当時の各山鉾町に関係する、財力のある商人などは競ってこれを買い求め、それを各山鉾に寄贈し、懸装品に仕立て直された。

 少し「吉服袍」のことを解説したい。

 皇帝や皇后(皇太后)などの吉服を「龍袍」(ロンパオ)、皇子などの皇族、ならびに郡王、公主などの吉服を「蟒袍」(マンパオ)と呼ぶ。

 龍は正龍(正面を向いた龍)、行龍(横を向いた龍)がある。

 龍袍にある(メインの)龍の数は九、これは陽が極まる数で、最も貴い数とされた。ただし外側からみると、龍は八つしか描かれていない。もうひとつの龍は皇帝自身とされ、それはまた襟の内側にある龍で示される。

 そして龍袍の龍の爪は五である(蟒袍は四爪以下)。

 龍袍の刺繍は非常に美しく精微であり、皇帝が着るにふさわしく、神仙世界と瑞祥の造形を極めている。またあらゆる凶禍を避け、福禄寿をもたらすとされた。

 清の『清史稿』には、龍袍は十二章の瑞祥があり、下幅に八宝立水(立波の紋)を配する、とある。日月星辰は天の巡りと天意を示し、山は大地自然、龍は神獣で皇帝の象を示すなど、それぞれの瑞祥の特徴を持つ。この詳細については、またの機会に紹介しよう。

山鉾と龍袍・蟒袍

 各山鉾では、江戸時代に龍袍や蟒袍などを仕立て直した、明清の貴重な懸装品を所蔵する。しかし数百年の時代が経過し、経年劣化のため、当時の姿のまま、巡行でみられるのは、少なくなっている。そこで、宵山には旧懸装品を飾り、巡行のときは、復元新調されたものを用いる山鉾もある。

 

「波濤に飛龍文様」(黒主山)

 ここでは龍袍を用いた懸装品のうち、山鉾巡行の後祭、黒主山が所蔵する「波濤に飛龍文様」を紹介しよう。

 黒主山は、明の「萬暦帝即位の服」と伝わる服を所蔵する。現在、それを復元新調したものを、巡行の前懸として用いている。

 この由来は、三条大橋の東にある檀王法林寺から、文化十四年(1817)、黒主山に寄附されたものだという。この寺には、洪水と干ばつの災いから人びとを守護するという、霊験あらたかな加茂川龍神(八大龍王)が祀られている。

 この御服は、当寺を開山した袋中上人(1552~1639年)が琉球王国で布教した折、尚寧王から賜わったものとされ、黒主山には、袋中上人作と伝わる墨書の文書が所蔵される。

 そこには萬暦帝即位の服の瑞祥について、詩文で紹介されているので、その部分を現代語訳して紹介したい。


黒主山の前懸、「波濤に飛龍文様」(水野撮影)。伝萬暦帝即位の服、龍袍を江戸時代に仕立て直したものを、近年復元新調したもの。正龍他、多様な瑞祥が描かれている。上部分の水引は同様に吉服袍(龍袍)を江戸時代に仕立て直した当時のもの。五爪の横龍などの瑞祥が描かれている。

 復元新調された懸装品をみると、詩文に記載された、瑞獣の麒麟、瑞祥の五色の雲気紋、鶴や玉石がみられる。なお上部の水引は江戸時代に仕立てられた当時のままのものであるが、行龍、下部には海水江崖紋(波濤に山)、雲気紋など瑞祥がちりばめられている。

 龍袍にみる瑞祥の詳細については、またの機会に紹介したい。

左は上部の水引の一部。右は前懸の下の部分。一対の麒麟が向かい合って描かれる。

 

 他の山鉾にも、龍袍、蟒袍を仕立てた懸装品や、その他にもさまざまな龍の造形がある。後祭から、そのいくつかを紹介したい。

左は橋弁慶山の後懸(掛)、「雲龍図刺繍」(水野撮影)。なんとも龍の目と表情が愛らしい。
右は橋弁慶山「藍地波濤に飛龍文様」(綴織)、以前の後懸(掛)。明清の吉服袍(龍袍)を江戸時代に仕立て直したもの。橋弁慶山保存会の元理事長、那須明夫氏によれば、現在復元新調中とのことであるが、正龍の中心に描かれる(火珠)部分に華麗な装飾がほどこされている。また行龍、海水江崖紋(波濤に山)、多くの雲気紋、福をもたらす蝙蝠(こうもり)の瑞祥が描かれる、見事な懸装品である(水野撮影)。


鯉山の水引・胴懸((毛)綴織・旧)。叙情詩「イリアス」のトロイア戦争の一場面。左右に「波濤に飛龍文様」、宵山飾りでは「プリアモス王が祈る前に手を灌ぐ水注と手洗盤を侍女が奉仕する図」とある。中央には16世紀頃のブラバン・ブリュッセル製の貴重なタピストリーが配される。そのなかに霊獣である龍を配することで、多国籍であでやかな世界を織りなす。こうした構図は 、前祭の鶏鉾、白楽天山、函谷鉾などにもみられる(水野撮影)。


役行者山。 欄ぶちの四方の錺金具は随所に龍の文様があるが、生命力のある躍動感がある。あわせて四隅に天の二十八宿が象られる、当時の錺師の巧みな技を感じさせる作品(水野撮影)。

南観音山の見送、「龍王渡海図」。かつての見送は明の綴錦の龍であったが、昭和六十三年(1988)に「龍王渡海図」(加山又造作)になる。深青の色調に龍が全面に描かれており、目のルビー(人工)がひときわ輝く。まさに水をつかさどる龍にふさわしい構図である。

最後に 神々を迎えてもてなす

 宮崎駿監督の『千と千尋の神隠し』は、主人公の「千尋」が不思議な世界に迷いこんでしまう物語である。それは日常のすぐそばにあってもみえない、アナザーワールドでもある。湯婆婆が経営する油屋は、「神々をもてなす」温泉旅館。夕暮れになると、八百万の神々は船から降り、日ごろの疲れを癒すために湯屋にやってくる。「神々をお迎えしてもてなす」ことで、もてなす側もみな、吉福を得るのである。

『千と千尋の神隠し』より 湯屋を訪れる神(春日様) © 2001 Studio Ghibli・NDDTM

 祇園祭は、なぜかくも勇壮で絢爛な祭となったのだろう。

 世間では、よく山鉾巡行を「動く美術館」と称している。確かに、龍袍を用いた懸装品を含め、美術館ではガラス越しにしかみられない貴重なものが、巡行で用いられている。

 しかし町衆に話をきくと、この言葉を嫌う人が多かった。自分たちは先人たちが大切にしてきた宝と志を、次の世代に受け継ついでいくだけだ、と。

 そんな折、江戸時代の『祇園会細記』にある興味深い詩文を発見した。これは『千と千尋の神隠し』にも通じる世界であり、勇壮、絢爛な祭にこめられた人びとの思いがあった。

 そこで詩文を訳し、これを最後に届けよう。 


 詩文には、光輝く鉾と絢爛な山は神々をお迎えして楽しんでいただくためにある。併せて集う人びとも観て楽しむ、こうして(災疫を祓い、)長久と安寧が得られる、とある。ここには、天と地、河と海というコトバもある。それは人間が生きる環境である。

 ちなみに、「見る」と「観る」は違う。「観る」は、その土地で培われた芸術や文物を観て、人びとがそこにこめられた思想や文化を知ることであり、「観光」の本義とつながる。

 ここでいう神々とは何か。神輿で来訪するご祭神だけでなく、各山鉾にも神道、仏教、修験道、儒教、道教など、多様な出自の神々がいる。第1話で紹介したように、祭を楽しみに来訪する神々もおられる。筆者はこれらすべてをさすと考える。

 八坂神社の宮司であった真弓常忠氏は、祇園祭の神々の多様性に注目し、「壮大な諸宗教の融合の姿が見られる」(真弓常忠『祇園信仰』、朱鷺書房、2000年)と述べる。

 祇園祭にはさまざまな神々が集う。人々はそれらの神々に心を尽くして、楽しんでいただき、世に蔓延する疫厄や災異を祓い、世の安寧と人びとの長寿と幸福を願う。

 『祇園会細記』にも記されているように、そうした先人の願いと祈りが、かくも絢爛で壮大な祭をつくりあげたのである。

 今年、祇園祭は四年ぶりに本格復活(リボーン)した。この機会に、四話を通して長い歴史と人々の思いが積み重なった、祇園祭の魅力を感じていただけたなら、筆者として嬉しい限りである。

 さてさて、祇園祭の謎と不思議は他にもある。それらはまたの機会にお届けすることにしよう。

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著者略歴

  1. 水野 杏紀

    大阪府立大学大学院博士課程修了。人間科学博士。現在関西医療大学・奈良県立医科大学非常勤講師。熊猫学舎文化研究所・熊猫学舎塾主宰。中国思想(易・陰陽五行・風水、養生・本草、瑞祥・神仙)などを研究。祇園祭については五本の論文を発表。都のまつり文化研究会会員。単著に『易、風水、暦、養生、処世 東アジアの宇宙観(コスモロジー)』(講談社、2016)、他の著述として、「土御門家私塾「齊政館」における術数書研究と出版」(梅田千尋編『新陰陽道叢書』第三巻、名著出版、2021)などがある。

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