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祇園祭リボーン

知られざる神輿渡御と駒形稚児

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神輿で来訪するご祭神

海北友雪筆「祇園会後祭山鉾巡行図」(部分)(慶安年間(1648~1652年)) 公益財団法人 八幡山保存会所有(京都市指定有形文化財)

 祇園祭は、神輿渡御と山鉾巡行が中心となる祭。この図は江戸時代の「祇園会後祭山鉾巡行図」である。全体図は、三条通を巡行する後祭の山鉾と還幸する三基の神輿が描かれる。三条通は古来列見辻といわれ、後祭の山鉾巡行、神輿渡御の重要な道筋であった。

 この図はその一部で、神輿とそれを舁く輿丁、「御式礼」などの御神宝や、民衆が神輿に手をあわせる姿が描かれる。

 本話では神輿を舁く担い手や神輿の神仙世界と霊獣たち、神輿を先導する「駒形稚児」の知られざる謎に迫る。

神輿を舁く担い手たち

 「神輿」(みこし)という字についてみてみよう。「神輿」は御神霊を安置した輿(こし)で、「神輿」(しんよ)ともいう。「輿」(よ)は(天子の)乗り物で、「舁」(よ)に通じ、「舁(か)く」(かつぎあげる)という意がある。「輿丁」(よちょう)は神輿を舁く者で、「輿丁」(よてい)ともいう。

 祇園祭の神輿は三御座。現在の三御座のご祭神と神輿の形は以下の通りである。

中御座のご祭神は素戔嗚尊(すさのをのみこと)。六角形の屋根の頂きには鳳(鳳凰)。

東御座のご祭神は素戔嗚尊の妻、櫛稲田姫命(くしいなだひめのみこと)。四角形の屋根の頂きには擬宝珠。

西御座のご祭神は素戔嗚尊の御子である八柱御子神(やはしらのみこがみ)、屋根の頂きには鳳(鳳凰)。


中御座と三若神輿会輿丁(水野撮影)

左は西御座と錦神輿会輿丁、右は東御座と四若神輿会輿丁(水野撮影)

 関西の神輿は他の地域と比べ、大きく重いといわれる。祇園祭でも、重さ2トンにも及ぶ神輿に轅(ながえ)を縄で結び、総勢数百人の輿丁で舁くが、皆ご祭神の御神霊が遷られた神輿を舁くという自負を持つ。掛け声は京都の松尾大社の神輿渡御と同様、「ホイット、ホイット」。勇壮でエネルギーに満ち、みる者に活力を与えてくれる。

 中御座は三若神輿会(さんわかしんよかい)、東御座は四若神輿会(しわかしんよかい)、西御座は錦神輿会(にしきしんよかい)が奉仕する。

三若神輿会

 三若神輿会の母体は「三条台若中」であるが、創建が江戸時代にさかのぼる歴史と伝統のある組織である。神泉苑近くの今新在家西町、その地域の四十二の家が祭の奉仕を始め、数百年後の現在まで、その家の子孫が奉仕する。現在の近藤浩史会長、吉川忠男幹事長、吉川幸宏副幹事長を始め、世襲の家が祇園祭の神事に携わる。

 三条台若中の創建は元禄期と伝わり、それが神輿会の会所前の駒札に記される。

 文献でみると、三若神輿会では文政十三年(1830)から始まる古文書を所蔵し、そこに、それ以前の文化四年(1807)に土地を購入したという記録がある。したがって、この頃には組織としての活動があったことがわかる。なお三若神輿会の名称は、明治三十一年(1898)に三若組を経て、昭和につけられたものである。

 近藤会長によれば、「近藤家(屋号は生姜屋)は代々漢方薬となる原材料を製造し、吉川家(丹波屋)は醤油を醸造、前田家(山形屋)は農業を営んできた。この周辺は祇園社の氏子地域のうち、都市部の近郊農家として農地を持つ者も多かった。そこで人びとが田畑を三条台若中に寄附し、それを耕して捻出したお金を若中に寄付し、神輿祭礼の経費としてきた」という。三若神輿会のもとに三若みこし連合会、その下に各会があり、輿丁はそのいずれかに属する。

江戸時代創建、神泉苑の近くの今新在家西町にある三若神輿会会所(水野撮影)

四若神輿会、錦神輿会

 東御座は、江戸時代末には四条船頭町(四条木屋町付近)の高瀬川の船頭衆が中心に奉仕した。その後、明治末までには実質的に若竹町が担うようになり、今日の四若神輿会につながっている(立命館大学教授、中西仁氏のご教示による)。

 第1話で紹介した、神輿洗で神輿を舁くのも四若神輿会である。東若御座という子供神輿を持つ。

 西御座は、江戸時代は三条台若中が奉仕した。明治九年(1876)頃になると、壬生村の農家が壬生組と称して奉仕し、戦後まもない昭和二十二年(1947)頃より錦商店街にある錦組(現在の錦神輿会)が結成され、西御座を舁くことになったという。三基のなかで一番重い神輿といわれる。舁き手には錦商店街の青年会、あるいは青果市場の人びとなどがいる。花街筋の人気も高い。

 また、江戸時代も現在と同じ形の神輿を舁いているが、神輿の呼び名と神輿を担い手が異なる。『祇園御鎮座本記』には「駕輿丁」(かよちょう)として、こう記されている(かっこ書きは付記)。

牛頭天王(六角形)の駕輿丁は「摂津西成郡今(宮)村」

八王子(四角形)の駕輿丁頭取は「高瀬川四条」

少将井(八角形)の駕輿丁は「三条台神泉苑町辺」

 神仏習合だった江戸時代、神輿は第2話で紹介した牛頭天王の名や、かつての御旅所の名(大政所(おおまんどころ)、少将井)でも呼ばれた。また、ご祭神は神道、仏道、暦道で異なる名を持ち、西と東のご祭神が逆であった。

 今宮の輿丁は京都での漁商の許可の見返りとして神輿を舁いたといわれる。高瀬川の船頭衆を始め、三条台附近の堀川、西高瀬川などは二条城への物資を運ぶなどの船運の要衝でもあった。神輿渡御を支える組織は船運とも深く関わっていた。

錺りと錺師の技

 神輿はご祭神の乗り物であり、本殿と同様に、荘厳な造りと華麗な錺(かざ)りがある。そこには錺師の技が潜む。それを紹介しよう。

 八坂神社の三基の神輿修理が平成十四年(2002)から三年かけて行われた。取り仕切ったのは明治創業の森本錺金具製作所。神社・仏閣などの錺金具の制作から復元修復までを手がける。その四代目、森本安之助氏は、「祗園の三神輿は、京都の職人の技が結集した至高の芸術品」という。神輿渡御においては、錺金具の取付けや、渡御に随行しての錺りなどの調整、還幸後の取外しも行う。

 また「錺師とはプロデューサー」ともいう。神輿づくりには、さまざまな職人集団が関与する。それが、「宮殿師」(木を用い、神輿本体の軸組構造をつくる)、「塗師」(何度も漆塗を重ねる)、「箔師」((金)箔をほどこす)、「鍛冶師」、そして「錺師」(金属を変化させ、華麗な錺りをつくりあげる)である。その統領が錺師なのである。

 この錺金具の制作には、火と劇薬を何度も用い、非常に危険がともなう。そこに繊細な細工を施す匠の技が加わり、精緻で絢爛な錺りの美が誕生する。

 その工程は次のようである。

1.型  型を取り、図面をおこし、切り抜く

2.地金  なまし(何度も銅板等を火で熱し、希硫酸液にひたして柔らかくする)のあと、型紙の模様を墨汁で刷り込む

3.鏨(たがね)  透彫(すかしぼり)、蹴彫(けりぼり)などの彫、立体化を行う。細かい模様を打ち出す魚々子(ななこ)打ちなどをほどこす

4.仕上げ  伝統的には、水銀箔焼付鍍金(めっき)(硝酸水銀液を塗り、金箔を重ねる)

5.本銷(銷鍍金)  水銀と金を直接合金とする

 これらを経て完成する。

神仙と霊獣たちの世界

 神輿には本殿と同様に、荘厳な造りと華麗な錺(かざ)りがある。それらを神輿の構造や特徴、名称を踏まえ、図にして紹介する。

 

 

 つぎに、神輿に潜む神仙と霊獣の世界を紹介したい。

 神輿には神仙世界の霊獣たちが鎮座し、辟邪が神輿を鎮護する。①鳳(おおとり)(鳳凰(ほうおう))、②麒麟、③御神鏡に焦点を絞り、中国の文献をもとに、その意味を読み解きたい。

①鳳(鳳凰) 

 神輿の頂きの鳳(鳳凰)。古来より瑞鳥とされた。『爾雅』によれば、鳳は雄、凰は雌で、性をわける。古代中国では、鳳はときをしらせる神鳥で、大自然に風が吹くのは、鳳が飛翔するからであるとされた。後漢の『説文解字』には、鳳は身に瑞祥のシンボルを備え、神仙の住む崑崙山(こんろんさん)あたりを回遊する、とある。『山海経』では鳳皇(ほうこう)とあり、五つの彩色は「徳義礼仁信」を示し、あらわれれば天下は安寧である、とある。

八坂神社舞殿での中御座の神輿の錺り(水野撮影)

②麒麟

 平瓔珞の上部にはさまざまな霊獣が象られる。下の写真は瑞獣、麒麟。既出の『説文解字』には、麒麟は仁獣で、牛の尾と一角の特徴を持つ、とある。また、麟(麒麟)は(仁徳の政治を行う)王のもとにあらわれる、とされた。孔子も仁政のときにあらわれるという麒麟の出現を待ち望んだという。

西御座の神輿の錺り(水野撮影)


明の『大明会典』の麒麟

 西、東御座の鳥居には、龍の見事な造形がある。龍については第4話で詳述する。

③御神鏡

 古来、鏡は不思議な呪力を持つとされた。不老不死を求めた秦の始皇帝が持っていた世にも珍しい鏡、それは体の疾病の箇所や人の本当の心を映しだす鏡であった、という。晋の『抱朴子』では、道士が山に入るときには、魑魅魍魎のたぐいから身を護るために鏡を携えた、とある。鏡は辟邪、邪を祓う呪的な力があるとして、珍重された。

オイネの呪力

 日本においては古来より稲作が重視された。『古事記』には、日本を「豊葦原之千秋長五百秋之水穂国」(とよあしはらのちあきのながいほあきのみずほのくに)と称する。豊かな葦原が広がり、長く久しくいついつまでも稲穂の実る国という意味である。神幸、還幸の神輿渡御では、神輿の頂きに稲穂が飾られる。

御旅所から還幸する前、神輿の屋根の頂きにオイネを飾る三御座の神輿会(水野撮影)

 青々としたイネ(稲)は八坂神社の「御田祭」を行う京丹波町の尾長野地区のものである。根元を刈らず、一本一本大切に手で抜かれるが、輿丁の間では「オイネ」と呼ばれる。神輿渡御のあと、輿丁たちは「オイネ」をわけて大切に持ち帰る。これは霊験あらたかとされている。

八坂神社の御田祭における京丹波町の尾長野地区の早乙女による田植(水野撮影)

神となる駒形稚児

 輿丁のなかではよく知られているが、神幸、還幸の神輿渡御では、胸に「駒形」(木彫りの馬の首)を奉持することで神となり、騎馬で中御座神輿(素戔嗚尊)を先導する稚児がいる。これを「駒形稚児」という。この「駒形」を御神体とするのは乙訓(おとくに)の上久世(かみくぜ)、綾戸國中(あやとくなか)神社である。

 例年六月、稚児は綾戸國中神社の氏子代表である小西武男氏、高橋毅氏らが中心となり、神幸と還幸の稚児二名(地域に関係する小学生)が選出される。

 神幸の神輿渡御の日、稚児は上久世から八坂神社に赴くが、その前に祇園の老舗、原了郭を訪れる。ご神前には、原家に代々伝わるという「祇園牛頭天王」の御神號の掛け軸がかけられる。そこに御神体「駒形」がおかれ、綾戸國中神社の宮司による神事が行われる。そのあと「駒形」を胸に奉持することで、稚児は神となる。

左は原了郭での神事を終えて八坂神社に赴く「駒形稚児」、右は八坂神社の境内に騎馬のまま入り、本殿の神事にむかう「駒形稚児」(いずれも水野撮影)

 「原了郭」の主人、原悟氏は宮本組の組頭であるが、駒形稚児との関わりについて、「元禄十六年(1703)、祇園社の門前で、香煎を供する茶店を開いたのが始まりである。その当初より、上久世の稚児が駒形をつけ、神になる神事に奉仕していたと伝わる」と語る。

 神となった駒形稚児は強力(ごうりき)によってかつがれ、白馬に乗り、八坂神社に赴く。そして南桜門より騎馬のまま参る。騎馬で境内に入ることは、どんな高貴な人にも許されていないことである。また駒形稚児の到着がなければ、神輿は八坂神社から動かしてはならないともいわれている。実際、駒形稚児の到着が遅れたことで、神輿渡御が遅れたことがあったという。

 駒形のご神体はスサノヲノミコトの荒魂(あらみたま)を宿しており、八坂神社に祀られているスサノヲノミコトは和魂(にぎみたま)、それが合わさることで、祭が始まるとされる。そして、本殿での神事のあと、駒形稚児は馬に乗り、四条御旅所まで、中御座の神幸の神輿渡御を先導する。

 還幸における「駒形」を稚児が奉持する神事については、四条御旅所の近く、錦天満宮でとり行われる。

「駒形稚児」の本殿の神事を受け、神輿渡御の準備をする三神輿会(水野撮影)

綾戸社と駒形稚児

 先述したように、綾戸國中神社と駒形稚児は、祇園祭の神輿渡御に大きな役割を果たす。

 綾戸國中神社のある上久世は、祇園から10kmあまり離れている。いったいなぜ、この社から、神となる駒形稚児が来訪し、祇園祭の神輿に随行するのだろうか。

 氏子代表、小西武男氏から興味深いお話をきいた。祇園町の芸妓衆が、化粧の下手な人を「あんたはん、駒形稚児みたいやわ」というのだという。八坂神社までは、現在車で赴くが、いにしえは徒歩で赴いた。渡御の日、宮司と駒形稚児は騎馬、氏子らは台車に種々の荷物を載せ、徒歩でむかう。徐々に夏の陽ざしが体にあたり、汗をふきながらひたすら歩いた。祇園町に着いた頃には、稚児化粧は暑さですっかり溶けてどろどろになった。その様相をたとえたもので、実は大変な苦労のなかでうまれた笑い話なのである。

 さて、綾戸國中神社はふたつの社がある。綾戸社(宮)のご祭神は、大綾津日神(おおあやつひのかみ)、大直日神(おおなおびのかみ)、神直日神(かむなおびのかみ)。國中社(宮)は素盞鳴尊(八坂神社は素戔嗚尊)。もともと綾戸社と國中社の二社であったが、戦国時代に國中社が綾戸社の境内に遷されたと伝わる。

 文献では、元禄七年(1694)には上久世から神輿渡御の奉仕があったことが確認できる。なお新幹線建設のため、当初の場所から移転している。

 この社と関連し、『都名所図会』では、「綾戸社(あやとのやしろ)は蔵王堂の南にあり。牛頭天皇を祭れるなり。(例祭は四月十九日なり。六月(旧暦)祇園會祭礼に馬の頭を首にかけて、児の騎馬にて当社より毎歳出るなり)」とある。

 ここでいう、牛頭天皇(王)は第2話で紹介したように、神仏習合の江戸時代、祇園社のご祭神であり、素戔嗚尊と習合していた。それが綾戸社でも祀られていた。

 また『祇園会細記』の神輿渡御の図には、「綾戸社神主」、「上久世村 牛頭児(ごずのちご)、俗に駒形という」とある。『祇園社年中行事』では、駒形児と称し、「上久世村綾戸より来る、…世人は綾戸大明神といえり」とある。

 江戸時代の文献には、上久世の稚児は綾戸社からやってきた、とある。

祇園祭の神輿渡御の図(「上久世村の牛頭児、俗に駒形という」とある(江戸時代『祇園会細記』、水野所蔵)

水の呪力と裏鬼門鎮護

 江戸時代、久世の稚児が来訪するとされた綾戸社。継体天皇の時代創建と伝わる古い社で、古来大堰(おおい)川(桂川)の祓い社とされた。ご祭神、大綾津日神は八十枉津日神(やそまがつひのかみ)ともいわれ、伊弉諾命が黄泉の国の穢れを河水で祓うことで生まれた神ともいう。

 この社は水の祓いと関連する。また社のある久世周辺は、淀川、桂川の合流点にあたり、古来より東西へ物資を相互に輸送する水陸交通の重要な要所でもあった。

 綾戸社は水(河川)と深い関係を持つ社なのである。

 ご神体の駒形(馬頭)は馬と関係する。馬は物や人を運ぶ移動手段であり、いくさにおいては重要な戦力でもあったが、いにしえより、水に関係した祭祀に多く用いられた。

 中国では、古代より神聖なる馬は河水の精とされた(南朝、梁の『符瑞図』)。これは『続日本紀』にも記載されている。

 同じく、『続日本紀』には、水をつかさどる神、大和国吉野郡の丹生川上(にうがわかみ)神に対し、日照りには黒毛の馬を奉り、長雨には白馬を奉ったとある。

 馬は水をつかさどる神獣とされた。このように、綾戸社は水の呪力と関係が深かった。

 本話の最後に、綾戸國中神社と京の都の位置関係について紹介したい。

 古来、東北(丑寅)は鬼門といわれた。それと同様、西南(未申)の裏鬼門であり、両方位とも鬼がやってくるとされ、恐れられていた。裏鬼門は季節では秋夏の間にあたっていた。それを示したのが下記の図である。

 そして、京の都からみて、上久世は裏鬼門、西南(未申)方位にあたる。

 筆者は、江戸時代において、この社は古来より水の呪力を持ち、駒形をご祭神とする社として、都の裏鬼門(西南の方位(空間)と秋夏の際(時間))を呪的に鎮護する、重要な社とされた、と考える。

 古くは、そうした目にみえない気を重視したのである。

綾戸國中神社と都の位置関係、月は旧暦で記載(水野作図)

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著者略歴

  1. 水野 杏紀

    大阪府立大学大学院博士課程修了。人間科学博士。現在関西医療大学・奈良県立医科大学非常勤講師。熊猫学舎文化研究所・熊猫学舎塾主宰。中国思想(易・陰陽五行・風水、養生・本草、瑞祥・神仙)などを研究。祇園祭については五本の論文を発表。都のまつり文化研究会会員。単著に『易、風水、暦、養生、処世 東アジアの宇宙観(コスモロジー)』(講談社、2016)、他の著述として、「土御門家私塾「齊政館」における術数書研究と出版」(梅田千尋編『新陰陽道叢書』第三巻、名著出版、2021)などがある。

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