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祇園祭リボーン

疫厄を祓う護符の謎――「蘇民将来之子孫也」

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世にも不思議な「蘇民将来」

 京都の街中で、「蘇民将来之子孫也」という文字列を目にしたことはないだろうか。

 祇園祭の頃には、「蘇民将来之子孫也」の護符のついたチマキが、八坂神社や宵山の各山鉾の会所などで授与される。人びとはそれを求め、一年間家の門戸に掲げる。これには、疫厄を退散させ、災異を消除し、家の安寧をもたらす呪力があるとされる。

京都で写したチマキ。右図の中央に「蘇民将来之子孫者也」の文字がみえる(水野撮影)

 「蘇」の字の左下は「魚」で水の生命、右下は「禾」(のぎ)で土の生命を象徴し、「蘇」の字には再生・復活の意がある。さらに「蘇民将来」を訓読するならば、「民を蘇(よみがえ)らするを将(も)ち来たる」となる。現代語訳をすると、「世の民を蘇らせる(力)をもってやって来た」となる。「蘇民将来」とは、なんとも不思議な文言なのだ。

 本話では、「蘇民将来之子孫也」の護符とはいったい何か、その知られざる謎に迫る。

疫厄をふりまく疫神と疫鬼

 「蘇民将来之子孫也」の護符は、「疫神」という概念と関連するものである。そこで護符の話に入る前に、疫神とは何かを解説しよう。

 中国では、「疫鬼」と「疫神」のふたつの存在が、疫厄をもたらすとされた。

 疫鬼は、死者(無念の死を遂げた者など)と魑魅魍魎(妖獣、悪鬼)のたぐいがある。

 疫神のほうは、中国では瘟神(おんしん)ともいわれた。大勢の疫鬼を使役し、天意によって疫病をふりまくのである。

 疫神による疫病の蔓延は治世とも相関するとされ、為政者はこれを恐れた。ときにはそれを鎮めるため、疫神を祀った。また陰徳を積む者は、疫病が流行してもこれを逃れるともいわれ、人びとは徳を積むことを心がけた。

左は疫神(瘟神)、五瘟使者。春夏秋冬の四季とそれを統合する五神がいて、天意により民に瘟疫を降らすとされた(明の『三教源流捜神大全』)。右は大疫をもたらす妖獣、蜚(ひ)。牛の姿をし、一つ目、白い頭と蛇の尾を持ち、あらわれれば天下に大疫をもたらすとされた(『山海経校注』、東山経)

「蘇民将来」と「牛頭天王」

 「蘇民将来之子孫也」の護符は、疫神と関係する。それは少々いかめしい字面の、牛頭天王と呼ばれる疫神だ。牛頭天王は江戸時代までは祇園社の神であり、素戔嗚尊と習合していた。「蘇民将来之子孫也」の護符と牛頭天王の関係については、安倍晴明(あべのせいめい)に仮託された陰陽道の書、鎌倉から室町時代頃に成立したとされる『簠簋内伝』(ほきないでん)にその由来があるので、現代語訳をほどこし、抜粋・要約して紹介する(『群書類従』所収による)。

牛頭天王は北天の王。牛の面を戴き、ふたつの角を持ち、夜叉のようであった。

天王は妻を娶るため、はるか遠い南海の龍王がすむ婆竭羅龍宮(しゃかつらりゅうぐう)に赴いた。途中広達国があった。主は鬼王の巨旦大王(こたんだいおう)。天王は巨旦大王に一宿を求めたが、大王は怒り憤り、追い出した。天王に宿を提供し、もてなしたのが貧しい蘇民将来であった。

天王は車馬で旅をしていた。蘇民将来はそれでは到達が困難だとし、龍頭鷁首(りゅうとうげきしゅ)(前漢の『淮南子』には「龍舟鷁首」とある。鷁は霊鳥であり、水の難をよく避けるとされた)の宝船を提供した。天王はその船に乗り、龍宮城に到着した。龍王は不老門を開き、天王を長生殿に案内した。天王は龍王の歓待を受け、その娘、頗梨采女(はりさいじょ)を娶り、八王子を得た。

のちに天王は巨旦大王のもとに赴き、八王子と眷属とともにその城郭をことごとく破却した。ただ蘇民将来と、それを紹介した大王の奴婢だけは「急急如律令(きゅうきゅうにょりつれいれい)」(後漢頃の「急いで律令のごとくせよ」という文書の一文が道教の呪符となる)を記した桃の木札(疫厄を祓う呪力を持つ)を授けて助けた。天王は蘇民将来にこう告げた。

私は末代に行疫神となり、八王子と眷属が国に乱入するだろう。しかし汝(蘇民将来)の子孫というならば、必ず一番に守護しよう、と。さらにこういった。濁世、末代の衆生は三毒に浸り、煩悩は増長し、寒熱の病を受けることになる、と。

 牛頭天王を助けた蘇民将来は、その徳により、将来、天王が地にもたらす疫厄、災禍にあわず、護られることを約束されたのである。この「蘇民将来之子孫也」の護符は、山鉾町の町衆にどのようにとらえられてきたのか。祇園祭山鉾連合会の元理事長で、ドイツ文学の研究者である、深見茂氏はこう語る。

牛頭天王は祟りの神で疫神である。しかし、この神に奉仕し、手助けした蘇民将来という人物の徳により、彼の子孫は牛頭天王のいわば選民として、その恩寵を受ける身となった。まるでユダヤの「過越の祭」のようだが、それゆえ山鉾町の町衆はみずからを「我は蘇民将来の子孫也」と称し、その恩寵の印であるチマキをお守として身につけ、古くより精進して祟られないようにした。善い事をすれば善い結果となり、悪い事をすれば悪い結果となる、町衆にとって牛頭天王は日々の行いを戒める神でもあった。

 このように、牛頭天王信仰は町衆のなかに息づいてきた。そして今も、牛頭天王に祟られないよう、日々徳を積むよう心がけ、「蘇民将来之子孫也」のお守を身につけ、あるいは門戸に掲げ、疫厄や災禍がないことを願うのである。

最古の木札発見

 「蘇民将来之子孫也」の護符の風習は、いつどこから始まったのだろうか。

 平成十三年(2001)、長岡京跡で「蘇民将来之子孫」の木札が発掘された。この木札が現存する最も古いものとされ、この風習が平安京以前から存在していたことが判明した(発掘調査は平成十二年(2000)十二月から平成十三年(2001)三月まで実施)。

 長岡京は、桓武天皇の治世に、延暦三年(784)から延暦十三年(794)まであった、平安京に遷都するまでの都である。

長岡京から出土した日本最古の「蘓民将來(蘇民将来)之子孫者」の木札(出典:長岡京市埋蔵文化財センタ-ホームページ 蘇民将来呪符木簡 (https://nagaokakyo-maibun.or.jp)

 長岡京市埋蔵文化財センターによれば、発掘場所は都の公設市場である「西市」に近い工房跡であった。木札が発掘された遺構は、土が粘土質で安定的な水分があることで、空気に触れにくく、良好な状態で発見されたが、それ自体が奇跡的だったという。木札は小さく薄く、表裏両面に「蘓民将來(蘇民将来)之子孫者」と墨書があった。また、上部に小さな穴、中央部には木釘が認められた。この木札の持ち主は最初に小さな穴に紐を通して首にかけ、のちに家の壁に打ちつけた、と推定する。

 長岡京跡で、この護符が発見されたのは注目すべき点である。持ち主はどんな人物だったのか。木札のふたつの穴は、これを身につけ、そのあと壁に打ちつけた、極めて大切なお守として用いられたことを物語る。

 古代中国では、胸から凶邪が入るとされた。すると心はざわめき、動悸は激しく、不安になる。この木札もそうした凶邪を防ぐ意があったのだろう。

 祭の神輿を舁く輿丁たちも、首から胸に木札のお守をかけている。それをみると、片面には八坂神社や(神輿が渡御する神泉苑とゆかりのある)又旅社などの名が記され、片面には「蘇民将来之子孫也」の文言がある。このお守は何か災いが身にふりかかったときには、それを取り除いてくれるのだとお聞きした。

 お守への願いは昔も今もかわらない。

神輿の輿丁の木札。「蘇民将来之子孫也」の文言が記される(水野撮影)

チガヤ(茅)の呪力

 「蘇民将来之子孫也」の護符のついたチマキは「粽」と書くが、「茅巻き」とも書く。これらの護符はチガヤ(茅)と深く関係する。ここではその呪力を読み解きたい。

 『祇園牛頭天王縁起』(『群書類従』所収による)によれば、牛頭天王が蘇民将来に「茅の輪を作り、赤い絹糸の続命縷(しょくめいる)(中国伝来で悪疫を祓い、長命をつかさどる)、『蘇民将来之子孫也』という札を身につけて帯びれば、災難を免れる」と告げた、とある。

八坂神社の疫神社、夏越祓の茅の輪、上部に「蘇民将来之子孫也」の護符がある(水野撮影)

 また『備後国風土記』(逸文)には牛頭天王は登場せず、武塔(むとう)の神(速須佐雄(はやすさのお)の神)が蘇民将来にこう告げる、「後世になり、疫気が蔓延しても、汝が蘇民将来の子孫といい、茅の輪を腰につければそれを免れる」と。

 このように、茅の輪をつくり、「蘇民将来之子孫也」という護符をつけたお守を身に帯びれば、疫厄、災難を免れるとされた。これは「茅の輪守」ともいわれる。

 古来、茅は辟邪の植物とされた。晋の『抱朴子』には、悪鬼がやってきたなら、(白)茅を投げつければただちに死ぬ、とある。

 「茅」の字は「矛」の上に「艸」(くさかんむり)で構成される。明の『本草綱目』には、茅と呼ぶのは葉の先が矛のようにとがっているからである、とある。茅は矛に似た形状を持つことで、邪を切り断つ、とされた。

 また、根茎が横にはうことで群生する姿に、人びとは強い生命力を感じた。

 祇園祭の最後を締めくくる七月三十一日、八坂神社の西楼門を入ったところにある、疫神社で「夏越祓」の「茅の輪」くぐりがある。御祭神は蘇民将来である。

 社殿前には茅を円形に象どった「茅の輪」が設けられ、参列者はそれをくぐり、参拝する。この日、社では別途茅が用意されており、それで「茅の輪」をつくる人々もいる。そこで、筆者もそれを用い、「茅の輪」をつくってみた。

左は疫神社の夏越祓で用意されている茅、右はその茅で筆者がつくった茅の輪(水野撮影)

 江戸時代、「名(夏)越祓」は旧暦六月晦日(末日)に行われた。『神道名目類聚抄』には、このときは夏の火が秋の金を剋する、その災いを免れる祓いとして、茅の輪を一丈五尺(およそ4.5m)にこしらえてくぐりぬける、とある。

六月晦日(旧暦)夏越祓之図(『諸国図会年中行事大成』、水野所蔵)

 「火が金を剋する」とは、古代中国で形成された陰陽五行思想によるもので、陰陽と五行(木火土金水)でさまざまな事象を読み解くものである。

 四季を五行でみると、春は木、夏は火、秋は金、冬は水にあたる。五行には相生、相尅がある。相生は木生火、火生土、土生金、金生水、水生木で、相尅は木尅土、火尅金、土尅水、金尅木、水尅火である。

 旧暦六月(現在の七月頃)は夏の極みであり、これは火にあたる。秋は金で、夏から秋は火剋金で相剋となる。実際、夏から秋にかけて、台風や大雨、一方日照りなどの自然災害が多く、人びとの体も暑さで疲弊する。そこで、夏から秋の季節の変わり目を夏の火が秋の金を剋するとし、その疫厄を祓うため、旧暦六月の最後の日、夏越の祓を行うようになったのである。江戸時代、祇園会が旧暦六月の一カ月間行われたのも、この陰陽五行思想と深く関係している。


五行と季節の配当(水野作図、前漢『淮南子』にもとづく)
東方=木、春、蒼龍(青龍) 南方=火、夏、朱雀 中央=土、四方を制す、黄龍 西方=金、秋、白虎 北方=水、冬、玄武
水は木を生じ、木は火を生じ、火は土を生じ、土は金を生じ、金は水を生ず
水は火を剋し、木は土を剋し、火は金を剋し、土は水を剋し、金は木を剋す

スギ(杉)葉のお守

 いつごろから「蘇民将来之子孫也」の護符のついたチマキが登場したのだろうか。

 町内文書を研究している鷹山保存会の辻斉氏は、こう語る。「江戸後期頃の祇園祭(祇園会)では、お世話になっている方へのお礼の品として、粽を渡していた。寄り町、囃子方、木戸番の親方などである。それは食べられる粽であった。そこに種々の疫疾のたぐいに功験があるとされ、諸方から求められ、所望されていた」と。

 食べられる粽が疫疾に効験がある、とされたのは興味深い。中国では古くより端午節(旧暦五月五日)に粽を食べる風習があった。古来、旧暦五月(現在の六月頃)は「悪月」とされた。この頃は蒸し暑く、雨が多く、身体も不調となる。そうした災厄を祓うのが端午節であり、粽を食べる風習を含め、日本にも伝来した。こうした歴史的背景もあいまって、食べられる粽が、護符のついたチマキにつながったのかもしれない。

 さて、江戸時代の祇園社では、杉葉のお守が授与されていた。

左は江戸時代の「祇園社守」(『神道名目類聚抄』巻三、水野所蔵)。中央は芦刈山のご神体の頭部に納められていた「杉葉のお守」で、右はそのうちのひとつ。「蘓民將來之子孫也」の護符がある(中央、右は公益財団法人芦刈山保存会、讃木伸郎氏撮影)

 『日次紀事』(ひなみきじ)、旧暦五月晦日(末日)の項に、祇園社に参詣する人びとは杉の葉を授与され、災禍を祓う、これを茅の祓(ちがやのはらい)と称した、とある。この日は神輿洗の日で、人びとは祇園社に参詣し、杉の葉のお守を求めた。

 『神道名目類聚抄』には、「祇園社守」(「蘇民守」鎮疫神の守なり)として、(杉の)葉に護符がついたお守を掲載している。

 ではなぜ杉葉のお守が流布したのだろうか。祇園社には、かつて本殿の背後に、大きな杉があったという。平安後期の『梁塵秘抄』(巻第二)での記述を、現代語訳をほどこして紹介する。

祇園精舎(祇園社)のうしろには よにもしられぬ杉がそびえたっている むかしより (東)山のすそなので (このように)生い茂ったのだろうか 杉よ 神の(霊)験をあらわそうとして

 平安時代、祇園社の大杉は「神の霊験をあらわすご神木」と讃えられた。杉の青々とした枝葉は芳しい香りを放つ。不老長生の意もある。こうした杉の呪力が、お守のかたちに結びついていったのだろう。これは、伏見稲荷大社で授与される「験の杉」のお守とも通じる。

 時代は下って『洛中洛外図屏風』(歴博甲本(16世紀前期)、国立歴史民俗博物館所蔵)をみると、祇園会の神輿渡御、山鉾巡行とともに、祇園社で、参拝者に(杉の)葉を手渡す様子が描かれるが、葉の右に護符のようなものがみえる。

 江戸時代の杉葉のお守に関し、芦刈山保存会の讃木伸郎氏によると、平成十三年(2002)に芦刈山のご神体の新・旧御頭と胴体が修理された。 その前年の調査で、旧御頭の内部から、三枚の護符(「牛王感神院寶印」「祇園牛頭天王守護所」「祇園社御祈禱之札本願成就院」)と多数の杉葉のお守などが発見された、という。

 上記の写真は、芦刈山の収蔵庫(八坂神社、円山公園内)の書棚に保管されていた杉葉のお守だが、「蘓民將來之子孫也」の「蘓」が異体字(旧字体)であり、いにしえの杉葉のお守をうかがわせる、貴重なものである。

 三枚の護符は神仏習合だった江戸時代頃にさかのぼるもので、一緒に発見された杉葉のお守も同時代であろう。なお旧御頭の首の裏には天文六年(1537)の銘がある。護符や杉葉のお守の納められた経緯、詳しい年代などは、今後の調査研究を待ちたい。

 また長刀鉾保存会の方より、長刀鉾の稚児が八坂神社の社参の際に、杉葉に「蘇民将来之子孫也」の護符のついたお守が授与されると伺った。お守の系譜は今も息づいている。

長刀鉾の稚児に対し、八坂神社から授与される杉葉に護符のついたお守(写真は公益財団法人 長刀鉾保存会提供)

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著者略歴

  1. 水野 杏紀

    大阪府立大学大学院博士課程修了。人間科学博士。現在関西医療大学・奈良県立医科大学非常勤講師。熊猫学舎文化研究所・熊猫学舎塾主宰。中国思想(易・陰陽五行・風水、養生・本草、瑞祥・神仙)などを研究。祇園祭については五本の論文を発表。都のまつり文化研究会会員。単著に『易、風水、暦、養生、処世 東アジアの宇宙観(コスモロジー)』(講談社、2016)、他の著述として、「土御門家私塾「齊政館」における術数書研究と出版」(梅田千尋編『新陰陽道叢書』第三巻、名著出版、2021)などがある。

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