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祇園祭リボーン

祇園祭と鴨川の物語

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鴨川を渡る神輿、渡らない山鉾

皇都祇園祭禮四條河原之涼(三都涼之図)(五雲亭貞秀作(安政六年(1859)改印、国立国会図書館デジタルコレクションより)

 現実世界の思わぬところに異界が潜む。後漢の壺中天の話がそうである。

 市場で薬を売る老翁がいた。翁は夕方になると軒先にぶらさげていた壺に入ってしまう。それを目にしたのが費長房。あるとき、彼は老人と一緒にその壺に入った。そこには絢爛たる玉堂の神仙世界があり、旨い酒を飲んで戻った。老翁は、仙人だったのである。

 異界へは洞窟や狭い門をくぐる。あるいは河川にかかる橋を渡ることで赴くことができる。祇園祭の季節には、京都の中心を流れる鴨川も、また異界との境界となる。

鴨川(四条大橋)から東の風景。さらに進むと東山の麓に八坂神社がある(水野撮影)

 四条大橋を東に渡るとすぐ、顔見世興行で知られる唐破風の屋根をもつ南座がみえる。元和年間(1615~1624年)官許。もう少し歩くと花見小路、京都の花街(かがい)のひとつ、祇園甲部がある。若い頃より親もとから離れ、さまざまな芸事、しきたりを身につけ、ようやく舞妓となる世界がある。

 そして四条通のつきあたり、東山の麓にあるのが神域、八坂神社。そこに朱色があざやかな西楼門がみえる。正門は南門で、西楼門から南側の坂をあがったところにある。

 このあたりは昼間に訪れても、不思議な世界に迷いこんだような感覚を持つ。ここには遊興と神域がモザイクとなった異世界がある。

 夏の京都、七月の一カ月間行われる祇園祭。そのハイライトは、七月十七日と二十四日の山鉾巡行と神輿渡御だ。山鉾は十七日に二十三基が巡行し、二十四日に十一基が巡行する。それぞれ前祭(さきまつり)・後祭(あとまつり)という。前祭の当日は、午前から山鉾が巡行するが、これは同じ日に行われる神輿渡御の先ぶれの意がある。神輿は夕刻、八坂神社を出て四条の御旅所に赴く。これを神幸(祭)といい、古来より「神迎え」ともいう。

 そして今も昔も変わらず山鉾巡行と神輿渡御の舞台装置となるのが、鴨川とそこにかかる橋だ。山鉾巡行は鴨川の西から、神輿渡御は鴨川の東から出発する。町衆が住む山鉾町は鴨川から西にあるが、山鉾巡行は鴨川の橋を渡り、東へ越えることはない。鴨川によって隔てられている。一方、神輿渡御は橋を越え、町なかに来訪する。

右側は南座。中御座の神輿(左)が鴨川(四条大橋)を渡り、八坂神社に還幸する(水野撮影)

 ご祭神の御神霊は、四条の御旅所に一週間鎮座される。二十四日、後祭の山鉾巡行がある。その日、御神霊は再び神輿に遷られ、ゆかりの地を渡御し、八坂神社に戻る。これを還幸(祭)といい、古来より「神送り」ともいう。

 冒頭の図は幕末のものである。鴨川にかかる橋の先に東山連峰が描かれる。当時、八坂神社は祇園社(祇園感神院)、祇園祭は祇園会ともいわれた。祇園社を出発した神輿が鴨川の橋を渡る、その手前に山鉾が描かれている(実際は巡行の後、山鉾は解体される)。

 この図のタイトルに、「四条河原の涼」とあるように、四条河原で夕涼みをする様子も描かれている。実は、神幸の神輿渡御と「四条河原の涼」には深い関係があった。

「四条河原の涼」は神輿が鴨川の橋を渡るときに始まった

四条河原夕涼(『都林泉名勝図会』巻一、水野所蔵)

 江戸時代の『日次紀事』(ひなみきじ)には、「鴨川、四条河原の夏の夕涼みの始まりは、四条河水に新橋をつくり、神輿が鴨川を渡り、御旅所に神幸するとき」とある。当時は旧暦六月七日に行われた。旧暦は太陽と月の運行による暦で、現行暦の一カ月遅れの頃である。

 「四条河原夕涼」の図をみると、床を並べ、席を設け、提灯を張り、行燈を設け、その明かりのもと、夕涼みを楽しむ風景が描かれている。

 かつての四条河原は今よりずっと広かった。日常のできごとを忘れ、川辺で風に吹かれ思い思いに過ごす、日常と非日常の世界を結ぶ緩衝地でもあった。

 四条の橋は河原にいくつもの小橋がかけられる、主には仮板橋であり、神輿渡御には別に仮橋がかけられた。そして安政三年(1856)に、やっと石柱の橋がつくられた。

 鴨川は神の鎮座する社と町衆の暮らす町、神の世界と人の世界を隔てる境界であり、祭の際にかけられる仮橋は、ふたつの世界をつなげた。鴨川と橋は祭の劇場空間を形成していたのである。

鴨川と神輿洗

「神用水清祓式」の朝、四条大橋には忌竹を建て縄が張られる(注連)(水野撮影)

 祇園祭のなかで、鴨川は別なかたちでも舞台装置の役割を果たす。神輿洗とお迎え提灯である。

 神幸の神輿渡御に先立つ七月十日の朝、四条大橋の両側には忌竹(いみだけ)に縄(注連(しめ))が張られ、夕刻に鴨川で行われる「神輿洗式」の神事のために、鴨川から水を汲み、それを祓い清める「神事用水清祓」の神事が行われる。

七月十日の朝、当日夕刻の「神輿洗式」に用いる「神用水」を鴨川から汲む宮本組(水野撮影)

 宮本組の人たちが紐をつけた木の桶を鴨川におろし、その水を汲む。宮本組とは、神輿洗や、神輿渡御でご祭神の御神宝を奉持するなどの神事をつかさどる組織で、八坂神社のお膝元、弥栄(やよい)学区の氏子で構成される。祇園界隈で先祖代々商いを営む家、江戸時代から数百年続く老舗も多い。この「神用水」は宮川と仲源寺に運ばれ、神官によって祓い清められ、当日夕刻の神輿洗まで置かれる。


左 宮川堤に置かれた神用水。朝、鴨川から汲まれた後、夕刻の「神輿洗式」まで宮川堤に置かれる。
右 仲源寺に置かれた神用水。仲源寺(目疾地蔵堂)に、夕刻の「神輿洗式」まで置かれる(どちらも水野撮影)

 宮川は鴨川の四条より南のあたりをいい、祇園社の祓川(はらいがわ)ともいわれた。仲源寺は祇園町南側にあり、目疾(めやみ)地蔵堂ともいわれる。

 夕刻の神輿洗では、八坂神社の神輿倉から舞殿に奉安される三神輿(中御座、西御座、東御座)のうち、中御座(素戔嗚尊)の神輿だけが四条大橋に赴き、先の「神用水」で清められる。

仲源寺(『花洛名勝図会』東山之部一、水野所蔵)

 「神用水」が清め祓われる宮川と仲源寺であるが、ここには知られざる鴨川の水の物語がある。それを紹介しよう。

禹王廟と目疾地蔵の不思議な伝承

 江戸時代の『都名所図会』巻二には、この宮川にかつて禹王(うおう)の廟があった、とある。

 禹は古代中国、夏の王である。氾濫を繰り返す大河の治水を長年かけて成功させ、民に安寧をもたらした。そのため中国では洪水を鎮める神として崇められてきた。

 江戸時代の『花洛名勝図会』の「雨止地蔵堂」(仲源寺)の項に、この禹王廟に関する不思議な伝承(『雍州府志』を引用)があるので、要約して紹介したい。

 後堀河院(後堀河天皇)の安貞二年(1228)、鴨川が洪水で氾濫する危機が迫り、これを防ぐよう命を受けた勢田の判官、為兼(ためかね)の前に、異形の僧があらわれた。河南に禹王の廟を建て、河北に弁財天の社を建てて祀れば水が乾く、そう告げると忽然と姿を消した。それは四条東北の田間にあって、畦(くろ)の地蔵、また雨止(あめやみ)地蔵ともいわれた寺であった。為兼は地蔵の出現したものとし、その通りにすると、たちまち水が乾いた。この地蔵はのちにいう目疾地蔵である。かつては場所も異なっていた。

 「神輿洗式」のために、鴨川から汲んだ「神用水」を祓い清め、置かれる宮川と仲源寺、ここには水にまつわる不思議な物語がある。

「お迎え提灯」に潜む謎

江戸時代の神輿洗における「迎提灯」の行列(寶永『花洛細見図』巻六) 国立国会図書館デジタルコレクションより)

 「神輿洗」とあわせて行われるのが「お迎え提灯」である。神輿洗を終えて八坂神社に戻る神輿を、提灯の明かりが西楼門で迎える。

 江戸時代には「迎提灯」と呼ばれた。祇園町の氏子や四条の芝居の役者などによって行われ、竿の頭に纏(まと)いや将棋の形、傘、鳥居、太鼓、祇園社のご祭神であった牛頭天王の名などを掲げ、趣向をこらしていた。

 当時は旧暦の五月晦日(末日)に行われたわけだが、この日は月がみえないときであり、暗闇のなか、提灯の明かりで行われた。

 さて、このとき神輿にご祭神の御神霊は遷されていない、いわば空神輿である。ではいったい何をお迎えするというのか。ここには八百万の神々の物語、森羅万象に神性をみいだす世界がある。それを紹介しよう。

鴨川から八百万の神々をお迎えする

 「お迎え提灯」を奉仕するのは祇園万灯会で、会長は八坂神社南門で料亭を営む中村楼主人の辻雅光氏。創業は室町時代ともいう。茶屋に始まり、菜飯や田楽豆腐で評判を呼んだ。辻氏はこう語る。

「お迎え提灯」は七月十日の神輿洗のときに、鴨川へ神輿を清めるとともに、鴨川の清い水の流れにのり、毎年の祇園祭を楽しみに来られる八百万の神様方がおられる、それをお迎えするものです。そして二十八日の神輿洗は、鴨川へ神輿を清めるとともに、神様方を来年もお待ちしていますと願いをこめてお送りする神事でもあります。

神輿洗の日。八坂神社の神輿庫から三神輿が舞殿に奉安される(水野撮影)


本殿において御神火で灯された松明が神輿に先立ち、道を祓い清める(水野撮影)

 十日の神輿洗は鴨川の水で清めるとともに、八百万の神々が鴨川の流れにそって来訪する、それを「お迎え提灯」でお迎えするのだという。

 これは出雲大社の神迎祭を想起させる。今も旧暦の十月十日に行われる。この日、八百万の神々は、遠路より近くの稲佐の浜に訪れる。お迎えするのは龍蛇神。その導きで神々は社に滞在され、一週間後浜からお帰りになる。旧暦十月は「神無月」といわれたが、出雲地方では「神在月」と呼ばれてきた。

 「お迎え提灯」は祇園町が中心に行われ、祇園町らしい粋な風情が感じられる。

 八坂神社の舞殿に三神輿が奉安され、そのうち中御座の神輿が社の南門を出て鴨川に赴く。道を祓い清めるのが大小の松明である。神輿は四条大橋で神輿洗を終え、社に戻る。それを大勢が提灯を掲げて、八坂神社西楼門の祇園石段下で神輿を待ち受ける。子供たちも児武者や鷺踊(さぎおどり)などの姿でお迎えするが、そこには不思議さが漂う。

 提灯の明かりが輝くなか、鴨川の流れにのって訪れた八百万の神々も、さぞかしこの歓待を喜んでいることだろう。

鴨川の神輿洗を終えて八坂神社に戻る中御座の神輿。西楼門の石段下では「お迎え提灯」が待ち受ける(水野撮影)

神輿洗を終えた中御座の神輿が舞殿に奉安され、三基の神輿が揃う。その舞殿前で、「お迎え提灯」に参列していた子供たちの鷺踊が披露される(水野撮影)

 東御座と西御座の神輿は、中御座が神輿洗から帰るのを待たずに錺(かざ)りつけられ、のちに神輿洗から帰った中御座の神輿が錺りつけられる。そして十五日の夜、本殿のご祭神の御神霊を三神輿に遷す「御霊遷しの儀」があり、十七日の夕刻、神幸の神輿渡御となる。

 辻氏は、神輿洗は二度あり、二度目は八百万の神々を鴨川にお送りするものだという。二十四日に神輿が御旅所から八坂神社に還幸し、舞殿に奉安され、ご祭神の御神霊が社殿に遷される。その四日後、二十八日の午後に神輿の錺りをとり、その夕刻に神輿洗が行われる。『日次紀事』には、この二度目の神輿洗のとき、「四条河原の涼」を終える、とある。

 鴨川の流れを通して、神々をお迎えし、そしてお送りする。祇園祭において、鴨川は神々と人びとの世界を結びつけている。

舞殿に奉安された三神輿の錺りつけ。錺師、森本安之助氏他、各神輿会(中御座:三若神輿会、西御座:錦神輿会、東御座:四若神輿会)により行われる(水野撮影)

祇園祭と鴨川がおりなす物語

 京都は清らかな水に恵まれた地である。地下には琵琶湖と同じだけの水があるという。

 街中の随所から湧き出す地下水、それらは豆腐や湯葉、京料理、あるいは染色などの伝統産業をうみだした。京都の人にとって清らかな水は身近であり、水とともにある暮らしが営まれてきた。そうしたことが、豊かな文化をはぐくんできた。

 鴨川にも清き水の流れがある。河辺の風景は実に美しい。春は月桜、夏は納涼、秋は紅葉、冬は雪景、季節ごとに彩りをかえる。

 江戸時代の儒者、頼山陽は、東山三十六峰が望める東三本木の鴨川岸に居を構え、それを「山紫水明処」とした。これは東山と鴨川、山と水のおりなす自然の美を讃えた言葉である。書斎と茶室を兼ねた藁葺きの簡素な佇まい、山と水、自然と一体となって生きることを象徴する。

 一方で、鴨川は大雨によって氾濫をおこすことがしばしばであった。白河院は、「賀茂河の水、双六(すごろく)の賽(さい)、山法師、これぞわが心にかなわぬもの」(『平家物語』巻第一)と仰せられたという。鴨川は幾度も氾濫して災害をもたらした。昭和以降も鴨川は氾濫し、甚大な被害をもたらしている。

 古来より、人びとは河川のなかに神々や精霊をみいだした。一方で河川がひきおこす洪水や氾濫に対し、畏怖の念をもっていた。

 祇園祭と鴨川の物語。ここには、先人から受け継がれたさまざまな願いと祈りが映し出されている。

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著者略歴

  1. 水野 杏紀

    大阪府立大学大学院博士課程修了。人間科学博士。現在関西医療大学・奈良県立医科大学非常勤講師。熊猫学舎文化研究所・熊猫学舎塾主宰。中国思想(易・陰陽五行・風水、養生・本草、瑞祥・神仙)などを研究。祇園祭については五本の論文を発表。都のまつり文化研究会会員。単著に『易、風水、暦、養生、処世 東アジアの宇宙観(コスモロジー)』(講談社、2016)、他の著述として、「土御門家私塾「齊政館」における術数書研究と出版」(梅田千尋編『新陰陽道叢書』第三巻、名著出版、2021)などがある。

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