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過去につながり、今を問え!

突然の過去(3)――骨が語るアイルランド大飢饉

カヴァナ家のその後

 2011年、カナダ東部、ガスペ半島のカップ・デ・ロジエで発見された骨は、1847年の移民船、キャリックス号の記憶をよみがえらせ、大西洋の両岸でアイルランド大飢饉の記録と記憶の双方を探る調査を再燃させた。この海難事故をめぐる関心のひとつは、九死に一生を得た48人の生存者のその後、である。アイルランド、スライゴ南部のクロス村から船に乗った「カヴニー夫妻」が、カナダで「カヴァナ夫妻」と記載された顛末については前回述べた。

 遭難現場近くのジャージー・コーヴに居を定めた夫妻には、事故で生き残った長男マーティンに加えて、3人の息子と1人の娘が生まれた。パトリック(1848年)、ドミニック(1850年)、ジェイムズ(1852年)、マルゲリート(1854年)である。マルゲリート誕生の翌1855年、夫パトリックは不慮の事故で亡くなったが、妻のサラはその後もガスペ半島で暮らし、1889年10月、85歳で亡くなった。サラの出身地クルーナー村の洗礼記録によれば、サラは1804年生まれであり、事故当時43歳。つまりサラは、人生の半分をアイルランドで、半分をカナダで過ごしたことになる。だが、カナダに定住して40年余りの間、彼女がアイルランドの親族に自分の消息を知らせることは一度もなかった。それどころか、カナダで生まれた子どもたちに自分の前半生を語ることもほとんどなかったのではないだろうか。着の身着のままで故郷を出て、木造の貨物船(キャリックス号は客船ではなく、カナダの木材運搬用に造られた船である)の船内に詰め込まれて1か月余りを過ごし、目的地ケベックを目前にして5人の娘を一度に失った母親のショックと悲しみは、想像するに余りある。

 黙して語らぬサラの記憶を言葉にしたのは、キャリックス号の海難事故から170年目となる2017年、サラから5世代のちの子孫のひとり、ローズ・マリー・スタンリーであった。船の出航地、アイルランドのスライゴで行われた追悼会で、スタンリーはサラを主人公に、スライゴ出航から船の遭難、生き残ったサラのその後の40年間を想像して描いた芝居を初披露した。題して「移民――ケアッシュ洞窟からフォリオン岬までの織糸」。ケアッシュ洞窟とは、サラの故郷一帯に広がる石灰岩の洞窟のことである。カヴニー、カヴァナという姓にルーツを持つ家族たちは、スタンリーの芝居を見ながら何を想っただろうか("Emigrant" - the story of Famine emigration from Sligo, County Sligo Heritage and Genealogy Centre(sligoroots.com) )。

 サラ自身の言葉は時のかなたに埋もれてしまったかもしれないが、確実なことがひとつだけある。それは、彼女があの海難事故を生きのびなければ、ローズ・マリー・スタンリーをはじめ、この世に存在しなかった命がたくさんあるということだ。  自分の先祖がキャリックス号沈没の生存者であることを淡く伝え聞いてきたサラの子孫たちは、彼女の人生を想いながら、「なかったかもしれない自分の命」を重ねていたのかもしれない。

『海難1890』――エルトゥールル号の記憶

 キャリックス号の沈没後、サラと夫パトリックを支えたのは、事故の生存者救出にあたった地元ガスペ半島の人びとであった。その様子は逐一記録されているわけではないが、生存者のみならず、生存者の命をつないだ地元の人たちのことを推し測る想像力を、わたしたちはいくらか持ち合わせている。なによりも、わたしたちが暮らすここ、島国日本は、過去も現在も海難事故にあふれており、歴史好き、あるいは映画ファンの読者は、キャリックス号の出来事から日本で起きた有名な海難事故を想起したかもしれない。1890年9月、和歌山県の南端、紀伊半島沖合で座礁、沈没したオスマン帝国の木造軍艦エルトゥールル号である。中学・高校の歴史教科書の多くに掲載されているこの海難事故は、2015年、日本とトルコ修好条約締結125周年を記念して制作された『海難1890』で再び注目を集めた。

 木造軍艦エルトゥールル号。船首の飾りから船尾までの全長 79.2m、艦幅 15.1m、排水量2,334トン。1863年(1854年説もある)にイスタンブルで建造された。

  日本・トルコ合作映画『海難1890』は二部構成で、第一部は1890年のエルトゥールル号海難事故を、第二部はこの事件が想い起された95年後の出来事――イラン・イラク戦争中のイランの首都テヘランで起きた日本人救出の物語を扱っている。

 後半の話はこうだ。1985年3月、イラクのサダム・フセイン大統領は、「48時間後にイラン上空を飛行するすべての飛行機を無差別爆撃する」という予告声明を出した。各国が自国民を急ぎ退去させるなか、日本政府は、就航便がないなどの事情でなかなかイランに救援機を飛ばせない。このとき、トルコ政府が救援機の追加派遣を決断し、空港のチェックイン・カウンターで救援機を待っていたトルコの人たちもまた、日本人に飛行機の座席を譲った。彼らの善意の根源にあったのがエルトゥールル号の記憶だと説明されている。歴史教科書でもこの2つの出来事はセットで紹介されており、そのこと自体、過去の出来事がどのように想起されるのかを考える題材としても興味深い。

 過去は記憶され、忘却されたのち、再び、何かの機会に意識の上に浮かびあがってくる。95年の時を置いて想起され、日本人を救った1890年のエルトゥールル号事件とはどのようなものだったのか。

 1889年7月、オスマン帝国のスルタン(君主)、アブデュルハミト2世(在位1876~1909)の親善使節団を乗せたエルトゥールル号は、首都イスタンブルの港を出航した。横浜港への到着は翌1890年6月。1年近くもかかったのは、ひとえに「船の老朽化」のせいである。そこには、クリミア戦争(1853〜56年)の戦費調達のための海外借款(1875年に支払い不能)、続く露土戦争(1877〜78年)でのオスマン帝国海軍の敗北により、海軍再建が不可能になった帝国事情が関係していた。よって、1889年、皇室外交から生まれた日本への友好親善使節団の派遣は、遠征経験のないオスマン海軍にとって、遠洋航海の実地訓練を兼ねることになった。映画『海難1890』では、横浜到着までの11か月間を、階級の異なる二人の男――名家出身の海軍尉のムスタファと機関室責任者のベキル――の間に友情が芽生える時間としても描いている。歴史記録では確認できない、あったかもしれない過去、である。

 1890年6月、無事に明治天皇に謁見し、アブデュルハミト2世の親書や勲章、各種贈り物を奉納した使節団一行だが、エルトゥールル号内で発生したコレラ感染のため、帰還は大幅に遅れた。9月15日、帰途についた船は、翌日夜、紀伊半島の大島村(現串本町)の東岸沖合で猛烈な台風に襲われ、岩礁に衝突。水蒸気爆発を起こして真っ二つに割れ、沈没した。映画では、島じゅうに蒸気爆発音が響き渡ったとされている。遭難事故当日の深夜、ひとりの若者が暴風雨のなか、身体に傷を負った体格のいい外国人と出くわしたという話は実話であり、この若者以外にも、エルトゥールル号の遭難、沈没の夜に事故を知った島民は何人もいた。彼らから事故の第一報を受けた樫野地区の区長、斎藤半之右衛門は、紀伊大島村長の沖周おき あまねに知らせるとともに、現場対応に当たっている。

 夜明けとともに、大島村樫野地区の人びとは、40mほどの断崖の下、岩礁近くに数えきれない数の死体と船の残骸を目にして驚愕する。以後連日、夜を徹して紀伊大島の島民総出で救助活動が行われた。樫野地区の沿岸一帯は高い崖で、島民は負傷した生存者を崖の上に運び上げて手当てし、なけなしの食糧をわけ与えるなど、手厚く看病した。その一方で、彼らが崖の上まで運び上げた死者の数は220名に及んだ。彼らを丁重に埋葬し、遺族に返すために漂流する遺品をできるだけ集め、丁寧に洗浄する場面は、映画のみどころともなっている。救助の陣頭指揮をとった沖村長や斎藤区長、そして(内野聖陽演じる田村医師のような)島の数名の医者たち、そして島民の献身的な救出劇の詳細は、映画『海難1890』とともに、山田邦紀・坂本俊夫『東の太陽、西の新月――日本・トルコ友好秘話「エルトゥールル号」事件』(現代書館、2007年)をお読みいただきたい。

 けっきょく、エルトゥールル号の海難事故での生存者はわずか69名。正確な死者数は不明だが、その数は580名を超えた。

エルトゥールル号殉難将士慰霊碑。この慰霊碑は、遭難現場の岩礁を見下ろす樫野崎の丘に、トルコ共和国の初代大統領ムスタファ・ケマル(アタチュルク)からの委託で和歌山県が設計、施工し、1937(昭和12)年6月3日に除幕された。

もうひとつの海難事故――ノルマントン号事件

 エルトゥールル号の海難事故を調べるなかで、興味深い事実に気づいた。2003(平成15)年、内閣府中央防災会議は、過去の被災経験に学び、防災意識を高めて将来の災害に備えるべく、「災害教訓の継承に関する専門調査会」を立ち上げた。調査すべき歴史的災害は100件で、1年に10件ずつ、合計10年をかけて調査が進められた。そのなかにエルトゥールル号事件もあった。だが、恥ずかしながら、私は、政府によるこの防災取組をまったく知らなかった。「過去につながり、今を問え!」という本エッセイにぴったりの試みなのに…。「こういうことはもっと大々的に宣伝してほしい」と心の中でつぶやきながら、『広報ぼうさい』34号(2006年7月、16-17頁)の「過去の災害に学ぶ(第8回) 明治23年(1890)エルトゥールル号事件」 を読んだ。

 そこには、先に記した出来事の概要、事故現場の対応とともに、上位機関(県庁、中央省庁)への伝達状況やメディア対応といった、このシリーズのテンプレート――すなわち、専門委員会を設置した政府のねらいがコンパクトにまとめられている。日本の海難史上初の大規模事故であるエルトゥールル号については、「沖村長の迅速かつ的確な初期対応」とあり、事故当時の詳細を書き留めた村長の日記(1974年樫野崎に設立されたトルコ記念館所蔵)が高く評価されている。沖村長は、現場の指揮、和歌山県庁への報告とともに、言葉が通じない生存者と身ぶり手ぶりで会話して事の重大さを推し測り、比較的元気な生存者2名とともに、外国領事館のある神戸にまで足を運んだ。沖村長からの知らせは、内務省や海軍省、宮内省など中央政府へも伝えられ、メディアの働きかけもあって、生存者を日本の軍艦で祖国に帰国させることも決まった。こうした日本の対応が1985年のイランでの日本人救出劇につながったのであれば、その多くはまさしく、沖村長ら現場の「迅速かつ的確な初期対応」に負っている。

 それには理由があった。エルトゥールル号遭難の4年前、1886年10月下旬、横浜港を出航後、やはり紀伊半島南端、紀伊大島から潮岬にかけての沖合で、激しい暴風雨のために座礁、沈没したイギリスの貨物船、ノルマントン号の海難救助の経験である。

 ノルマントン号は座礁したのち、イギリス人やドイツ人ら26名の船員は救命ボート4隻で脱出し、うち2隻は紀伊大島の沖合で、またドレイク船長を含む別の2隻も串本沖で、いずれも漂流しているところを発見され、救出された。一方、この貨物船に乗っていた日本人乗客25名(23名という報告もある)は全員が船内に取り残されて溺死した。この顛末が各紙で伝えらえると、日本人を見捨てて逃げた船長に非難が集中する。だが当時、外国人犯罪者を対象とする裁判権は各国領事館にあり、神戸のイギリス領事館で行われた海事審判では、船長ら乗組員全員が無実となった。この判決に「日本人蔑視」を批判する世論は収まらない。兵庫県知事の名で船長らを殺人罪で告訴したが、横浜のイギリス領事館裁判所でも、船長のみが禁錮3か月の微罪判決を受けただけだった。領事裁判権の完全撤廃、不平等条約改正が声高に叫ばれ、それがノルマントン号の海難事故を文字通りの「事件」に変えた。そして、この「事件性」ゆえに、救命ボートの外国人に対する紀伊大島の人びとが行った救助活動自体は後景化してしまった感がある。


フランスの風刺画家ジョルジュ・ビゴーは、ノルマントン号事件の翌年、1887年に上海の沖合で遭難したフランス船メンザレ号とノルマントン号とを重ねてこの風刺画を描き、イギリスの対応のまずさから、日本で不平等条約改正の声が高まったことを皮肉った。ドレイク船長と思しき人物のセリフとして、フランス語で「いま何ドル持っているか、早く言え」に続き、英語で「タイム・イズ・マネー」とある。

  だが、紀伊大島沖合での沈没調査、日本人乗客の捜索に当たった現地関係者のなかに、事件直後に紀伊大島村の初代村長となる沖周がいたことは看過できない。沖村長個人の経験のみならず、ノルマントン号事件以降、海難事故発見後の対応の流れが確立していたことも、エルトゥールル号救助に生かされたように思われる。

 和歌山県教育委員会が作成した小学・中学用の副読本では、2つの海難事故が並置されて、地元(ローカル)と世界(グローバル)との時間的、空間的なつながりが示されている。ローカルな目でグローバルな歴史を見直し、陸での出来事を海から捉え直す重要性が伝わってくる。

灯台が照ら出す命

 エルトゥールル号の事故の第一報を伝えた人物のなかに、嵐の海から自力で樫野崎灯台近くの岩礁にたどりつき、40m余りの断崖をよじ登って灯台職員に助けを求めた生存者がいた。『樫野崎灯臺日誌』によれば、1890年9月16日午後10時15分、負傷していたその男性は、当直の二人の灯台職員に身ぶり手ぶりで船の遭難と沈没を伝えたという。このとき、灯台職員にはこの人物がオスマン帝国から来たことなどまったくわからなかったらしい。その後、さらに9名が立て続けに灯台に駆け込み、やがて沖村長のもとで村民一丸となって救出活動が開始される翌日午前ともなれば、灯台にやってきた新たな生存者の数は53名を数えた。先の10名と合わせると、生存者69名のうち63名が灯台をめざして命をつないだことになる(『大阪朝日新聞』1890年9月21日)。

 

樫野崎灯台

 映画『海難1890』で象徴的に描かれている樫野崎灯台は、イギリスの技師リチャード・H・ブラントンによって設計された日本初の、よって日本最古の石造灯台として知られる。スコットランド出身のブラントンは26歳で来日し、樫野崎を皮切りに、日本各地に26基の灯台を建設した。40mの断崖の上に立つ樫野崎灯台に、これまた日本初の回転式閃光の灯りがともったのは、1870(明治3)年6月のことだった。他に先駆けて樫野崎に灯台が建設されたこと自体、紀伊大島周辺がいかに船の航行にとって難所であり、海難事故が頻出していたかの傍証でもあろう。灯台の灯りこそ、海難事故生存者の命綱であるのだ。

リチャード・H・ブラントン(1841~1901)

 では、1847年のカップ・デ・ロジエではどうだったのか。やはり真夜中、まだ冷たい5月のカナダ、セントローレンス湾に投げ出されたキャリックス号の乗客たちも、近くの岬をめざして手足をばたばたと動かしはじめたはずだ。だが、彼らには、岬のありかを示す灯台の光がなかった。キャリックス号の遭難事故を教訓に、カップ・デ・ロジエに灯台ができるのは事故の10年余りのち、1858年のことであった。

トルコ映画『飢饉』――想起のツールとしての映画

 20世紀末から21世紀にかけて、世界各地でアイルランド大飢饉を顕彰する記念碑が続々と建てられたことは前回お話しした。言い換えれば、19世紀半ばの大飢饉はずっと人びとの記憶にあったわけではない。人間はその人生においてさまざまな記憶を抱えるが、その多くは忘れられていく。すべてを記憶して人は生きていけないからだ。忘れられていた記憶が想起されるには、何らかのきっかけがある。アイルランド大飢饉の場合、犠牲・被害の大きさから「暗黒の47年」と呼ばれた1847年から数えて150周年という記憶の区切りを、当時のイギリスの首相トニー・ブレアがアイルランドとの新たな関係構築のために利用したことも、前回話した通りである。

 記念碑の設置だけではない。それまであまり取り上げられてこなかったアイルランド大飢饉を時代背景として前景化させた映画やドラマ、ドキュメンタリも、同じ時期に数を増した。近年では、『ブラック’47』(2018年9月公開、邦題は『リベンジャー・スクワッド 宿命の荒野』)が大ヒットした。主人公はアフガニスタンやインドなど、当時の大英帝国でイギリス軍の一員として戦ったひとりのアイルランド脱走兵。1847年、久しぶりに帰還した故郷アイルランドは大飢饉に見舞われ、立ち退きを強制した不在地主やイギリス当局によって、家族や親族は死に追いやられた。それを知った彼が、イギリスに対して暗い復讐心を燃やすという物語である。

 この映画公開の2018年、同じ大飢饉というテーマに挑んだトルコ・アイルランド・イギリス3か国合作映画の制作が話題となった。トルコの映画監督オメル・サリカヤが脚本も手がけた『飢饉(Famine)』である。2012年頃から温めてきたというサリカヤ監督の話はこうである。

 1847年、オスマン帝国のスルタン、アブデュルメジト1世(治世1839~1861)は、アイルランド大飢饉の救済にと、1万ポンドの寄付をイギリス大使館に申し出た。侍医のひとりであるアイルランド人医師の嘆願によるものとされる。だが、イスタンブル駐在のイギリス大使の助言――「ヴィクトリア女王でも寄付金は2000ポンドでしかない」を受けて、けっきょくスルタンの寄付金は1000ポンドに落ち着いた。現在トルコ政府が管理するオスマン文書館には、当時寄付金の運用を担当したイギリス救済協会がスルタンの寛大さを讃えて送った感謝状が保存されている。大飢饉救済に世界各国から支援が舞い込むなかでも、オスマン帝国スルタンからの寄付金は図抜けて高額であり、「気前のいいスルタン」のニュースは、アイルランドの地元紙や全国紙『タイムズ』、自由党系新聞『デイリー・ニューズ』などでも報道された。

 アブデュルメジト1世(1823~1861)

  寄付金とともに、アブデュルメジト1世は、1847年4月、穀物を満載した3隻(5隻説もある)の船をアイルランドに向けて送り出している。映画の脚本執筆にあたり、サリカヤ監督が特に入念に調査したのは、これらの船のことであった。船はダブリン港入港を拒否されたため、その北、ドロヘダの港に5月に入港したという。正式な記録はないものの、ドロヘダ港では、1847年から4年間ほどのうちに外国からの小麦輸入量が増えており、特に黒海からのインド産トウモロコシが多かったと記録される。イスタンブルからの食糧支援と考えてもおかしくない。

 サリカヤ監督の脚本では、この時に穀物を運んだオスマン帝国の水夫とアイルランドの少女との出会いと恋が中心である。かつてオスマン帝国の水夫はギリシャ出身者が多かったが、オスマン帝国からギリシャが独立した1830年以降、その数は大幅に減ったとされる。大飢饉の1847年、アイルランドまで穀物を運んだ船に乗っていたのは、どの地方出身の青年だろう。地中海に浮かぶサルデーニャ島か、はたまたエジプトか。彼らはドロヘダの埠頭で、故郷を捨てざるを得ないカヴニー一家のようなアイルランド人移民を数多く目撃したことだろう。そんな混乱の港で、あったかもしれない水夫と少女との出会いは、オスマン帝国スルタンの慈善行為がなければあり得なかったことは確かである。コロナ禍で完成が遅れているようだが、映画の公開を楽しみに待つことにしよう。

 1847年のスルタンの寄付について、私が気になるのは、寄付行為の先、である。その6年後の1853年、オスマン帝国は、「ギリシャ正教徒の保護」という大義名分で帝国領内に兵を送り込んだロシアに宣戦布告し、クリミア戦争が始まった。ロシアの黒海艦隊がオスマン艦隊を全滅させたのは、開戦からわずか1か月後、1853年11月のことであった。同時期、『デイリー・ニューズ』には以下のような投書が掲載されており、災害救済のゆくえが気になる。

 

「スルタンはキリスト教徒ではないのに、なぜ彼を支持しなければならないのか」などという議論が一部でひどく誇張されている。だが、アイルランドで飢饉が起きたとき、彼がいかにキリスト教徒らしいふるまいをしたか、思い出してもらいたい。

ウォルバーハンプトンのジャック・ロビンソンより

クリミア戦争期のオスマン帝国

  その2か月足らず後の1854年1月、イギリスはオスマン帝国支援の兵を黒海に派遣し、3月、クリミア戦争に正式に参戦した。それが7年前のアイルランド大飢饉に対するスルタンからの寛大な寄付金とどう関わっているか、現段階で判断できる史料は多くない。それでも、95年の時を超えて結びつけられるエルトゥールル号事件とイラン・イラク戦争よりも、スルタンの大飢饉支援がイギリスのクリミア戦争参戦につながった、と推測するほうがずっと自然に思われるのだが、どうだろうか。 

過去につながり、今を生きる

 浜辺に打ちあげられた骨から1847年のキャリックス号遭難に注目したのは、前回紹介したジョルジュ・カヴァナや今回冒頭で見たローズ・マリー・スタンリーだけではない。48名の生存者の子孫たちは、みなそれぞれに、骨の発見に心ざわつかせたことだろう。あの海難事故から170年ほどの時間が流れたが、この歳月の間に、48名の生存者がいなければ自分たちはこの世にいなかったかもしれないと思う人びとの数も、かなりの数に上ったと思われるからだ。「祖母ローズ・オボイルの祖父コーネリアス・オボイル」が1847年の事故生存者だというニール・コネリーもそのひとりである。

 コーネリアスは弟のオーウェンとともにキャリックス号に乗っていたらしい。父の死をきっかけに、2011年の骨の発見と相まって、そして何よりも妻に背中を押されて、2015年夏、ニールはカップ・デ・ロジエに家族旅行にでかけた。旅の準備中、ニールは、48名の生存者の子孫たち、アイルランド大飢饉や移民の研究者らと連絡をとり、1847年の海難事故への理解を深めていく。

 最大の謎は、当時の乗船者リスト(2012年に更新)に「オボイル」の名前がないことだった。カヴニー(Kaveney)、カヴァナ(Kavanagh)のように綴りの射程を広げても見つからない。歴史家からは、当時の記録には乗客数や遭難日時をはじめ、不明や不一致の事柄は数多く認められると言われたが、どこか腑に落ちない。だが、現地ガスペ博物館で探しあてたフランス語の地元紙『ボイジャー(Le Voyager)』の投稿欄に、ニールはついに、自分の先祖があの運命の船に乗っていた痕跡を発見する。それはなんと、あのカヴァナ家の子孫のひとり、アーサー・カヴァナの投書であり、そこにはこうあった。

キャリックス号の乗船者を先祖に持つ、私が知っている唯一の家族は、ニューヨークシティのジェイムズ・オボイル一家である。彼の祖父コーネリアス・オボイルとその弟は、いずれも遭難当時独身であり、なんとかケベック、そしてニューヨークにたどり着いた。私たちの文通はここ10年以上続いている。

(『ボイジャー』1960年4月7日)

 のちに、ここにあるジェイムズ・オボイルは、ニールが大好きだった祖母ローズの兄だと判明する。話を聞いたアイルランド史の専門家は、オボイル兄弟は密航者ではないかとニールに語った。

 だが、ニールが旅の終わりに目の前に思い浮かべたのは、まだ若いオボイル兄弟の姿――コーネリアスが「ここにいたら死ぬしかない」と言い、弟オーウェンがそれにうなずき、二人がケベック行きのキャリックス号に乗るリアルな姿であった。「先祖に敬意を払うには、彼らの人生を知ることができなくても、まずは彼らを私たちと同じ人間として見ることだ」――ニール・コネリーは、高祖父を訪ねた旅の物語「灯台の影たち」(『ミッドウェイ・ジャーナル』2015年10月15日)をそう締めくくっている。

 わたしたちはみな、過去につながりながら、今を生きている。

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著者略歴

  1. 井野瀬 久美惠

    1958年愛知県生まれ。甲南大学文学部教授。京都大学大学院文学研究科西洋史学専攻単位取得退学。博士(文学)。第23期(2014-2017)日本学術会議副会長。大英帝国を中心に、(日本を含む)「帝国だった過去」とわれわれが生きる今という時空間との関係を多方向から問う研究をつづけている。主な著書に『大英帝国はミュージック・ホールから』(朝日新聞社、1990)、『子どもたちの大英帝国』(中公新書、1992)、『女たちの大英帝国』(講談社現代新書、1998)、『黒人王、白人王に謁見す』(山川出版社、2002)、『植民地経験のゆくえ』(人文書院、2004、女性史青山なを賞受賞)、『大英帝国という経験』(講談社、2007;講談社学術文庫、2017)、『イギリス文化史』(編著、昭和堂、2010)、『「近代」とは何か』(かもがわ出版、2023)など。

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