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突然の過去(2)――骨が語るアイルランド大飢饉

 2011年、温暖化による海岸浸食と激しい嵐が、眠っていた過去を突然揺さぶり起こした。カナダ東部のガスペ半島、カップ・デ・ロジエの浜辺で発見された骨の鑑定結果を固唾をのんで見守る人たちのなかに、キャリックス号事故の生存者の子孫たちがいた。

 そのひとり、地元ガスペで暮らす70代のジョルジュ・カヴァナは、「骨発見のニュースを聞いた瞬間、キャリックス号の事故を想い起こした」と、のちに地元メディアに語っている。一族の間で、父方の高祖父(祖父の祖父)パトリックとその妻サラが、1847年の事故の生存者と伝えられてきた。とはいえ、言い伝えの常として、それ以上の詳細は不明であり、二人の出自が親族の間で真剣な話題にのぼることもなかったという。骨の発見に心動かされたカヴァナは、郷土史への強い関心も手伝って、キャリックス号遭難のその後を追いかけてみようと思い立つ。

 そんな彼のもとに、2012年早々、キャリックス号の出航地、アイルランドのスライゴのマラモア歴史協会(Mullaghmore Historical Society)が接触を求めてきた。協会は、座礁して、沈没した船から投げ出されるも、九死に一生を得た48名の生存者のその後、とりわけカナダやアメリカで生まれ育った第二、第三世代を調査しようとしていた。

 かくして、大西洋の東と西で、160年余り前の骨の声を聴く作業が始まった。

記録から抜け落ちた人たち

 1840年代後半から50年代初頭にかけてアイルランドを襲ったジャガイモ飢饉では、カナダやアメリカ、オーストラリアなどへ移民することが命をつなぐ有効な手段とみなされた。「100万人が亡くなり、100万人が故郷を去った」という語りが象徴するように、この大飢饉はその後のアイルランドの人口動態を大きく変え、以来、今に至るも、アイルランドの人口は、大飢饉前、1841年の国勢調査の水準を回復していない。

 人口、すなわち、人の増減や移動への関心は、飢饉収束後、県や州、市や町、村単位で設けられた委員会や任意団体でも明らかであった。大飢饉の被害や犠牲の実態を把握し、記録しようとする調査がさまざまに行われたが、100万人を超える海外移民の実態をつかむことは容易ではなかった。目的地にたどりついた人たちからは、故郷に残した親戚や友人に無事の消息を知らせる便りが届いたかもしれないし、そこには、移民先のアイルランド人コミュニティで耳にした他の移民たちの噂が書かれていたかもしれない。便りの一部は、アイルランド各地の文書館、博物館にも保存されている。だが、その一方で、便りを出したくても出せない人たちも、大勢いたにちがいない。そのなかに、当時少なくなかった海難事故の犠牲者たちもいるだろう。

 事故は通常、出航地の地元紙をはじめ、アイルランドの新聞に掲載されており、移民した者の親族や友人、知人も、ある程度、事故の模様を知ることはできた。ただし、新聞等の情報では、出航時や事故当時の記述に比して、生存者に関する記述は少ない。キャリックス号の場合も、たとえば『ベルファスト・コマーシャル・クロニクル』(1847年7月3日)にはこうある。

パーマストン卿がチャーターした船は、1847年4月上旬にスライゴを出航してケベックに向かったが、5月19日の夜、激しい嵐のためロジェ岬[カップ・デ・ロジエ]から60マイルほど東で座礁し、2時間で大破した。哀れ移民たち200名のうち生存者は22人ほど。乗組員は帆柱やボートにしがみつくなどして、少年1名を除いて全員が無事だった。

 乗組員を非難する書きぶりが印象的だが、それもまた、餓死寸前の人びとを乗せて大西洋を横断した移民船、通称「棺桶船」にまつわるエピソードのひとつだろう。事故を起こした船会社や、渡航費を負担して小作人をカナダに送り出した地主パーマストン卿やその代理人を相手に、スライゴの親族が保険金を請求するといった行動を起こしていたならば、48名の生存者の存在にもう少し注目が集まったかもしれない。だが、そのようなことが大飢饉からの脱出の混乱のなかで起こりえたか、はなはだ疑問である。

 確かなことは、ごく最近まで、アイルランド側でキャリックス号の「事故後」の調査はなされなかったということである。それは、自治、独立を求めた反英運動、独立後も北アイルランド紛争に揺れ続けた20世紀のアイルランド社会のなかで、大飢饉への関心が希薄化していったことを反映していたのかもしれない。 

可視化される大飢饉の記憶

 変化の兆しが見えはじめたのは、「暗黒の47年」と言われた1847年から数えて150年目の節目となる1997年前後のことであった。この節目の前後に、大飢饉を再び記憶に留めようとする動きが、アイルランド国内外で顕著に認められたのである。

 首都ダブリン中心部を流れるリフィー川沿い、ダブリン税関に向かう埠頭近くの公道に、その名も「飢饉(Famine)」という群像が除幕されたのは、1997年5月29日のことであった。制作者は、現代彫刻で知られるローワン・ギレスピー。ロジャー・ケイスメント(ケイスメントについては、第6回第7回を参照)の処刑と関わる1916年のイースター蜂起時、「アイルランド共和国宣言」の起草者たち14人をかたどった群像、「宣言(Proclamation)」(2007年)でも知られるアイルランドのアーティストである。

ローワン・ギレスピー「飢餓」(1997)(撮影Emily Mark-FitzGerald (University College Dublin))

 「飢饉」を構成するのは、6人の男女と1匹の犬だ。生きるためのわずかな可能性を求めて、ダブリンの港に向かう「着の身着のまま」のその姿は、彫像が人間の等身大より大きめに作られたことで、いっそう強調されている。その足どりには、「よろよろ」「ふらふら」といった表現しか思いつかない。「実際にはもっと女性と子どもたちの姿が多かった」という批判を受けつつも、21世紀の今、この群像こそがアイルランド大飢饉の記憶のかたちとなっている。

ダブリンだけではない。ロスコモン県ストロークスタウン公園内には国立アイルランド飢饉博物館が整備され、1847年のカナダ移民を含め、当時のオリジナル史料が数多く保存、展示されている。

ロスコモンに整備された国立アイルランド飢饉博物館。2015年からNPO法人のアイリッシュ・ヘリテージ・トラストが運営している。大飢饉当時、ストロークスタウンを所有していた地主、デニス・マホン少佐も、パーマストン卿同様、1847年4月、渡航費を補助して所領の小作人1490人ほどを4隻の船でカナダに移民させている。小作人たちは、ストロークスタウンから直線距離で145キロも離れたダブリンまで歩き、そこから、そこからリヴァプール経由でカナダ、ケベックへと向かった。だが、その4分の1が腸チフスなどの感染症により、船内で死亡した。この情報がマホン少佐と小作人との関係を険悪なものにしたのだろうか。1847年11月2日夜、マホン少佐は帰宅途中、何者かに射殺された。「無慈悲な地主像」を象徴する出来事として地元で語り継がれる話ながら、マホン少佐暗殺の詳細も、彼がケベックに送った1490人の小作人の消息も、今なお明らかにされていない。(Winnie45, Strokestown Park-House

 ドローエダ、コーク、ゴールウェイ、リムリックといったアイルランドの主要都市でも、1990年代半ば以降、大飢饉記念碑が新たに設置されたり、大飢饉で亡くなった人たちの墓が整備された。スライゴにも、1997年、地元の大飢饉記念委員会が、アイルランド彫刻家協会の協力を得て、3つの記念碑を設置している。

ゴールウェイの飢饉船記念碑。21世紀に入って移民調査が進み、ゴールウェイのこの港からもアメリカやカナダをめざして多くの人たちが故郷をあとにしたことがわかってきた。追悼碑には50隻余りの移民船の名前が刻まれている(撮影P L Chadwick, The Famine Ship Memorial, Celia Griffin Memorial Park, Gratton Beach, Galway City

地元アーティスト、フレッド・コロンによるスライゴ市内の飢饉記念碑(1997)(撮影Alan Davies

スライゴ埠頭近くの追悼碑「飢饉の家族」(1997)(撮影Alan Davis

 記憶をよみがえらせる記念碑の設置は、アイルランド国内に留まらない。1997年前後には、大飢饉時にアイルランド人移民が押し寄せたアメリカのニューヨークやボストン、シカゴ、オーストラリアのシドニーやブリスベン、カナダのケベックやトロントなどでも、アイルランド大飢饉の可視化が進められた。

アメリカ、マサチューセッツ州ボストンの「アイルランド飢饉記念碑」(1998)(撮影Emily Mark-FitzGerald (University College Dublin)

 グローバルに広がった大飢饉関連の記念碑や彫像を初めて調査したエミリ・マーク=フィッツジェラルド(ユニバーシティ・カレッジ・ダブリン講師)の『アイルランド飢饉を追悼する』(2013)によれば、1990年代半ば以前には片手で数えられるほどしかなかった飢饉関連の記念碑の数は、1997年を契機に激増し、その後も増え続けて、2010年代初めまでの20年足らずのうちに100を超えたという。150年以上も前の飢饉の記憶を急速によみがえらせた21世紀の状況は、いったい何を物語るのだろうか。大飢饉の記憶がグローバルなつながりを求めているように思えるのだが、この点はもう少し慎重に考える必要があるだろう。

ブレア首相の事情

 一つ考えられることは、飢饉犠牲者を強烈なイメージで可視化したギレスピー作「飢饉」が除幕されたわずか3日後、1997年6月1日、前月の総選挙で地滑り的勝利を収めた労働党党首、トニー・ブレア首相が送った「謝罪」メッセージが、アイルランド飢饉への関心復活の火付け役になったのではないかということである。「暗黒の47年」から150周年という節目に寄せたメッセージのなかで、ブレア首相は、当時世界で最も豊かな経済力を誇った国で100万人の人たちが亡くなった大飢饉が、今なおイギリスとアイルランドの関係に深い傷となっていると指摘し、「当時ロンドンを治めていた者たちは国民を見捨てた」と述べて、イギリス政府の非を認めた。

 あと知恵ながら、ブレア首相のこの「謝罪」メッセージは、北アイルランド紛争を終わらせる和平合意、1998年4月10日に結ばれたベルファスト合意への地ならしとも言われている。実際、この年のノーベル平和賞は、ベルファスト合意に尽力した北アイルランドの2人の政治家――プロテスタント系最大政党であるアルスター統一党党首のデイヴィッド・トリンブルと、カトリック系穏健派の社会民主労働党党首のジョン・ヒュームに贈られている。その前年、イギリス首相が公式に発した150年目の「謝罪」は、けっして偶然ではないだろう。

 「20世紀のテロ」といわれる北アイルランド紛争の背景を含めて、イギリスとアイルランドの関係に重くのしかかる歴史的出来事はたくさんある。そのなかから、150年という大飢饉の記憶の節目を「謝罪」対象に選んだのは、1997年というブレア首相の「現在の事情」によるものだろう。だが、それも、終りよければすべてよし、というわけにはいかないようだ。

 2021年7月、法律に基づく文書公開で、衝撃的な事実が明らかになった。この「謝罪」メッセージは、首相の私設秘書であったジョン・ホームズが書いたものであり、ブレア本人は承認さえしていなかった、というのである。『ガーディアン』紙の取材に応じたホームズによれば、当時、彼は、電話でメッセージ文を伝えて首相の承認を得ようとしたが、首相がつかまらず、150周年追悼記念式典に間に合わせるため、独断でダブリンのイギリス大使館にメッセージを送ったという。その後、この秘書がブレア首相に宛てたメールには、こんな一文が付記されていた。

 「メッセージはアイルランドの人たちにも受けがよく、北アイルランドでもまともに反対する人もいないと思います」。

パーマストンの小作人たち――カナダ、セント・ジョンの場合

 かくのごとく、1990年代後半から2010年代にかけての20年ほどの間に、アイルランド大飢饉に対する関心が大西洋の東と西で急速によみがえりつつあった。そのなかで、出航地と到着地の記録と記憶が相互に照応される機会も増え、アイルランドを脱出した人びとの「その後」に光が当たりやすくなった。2011年、カップ・デ・ロジエの浜辺での骨の発見、その後まもなく着手されたスライゴのマラモア歴史協会の積極的な再調査は、こうしたグローバルな動きの延長線上で考える必要がある。

 ちなみに、この歴史協会の名称にある「マラモア」は、スライゴ県北部の半島や半島東岸の小さな港町にその名を留める地名である。マラモアを含み、広くスライゴ一帯に所領を持っていたのが、長らくイギリス政界に君臨し、大飢饉の発生当時は外務大臣を務めていた第3代パーマストン子爵、ヘンリー・ジョン・テンプルであった。パーマストンの名は、マラモアの港湾整備をはじめ、地域貢献のもとで語られることが圧倒的に多く、大飢饉時に彼が所領の小作人をカナダに追いやった事実は、これまでほとんど知られていなかったようである。

 大西洋の両岸で大飢饉への関心が高まった20世紀末から21世紀にかけて、不在地主パーマストンへの不満や怒りの存在を明らかにしたのは、移民先であるカナダ側の史料であった。たとえば、移民シーズンが終わり、検疫所が閉鎖された直後の1847年11月2日、ニューブランズウィックの町、セント・ジョンに、428人ものパーマストン領の小作人を乗せた移民船、イオロス号が到着した。冬を迎える季節になって、こんなにも多くの極貧者を追い出すとは…。驚愕し、憤った町の評議会は、すぐさま、パーマストンと彼の代理人を糾弾する決議を通過させ、次のような辛辣な抗議文を送っている。

 「これほど多くの苦しむ小作人をニューブランズウィックの冬の厳しさと窮乏にさらし、人並みの支援も与えず、身体もぼろぼろ、裸同然の状態で、人道も節度もわきまえずに送り込むとは、きわめて遺憾なことである」(Sligo Heritage, Profile of an Irish Village: Palmerston and the Conquest, Colonisation and Evolution of Mullaghmore, Co. Sligo)。

 セント・ジョンの集会では、そのまま彼らをパーマストンのもとに送り返そうということになったが、イオロス号の船長が250ポンドを支払い、彼らをこの町の救貧院にひと月ほど置いてもらうことになった。なかには、救貧院に入れてもらず、セント・ジョンで物乞いをする者もいたという。

キャリックス号乗船名簿の発見

 21世紀初頭の調査では、1847年秋までに、パーマストンの所領からは、2000人を超える小作人が、キャリックス号や上記イオロス号を含めた合計9隻の移民船でカナダに送られたことが明らかになっている。小作料も納められない貧民を高額の救貧税を支払って所領で養うよりも、渡航費を負担してカナダへ送る方が得策である――ダブリンの土地管理会社「ステュアート・アンド・キンケイド」の助言を受けて、なかば棄民的な補助移民を極めて早期に(おそらくは1846年12月末までに)決断したことは、パーマストンにとって探られたくない過去だったのだろう。実際、パーマストン文書(サウサンプトン大学所蔵)にはアイルランド大飢饉時と関わる通信文や書簡は存在しない、とされてきた。カナダでの骨の発見は、そこに再度の見直しを促すことになった。

 1847年4月上旬にスライゴ港を出航したパーマストンの小作人を再調査しはじめたマラモア歴史協会は、2012年、大発見に沸く。「そんなものは存在しない」とされてきたキャリックス号の乗船名簿が発見されたのである。この発見によって、調査の重心は、生存者のその後、わけても第二世代(カナダ到着後に生まれた人たち)に移った。できるだけ多くの子孫の存在と所在を明らかにし、彼らを翌2013年に予定されている「ギャザリング」に招待すること――これがこの歴史協会の新たな目標となった。「ギャザリング」とは、アイルランド政府観光庁などの支援で企画され、世界中に散ったディアスポラのアイルランド人、並びにアイルランドに所縁のある人たちを再会、交流させようとするイベントである。

 マラモア歴史協会から連絡を受けてキャリックス号の調査に応じたジョルジュ・カヴァナにとっても、2013年のイベントはひとつの希望となったことだろう。

ゲール語の英語化のなかで

 ところが、である。発見された乗船名簿に、ジョルジュのファミリーネームである「カヴァナ(Kavanagh)」は見当たらなかった。だが、英語のスペルは一通りではない。19世紀半ば、イングランド系、スコットランド系の不在地主の所領で暮らすアイルランドの小作人の教育歴や識字率、日常生活で彼らが英語ではなくゲール語を用いていたことを加味すれば、スペルの可能性は多様に存在した。

 もうひとつ、19世紀半ばのアイルランド関連文書について、留意すべきことがある。1801年に連合王国に組み込まれて以降、アイルランドの地名やファミリーネームの表記について、「英語化」が進められていたことである。アイルランド人を管轄する記録者、たとえば地主や地主の代理人らによって、ゲール語のスペルは故意に、あるいは無意識のうちに、「英語表記」に変換されていた可能性は少なくない。

 さらに言えば、スライゴのあるコノート地方で話されるゲール語は、普通名詞もファミリーネームも、最初のシラブルにアクセントが置かれ、末尾が曖昧になる。KがCに表記転化したり、KがGに発音転化したり、といったことも考えられる。表記の多様化を生む要素はいくつもあるのだ。パーマストンの所領の小作人の場合にも、発見されたキャリックス号の乗船名簿が、船長や税関役人ら移民船関係者によって英語表記されていた可能性はきわめて高い。

 これに、カナダ側の事情、すなわち、ガスペ半島沖合での海難事故後に、生存者の名前を記載した者のスペル、救出後の改姓、改姓後のスペル変化を加えて考えれば、乗船名簿に「Kavanagh」と同じスペルがないことにさほど失望することもないだろう。

 ここで、はたと、パソコンを打つ手が止まった。そうか、歴史家は「記録」こそすべてと考える傾向が強いが、「記録」に残るのは、記録した者の認識――この場合で言えば、記録者がアイルランド系のファミリーネームをどのように聞いたか・・・・――でしかない。それは、井野瀬が猪瀬、井ノ瀬、伊野勢などになるようなものだろうが、私自身は他の表記に違和感を覚える。では、カヴァナ家の場合はどうだったのか。

 言語学者によれば、ケベックのガスペ半島で暮らすジョルジュのファミリーネーム、「カヴァナ(Kavanagh)」は、もともと「Ó Caomhánaigh」というアイルランド語から派生したものであり、そのスペルとしては以下が考えられるという。

Geveney, Geaveny, Geany, Keaveny, Kaveney, Kevany, Geaney, Geany, Guiny, …

 こうした記録表記の多様性を念頭に置いて乗船名簿を見直した結果、いきあたったのが、「パトリック・カヴニー(Kaveney) 家族8名」であった。出身地はスライゴ南部のクロス。パーマストンの所領だ。この8名が、キャリックス号に乗り込んだジョルジュ・カヴァナの祖先なのだろうか。

KaveneyからKavanaghへ

 マラモア歴史協会は、クロスの教区教会の記録を丹念に調査し、パトリック・カヴニーに関する情報を集めた。時を置かず、以下のことが判明した。パトリックの両親も同じクロスの小作人であったこと。1834年にクルーナー(Cloonagh)という隣村(やはりパーマストンの所領)出身のサラと結婚したこと。1846年秋には、パトリックとサラの間に、10代の長男マーティンを筆頭に、2歳から10歳までの5人の娘――メアリ、マーガレット、ブリジット=エリザベス、キャサリン、サラ――がいたこと。「パトリック・カヴニー 家族8名」という表記ともぴったり一致する。当時の移民乗船名簿には家長の名前しか記載されなかったため、女性、および14歳未満の子どもはファミリーネームしか特定できない。教区教会の記録がなければ、5人の娘たちの名前を思い出す者はいなかったかもしれない。

 教区教会の記録からは、妻サラの旧姓がマクドノー(Mc Donough)、ゲール語綴りでは「Mac Donnchadha」であることも確認された。このファミリーネームを最初のシラブルにアクセントを置いて発音してみれば、スペルの多様性が幾通りも浮かんでくる。ちなみに、ジョルジュ・カヴァナの一族の間では、サラの旧姓は「マクドナルド(Mac Donnald)」と伝わっていた。「nn」というスペルに、ゲール語の痕跡が認められる。ちなみに、「Mac」は「出身」という意味であり、ほかにも、Donogh, Donaghy, Dunphy、あるいはスコットランドでよく見かけるDuncanなどと、Macに続くスペルは多様だ。

 マラモア歴史協会は、歴史研究者の助けを借りて、パーマストンと彼の所領を管理する「ステュアート・アンド・キンケイド」社との手紙のやりとりも入念にチェックした。そのなかで確認されたのは、1846年8月、救済を緊急に必要とする餓死寸前の小作人リストに「Patt Kaveney」の名前があったことだ。Pattはパトリックの略称だろう。しかも、1847年4月以降、彼らの記録はクロス村から消えている。

 確認された記録からは、1846年秋から翌47年春までの間に、パトリック・カヴニーの一家は相当な苦境に立たされ、パーマストン(の代理人)の強制退去命令に従って、渡航費補助の付いたケベックへの移民に一縷の望みを託したのではないか、と想像される。

 1847年春、パトリック、サラ夫妻と6人の子どもたち、総勢8名のカヴニー一家は、徒歩でクロス村を北上してスライゴの港をめざし、そこで、パーマストンの所領の小作人用に準備された初の移民船、運命のキャリックス号に乗船した。船内の家族の様子は想像するしかない(アイルランドからの棺桶船の様子を画家ロドニー・チャーマンが描いている)。大西洋を順調に旅した船は、セントローレンス湾からセントローレンス川へと向かったが、ガスペ半島、カップ・デ・ロジエの沖合で激しい雪嵐に遭い、舵をとられて座礁、沈没した。180名を超える乗船者のうち、生存者はわずか48名。100名をゆうに超えた犠牲者のなかに、パトリックとサラ夫妻の5人の娘たちも含まれていた。長男マーティンとともに、生き残ったカヴニー夫妻は、地元の人たちに支えられて新たな生活を始めることになった。

 調査のなかでは、次のような事実も確認されている。生存者リストの作成時点で、彼らのファミリーネームがすでに、Kaveneyではなく、Kavanaghと記載されていることである。これもまた、コノート訛りのアイルランド語の発音を聞き取ったカナダ側の記録者によるものだろう。もっともこのとき、パトリックもサラも、この表記の誤りを正した形跡はない。アイルランドにいた時と同じく、ゲール語で会話していた(であろう)彼らには、英語表記がどうあろうと、さほど意味のあることではなかったのかもしれない。

 こうして、スライゴのKaveneyはケベックのKavanaghとなった。

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著者略歴

  1. 井野瀬 久美惠

    1958年愛知県生まれ。甲南大学文学部教授。京都大学大学院文学研究科西洋史学専攻単位取得退学。博士(文学)。第23期(2014-2017)日本学術会議副会長。大英帝国を中心に、(日本を含む)「帝国だった過去」とわれわれが生きる今という時空間との関係を多方向から問う研究をつづけている。主な著書に『大英帝国はミュージック・ホールから』(朝日新聞社、1990)、『子どもたちの大英帝国』(中公新書、1992)、『女たちの大英帝国』(講談社現代新書、1998)、『黒人王、白人王に謁見す』(山川出版社、2002)、『植民地経験のゆくえ』(人文書院、2004、女性史青山なを賞受賞)、『大英帝国という経験』(講談社、2007;講談社学術文庫、2017)、『イギリス文化史』(編著、昭和堂、2010)、『「近代」とは何か』(かもがわ出版、2023)など。

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